癸亥丸
癸亥丸(きがいまる[1])は、幕末に長州藩が保有した西洋式軍艦。下関戦争でアメリカ海軍と交戦して大破したが、復旧されて長州征討に際しても幕府軍を迎え撃った。
概要
[編集]原名は「ランリック(Lanrick)」[2]。1843年にイギリスのリバプール近くのマージイで建造され、主にインド・中国間でアヘン貿易に従事した[2]。
攘夷論を唱えて軍備増強を進める長州藩が、1863年3月18日(文久3年1月29日)に御用商人の佐藤貞次郎を介して購入[3]、購入年の干支にちなんで「癸亥丸」と改名した[要出典]。取得価格は2万ドルであった[要出典]。
2本マストに横帆と縦帆を張った二檣ブリッグに分類される木造帆船[要出典]。蒸気船とする文献もある[要出典]。283トン[1]。もともとは商船であるが、長州藩では10門の大砲(18斤砲2門・9斤砲8門)を装備させて軍艦として扱った[4]。
実戦
[編集]文久3年5月11日、長州藩は攘夷を決行[5]。「癸亥丸」と「庚申丸」がが11日午前2時に出撃し、潮待ちのため九州田野浦沖に停泊していたアメリカ商船「ペンブローク (Pembroke)」を砲撃した[6]。2隻は12発発射し、3発が「ペンブローク」に命中した[7]。その後逃走する「ペンブローク」を追ったが、相手の方が速かったため逃げられた[8]。5月23日、長州藩の砲台が関門海峡を通過するフランス通報艦「キャンシャン」を砲撃[9]。「癸亥丸」と「庚申丸」は海峡を抜けた「キャンシャン」を追跡するもこの時も逃げられたが、「癸亥丸」は「キャンシャン」の小艇を捕獲した[10]。続いて長州藩は5月26日にオランダ艦「メデューサ (Medusa)」を攻撃[11]。「癸亥丸」も「メデューサ」と交戦し、マストの根元に被弾した[12]。6月1日、アメリカ艦「ワイオミング」が報復に現れる[13]。「ワイオミング」は下関港内にあった「庚申丸」、「癸亥丸」と「壬戌丸」を攻撃[14]。「庚申丸」と「壬戌丸」が撃沈され、「癸亥丸」も大損害を受けた[15]。この戦闘時、「庚申丸」か「癸亥丸」の砲弾1発が「ワイオミング」に命中し、戦死3名負傷4名という被害を与えている[16]。一方で、1発を味方の「壬戌丸」に誤って命中させてしまう不手際もあった[17]。
下関戦争後、本艦は復旧工事を受けて再就役した。
第二次長州征討では慶応2年6月17日に「丙寅丸」、「丙辰丸」とともに田ノ浦を襲撃した[18]。
戊辰戦争でも、鳥羽・伏見の戦い前に長州藩兵を輸送するなどの活動を行った[要出典]。
脚注
[編集]- ^ a b 『幕末の蒸気船物語』73ページ
- ^ a b 「ジャーディン・マセソン商会と日清貿易」44ページ
- ^ 古川(1996年)、28頁。
- ^ 豊田(2006年)、243頁。
- ^ 『幕末長州藩の攘夷戦争』32-33ページ
- ^ 『幕末長州藩の攘夷戦争』29-30、32-33ページ
- ^ 『幕末長州藩の攘夷戦争』32-33ページ
- ^ 『幕末長州藩の攘夷戦争』33ページ
- ^ 『幕末長州藩の攘夷戦争』35-38ページ
- ^ 『幕末長州藩の攘夷戦争』38、224ページ
- ^ 『幕末長州藩の攘夷戦争』38-39ページ
- ^ 『幕末長州藩の攘夷戦争』39ページ
- ^ 『幕末長州藩の攘夷戦争』43ページ
- ^ 『幕末長州藩の攘夷戦争』45-47ページ
- ^ 『幕末長州藩の攘夷戦争』46-47ページ
- ^ “Wyoming”, Dictionary of American Naval Fighting Ships, US Naval Historical Center. (2010年8月12日閲覧)
- ^ 豊田(2006年)、252頁。
- ^ 金澤裕之『幕府海軍の興亡 幕末期における日本の海軍建設』慶應義塾大学出版会、2017年、ISBN 978-4-7664-2421-8、183ページ
参考文献
[編集]- 豊田泰 『開国と攘夷―日本の対外戦争幕末』 文芸社、2006年。
- 野口武彦 『長州戦争―幕府瓦解への岐路』 中央公論社〈中公新書〉、2006年。
- 古川薫 『幕末長州藩の攘夷戦争―欧米連合艦隊の来襲』 中央公論社〈中公新書〉、1996年。
- 「赤間関海戦記事」(水交社、1890年)を巻末に収録。
- 松浦章「ジャーディン・マセソン商会と日清貿易 文久元年申一番ランシフィールト船の来航をめぐって」海事史研究 第25号、37-70ページ
- 元綱数道『幕末の蒸気船物語』成山堂書店、2004年、ISBN 4-425-30251-6