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ノート:中道

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問題点の指摘

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独自研究をやめよ

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>>初学者にはわかりにくい原文を補足しただけの記述が、どうして独自研究になるのでしょう?(参照

コメント危うさを説いている」というのが無出典の解釈だから。摩訶止観原文から当箇所に引用されている文言に「危うさの主張」は無く、単に「二辺の果報がある」と述べているだけ。「二辺の果報」を受けるのが「危うい」と天台智顗が言っているなら、その部分を特定して示さなければ、出典を示したことにならない。Wikipedia記事に無出典で解釈を述べるのは独自研究。--Leonidjp会話2017年4月20日 (木) 15:43 (UTC)[返信]

>>原文を補足しただけ

コメント無出典で補足すべからず。--Leonidjp会話2017年4月20日 (木) 15:47 (UTC)[返信]

独自研究というのは、下のように「双遮・双照をもって中道としている。」と結論づけるようなことを言うのであって、初学者が勘違いしないよう親切心で附則する記述は独自研究ではありません。(旧: 118.87.5.99)--113.52.25.19 2017年4月21日 (金) 15:20 (UTC)[返信]
>>初学者が勘違いしないよう親切心で附則する記述は独自研究ではない
コメントそれは完全に間違い。Wikipedia:独自研究は載せないにそんなことは書かれていない。Wikipediaの編集方針やガイドラインのどこをどう読めば貴方の言うような主張になるのか説明してみよ。--Leonidjp会話2017年4月21日 (金) 22:46 (UTC)[返信]
初学者に対する補足であろうがなかろうが、動機が親切心であろうがなかろうが、出典の無い解釈を発表するのは独自研究に該当するということくらい、わきまえよ。--Leonidjp会話2017年4月22日 (土) 02:04 (UTC)[返信]
ちょうどいい機会だからここで訊きますけど、ここで私に応答している貴方(旧: 118.87.5.99 = 113.52.25.19)って、かつてこちらで私(Leonidjp)と対話していたIP利用者と同一人物じゃありません?--Leonidjp会話2017年4月22日 (土) 04:33 (UTC)[返信]
そうですね。以前、やりとりさせて頂いた方ですね。報酬を貰ったわけではないのですが、今回もちょっと他から仄めかされまして、長居するつもりなく中道がらみのを編集していますが、確かにいくらなんでもそれは違うだろうという記述があったりしたので手間取っている次第です。くどいようですが、私の記述の方は独自研究ではありません。私の記述が独自研究だとおっしゃるなら、出典のない記述はすべて独自研究になるのではありませんか? (旧: 118.87.5.99)--114.198.222.200 2017年4月22日 (土) 18:29 (UTC)[返信]
>>出典のない記述はすべて独自研究になるのではありませんか?
コメントWikipediaの編集方針上、そのとおりです。独自研究に該当します。--Leonidjp会話2017年4月22日 (土) 22:40 (UTC)[返信]
>>くどいようですが、私の記述の方は独自研究ではありません
コメントWikipedia:独自研究は載せないを読んだあとで、この「中道を行じ違えることの危うさを説いている」という記述の件について「これは独自研究ではない」と言いつづけているということでしょうか?--Leonidjp会話2017年4月22日 (土) 23:22 (UTC)[返信]
出典のない記述はすべて独自研究になると!? だったら人生を狂わしたり、ときに命に関わることのある宗教関連のページで出典のないものには、すべて独自研究タグをつけてくださいまし。果報が婉曲的な嫌味でしかないことの出典は無理ですが、二辺に甘んじることは声聞辟支、のような記述はいくらでも見つかるので、もっとも相応しいのを注記しますから削除は無用です。(旧: 118.87.5.99)--118.87.4.78 2017年4月25日 (火) 18:01 (UTC)[返信]
「最も相応しいもの」を、最初から、他人に求められなくても出典として記入しておかないと。あなたが。--Leonidjp会話2017年4月26日 (水) 00:42 (UTC)[返信]
>>果報が婉曲的な嫌味でしかないことの出典は無理ですが
コメントよく分かっておられるではないですか。--Leonidjp会話2017年4月26日 (水) 01:19 (UTC)[返信]
逐一注記しなくとも二辺に甘んじれば声聞辟支なんて仏教学では常識でしょう。公明党も二辺に偏らないとしているのですよ。
↑署名が無い。
「常識でしょう」の一言で、無出典加筆を正当化しはじめたらしい。--Leonidjp会話2017年4月26日 (水) 22:29 (UTC)[返信]

疑問点の指摘

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IP利用者によって加筆された下記の部分について。

中道を説明する際に用いられる「二辺」を「二諦」と同義のものとして解釈されることもあるが<ref>[http://k-dic.sokanet.jp/%E4%B8%AD%E9%81%93%EF%BC%88%E3%81%A1%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%A9%E3%81%86%EF%BC%89/ 中道] - 創価学会 教学用語検索。</ref>

この部分の出典とされているWebページは「二辺と二諦が同義」とは言っていない。出典中の「双遮・双照をもって中道となす」の中点「・」はor(=もしくは)の意味か? これがorなら、〈中道=双遮or双照〉だから、従って〈双遮=双照〉とは言える。ただしこのとき、二辺は「遮」る対象であろう。出典は「二辺を遮す」と言っているのだから。この遮る対象たる二辺は「双遮」と同義か? どの出典がそんなことを言っているのか。すくなくとも、このWebページは「遮る対象」としての二辺が「双遮」と同義とは言っていない。従って、〈二辺=双遮=双照〉とは言えないことになるし、二諦と双照の関係もこのままでは不明と言うしかない。また、上述の中点がもしもorでなくand(=且つ)の意味であれば、〈双遮と双照を合わせれば中道である〉という主張でしかなくなるので、双遮と双照が「等しい」とは必ずしも言えなくなる(そしてそもそも、この出典は、双遮と双照が等しいとも言ってない)。あの中点がandの意味でないということを、この出典のみから読解できるか? それは無理。この出典はそんなことを言っていない。しかも末尾では【双遮・双照をもって中道としている。つまり空と仮をならべて否定(遮)すると共に、空と仮をならべて用い】と言ってもいる。この【】で囲んだ文中で「つまり」という接続詞が前後を繋いでいることから、この「空と仮をならべて用い」は「双照」を指すことがわかる。従って同様に、「ならべて否定(遮)する」は「双遮」を指すし、「共に」は中点「・」を指している。従ってこの中点「・」は「共に=and」の意味ではないのか? andならどういう帰結になるかは、上述のとおり。〈二辺=二諦〉という含意は導けない。--Leonidjp会話2017年4月20日 (木) 15:27 (UTC)[返信]

要するに、「中道を説明するときに、二辺と二諦という2つの用語が用いられる場合がある」と言いたいだけであるにすぎないのか? もしそうなら、「その2つが同義とみなされることがある」などとわざわざ無出典で言う必要はなく、単に二辺と二諦が別の意味であることを示せばよいだけではないか。なぜわざわざ「同義とみなされることがある」などと付け加える必要があるのか(それも無出典で)。--Leonidjp会話2017年4月21日 (金) 04:44 (UTC)[返信]

当該の天台智顗の摩訶止観の訳を「双べて二辺を遮す……また、」と「……」でつないで、「双遮・双照をもって中道としている。」としていますから、私のWikiの記述に誤りはありませんね。
智顗はこの部分では中道ではなく、第一義観を主題としているのですよ。第一義観者は二辺を双遮していると言っているのです。そうなるためには、「初めに空(観)を用いて観じ、後に假(観)を用いて観じ、是れ(その二観)を為して方便(と)して双存させ、中道に入る時に能く二諦を双照=二観する」ことが必要だと言っているのです。
※ 又初觀用空後觀用假。是爲雙存方便。入中道時能雙照二諦。
双遮二辺は補足的な記述で別ものです。元々中道とは何かについて記述したものではないものを「双遮・双照をもって中道としている。」と結論づけているので、私のWikiの記述にやはり誤りはありません。(旧: 118.87.5.99)--113.52.25.19 2017年4月21日 (金) 15:20 (UTC)[返信]
摩訶止観をそのように解説してみても、結局、【中道を説明する際に用いられる「二辺」を「二諦」と同義のものとして解釈されることもある】というあなたの記述の出典になっていないのでは? あなたがここに書いた上述の説明のなかにも「二辺と二諦が同義」という含意が出てこないのはどういうわけなのか。「二辺と二諦が同義」と言っているのは誰で、それがどこの出典に書かれているものなのか。それを尋ねられているということが未だに分かっていないのだろうか。--Leonidjp会話2017年4月21日 (金) 23:01 (UTC)[返信]
出典には「双遮・双照をもって中道としている。」と書いてありますから自明です。双遮二辺は中道についての記述と言えますが、双照二諦は第一義観(中観または中諦)についての記述で、中道についての記述ではないのにです。「同義のものとして」という表現が不適切なら「同列のものとして」と改めても構いません。
なお、ここからは私の独自研究になりますが、双遮二辺は二辺を脱するという意味ではありません。二明と三明のまたはデルタ地帯中洲で不退転となる程度の意味でしょう。それが中道です。デルタ地帯は三途の川と言っても差し支えないかもしれません。で、喩えて言えば、デルタ地帯の中洲から見た水の流れを観じて、デルタ地帯に分け入る前に観じた二諦を想い起こし、雙照二諦(二観)することが第一義観(中観または中諦)です。一方の川が右に向かって流れていれば、振り向いた後ろの川は左に向かって流れているはずです。そこに矛盾はないと観じることが第一義観(中観または中諦)です。中道や中観の意味がその程度のものであるはずがないとおっしゃる方はいそうですが、部派仏典も含めて、六明または(三明)六通または三明三智とするのが大乗です。断っておけば、これは独自研究的な表現が多分にあるだけで、伝統的解釈に沿ったものです。
この故に二辺と二諦は「全く異質の概念である」のであって、これも独自研究ではありません。(旧: 118.87.5.99)--114.198.222.200 2017年4月22日 (土) 18:29 (UTC)。斜字太字部分を編集:(旧: 118.87.5.99)--118.87.2.182 2017年4月26日 (水) 18:46 (UTC)[返信]
>>自明です
「自明です」と言っているのは、現状、あなただけのようだから、「二辺と二諦が同義のものとして解釈されることもある」という主張が独自研究であることが確認できました。あなた個人が「自明です」と言っているだけであって、それを支持する資料の存在は未だに確認されていませんので。そもそも双遮や双照と、二辺や二諦は4つとも別々の単語ですから、それらのうちの二辺と二諦を「同義」と言っている資料を出典として示せとあなたは要求されているのです。あなたがいくら「自明です」と言ったところで、資料で裏付けられない限りは独自研究でしかありません。「双遮・双照をもって中道としている。」という記述は、双遮・双照と中道との関係性を言っているのであって、二辺と二諦の関係性を述べているのではありません。二辺と双遮の関係性すら、この出典では説明されてません。--Leonidjp会話2017年4月22日 (土) 22:53 (UTC)[返信]
>>この故に二辺と二諦は「全く異質の概念である」のであって、これも独自研究ではありません。
コメント「この故に」が指す内容があなたの持論でしかなく(あなた自身ですら「ここからは私の独自研究になりますが」と断っている)、それを支持する資料の存在は未だに確認されていませんので、こちらも独自研究に該当します。「ここからは自分の独自研究です」と言ったあとで「この故に独自研究ではありません」と述べるという論述過程は率直に言って奇妙です。「概念の質」とは何か?という私の問いに対する回答はまだありません。--Leonidjp会話2017年4月22日 (土) 23:09 (UTC)[返信]
>>「同義のものとして」という表現が不適切なら「同列のものとして」と改めても構いません。
コメント二辺と二諦が「同列」というのも、出典たるあのWebページがそう述べているのではなくて、あなたの解釈なのでしょう? それなら、やはり独自研究です。あのページには「同列」という単語は無い。そもそもあのページは、二辺と二諦がどういう関係にあるのかということについて直接には何も言っていないのでは? 双遮や双照の話ではなく、二辺と二諦の関係性についてです。--Leonidjp会話2017年4月22日 (土) 23:16 (UTC)[返信]
では、この記述でいかがでしょうか。
中道を説明する際に用いられる「二辺」だけでなく、「二諦」も中道に直接的に関係する語として解釈されることもあるが、「二辺」のサンスクリット語(anta-dvaya, dvayânta)の anta は「終わり、死、端」などを含意するのに対して、「二諦(satya-dvaya)」は二つの真理(satya)を意味し、中諦(中観)から観照(双照)するもので、「二辺」と「二諦」は全く異なる概念である。
異論がないようでしら、これで修正いたします。(旧: 118.87.5.99)--118.87.4.78 2017年4月25日 (火) 18:01 (UTC)[返信]
大いに異論がある。
「全く異なる」という表現の、「全く」の根拠が示されていない。たとえば、二辺と二諦は共に「二」という数詞や数に関係しているから、その点で共通性があるのではないか、などと指摘されたらどうするのだろうか。共通性が少しでもあれば、「全く異なる」などとは言えないはずである。そして、二辺と二諦が「全く異なる概念である」と述べている出典は、現状、示されていない。「全く○○である/全く○○でない」といったような全肯定/全否定のフレーズを無出典で記事に記入してしまうという習慣は、早めにやめるべきである。
なおまた、二辺のサンスクリット語義を述べる際には〈anta-dvaya, dvayânta〉のうちのantaのみを和訳しているのに対して、二諦のサンスクリット語義を述べる際にはsatya-dvayaを和訳し、この2つの和訳を比較しているようだが、この比較の仕方も不可解である。antaに対応させるなら比較対象はsatyaではないのか。また、satya-dvayaに対応させるなら比較対象はanta-dvayaまたはdvayântaではないのか。なぜ二辺の場合はハイフンの前だけ(anta)を和訳し、ハイフンの後ろおよびdvayantaを和訳していないのか。同様に、なぜ二諦の場合はハイフンの前だけでなく後ろも和訳しているのか。
しかも、satya-dvayaの和訳の出典として記事に記載されている梵英辞典はsatyaの梵英訳を表示しているだけなので、satya-dvayaの梵英訳または梵日訳は無出典である。この無出典という状態は、anta-dvayaおよびdvayântaに関しても同じである。--Leonidjp会話2017年4月26日 (水) 01:15 (UTC)[返信]
antaの和訳として書かれている「終わり、端、死」はantaを名詞として和訳したのであろうが、出典らしき梵英辞典にはantaの名詞としての英訳が20個以上載っているはずである。なぜこの三個の和訳結果以外の梵英訳はantaの語義を述べる際に和訳対象から除外されているのか不明。この事情はsatyaを和訳する際にも共通である。「antaは○○などを意味する」と書いて「など」という単語で曖昧化してしまえば、結局何と何を比較して「語義なり概念が違う」と言っているのか分からない。違うと言うなら、何と何を比較してどのように違うのかを言えなければ、説明していることにならない。--Leonidjp会話2017年4月26日 (水) 02:12 (UTC)[返信]
>>「二諦(satya-dvaya)」は……中諦(中観)から観照(双照)するもので、
コメント出典たるWebページには、観照や中観という語は存在しない。出典に存在しない語句を勝手に組み合わせたフレーズや文を記事に記入するなら、それは無出典の加筆である。「中諦」は出典に存在するが、中諦と二諦の関係性が如何なるものであるかについては、この出典は直接には何も言っていない。中諦については単に「天台大師智顗は『中論』の説を受けて、空仮中の三諦円融に基づく中諦を説いた」と書いてあるだけである。その文以降に出てくるどの単語も、「中諦」との関係性は書かれていない。だから、このWebページだけを出典として「二諦は中諦から○○するものである」などと言えるわけはない。--Leonidjp会話2017年4月26日 (水) 02:38 (UTC)[返信]
「全く異なる」でいいのです。前述の喩え話しでは誤解が生じ得ることは分かっていましたが端折ったので、ただいま修正しました(斜字太字部分)。『勝義諦』のWikiページも編集しておきました。語義解釈は付録のようなものですが、anta-dvaya は「二死」の意味があることを追加記述しておきます。仏教徒よりキリスト教徒の方に馴染みのある言葉ですが致し方ありません。これで異論はないでしょう。(旧: 118.87.5.99)--118.87.2.182 2017年4月26日 (水) 18:46 (UTC)[返信]
追記された喩え話も貴方の独自研究だから、問題の本質は何も変わっていないし、私が4/26に指摘した多くの疑問点への回答にはなっていない。--Leonidjp会話2017年4月26日 (水) 22:29 (UTC)[返信]
実力行使ですか。反論としての文句はもちろん、解釈としての文句もつけようがないほどの記述にしましたので。(旧: 118.87.5.99)--118.87.2.182 2017年4月27日 (木) 16:00 (UTC)[返信]

「中観との関係」について

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中観との関係という見出しで、「増一阿含經は、中道は中観(Mādhyamika)の思惟であるとしている」として、増一阿含経を引いていますが、

  1. 「自手掌中觀其寶冠」の「中観」を熟語と解釈して「自ずと手掌した中観は其の宝冠(の如し)」と読み下すのは何の資料に拠ったのでしょうか。『国訳一切経』などで確認した訳なのでしょうか。素人がふつうに読めば「手掌中に〜を観ず」とも読み下せますが。
  2. 仮にこの文脈での中観が熟語であるとしても、その原語が Mādhyamika だという典拠はあるのでしょうか。出典に挙げられている「大正新脩大蔵経テキストデータベース」はインドでの原語を示してはいません。Mādhyamika は通常は「中観派」という、人や学派を指す言葉ですね。

現時点では「大正新脩大蔵経テキストデータベース」という一次資料だけが出典として提示されていますが、これだけでは上記のことは示せませんから出典無効です。学者等がそのように読解・解説している二次資料が必要です。--Doomreaper会話2017年4月28日 (金) 00:17 (UTC)[返信]

(追記)中観派の記事でも、中観の語が部派仏典にあることの出典として、大正新脩大蔵経テキストデータベースの検索結果が使われています(差分)。しかし、漢訳阿含がすべて部派仏典であるかはさておき、中-観という漢字の並びが「中観」という熟語になっていない場合もあり得るのですから、これだけでは出典たり得ません。そのいずれかが「中観」という術語だと解説している別の文献が必要です。
その後に続けて「増一阿含經には、閑居寂寞に相應する止観に対して、中観は三千世界観を人掌するもの」と書かれていますが、わたしには増一阿含経の「猶如有眼之人掌中觀珠」のフレーズは「なお有眼之人の掌中に珠を観るがごとし」と訓ずるのが自然のようにみえます(こう読んだ場合、中観は「〜の中に〜を観る」の意で、「中観」というひとまとまりの概念を示すものではないことになる)。むろん、この読みもわたしが他の資料を見ずにでっちあげたものなので根拠はありません(よって、これが正しいと主張するつもりはありません)。同様に「増一阿含經には、閑居寂寞に相應する止観に対して、中観は三千世界観を人掌するものという記述がみられる」という解釈も、しかるべき出典が提示されていない現状では典拠が不明であり、いくら独自研究でないと主張されても疑いを晴らすことはできないでしょう。--Doomreaper会話) 2017年4月28日 (金) 06:36 (UTC) 補足。--Doomreaper会話2017年4月28日 (金) 07:01 (UTC)[返信]
>「自手掌中觀其寶冠」⇒「手掌中に〜を観ず」とも読み下せますが。
日本人なので私も当然そう読む可能性について吟味いたしました。しかし、以下の点からその可能性はないと判断しました。1)「手掌」は日本語の熟語にもなっているほどの慣用表現である。2)千世界を観じる天眼や千眼を主題にしているのに「自らの手掌中に其の宝冠を観る」というのでは意味が通らず、「其の」が何を指すのかも分らなくなる。文脈からも「自ずと手掌した中観は其の宝冠(の如し)」と読み下すしかありません。
>「猶如有眼之人掌中觀珠」⇒「なお有眼之人の掌中に珠を観るがごとし」と訓ずるのが自然のようにみえます
中観の方の出典ですね。日本人なので私も当然そう読む可能性について吟味いたしました。読み下しや解釈は複数可能でしょう。しかし、いずれも中観を言ったもので、ご指摘の読み下しは以下の点からその可能性はないと判断しました。*)日本人は主語抜きの表現ばかりか、思考までしてしまうので違和感はないかもしれないが、主語が途中から「有眼之人」に転じてしまい文意が通らない。「なお有眼之人の如く掌中に珠を観る」だとこの一文だけで十分"変"である。
最もすっきりするのは、「彼は天眼を以って三千世界を觀じ、猶(な)お有眼之人の如く中觀の珠を掌にする」でしょうね。でも、ありきたりなので、「猶お有眼の如く中觀の珠を之れ人掌す」とみた方が格好いいし、「霊掌」が日本の熟語にあるので、二文を端折って「人掌」とした記憶があります。不謹慎かもしれないのでこれについては機を見て修正しておきます。
>独自研究でないと主張されても疑いを晴らすことはできないでしょう。
もう十分晴れているでしょう。難解な他国語文の訳なら独自研究になり得るでしょうが、他の訳が想定できず、せいぜい国語の問題にしかならないようなのを選んで出典にしています。他の見解がありそうなのは自主的に削除したことがあるほどです。(旧: 118.87.5.99)--118.87.2.182 2017年4月28日 (金) 15:17 (UTC)[返信]
コメント 応答ありがとうございます。Wikipediaは仏教学の公開討論の場ではありませんので(Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか)、上記の漢文解釈について何が正しいかという議論をするつもりはありません。「何の資料に拠ったのでしょうか」とお尋ねしているのですが、他の文献に当たることなく原文の読み下し方や解釈をご自身で検討してご自身で判断したということでしょうか。そういうことなら、疑惑は晴れるどころか独自研究であることが明白となってしまいます。
Wikipedia:独自研究は載せない」から引用します。

独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです。

ウィキペディアの記事は通常、信頼できる二次資料に基づかなければなりません。分析や評価についての記述は、信頼できる二次資料で公表されているのでない限り、禁止されます。

以上をよく読んで理解して下さるようお願いします。--Doomreaper会話2017年4月28日 (金) 17:46 (UTC)[返信]
>>以上をよく読んで理解して下さるようお願いします。
コメントWP:BP#コミュニティを消耗させる利用者」という対処法も予め用意されていますので、編集方針に対する無理解(あるいは無視)を続ける利用者に対しては、投稿ブロックという対応もあり得ますね。--Leonidjp会話2017年4月28日 (金) 23:25 (UTC)[返信]
また、WP:SPP#半保護とその解除においては、アカウント利用者や固定IPが通常投稿ブロックとなる事例において、可変IPや捨てアカウントの使用により投稿ブロックの効果を発揮しない場合はページの半保護で対処する旨、定められていますので、ページの半保護もあり得ます。半保護が設定されるとIP利用者は編集できなくなります。--Leonidjp会話2017年4月29日 (土) 00:17 (UTC)[返信]
人文科学系の学術はフィールド・ワークも含めて基礎研究しかないと言って差し支えない分野ですが、私はリベラルアーツなので、それで独自研究に見えてくるだけではないでしょうか? 中村元氏や平川彰氏などの研究には本当に何度も頭が下がりますが、リベラルアーツはそうした研究成果を踏まえた応用の視点が重視されますから。ただ、そういう視点の書き方になるというだけで、アーチスティックな創作にならないよう、出典重視で細心の注意を払っていますので独自研究にはなりようがありません。
概訳に注釈するとそれこそ独自研究になるのでしていませんが、中観珠(宝冠)とは如意宝珠のことですよ[1]。三途の川原まで降臨して子らを救うという地蔵、それに多臂の如意輪観音などが手にしている持物です。そのようなことは仏教学の常識でしょうとは申しませんが、昔の仏師や僧職や信心深い人なら知ってて当然のことなのでは? ちなみに地蔵・如意輪ともサンスクリットには菩薩の尊称はないはずです。何が言いたいかと申しますと、伝統的解釈を掘り起こしているようなもので独自研究ではないということです。(旧: 118.87.5.99)--118.87.2.182 2017年4月29日 (土) 18:14 (UTC)[返信]
「独自研究」にまつわる、このIP利用者の持論の披露が行われている模様ですが、Wikipediaの管理者にも読んで頂きたいところです。この人は、Doomreaperさんが上述のように引用したWikipedia:独自研究は載せないを読んだ上でなお、このようなこと言っているという事実に注目しましょう。なお、このIP利用者が、独自研究の披露をやめるようノートページ等で要請されるのは、今回が初めてではありません。--Leonidjp会話2017年4月30日 (日) 00:06 (UTC)[返信]
>>中観珠(宝冠)とは如意宝珠のことですよ…中略…何が言いたいかと申しますと、伝統的解釈を掘り起こしているようなもので
コメントそのような薀蓄を無出典で書いても、それ自体が独自研究の披露である、ということを既に昨年9月の時点で私がノート:見性にて指摘済みです。当時そこで私から指摘を受けた相手というのは当ノートページに記入しているIP利用者と同一人物である旨、本人が既に認めています(参照1に対する回答参照2)。昨年9月からですから、もう7ヶ月越しのことになりますし、その間に利用者‐会話:114.134.196.41およびノート:中道#独自研究をやめよおよびノート:中道#疑問点の指摘においても、記事本文における独自研究の披露をやめるよう要請済みです。同一人物であるとの確認が取れている(本人が同一性を認めており、同一性を否定してはいない)場合に限っても、今回のDoomreaperさんからの要請で5回目であることになります。7ヶ月間に5回です。すでに現時点でWP:BP#コミュニティを消耗させる利用者に該当しうる振る舞いとなっていませんでしょうか。--Leonidjp会話2017年4月30日 (日) 02:23 (UTC)[返信]
リベラルアーツな書き方なので独自研究に見えてくるだけではないか、という私の質問の答えになっていませんね。私の方は、ページ文の疑問タグにはちゃんと応じておきましたよ。パーリ経典を上に持ってくる必然性はないので、それも再編集いたしました。
なお、「二諦」単独の解説は、本当に驚いたのですが"中観派"の説に席巻されてしまっていて、ネットではちゃんとしたのが見つりそうにありません。図書館で天台系の典籍にあたるしかなさそうです。他のも合わせてしばらくお時間ください。(旧: 118.87.5.99)--118.87.2.182 2017年4月30日 (日) 18:40 (UTC)[返信]
コメント 独自研究とは何かということについて共通認識をもっていただかないと噛み合った議論はできません。わたしは「Wikipedia:独自研究は載せない」で定義されているWikipedia用語の「独自研究」の話をしているのですが、大局的な見地で既存の研究成果を応用しているだけだから、伝統的解釈そのものだから、といった理由で独自研究でないと主張されるのでしたら、独自研究の意味がまったく異なるでしょう。伝統的解釈であろうとも第三者による信頼できる情報源に明文化されているのでない限り、Wikipedia に書くべきでない検証不可能な事柄です(Wikipedia:検証可能性を参照)。--Doomreaper会話2017年4月30日 (日) 22:13 (UTC)[返信]
リベラルアーツは応用研究にあたるという意味のことを言っただけで、「既存の研究成果を応用して」はいません。利用しているだけです。それは言葉じりの問題ではなく大事な峻別で、「大正新脩大藏經テキストデータベース」は立派な基礎研究であり、リベラルアーツ的にみれば利用しない手はありません。私以外にもWikiで多く利用されていることが、Leonidjpが検索範囲を広げたことで明らかになりました。
「大正新脩大藏經テキストデータベース」の検索結果 - Wikipedia
中には、台湾の経典テキストデータにリンクをとった出典もありました。仏教関連ページでは許容せざるを得ないでしょう。私の書き方が整理分類的というかフレームワーク的な書き方なので独自研究に見えてくるだけではないでしょうか? リベラルアーツでは比較やアナロジーも重要ですが、それをやるとLeonidjpが容赦なく独自研究タグを付してくるので、つい習慣的にうっかりという以外はやっていません。このへんでよろしいでしょうか。(旧: 118.87.5.99)--118.87.2.182 2017年5月1日 (月) 18:25 (UTC)[返信]

(インデント戻します)
>>私の書き方が整理分類的というかフレームワーク的な書き方なので独自研究に見えてくるだけではないでしょうか?
コメント結局、このIP利用者は、色々な言葉を用いて自身の編集が独自研究でないことを訴えている様子だけれど、それがWikipedia:独自研究は載せないWikipedia:検証可能性Wikipedia:信頼できる情報源というWikipediaの方針およびガイドラインページのどこに書いてあることに基づいて正当化されるのかは未だに不明ですね。
Wikipedia:独自研究は載せないには独自研究(original research)とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがないものを指すウィキペディア用語です。ここに含まれるのは、未発表の事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。ウィキペディアは独自研究を発表する場ではありません。と定義があり、これはすべての利用者が守るべきものと考えられている旨、同ページに明示されております。「信頼できる媒体」が何であるかはWikipedia:信頼できる情報源を参照のこと。
仏典に対する無出典の解釈は、ここにある「発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈など」に該当します。仏典の本文は「発表された情報」であり、それに対する無出典の解釈は「発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈」であるということは既に3ヶ月近く前に利用者‐会話:114.134.196.41で私が述べたことでもあり、このノート:中道に書き込んでいるIP利用者はその114.134.196.41と同一人物であることを既に認めていますね。
繰り返しになりますが、Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:検証可能性はすべての利用者が守るべきものと考えられている旨が同ページに明示されていますので、このIP利用者がこれを守らなくてもよい立場にあると言いたいなら、なぜ自分はその立場にあるのかを説明すべきです。逆に、これらを守る意志があるなら、仏典に対する無出典の解釈が「発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈」に該当するので独自研究に該当しているということを早急に認識し、同種の記述をWikipediaの記事に書き込まぬようにすべきです。
>>仏教関連ページでは許容せざるを得ないでしょう。
コメント「許容せざるを得ない」という結論に至るロジックが全く不明ですね。なお、大正新脩大蔵経テキストデータベースの検索結果を出典に用いたページに独自研究や出典無効の指摘がなされていない場合があるとすれば、記事本文と出典の中身を照らし合わせる作業を誰もやっていないので問題点が発見されていないだけであるという可能性が多分にあります。「この情報源を出典として許容します」という明示的な意思表示をするためのタグって在りませんしね。「出典として載っている」というのは単なる事実に過ぎません。それは「許容の事実」なのではなく「掲載という事実」に過ぎぬことを理解すべきです。--Leonidjp会話2017年5月1日 (月) 22:58 (UTC)[返信]

>>リベラルアーツな書き方なので独自研究に見えてくるだけではないか
>>私の書き方が整理分類的というかフレームワーク的な書き方なので独自研究に見えてくるだけではないでしょうか?
コメント書き方がリベラルアーツであろうが何であろうが、Wikipedia:独自研究は載せないに書いてある独自研究の定義に当てはまれば独自研究。
「独自研究に見えてくるだけ」という言い方の、その「見えてくる」が成立したら、その時点で独自研究に当てはまっていることになってしまう。「そう見える」ということを本人ですらも肯定しているというわけ。つまり、「独自研究に見えてくるだけ」というこのIP利用者の表現は、この人自身の編集が「独自研究に当てはまっている」ということを暗に認めている表現。「独自研究に見えてくるだけ」という具合に末尾に「だけ」という限定を付けてみても、〈その限定の枠内において独自研究に当てはまっている〉ということが覆るわけではない。このIP利用者自身も、それ自体を覆そうとはしておらず、むしろそれを持論の前提として認めようとしている。--Leonidjp会話2017年5月1日 (月) 23:43 (UTC)[返信]
↑下線部を追記。--Leonidjp会話2017年5月1日 (月) 23:57 (UTC)[返信]

>>リベラルアーツな書き方なので独自研究に見えてくるだけではないか >>私の書き方が整理分類的というかフレームワーク的な書き方なので独自研究に見えてくるだけではないでしょうか?
コメントこのIP利用者の、記事への加筆(書き方)を「リベラルアーツな書き方」であると仮に認めた場合に、それでもなお、【独自研究に該当しており、且つ、リベラルアーツな書き方である】という編集(加筆)が存在することが想定できる。整理分類的とかフレームワーク的とかいう形容の場合も同様。このとき、「且つ」以降に何が代入されようとも、前段の「独自研究に該当する」という判定は維持されることになる。従って、「リベラルアーツな書き方」だから問題ない等と抗弁しても仕方がない。「書き方がリベラルアーツだとか整理分類的だとかフレームワーク的であれば独自研究にあてはまらない」などという記述はWikipediaの方針・ガイドライン類に載っていない以上、Wikipedia:独自研究は載せないに書いてある「独自研究」の定義に従って独自研究であると判定されれば、書き方がリベラルアーツであろうとなかろうと「独自研究」に該当しつづける。--Leonidjp会話2017年5月2日 (火) 04:37 (UTC)[返信]

Wikipedia:信頼できる情報源」には、「編纂された全集の中に登場する歴史文書といったものは」一次資料と看做されるものであっても使っていいことになっています。くどいようですが、台湾の経典テキストデータにリンクをとった出典もあります。私は「大正新脩大藏經テキストデータベース」を出典に利用する際にも、「Wikipedia:検証可能性」が担保できるよう、しっかり行番号を示しています。この点については何の問題もありません。
あなたは整理分類的に書くのも独自研究になると言っておられますが、整理分類の悪いごちゃごちゃした書き方であれば独自研究にならないとおっしゃっるのに等しくありませんか?
直上↑の署名の無い書き込みは118.87.2.182によるものです。--Leonidjp会話2017年5月2日 (火) 23:58 (UTC)[返信]
>>「Wikipedia:信頼できる情報源」には、「編纂された全集の中に登場する歴史文書といったものは」一次資料と看做されるものであっても使っていいことになっています。
コメントつまりこの人は、大正新脩大蔵経テキストデータベース等に載っている仏典の本文を一次資料であると見なしているわけです。この発言から、そのことが確認できます。
>>「Wikipedia:信頼できる情報源」には、「編纂された全集の中に登場する歴史文書といったものは」一次資料と看做されるものであっても使っていいことになっています。
コメントそれはですね、「一次資料として使うことは構わない」と言っているだけです。早合点しないでくださいね、Wikipediaにおいて一次資料のみに基づいて出来ることというのは、後述のとおり限定されています。この「限定」に従ってください。実行してはならない事柄(規制)が後述のとおり指定されています。この「規制」に従って下さい。Wikipedia:信頼できる情報源の冒頭に情報源を使う必要性について議論している2つの方針ページ、Wikipedia:独自研究は載せないとWikipedia:検証可能性も参照してください。と書いてありますね。その前者のWikipedia:独自研究は載せないの中に、一次資料と二次資料の使い方に関する規制が書いてあります。いわく、一次資料に記載されている情報の解釈には、信頼できる二次資料が必要です。と(引用元→WP:PSTS)。あなたが大正新脩大蔵経テキストデータベース等から引用してきた仏典の本文に対して加えている解釈は一次資料に記載されている情報の解釈です。それを行うには二次資料が必要である旨、同ページに解釈を含む主張や分析、総合的判断を含む主張は、いずれも二次資料を出典とすべきであり、それらの記述に際して一次資料をウィキペディアンが独自に分析してはなりません。と明記されています。またさらに、一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。項目全体を一次資料に依拠してはいけません。とも明記されています。ここに太字で強調したものは、「この文書はウィキペディア日本語版の方針です。多くの利用者に支持されており、すべての利用者が従うべきだと考えられています。」という但し書きのもとに明記されているものです。あなたがこれに従わなくてよいわけはありません。
ここまで踏まえたうえで、あらためてWikipedia:独自研究は載せないの冒頭に載っている独自研究の定義を参照します↓。
独自研究(original research)とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがないものを指すウィキペディア用語です。ここに含まれるのは、未発表の事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。ウィキペディアは独自研究を発表する場ではありません。
〈発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈〉は独自研究である旨がハッキリ書いてあります。
あなたが一次資料のみに基づいて、仏典の本文に対して行った解釈は〈発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈〉ですから、独自研究に該当しています。--Leonidjp会話2017年5月2日 (火) 23:58 (UTC)[返信]
↑文中、取り消し線と下線で訂正しました。「限定」よりも「規制」と言ったほうが意味が明確なので。--Leonidjp会話2017年5月3日 (水) 00:11 (UTC)[返信]
引用符を1個追記。--Leonidjp会話2017年5月3日 (水) 01:43 (UTC)[返信]
>あなたは整理分類的に書くのも独自研究になると言っておられますが、整理分類の悪いごちゃごちゃした書き方であれば独自研究にならないとおっしゃっるのに等しくありませんか?
コメントまとはずれですね。整理分類的に書こうが、整理分類の悪い書き方で書こうが、どちらにしろ、Wikipedia:独自研究は載せないに載っている独自研究の定義に当てはまれば独自研究に該当するというだけのことですよ。「独自研究であり、且つ、整理分類がなされてる or なされてない」ということにすぎない。この「且つ」の後ろに何が有ろうが、定義により独自研究に該当しているものは独自研究ということ。「定義によって該当している」という状態そのものを覆さない限り、「これは独自研究ではありません」とは宣言できません。--Leonidjp会話2017年5月2日 (火) 23:58 (UTC)[返信]
>>くどいようですが、台湾の経典テキストデータにリンクをとった出典もあります。
コメントこの人は、この発言で何を言いたいのでしょうね。どこのテキストデータを出典にしていようが、Wikipedia:独自研究は載せないに書いてある独自研究の定義に当てはまる記述は独自研究に当てはまっています。また、ある記述が独自研究であることを気づいたからといって独自研究タグなりテンプレートを貼り付ける義務は誰にもありませんので、タグやテンプレートの不存在は独自研究性の不存在を保証しません。ノートページへ独自研究の指摘を書き込むことすら「義務」ではないです。そもそも出典の中身と記事本文を照らし合わせて読むことを誰もやってなければ、独自研究の存在がWikipedia利用者に気づかれることすらありません。なお、私の関心をどの記事に向けるかは、私の専管事項ですので口出し無用ですし、私が読まない記事の中に「独自研究の疑いがあるもの」が存在していることは何ら不思議なことではありません。--Leonidjp会話2017年5月3日 (水) 02:06 (UTC)[返信]
私のは「大正新脩大藏經」を解釈しているうちには入りませんね。解説書や仏教語辞典の類をみても解せない、あるいは出典として狭すぎる広すぎるなどのときに、著作権があればそれをそれを侵害しているのではないかというほど、○○経はこのように説いていると紹介しているだけです。あるいは検索表示しているだけです。
明らかに2次・3次資料と言えるものであっても、「ノート:中観派」では、中村元はそういう意味で言ったの言わないのという議論になっているではありませんか。私はそうならないのを厳選して出典しています。くどいようですが、そうなる恐れのある出展は自主的に削除したほどです。なお、「中道」は梵和辞典や仏教語辞典を出典にして編集しました。(旧: 118.87.5.99/118.87.2.182)--118.83.8.180 2017年5月3日 (水) 18:02 (UTC)[返信]
>>私のは「大正新脩大藏經」を解釈しているうちには入りませんね。
コメント「私の」という具合に一括しているのが粗雑です。あなたが大正新脩大蔵経テキストデータベースからの引用を出典としてWikipedia記事に記入した箇所はおそらく数十箇所あると思いますが、それらは個々に解釈性が強かったり弱かったりしてますからね(ある経文の中に特定の単語が何個あるかなどという話は、解釈性が比較的弱い例だと思いますよ)。全てを一括して「私のは解釈しているうちには入りません」などとは言えません。個々の事例に即して個別に検討されるべきです。個別に検討した結果が「独自研究の定義」に当てはまっていたら、アウトです。たとえば例の、「天台智顗は危うさを説いている」というアレなんかは、あなたが出典として示した経文には書いていない事柄でしたので、あれはあなたが勝手に解釈した結果に過ぎませんでした。あなたにはそういう「前歴」が既にあります。
>>解説書や仏教語辞典の類をみても解せない、あるいは出典として狭すぎる広すぎるなどのときに、著作権があればそれをそれを侵害しているのではないかというほど、○○経はこのように説いていると紹介しているだけです。あるいは検索表示しているだけです。
コメントあなたが「○○経はこのように説いていると紹介」したら、そこにあなたの解釈や分析(且つ二次資料に出典が無いもの)が混ざり込む可能性は常にありますからね。あなた自身も上述のように〈「解説書や仏教書」という二次資料を読んでも「解せない」〉という状況が貴方自身において成立してる場合が有ることを認めてますしね。で、実際に「あなた個人の解釈にすぎないもの」がどのていど混入しているかは、あなたの加筆箇所の各々に即して検討しないと分かりませんね。そういう検討をした結果がノート:中道#独自研究をやめよノート:中道#「中観との関係」についてノート:阿羅漢利用者:Ryo 625さんの指摘)などですよ。記事本文中にテンプレートを用いて私が指摘した箇所も、これまでに多数ありましたよね。--Leonidjp会話2017年5月3日 (水) 22:41 (UTC)[返信]
>>明らかに2次・3次資料と言えるものであっても、「ノート:中観派」では、中村元はそういう意味で言ったの言わないのという議論になっているではありませんか。
コメントこれまた大雑把な纏めですね。今のノート:中観派のなかで中村という人名は8回載ってますが、「中村元はそういう意味で言ったの言わないのという議論」というのはどこのことですか? 具体的に引用しないと他人にはわかりませんよ。「中村元はそういう意味で言ったの言わないのという議論」がノート:中観派に存在していると言っているのは現状では貴方だけなのだから、貴方が「ここにあるコレがそうです」と特定して言わないと他人には伝わりませんからね。あなたがこの件を今後さらに議論したいのであれば、あなたの言及対象である箇所を改変せずにココへ引用してから立論してください。--Leonidjp会話2017年5月3日 (水) 22:41 (UTC)[返信]
>>私のは「大正新脩大藏經」を解釈しているうちには入りませんね。
コメントあなたは「解釈しているうちには入らない」という言い方で「解釈性」だけを否定しようとしているように見えますが、Wikipedia:独自研究は載せないをはじめとしたWikipediaの方針・ガイドラインにおいて規制されているのは「解釈」のみではないので覚えておいて下さいね。すでにWikipedia:独自研究は載せないの内容から上述のように引用してある文言を再度掲示しておきます↓。「解釈」以外にも様々な行為が規制されています。
解釈を含む主張や分析、総合的判断を含む主張は、いずれも二次資料を出典とすべきであり、それらの記述に際して一次資料をウィキペディアンが独自に分析してはなりません。
一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。
(独自研究とは)未発表の事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。
加筆内容の「解釈性」だけを否定してもなおアウトになる場合が沢山ありうることが推察できます。--Leonidjp会話2017年5月4日 (木) 00:21 (UTC)[返信]
自身のWikipedia編集を「独自研究ではない」と抗弁し続ける利用者を見つけたら、私のここ(ノート:中道)での書き込みをそのままコピペしたり、あるいは改変して読ませても構いません(ただしLeonidjpという署名は継承しないようにお願いします)。ココで述べられているような各種の抗弁に対しては「各個撃破」的に使えると思います。どうぞご利用ください。--Leonidjp会話2017年5月4日 (木) 00:21 (UTC)[返信]
>「天台智顗は危うさを説いている」というアレなんかは、あなたが出典として示した経文には書いていない事柄でしたので、あれはあなたが勝手に解釈した結果に過ぎませんでした。
コメント:ここでのやりとりの発端となった上記の記述にこだわっておられるようですが、その件は初学者が誤解しないよう親切心で書いたのだと言ったではありませんか。天台智顗は非常に慎重な人で、世俗諦と勝義諦という語さえ用いていません。まして、二辺を行じ違えれば声聞縁覚に堕すということは、言えといわれても言わない人でしょう。声聞縁覚と言うと誤解の元になるし、縁覚というと誤りになるからだろうと推測しています。こう見えても、私も非常に慎重に記述しています。天台智顗が他の経論ででも言ってくれていれば採りましたが、他者の経論(いくらでもみつかります)から取ってつけるようなことは致しておりません。
中道はいわゆる艱難横死が出る所行道のようなので、慎重に慎重を期しています。リベラルアートからみても、中道は倫理学的な知見が非常に重要な部分で、安易に記述するべきものではないことぐらいは分かっているつもりです。
>(本文)疑問点=この鈴木学術財団の『梵和大辞典』のpratipadの項に書いてあるのはpratipadの語義だけであって「中道」の語義ではないのでは?
コメント:もちろんです。脚注を補強しておきました。
>(本文)疑問点=二辺に「空」や「仮」の意味があるか無いかを調べたいなら、仏教用語辞典で「二辺」をひけばよいだけであろう。
コメント:「二辺」はなかったと記憶しています。「二諦」もなかったか、ネットのコトバンク程度で、あれこれ探してやっと広辞苑にいきついたほどです。「二諦」に空・仮の意味があるという記述は、「仮観」「三観」で天台宗では…としてようやく見つけた次第です。「二辺」は、中道をデルタ地帯の孤立した渚や中洲と捉えて解釈するしかないでしょう。リベラルアートからみて、三途の川とは昔の人はよく表現したものだと感心しています。(旧: 118.87.5.99/118.87.2.182)--118.83.25.182 2017年5月4日 (木) 18:49 (UTC)[返信]
>>その件は初学者が誤解しないよう親切心で書いたのだと言ったではありませんか。
コメント「初学者が誤解しないよう親切心で書かれた」ものであり、且つ、信頼できる情報源において未発表の解釈(なぜ未発表かといえば、あなたが情報源を書いてないから)でしたから、その点において、Wikipedia:独自研究は載せないに載っている独自研究の定義に当てはまっているので独自研究でございます。明白に独自研究の定義に当てはまっております。あなたの執筆動機(初学者のためにどうこう)がどうであろうと、独自研究であります。
>>中道はいわゆる艱難横死が出る所行道のようなので
コメントそれじたいが独自研究の披露。そういうことを無出典でいくら書いても無駄です。
>>「二辺」は、中道をデルタ地帯の孤立した渚や中洲と捉えて解釈するしかないでしょう。
コメントそれも、出典を備えないかぎり独自研究。--Leonidjp会話2017年5月4日 (木) 21:57 (UTC)[返信]
引用符1個追記。--Leonidjp会話2017年5月9日 (火) 07:30 (UTC)[返信]

報告 「増一阿含経」のここで問題としている箇所について、林五邦による和訳文の確認が取れました。以下の通りです(原著の旧字は新字体にしました)。

中道の記事で引用されている箇所(火滅品第十六)
大正蔵の原文:「彼見此千世界。如有眼之士。自手掌中觀其寶冠。」
林五邦訳:「彼此の千世界を見ること、有眼の士の自ら掌中に於て、其の宝冠を観るがごとし。」(『國譯一切經 印度撰述部 阿含部 八』106頁)
中観派の記事で引用されている箇所(六重品第三十七)
大正蔵の原文:「彼以天眼觀三千世界。猶如有眼之人掌中觀珠。阿那律比丘亦復如是。」
林五邦訳:「彼れ天眼を以て三千世界を観ずること、猶し有眼の人の、掌中に珠を観ずるが如く、阿那律比丘も亦復是の如し。」(『國譯一切經 印度撰述部 阿含部 九・十』524頁)

以上。--Doomreaper会話) 2017年5月9日 (火) 17:11 (UTC) 補記:国訳一切経のほうは、大正蔵と一字違う「自於掌中觀其寶冠」という異読を採用している模様。--Doomreaper会話2017年5月10日 (水) 01:01 (UTC)[返信]

Doomreaper様、邦語訳を調べてくださり有難うございました。中道の問題箇所はこれに合わせて修正しておきました。中観派の問題箇所も、この林訳と明らかに違背する無出典解釈として削除しておきました。--Leonidjp会話2017年5月9日 (火) 22:11 (UTC)[返信]
大正新脩大蔵経テキストデータベースのみを出典としてWikipedia記事に掲載されている仏典の邦語訳については、この国訳一切経の記述と照らし合わせるのがよいですね(他にも照合に使える資料をご存知のかたはご教示ください)。とりあえず、国訳一切経は手近な図書館から借り出せるようなので、すこしずつ照合を進めてみます。この増一阿含経の件、IP利用者氏が「捨てた」邦訳のほうが国訳一切経の記述に合致しているというこの結果は、色々な意味で示唆的だと思います。--Leonidjp会話2017年5月9日 (火) 22:59 (UTC)[返信]
コメント 率直に言いますと、IPユーザー氏の提示した解釈は、いくら仏教漢文が通常の古典漢文とは違うとはいえ無理があり、独創的で非標準的な読みではなかろうかという印象をもっていました。今回、国訳一切経を参照したことで、その意を強くしました。国訳一切経はいわゆる漢文書き下し文で、現代語訳ではないのですが、「中道」の記事で引用されている増一阿含経の該当部分には、

尊者阿那律が、天眼の持ち主である千眼の梵天であっても己の身に著けるところの服飾が見えないと述べ、『無上の智慧を得れば己の服飾を見ることができますか』との梵志の問いに対して『あなたは戒をもっていますか。もろもろの悪を作さず、非法を犯さないのが戒です』と応え、禁戒を持して、毫釐も失うことなく、憍慢の結を除去して、吾我の染著の想を計ってはならないと説き、この教えを承けた梵志は「未だ所在に至らざる中道に於て此の義を思惟し、諸の塵垢尽きて法眼浄を得」た。(林五邦訳、奈良康明校訂『國譯一切經 印度撰述部 阿含部 八』大東出版社、第5刷1978年、初版1933年、106-107頁。引用箇所太字に。)

というようなことが書かれています。「中道は中観の思惟である」と解釈できるところは見当たらないように思います。--Doomreaper会話2017年5月10日 (水) 00:32 (UTC)[返信]
コメントなるほど。「中道は中観の思惟である」というまとめそのものが国訳一切経の記述と合わないということですね。脚注末尾の「於中道思惟此義」の読み方が違うらしいのが決定的ですね。とすれば、中道#中観との関係のこの問題の節は全削除すべきということになりますでしょうか。--Leonidjp会話2017年5月10日 (水) 02:19 (UTC)[返信]
これはもう、国訳一切経は「自手掌中觀其寶冠。」の「中・觀」という2字を「中觀」という熟語としては読んでいないということですから、増一阿含経のこの箇所は「中道と中観との関係」を述べたものとはいえないということになりますね。従って、「増一阿含經は、中道は中観(Mādhyamika)の思惟であるとしている」という主張も成立しません。中道#中観との関係という節は全体を削除すべきと思いますので、削除しておきます。--Leonidjp会話2017年5月10日 (水) 03:37 (UTC)[返信]
そうですか。国訳一切経はそうなっていますか。私は国訳一切経には昔お世話になったことがあって、注記も確実だし一般向けの仏教解説書を読むよりよほど効率的だと信頼を寄せたのですが、それでも解せない部分があって、しかし重要な部分なのでコピーをとっていたところ、大正新脩大蔵経テキストデータベースが出来たので確認したら、一切経の原文の方がかなり抜けていたということがありました。大東亜共栄圏とは関係なさそうな部分なのにどうしてそうなるかも解せませんでした。大蔵出版の底本とかなり異なるのを使っているんでしょうか。
林五邦訳の場合の「其の宝冠」は「有眼の士」の王冠を掌中にすることの比喩的な意味ですかね。手の甲を上にして掴んでいるイメージだと観じるというわけにはいかないし、指を曲げて宝冠を握るには宝冠が余りあるような気がするので。少なくとも、如意宝珠を掌にするイメージとは違いますね。いえ、これはリベラルアーツの視点です。よろしければ、私の読み下しと同じのを探してもらえませんか?(直近:118.83.25.182)--118.87.0.95 2017年5月10日 (水) 19:22 (UTC)[返信]

報告 IP利用者が、大正新脩大蔵経テキストデータベースからの引用を二次資料無しで解釈・翻訳した例(一覧)のうち、6点の仏典が国訳一切経に所収されていることがわかりましたので、お知らせします(国訳一切経の出版元のサイト http://www.daitopb.co.jp/ にある表から照合しました)。

  • 大方等大集經 国訳一切経 大集部 第1巻〜3巻のいずれか
  • 阿育王經 国訳一切経 史伝部 第6巻
  • 摩訶止觀 国訳一切経 諸宗部 第3巻
  • 妙法蓮華經文句 国訳一切経 経疏部 第2巻
  • 大般若波羅蜜多經 (玄奘譯) 国訳一切経 般若部 1巻〜6巻のいずれか
  • 雜阿含經 国訳一切経 阿含部 第1巻 〜3巻のいずれか

6点のみですので、一覧のうちの大半の仏典が国訳一切経に入っていないようです。
質問ですが、大正新脩大蔵経テキストデータベースの画面に示される行番号(などの数値)をもとに、その箇所が国訳一切経の該当する巻の何ページに位置するかを特定することは、容易にできるものでしょうか?(まだ実践したことがないので、詳しいことを知りません)。--Leonidjp会話2017年5月12日 (金) 05:44 (UTC)[返信]

追加です。国訳一切経などに所収されているものが更に見つかったので、追加しておきます。

  • 根本説一切有部毘奈耶 国訳一切経 律部 第23巻〜26巻とみられるが、題名の末尾が微妙に違っているので、内容も違うかもしれない
  • 阿毘達磨大毘婆沙論(義淨譯) 国訳一切経 毘曇部 7〜17巻のいずれか。 ただし訳者が義淨でない場合は使えないかもしれない
  • 阿毘達磨大毘婆沙論 (五百大阿羅漢造 玄奘譯)  国訳一切経 毘曇部 7〜17巻のいずれか。 ただし訳者が玄奘でない場合は使えないかもしれない
  • 阿毘達磨大毘婆沙論(五百大阿羅漢造) 国訳一切経 毘曇部 7〜17巻のいずれか。 ただし訳者が一致しない場合は使えないかもしれない
  • 阿毘達磨倶舍論本頌 国訳一切経 毘曇部 第25巻 第26巻上 第26巻下のいずれか
  • 佛説阿闍世王經 国訳大蔵経 文殊経典部
  • 瑜伽師地論 国訳大蔵経 経部 6巻〜9巻のいずれか
  • 六祖大師法寶壇經 国訳一切経なし 「六祖壇経」として https://www.amazon.co.jp/dp/4886925383 に読み下しなどが載っている模様
  • 無量寿経優婆提舎願生偈註 国訳一切経なし 信頼性は不明だが、読み下しらしきものが http://www.daigo.or.jp/LAB/ronchu_1.htm および http://www.daigo.or.jp/LAB/ronchu_2.htm に載っている
  • 顯淨土眞實教行證文類 国訳一切経なし https://www.amazon.co.jp/dp/4894166682 で現代語が、 http://seiten.icho.gr.jp/html/149.html から読み下しが読める模様

報告 国訳大蔵経の記事を見ますと、この文献はWeb上で全体を閲覧できるそうです。仏典の書き下しが読めます。--Leonidjp会話2017年5月12日 (金) 07:23 (UTC)[返信]

報告 ノート:禅定#検証に、大正新脩大蔵経テキストデータベースの阿育王経の原文を出典とした記述を国訳一切経と照合した結果を書いてみました。よろしければご意見ください。--Leonidjp会話2017年5月13日 (土) 10:54 (UTC)[返信]

報告 ノート:四禅#検証にも、国訳一切経との照合結果を書きました。--Leonidjp会話2017年5月13日 (土) 11:25 (UTC)[返信]

報告 禅定および四禅において、大正新脩大蔵経テキストデータベースからの引用を二次資料無しで解釈する記述が更に増えました。国訳一切経との対応関係のクオリティを指摘されたのを受けて増やしたもののようです。--Leonidjp会話2017年5月13日 (土) 22:55 (UTC)[返信]

「大正新脩大蔵経テキストデータベース」を出典とした記述について

[編集]

(やや一般的な話題になりますが、Doomreaperさんが上述のように指摘なさっている問題と関連があるため、ここに記入させて頂きます)。

昨年末頃から、「大正新脩大蔵経テキストデータベース」の検索結果(及びその解釈結果らしきもの)を出典とした記述が仏教系のWikipedia記事に多数加筆されるようになっています。その中には、Doomreaperさんが上述のように指摘しておられるような問題点が少なからず含まれているのではないかと危惧しています。漢文の読み方や解釈の仕方といった問題です。

ちなみに、私の知る限り、そのような加筆のほぼ全てがIP利用者によるものでした。昨年末から今年2月にかけて、その種の加筆を行なっていたIP利用者の編集履歴を個人的に纏めてあります↓。

これらの編集を行っていた人物は、IP利用者118.86.247.132 が言うには全て同一人物であり、且つ、その人物は当ページ(ノート:中道)に記入しているIP利用者とも同一人物なのだそうです(あくまでも、当人の自称よれば、ですが)。※Doomreaperさんが上述のように指摘なさっている問題箇所を加筆した人物もIP利用者でした。--Leonidjp会話2017年4月28日 (金) 02:01 (UTC)[返信]

Wikipediaを「大正新脩大蔵経テキストデータベース」というキーワードで検索した結果を、参考までに貼り付けておきます。今日現在で27件ヒットしています。

なお、同テキストデータベースの正式名称「大正新脩大藏經テキストデータベース」(蔵と経の字が違う)でWikipediaを検索した結果は70数件あるようです。

また、昨年末にノート:阿羅漢#要検証の部分についてにおいて、漢文の読み方をめぐって、IP利用者とRyo 625さんとの間で議論が行われた形跡があります。この際に議論の俎上にあがっているのも、大正新脩大蔵経テキストデータベースの検索結果たる漢文であると思われます。--Leonidjp会話2017年4月28日 (金) 09:59 (UTC)[返信]
下線部を加筆しました。--Leonidjp会話2017年5月1日 (月) 13:41 (UTC)[返信]

私は「仏教の日」は編集していません。大正新脩大蔵経テキストデータベースを出典として利用している人は他にもいます。行番号だけではなく、わざわざ内容まで示しているのに、それを問題視するというはお門違いです。(旧: 118.87.5.99)--118.87.2.182 2017年4月28日 (金) 15:17 (UTC)[返信]
>>行番号だけではなく、わざわざ内容まで示しているのに、それを問題視するというはお門違いです。
コメント的はずれなことを言ってはいけない。「内容」に関する問題が在るからこそ議論の俎上に上がっているということを誤魔化してはならない。--Leonidjp会話2017年4月28日 (金) 23:16 (UTC)[返信]
的に「中(あた)る」という訓読みは私の高校時代は古典の時間に出てきましたが、今はどうなんですかね。 (旧: 118.87.5.99)--118.87.2.182 2017年4月29日 (土) 18:14 (UTC)[返信]

報告「大正新脩大蔵経テキストデータベース」からの引用のみを出典として、仏典の邦訳または解釈をWikipedia記事に記入しているとみられる例を、各仏典の題名ごとにまとめました。→利用者‐会話:Leonidjp/sat --Leonidjp会話2017年5月10日 (水) 02:22 (UTC)[返信]

コメント 現状、Wikipedia記事には、大正新脩大蔵経テキストデータベースで熟語を検索した結果を示して「○○という仏典には××という語が有る(もしくは、何個有る)」と述べている記述も多数あります。
ところが、Doomreaperさんが#「中観との関係」についての節でご指摘になっているように、漢文の仏典のなかで一見して熟語のように読める漢字の並び(例:中-観)があっても、熟語としては読まれない(読まない)例があることが出典(国訳一切経)を伴って示されています。
ですので、仏典における熟語の出現例(や熟語の出現回数)を述べた記述についても、国訳一切経などで書き下し文などを確認すると熟語として読まれていないことが判明する可能性があります。
これも非常に厄介な問題だと思います。--Leonidjp会話2017年5月10日 (水) 08:01 (UTC)[返信]

そうですね。私は文脈で捉えるようにしていますし、出展に際しては検証可能性について容易になるよう行番号まで付記していますが、仏教語辞典の類には検証がなかなか困難なのがあります。テキストデータベースがある時代なのでやっとこさ見つけたら、どうも意味が違うのではないかというのもあります。
これに関連して、「二辺」「二諦」が法蔵館の総合佛教大辞典にありましたので、中道や二諦や勝義諦のページに出典のうえ記述も編集しました。(直近:118.83.25.182)--118.87.0.95 2017年5月10日 (水) 19:22 (UTC)[返信]

報告二諦においても、大正新脩大蔵経テキストデータベースのみを出典とした記述の独自研究性について議論が起こりそうな気配がありますので、よろしければウォッチリストに入れて頂いて動向に注意を向けて頂ければと思います。--Leonidjp会話2017年5月12日 (金) 03:19 (UTC)[返信]

報告二諦および中道において、IP利用者による、二次資料無しの仏典解釈の記入が再発しております。--Leonidjp会話2017年5月12日 (金) 23:19 (UTC)[返信]

「Sanskrit Dictionary for Spoken Sanskrit」を出典としたサンスクリットの和訳について

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(やや一般的な話題でありますが、中道の記事内容にも関係するので、一応ここに書きます)

Sanskrit Dictionary for Spoken Sanskrit」というWeb上の梵英辞典を出典として、この梵英辞典が示すサンスクリットの英訳を日本語に重訳するという仕方でサンスクリットの語義をWikipediaの記事に加筆している執筆者がいますが、しばしば下記のような問題があります。

  • 複数ある英訳結果のうちの一部のみ(例えば10個中の3個とか)を取り上げて和訳し、あたかも語義がそれのみであるかのように記述する。
  • ときにはサンスクリットの「原義」をWikipedia記事に発表するが、この梵英辞典は基本的に、1つのサンスクリット単語に対して複数ある英訳結果のうちのどれが「原義」であるかは示していないため、「原義」の特定は無出典の独自研究であることが多い。
  • 出典たる梵英辞典に書いていない含意や文脈を勝手に混ぜる。
  • 英語からの和訳が誤訳である。

「Spoken Sanskrit Dictionary」でWikipediaを検索した結果はこちらです↓。

出典たる梵英辞典が示す英語と、各Wikipedia記事に書いてある和訳を照らし合わせると、上述のような問題点が見つかるかもしれません(最近、中道には頻発しています)。--Leonidjp会話2017年5月2日 (火) 09:45 (UTC)[返信]

「中道とは、閻魔界中の入出退を指す仏教用語である」とするのが一番スッキリしますね。Madhyamā-prati・pad として原義解釈するとそうなります。昔のインド人修行者もそのように受け取ったんじゃないですかね。パーリ語の paṭipadā も恐らく「進むか奈落か」みたいな意味です。釈迦が"中道"を"悟った"と直伝したのだとしても、それは閻魔行を乗り越えたという意味でしょう。天台説ともうまく符合します。そういうのを基礎研究にフィード・バックするのもリベラルアートの役割です。もちろん、この件は推論を多く含む独自研究なので、Wikiでは梵和辞典で pratipad を参照出典しますので暫らくお時間ください。
直上↑の署名の無い書き込みは118.87.2.182によるものです。--Leonidjp会話2017年5月2日 (火) 23:58 (UTC)[返信]
コメント自分で独自研究とわかっている内容を披露しなくても構いません。Wikipediaを編集するうえでは余り価値のない情報ですし、Wikipedia編集という文脈を離れることがらであれば、ここに書くのは尚更不適切なので。--Leonidjp会話2017年5月2日 (火) 23:58 (UTC)[返信]

検証

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妙法蓮華経文句1

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① 現在、中道#部派仏教時代から共通の用法の節にこのような記述があり、

また、遡って天台智顗の『妙法蓮華經文句』を参照すると、「衆生戒を摂する尸波羅蜜(しはらみつ)と共に中道の道を持して度し、魔界を降伏す」と経解しており、覆蔽(ふくへい)する所無しの意味あいも、「衆生戒を摂する」ものとして明示している。

② その出典は、こちらの経文だそうです。仏教経典の原文ですので一次資料です。

大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句 (智顗説)』 (T1718_.34.0007a04: ~): 持中道道共尸波羅蜜攝衆生戒度。魔界降伏。

③ この経文の書き下しを、国訳一切経の経疏部2(大東出版社、1989年)の27頁で確認しますと、下記のようになっています。下線部が②との対応箇所。

本迹とは、本と涅槃の山頂に登て、無明癡愛の父母、結業の妻子と別れ、分断變易の家を出で、久しく五住を除く、何れの悪か破せざらん、眞の法喜を護ることは、乳糜を食して更に所須無きが如し、中道道共の尸波羅蜜、攝衆生の戒度を持し、魔界降伏して卽ち佛界の如、乘御に堪任す、本地の功徳、久しく已に成就す、衆生を調へんが為に、迹に五味の比丘を示して衆生を傅引す、例せば前に釋するが如し。

この③国訳一切経の記述に照らして、②は①の出典たり得ているでしょうか?--Leonidjp会話2017年5月14日 (日) 01:50 (UTC)[返信]
ページ番号を修正。--Leonidjp会話2017年5月14日 (日) 01:52 (UTC)[返信]

報告また、このように仏教経典の原文を二次資料無しで解釈した結果をWikipedia記事に執筆している執筆者本人とみられる人物に対して、このような執筆がWikipediaの方針違反である旨、ノート:中道において指摘がなされております。併せてご覧ください。--Leonidjp会話2017年5月14日 (日) 01:50 (UTC)[返信]

「自掌中觀其寶冠」「自掌中觀其寶冠」のときのように、原文が違っているわけではないので、意味に大差はありません。「攝衆生戒度」どころか「衆生戒度」も、大蔵経の中でここ1点にだけ見られるものであり、読み下しが違うだけです。一切経の方がやっつけ仕事です。--118.83.8.34 2017年5月14日 (日) 18:58 (UTC)[返信]
↑この、IP利用者による2017年5月14日 (日) 18:58 (UTC)の書き込みは、別の節に書かれていたので、ココへ私が複写しました。--Leonidjp会話2017年5月16日 (火) 02:00 (UTC)[返信]
報告 この問題は#2017/06/04-6に引き継がれていますので、そちらを読んで下さい。--Leonidjp会話2017年8月5日 (土) 23:45 (UTC)[返信]

妙法蓮華経文句2

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① 現在、中道#部派仏教時代から共通の用法の節にこのような記述があり、

大乗経典でも無明あるいは二明から三明へと向かう前後の関係の所行道として中道を説く。

② その出典は、5個の仏教経典のなかから「短い文中で記述されているものを列挙した」のだそうです。そのうちの1つがこちらの経文だそうです。仏教経典の原文ですので一次資料です。

大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句 (智顗説)』 (T1718_.34.0020a13: ~): 破二邊之前後。同『金光明經文句記 (知禮述)』 

③ この経文の書き下しを、国訳一切経の経疏部2(大東出版社、1989年)の68頁で確認しますと、下記のようになっています。下線部が②との対応箇所。■は入力できなかった文字。なお、半の字は斜線が下広がりが正しい。

法王法臣大事出世して巧に方便を用ふ、初めに半字の法を用ひて二十五有の繁■を破し、四枯の雙樹を成じて衆生を利益す。次に半滿の法を用ひて二乘の独善を破し、菩薩の廣大を成じ、四榮の雙樹を成じ、聖人を利益す。後に常住の滿字を用ひて二邉の前後を破し、非枯非榮の佛の秘密藏を成じて、究竟して利益す、(以下略)

なお、この「法王〜」で始まるこの文が属する段落には、無明や二明や三明という語はありません。
この③国訳一切経の記述に照らして、②は①の出典たり得ているでしょうか?--Leonidjp会話2017年5月14日 (日) 02:36 (UTC)[返信]

妙法蓮華経文句1について
「自掌中觀其寶冠」「自掌中觀其寶冠」のときのように、原文が違っているわけではないので、意味に大差はありません。「攝衆生戒度」どころか「衆生戒度」も、大蔵経の中でここ1点にだけ見られるものであり、読み下しが違うだけです。一切経の方がやっつけ仕事です。
妙法蓮華経文句2について
政治用語の中道に影響されて、中道とは「左右両極に偏らないこと」であるかのように世間に広く認知されてしまっているので、「前後不覚」のいわれになったとまでは申しませんが、前後の関係のものであることがより明白な出典を優先しただけです。当初は出典内の最後に置いたのだが、かつてトルコ風呂が、マスコミの全面協力で短期間にソープランドに改称されたように、どこかが音頭をとって原状の政治用語を改められぬものかと、妙法蓮華経文句を最初にもってきたのです。一応、下げておきます。
なお、前節の「中行」は反映させてもらいました。--118.83.8.34 2017年5月14日 (日) 18:58 (UTC)[返信]
それぞれ別々の節に属する内容に対する返答を、このように1箇所にまとめると、各々の議論の流れが読めなくなるので、各節に移してください。--Leonidjp会話2017年5月15日 (月) 00:20 (UTC)[返信]
報告 この問題は#2017/06/04-1に引き継がれていますので、そちらを読んで下さい。--Leonidjp会話2017年8月5日 (土) 23:43 (UTC)[返信]

2017/06/04

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今日の版において中道#中道の用法の節で指摘されている問題点を、ここにも転記しておきます。コメントや反論があれば、細かく分けてある各節の中に記入してください(ノート:中道#2017/06/04の節の末尾に纏めて書かぬようお願いします)。--Leonidjp会話2017年6月4日 (日) 02:37 (UTC)[返信]

2017/06/04-1

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[[部派仏教]]では、賢聖(仏教の声聞)<ref group="注釈">漢訳の倶舎論に現れた「賢聖」から見道に通じる意味でも用いられる(中村元 『広説佛教語大辞典』(東京書籍) 「賢聖」)が、サンスクリットにそのような意味はなく「devatā(諸天部の)」「śrāvaka(声聞)」、またはそれに通じる意味である(『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 1113頁「賢聖」)</ref>は無明を縁とする行であるとする記述がみられ<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『[[雑阿含経|雜阿含經]] ([[求那跋陀羅]]譯)』 (T0099_.02.0084c28: ~): 梵行者亦無有 離此二邊 正向中道。賢聖出世 如實不顛倒正見所知 所謂縁無明行。諸比丘。若無明離欲而生明。</ref>、大乗経典でも中道やその類語は無明あるいは二明から三明<ref group="注釈">部派仏教も含めて六明まで記述される経論が多くみられる。大正新脩大蔵経テキストデータベース『[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E5%85%AD%E6%98%8E&mode=search&uop=1 六明]』</ref>へと向かう前後の関係<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『[[瑜伽師地論]] ([[玄奘]]譯)』 (T1579_.30.0350a16: ~): 又有三明 當知爲顯於前後中際 斷常二邊邪執。※中際。</ref><ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『阿毘曇毘婆沙論 (迦旃延子造 [[浮陀跋摩]]譯 道泰譯 [[五百羅漢]]譯)』 (T1546_.28.0382c11: ~): 住於中道。復次念前世智證明。能生空。生死智證明。能生無願。漏盡智證明。能生無相。以如是等義故。此*三明隨順厭離之法。; 同『觀音玄義記 ([[知礼|知禮]]述))』 (T1727_.34.0911b20: ~): 從假入空徹見三諦即是中道無縁與拔。二明中道建立二。初約雙非皆破問。二明中道遍立答二。</ref>の所行道として説く。
  • 賢聖(仏教の声聞)という文頭の記述は、賢聖が声聞を意味するものと主張しているように見受けられるが、その出典は結局、平川彰の仏教漢梵大辞典におけるサンスクリット語義解説のみなのであろう。しかしこの賢聖という単語は、その直後にある脚注から明らかなように漢訳経典(雑阿含経)の本文に出てくる漢語なのだから、その語をサンスクリットに戻してから語義を決定するのは手続きがおかしいのではないか。そもそも、ほかならぬこの雑阿含経のこの箇所に出てくる賢聖の原語がdevatāだとかśrāvakaであると述べている二次・三次資料は無い。なお岩波仏教辞典第二版287頁の賢聖の項目でも、やはりこの語が声聞のみを指すとは書かれていないし、この語はāryaの漢訳語として用いられることが多いとしている。
  • 「へと向かう前後の関係」などと読んでいるが、「へと向かう」に相当する語句が原文にはなかろう。もちろん「所行道」という語の出処は不明(大正新脩大蔵経の3仏典から引用したこの脚注内にその語はないので、執筆者が独断でここへ持ち出してきているとしか考えられない)。なお瑜伽師地論の「中際」を中道の類語と見なしているらしいが、それは無出典。阿毘曇毘婆沙論の引用部分には無明や前後という語がない。觀音玄義記からの引用部分には無明および前後の語がない。Wikipedia記事の本文に有る語が、その出典とされる原文には無いというのは致命的。無いのならどこから出てきたのだ、執筆者が独断で書き込んだのか、と疑問を持たれるのは当然のこと。--Leonidjp会話2017年6月4日 (日) 02:37 (UTC)[返信]
>賢聖(仏教の声聞)という文頭の記述は、賢聖が声聞を意味するものと主張しているように見受けられるが、
ここでの賢聖が ārya でも一向に構わないが、それでは ārya は無明ということになりはしないか? ヒットラーのような者は黙ってはいないだろうう。
>「へと向かう前後の関係」などと読んでいるが、「へと向かう」に相当する語句が原文にはなかろう。
ほかに適当な表現を探して見つかるなら、それでも構わないが。--118.83.156.158 2017年6月6日 (火) 17:36 (UTC)[返信]
>>ここでの賢聖が ārya でも一向に構わないが
コメント この箇所の賢聖の原語が何であるかという点は問題の核心ではないということが伝わっていないようです。
>>ほかに適当な表現を探して見つかるなら、それでも構わない
コメント 二次・三次資料なしで「探し」たら独自研究に該当するし、今でもすでにそうである、ということが伝わっているのでしょうか?--Leonidjp会話2017年6月8日 (木) 23:52 (UTC)[返信]
広説仏教語大辞典p.1181によれば中際(ちゅうさい)は三際の一つであり、「現在」の意。--Leonidjp会話2017年6月15日 (木) 09:17 (UTC)[返信]
6/4日から2週間が経とうとしていますが、指摘されている問題点は解決してません。問題の箇所を削除します。--Leonidjp会話2017年6月18日 (日) 03:44 (UTC)[返信]
中際の中は Madhyama である。中村は前際、後際という文脈から「現在」という意味としたのだろうが、そうすると「過去も未来も現在も無知」としか読めなくなる経論がいくつも出て来る。--118.83.135.128 2017年6月18日 (日) 18:23 (UTC)[返信]
>>中際の中は Madhyama である。
コメント それ自体が無出典なので独自研究の披露。--Leonidjp会話2017年6月18日 (日) 22:23 (UTC)[返信]
Madhya だった。いずれにしろ、前際、後際という文脈から「現在」という意味ととると、「過去も未来も現在も無知」としか読めなくなる経論が出て来る。リベラルアーツ的な解釈はあるのだが、独自研究になるのでやめておく。--118.83.135.128 2017年6月20日 (火) 16:14 (UTC)[返信]
>>独自研究になるのでやめておく
コメント IP利用者は、この「やめておく」という判断に基づいて中道に何らかの修正を施したわけではない(今現在、中道には変化がない)。従ってIP利用者は未だに、瑜伽師地論の「中際」を中道の類語と見なしていることになるが、その読み方の出典は今も挙げられていない。--Leonidjp会話2017年6月21日 (水) 01:13 (UTC)[返信]
報告 IP利用者の編集によって文言が少しだけ変わったようですが、ここで上述のように指摘されている問題点はなお解決していません。--Leonidjp会話2017年6月23日 (金) 00:56 (UTC)[返信]

インデント戻します。
報告 ここで指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていません。この箇所は上述のとおり、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp会話2017年8月6日 (日) 00:22 (UTC)[返信]

2017/06/04-2

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また、[[大般若波羅蜜多経]]では声聞或いは独覚が退入する地として説かれた<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E7%B5%82%E4%B8%8D%E4%B8%AD%E9%81%93%E9%80%80%E5%85%A5%E8%81%B2%E8%81%9E%E6%88%96%E7%8D%A8%E8%A6%BA%E5%9C%B0&mode=search&uop=1 「終不中道退入聲聞或獨覺地」]。</ref>
  • ノート:中道#5月27日編集理由でも指摘してあることだが、執筆者は、退入の後ろに書いてある名詞のうちの「地」だけを、退入という動詞の目的語とし、声聞と独覚はなぜか退入の主語にしているわけだが、そのような読み方が正しいとする二次資料は無い。
  • なお、この脚注内のURLのリンク先が示す経文の原文では、「終不中道退入」の直前に必ず名詞がある。従って、この「終不中道退入」の終不/不/退入などを動詞と見なすなら、その主語は、原文で「終不」の直前に書いてある各名詞である可能性があり、そうであるなら声聞や独覚はその動詞の主語にはなるまい。なぜなら同一の動詞の主語をわざわざ2箇所に分割して置くことは不自然であろうから。なお、過去の版では「不」の字を「不する」などと読んでいる者がいるが、漢文の読み下しとはいえ、不するなどという日本語は存在自体が疑わしい。「不する」と読みたいなら、その動詞が、古語を含む日本語に存在するとか漢文解釈学で容認されていることの根拠も併せて示すべき。--Leonidjp会話2017年6月4日 (日) 02:37 (UTC)[返信]
6/4日から2週間が経とうとしていますが、指摘されている問題点は解決してません。問題の箇所を削除します。--Leonidjp会話2017年6月18日 (日) 03:44 (UTC)[返信]
何度も言うが、喩えればバスケットの中身を表示すればいいのであって、誰がバスケットを持っているかとかは無関係である。--118.83.135.128 2017年6月18日 (日) 18:23 (UTC)[返信]
無関係ではない。退入という動詞の主語をここで声聞と独覚に決めているのは、この箇所の執筆者たるIP利用者である。退入の主語が誰なのかを言う必要が本当に無いなら、主語として声聞・独覚を書く必要がもともと無いはずであるのに、なぜ実際には書いてあるのか。--Leonidjp会話2017年6月18日 (日) 22:26 (UTC)[返信]
コメント 「終不中道退入聲聞或獨覺地」というフレーズは「終に退して声聞あるいは独覚地に入るの道に中らず」とも読めますね。この場合は「退」が動詞で、「入」は退の方向を示す趨向補語だと思います。訓読すると「退きて〜に入る」「退して〜に入る」。「終不」は否定を強調する語法で「ついに〜せず」。SAT大正新脩大藏經テキストデータベースで検索すると「終不中道退入聲聞或獨覺地」というフレーズが『大般若波羅蜜多経』に5回出てくることがわかります。そのうちのひとつ、巻第三百一十二「初分衆喩品第四十四之二」の「善現當知 / 如是住菩薩乘諸善男子善女人等 / 終不中道退入聲聞或獨覺地 / 定證無上正等菩提」は国訳一切経の読み下しでは「……善現當に知るべし、是の如き菩薩乘に住する諸の善男子善女人等は終に中道にして退きて聲聞或は獨覺地に入らず、定めて無上正等菩提を證すと。」(『国譯一切経 般若部 三』昭和12年発行の版の145頁)となっていますね。否定の「不」がその直後にない「入」に係るように読むのは疑問ですが、いずれにせよ、後退して声聞・独覚地に入ってしまうことのない、いわゆる「不退転の菩薩」について述べたものでしょうか。--Doomreaper会話2017年7月11日 (火) 19:15 (UTC)[返信]
コメント なるほど。国訳一切経にしても、Doomreaperさんがコメント冒頭で発表しておられる読み方にしても、現に中道に載せられている読み方とはそうとう違う(違う読み方がありうる)ことが分かります。中道を熟語として読まない可能性があることも示されましたが、これは4月頃ここで行われた議論とも共通の問題性ですね。--Leonidjp会話2017年7月13日 (木) 03:45 (UTC)[返信]

インデント戻します。
報告 ここで指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていません。この箇所は上述のとおり、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp会話2017年8月6日 (日) 00:17 (UTC)[返信]

2017/06/04-3

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大乗典では二辺だけではなく、中道をも離/出/捨/滅するという記述を多出させ<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E9%9B%A2%E4%B8%AD%E9%81%93&mode=search&uop=1&tall=1&nm=&np=&smode=search 離中道], [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E5%87%BA%E4%B8%AD%E9%81%93&mode=search 出中道], [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E6%8D%A8%E4%B8%AD%E9%81%93&mode=search 捨中道], [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E4%B8%AD%E9%81%93%E6%BB%85&mode=search 中道滅]。</ref><ref group="注釈">「[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E7%84%A1%E4%B8%AD%E9%81%93&mode=search 無中道]」が格段に多くみられるが、「非有非無中道」のように複雑な文脈で記述されるため出典記述としていない。</ref>、中道については魔を度す所作(行道)として記述されることがある<ref name="chudo"/>

※なお、ref name="chudo"はこれ↓。

<ref name="chudo">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説阿闍世王經 ([[支婁迦讖]]譯) 』 (T0626_.15.0390c13: ~): 以知五陰者無有魔事。以度魔界者所作中道無所覆蔽。※[[経集部 (大正蔵)|経集部]]所収の顕教の経。</ref>
  • 離中道、出中道、捨中道、中道滅という各々の三文字が、経文の当該部分において「中道を離/出/捨/滅する」と読まれるものであるかどうかは未検証。二次資料による裏付けはまだ無い。従ってこの読み方は執筆者の創作。
  • 所作(行道)という丸括弧が何を意味するのか不明瞭だが、行道という語が出典(ref name="chudo")にないことは事実。なお、丸括弧の意味を、ノートページにおいて特定のWikipediaユーザーを対象に説明しても無意味であって、読者一般が読んでわかるようにしておかなければならない。もし所作=行道という意味で丸括弧を置いているのなら、「所作すなわち行道」などと書くほうが、意味が明らかなぶんだけマシである(しかしそのイコールの出典がなければどうしようもないが)。--Leonidjp会話2017年6月4日 (日) 02:37 (UTC)[返信]
6/4日から2週間が経とうとしていますが、指摘されている問題点は解決してません。問題の箇所を削除します。--Leonidjp会話2017年6月18日 (日) 03:44 (UTC)[返信]
具体的にどの検索結果は文脈的に本文の記述に沿わないのかをあげてください。--118.83.135.128 2017年6月18日 (日) 18:23 (UTC)[返信]
>>具体的にどの検索結果は文脈的に本文の記述に沿わないのかをあげてください
コメント 沿うか沿わないかを判断するためには、離中道、出中道、捨中道、中道滅という各三文字の読み方を決定しなければならなくなるが、それらの読み方は二次資料で明らかにされているわけではないという事実がまさにここで2017/6/4に指摘されている事柄である。IP利用者はそのことが理解できていないのではないか。--Leonidjp会話2017年6月18日 (日) 22:36 (UTC)[返信]
報告 上記6/4から2ヶ月ほど経ちましたが、この問題点は解決していません。--Leonidjp会話2017年8月4日 (金) 10:18 (UTC)[返信]
報告 ここで指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていません。この箇所は上述のとおり、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp会話2017年8月6日 (日) 00:13 (UTC)[返信]

2017/06/04-4

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佛説阿闍世王經では、「五陰を知る者は以って魔事有ること無し。魔界を度す者は以って中道を作す所に覆蔽(ふくへい)する所無し」とし<ref name="chudo">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説阿闍世王經 ([[支婁迦讖]]譯) 』 (T0626_.15.0390c13: ~): 以知五陰者無有魔事。以度魔界者所作中道無所覆蔽。※[[経集部 (大正蔵)|経集部]]所収の顕教の経。</ref>、中道を「五陰」を知る過程のうち、以って魔界を度す覆蔽(ふくへい)なき所作(行道)としている<ref name="chudo"/>
  • 「所・作」という2字を、ここでは「作す所」と読んでいるようだが、この直前ではこれを「所作(行道)」と読んでいるわけである。所作と「作す所」が同義語であるとか「入れ替え可能」だなどと述べている二次・三次資料はないので、原文にあるこの2字を一方では「所作」という2字熟語として読み、他方では「作す所」と読んだ場合に、その両方の読み方が容認されるとか同義だなどとは全く言えない
  • 「五陰を知る過程」などと読んでいるが、「過程」に相当する語は原文にない。また、所作(行道)という丸括弧が何を意味するのか不明瞭だが、行道という語が出典にないことは事実。ここもやはり、丸括弧の意味を読者一般が読んですぐ分かるようにすべき。丸括弧という記号の意味は多様でありうるので、何を意図して丸括弧を置いているのかは、じつは執筆者以外の人は定かには分からない。--Leonidjp会話2017年6月4日 (日) 02:37 (UTC)[返信]
6/4日から2週間が経とうとしていますが、指摘されている問題点は解決してません。問題の箇所を削除します。--Leonidjp会話2017年6月18日 (日) 03:44 (UTC)[返信]
だから、日本語の「所作」は立ち居振る舞い程度の意味しかないから(行道)としたのである。何となれば他の表現か、(カッコ)なしでも構わない。--118.83.135.128 2017年6月18日 (日) 18:23 (UTC)[返信]
>>だから、日本語の「所作」は立ち居振る舞い程度の意味しかないから(行道)としたのである。
コメント 所作と行道という2単語の関係性を示す出典がそもそも示されていないにもかかわらず、【所作(行道)】などと書いているということ。独自研究の披露。--Leonidjp会話2017年6月18日 (日) 22:40 (UTC)[返信]
報告 上記6/4から二ヶ月ほど経ちましたが、この問題点は解決していません。--Leonidjp会話2017年8月4日 (金) 10:20 (UTC)[返信]
報告 ここで指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていません。この箇所は上述のとおり、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp会話2017年8月6日 (日) 00:01 (UTC)[返信]

2017/06/04-5

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[[中国]]ではより具体的に、悪鬼境界の二辺に出づることが中道の(宝の)渚に到達することであるとする経解も出現した<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『觀音義疏記 (知禮述)』 (T1729_.34.0941c14: ~): 即出二邊惡鬼境界 即能達到中道寶渚。鬼義合前後 章前即此章貼文約事 後即第五鬼難章也。</ref>
  • 悪鬼境界の二辺に出づること、と読んでいるが、この読み方を支持する二次・三次資料はもちろん挙げられていない。「二辺と悪鬼境界を出る」とも読めようし、もしそう読めば、その二辺は「悪鬼境界の二辺」ではなく単なる二辺でしかない。「悪鬼境界の」という修飾の有無は重大な差異であろうから、二次資料が支持する読み下しかたを確認できないかぎりは、このような記述を本文に載せるべきではない。より具体的、という評価も、執筆者の個人的な感慨にすぎない。--Leonidjp会話2017年6月4日 (日) 02:37 (UTC)[返信]
6/4日から2週間が経とうとしていますが、指摘されている問題点は解決してません。問題の箇所を削除します。--Leonidjp会話2017年6月18日 (日) 03:44 (UTC)[返信]
「二辺と悪鬼境界を出る」とはどんなイメージなるか示すべき。--118.83.135.128 2017年6月18日 (日) 18:23 (UTC)[返信]
「示すべき」という当為がなぜ成り立つのか不明。二次資料無しで一次資料の趣旨を「イメージ」などと称して語っても独自研究の披露でしかない。独自研究を根拠にして記事本文の記述を決定できるわけがない。--Leonidjp会話2017年6月18日 (日) 22:44 (UTC)[返信]
報告 上記6/4から二ヶ月ほど経ちましたが、この問題点は解決していません。--Leonidjp会話2017年8月4日 (金) 10:22 (UTC)[返信]
報告 ここで指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていません。この箇所は、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp会話2017年8月5日 (土) 23:57 (UTC)[返信]

2017/06/04-6

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また、遡って[[天台智顗]]の『妙法蓮華經文句』を参照すると、「衆生戒を摂する尸波羅蜜(しはらみつ)と共に中道の道を持して度し、「魔界を降伏す」と経解しており<ref name="myo">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句 (智顗説)』 (T1718_.34.0007a03: ~): 久除五住何惡不破獲眞法喜如食乳糜更無所須。持中道道共尸波羅蜜攝衆生戒度。魔界降伏。</ref>、眞の法喜を護ることは「衆生戒を摂する」ものとして明示している<ref name="myo"/>。

※なお、この脚注(ref name="myo")に書かれている「妙法蓮華経文句」の原文の書き下しを、国訳一切経の経疏部2(大東出版社、1989年)の27頁から引用しておきます。下線部が、上述の脚注に書かれている部分との対応箇所です(ノート:中道#検証にも引用してます)。

本迹とは、本と涅槃の山頂に登て、無明癡愛の父母、結業の妻子と別れ、分断變易の家を出で、久しく五住を除く、何れの悪か破せざらん、眞の法喜を護ることは、乳糜を食して更に所須無きが如し、中道道共の尸波羅蜜、攝衆生の戒度を持し、魔界降伏して卽ち佛界の如、乘御に堪任す、本地の功徳、久しく已に成就す、衆生を調へんが為に、迹に五味の比丘を示して衆生を傅引す、例せば前に釋するが如し。

--Leonidjp会話2017年6月8日 (木) 23:46 (UTC)[返信]

  • 国訳一切経掲載の書き下し文では「中道の道を度す」という文意は無い。国訳一切経 和漢撰述部 諸経部2のp.27参照。ノート:中道#検証にも引用してある。ノート:中道 #検証では、IP利用者がこの部分について「一切経のほうがやっつけ仕事です」との独断に基づいて、自前の解釈を正当化している
  • ノート:中道#検証に引用してあるとおり、妙法蓮華經文句のこの部分を含む文は本来、「本迹とは、」で始まっており、そのまま文が終わらず続き、この「持中道道共〜」というフレーズが現れるより前に「眞の法喜を護ることは、」という文言も入っている。従って、「本迹」や「眞の法喜を護ること」が「魔界を降伏」するのであって、「魔界を降伏」は「中道」の語義ではないとの解釈も可能だが(文の始点から読めばその読解可能性を無視できないはずだが)、なぜかここでは「魔界を降伏」が「中道」の語義だとされている。
  • ノート:中道#検証に引用してあるように、国訳一切経は「持中道道共尸波羅蜜攝衆生戒度」を「中道道共の尸波羅蜜、攝衆生の戒度を持し」と書き下している。「衆生戒を摂する」では「度」の字も脱落もしている。--Leonidjp会話2017年6月4日 (日) 02:37 (UTC)[返信]
6/4日から2週間が経とうとしていますが、指摘されている問題点は解決してません。問題の箇所を削除します。--Leonidjp会話2017年6月18日 (日) 03:44 (UTC)[返信]
この議論はすでに済んだはずだ。--118.83.135.128 2017年6月18日 (日) 18:23 (UTC)[返信]
済んでない。何がどのように「済んだ」のかを、ここで指摘されている問題に即して具体的に示してもらわないとならない。--Leonidjp会話2017年6月18日 (日) 22:21 (UTC)[返信]
報告 上記6/4から二ヶ月ほど経ちましたが、この問題点は解決していません。--Leonidjp会話2017年8月4日 (金) 10:23 (UTC)[返信]
報告 ここで指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていませんので、この箇所は上述のとおり、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。予告どおり削除しました。--Leonidjp会話2017年8月5日 (土) 23:53 (UTC)[返信]

2017/06/04-7

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なお、密教系の経典にも<ref>[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E4%BD%9B%E8%AA%AC%E7%91%9C%E4%BC%BD%E5%A4%A7%E6%95%99%E7%8E%8B%E7%B6%93&mode=search&uarnums%5B0890_18%5D=0890_18 佛説瑜伽大教王經] - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>
、「実相の菩提は有無に非ず、亦た二辺無く中道(も)無く、虚空の如き寂静を離相し、三世諸仏が証する所の何かである」とするものがある<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説瑜伽大教王經 (法賢譯)』 (T0890_.18.0580a06: ~): 實相菩提非有無 亦無二邊無中道 離相寂靜如虚空 三世諸佛何所證。</ref>(その何かとは大道心であるとする<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース  『佛説瑜伽大教王經 (法賢譯)』 (T0890_.18.0580a09: ): 智離取捨觀諸蘊 唯顯眞空大道心。</ref>)。
  • 要出典との指摘の意味が伝わっていないようだが、脚注で示している経文が「密教系の教典」であるという主張自体の出典が必要なのである。この脚注で示している外部リンクは、当該経典が大正新脩大蔵経における「密教部」に収録されている旨を示しているだけである。「密教部」と「密教系」は別の単語である。「密教系」とはどういう意味で、どの経典がそれにあてはまっているとかいないとかいうことを示している出典が無い。
  • 「三世諸佛何所證」の「何」の字が「大道心」を指すという解釈を述べている二次・三次資料は無いし、原文をどう読めばそのような解釈が可能なのかも全く説明されていない。--Leonidjp会話2017年6月4日 (日) 02:37 (UTC)[返信]
大正新脩大藏經で検索結果が「密教部」になるのだから仕方がない。ほとんど言い掛かりである。利用者:Leonidjpは、本来は密教のものではないと主張したいのであろう。--118.83.156.158 2017年6月6日 (火) 17:36 (UTC)[返信]
IP利用者氏が掲載したいらしい「密教系」という単語が何を意味するのかという問題には回答がなかった。従って現状の出典に基づくかぎりは「佛説瑜伽大教王經」が大正新脩大藏經の「密教」に属するということしか言えないということが明らかになった。--Leonidjp会話2017年6月6日 (火) 23:05 (UTC)[返信]
というわけなので、「密教系」という表現には出典が無いので、この部分は修正しときます。--Leonidjp会話2017年6月8日 (木) 23:54 (UTC)[返信]
報告 上記6/4から二ヶ月ほど経ちましたが、下記の問題点は解決していません。
  • 「三世諸佛何所證」の「何」の字が「大道心」を指すという解釈を述べている二次・三次資料は無いし、原文をどう読めばそのような解釈が可能なのかも全く説明されていない。
--Leonidjp会話2017年8月4日 (金) 10:27 (UTC)[返信]
報告 上記8/4の日付で再掲してある問題点に対する具体的な対応がなされていません。この箇所は、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp会話2017年8月6日 (日) 00:11 (UTC)[返信]

編集の理由説明

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編集の理由が、編集画面の要約欄に入りきらないときは、ここで説明しておくことにします。

2017-05-13

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まず(こちら)について。

  • 適齢女性という訳が東方出版の辞典には載っているがspokensanskrit.deに無いというのはたんなる端的な事実にすぎず、それは殊更に言い立てる価値のある事実ではない。なぜならばそもそもspokensanskrit.deを梵英辞典として最も重視すべきとの合意がないし、spokensanskrit.deの信頼性は未だに不明。
  • 東方出版の辞典が「類語をひとまとめにした大雑把な辞典ではないか?」との指摘は、その根拠を掴んでからノートページに問題提起すればよいのであって、根拠を持たぬまま(あるいは現物を見ぬまま)で「大雑把な辞典ではないか?」という随想を発表しても仕方がない。資料の性格そのものについての疑義や議論は、具体的に行わなければ意味がない。
  • 「適齢女性の意味も比喩であろうが」:単なる憶測。
  • 「pratipad と結びつくと「婚活」のような意味になってしまうのではないか?」:単なる憶測。「○○という意味になる」と言いたいときは出典を備えて主張しなければならない。
  • 「富士登山(富士信仰)では中腹の登山道が中道と呼ばれたりしている。」:全体が不正確。
    • 出典の「日本国語大辞典」8巻p.1480の中道の項目の③には、語義として富士山の登山者が、その中腹をめぐること。また、その道とある。「中腹をめぐること」が脱落している。しかも「その道」というのは「中腹をめぐるときの道」と読むべきであり、単なる「中腹に存在する道」ではない。
      • この③は、何らの「信仰」にも言及していない。
    • 丸括弧内、富士信仰の4文字について。出典p.1480の中道の項目の③には「洒落本・大抵御覧」なる文献からの引用が「少時(わかとき)より富士浅間を信仰し奉りて〈略〉年来此山に攀ること五十五度、山の中腹をめぐるを中道(チウトウ)といふ、なべての先達中道をするもの稀なり、長四郎中道をすること三十四度」(〈略〉の記号は辞典記載のママ)とあるのだが、この引用に明らかなとおり、富士登山において山の中腹をめぐることを中道と言ったり、そのときの道を中道と言ったりすることが富士信仰なり富士浅間信仰に属するとか、何らかの信仰における用法である旨の記述はここに無い。
      • しかもこの引用はアスタリスク記号の直後に書かれたものであり、本辞典においてアスタリスクは「用例」を指すものであることが第一巻(8)頁に明記されている。従ってこの引用は「用例」であって、本辞典p.1480が③として述べる中道の語義が使われた「例」でしかない。
  • pratipadの訳として→「(陰暦)月の最初の2週」:これは出典 http://spokensanskrit.de/index.php?page=1 に載っているfirst day of a lunar fortnightの訳であろうが、英和訳が壊滅的におかしい。first dayは「最初の日」としか訳せまい。なぜそれが「最初の2週」となっているのか。ここで2週と訳せる単語はfortnightしかないが、「月の最初の2週」ならfirst fortnight of a monthでなければならない(「陰暦の月」としたいならof以降がa Lunar monthとなるだろう)。この誤訳を書いた執筆者は英文法の理解がかなり拙いのではないでしょうか。失礼ながら、このような能力のかたが梵英訳からの重訳でサンスクリット語義を述べることは非常に危険だと思います。英和訳は一旦おやめになったほうがよいと思います。
    • なお、荻原雲来の『漢訳対照梵和大辞典』833頁ではprati-padの訳が約20個載っているが、「月」に言及したものとしては[半月(白月または黒月)の または とくに上半月(白月)の]最初の日とある。「最初の日」とあることに注意。
  • 要検証タグの内部→「中観派はどうか知らないが、断見に堕ちる、常見に堕ちる、を以って二辺とし、離二辺とするのであって、該当するような「離 二見」の記述は漢訳の部派仏典には見当たらない」:冒頭から「であって」までの主張が無出典つまり独自研究。「部派仏典に○○が見当たらない」というのは、二次資料無しで当人が主張している分析結果なので独自研究。
    • これらの要検証タグが付けられていた箇所はすべて予め出典が備わっている。出典を備えている記述に対して、無出典の持論にすぎないものをこのようにぶつけても、Wikipedia的には意味がない。
    • これら要検証タグの直後に出典無効タグも付け加わっているが、その箇所は、実在する資料の記述を忠実に守って書かれているものなのだから、いかなる意味でも「出典無効」ではない。記入されている出典に忠実であるか否かは、出典の現物を読んでから判断すべきであり、現物を読む前に疑問を呈するのは作業の順番が間違っている。また、「出典の中身そのものに異議がある」ときに出典無効と言いたいなら、異議自体の出典を示さなければならない。なお、仏典の本文を二次資料無しで解釈・要約・分析・評価などしただけのものは出典にならない
    • 「離 二見」が部派仏典に見当たらないのは無理もないとも言える。なぜなら出典たる辞典の内容は、出典の著者が仏典を解釈なり要約した結果だろうからであり、とすれば、その解釈そのままに読める字面が仏典に見つからなくても不思議はない。

以上。--Leonidjp会話2017年5月13日 (土) 08:04 (UTC)[返信]
下線部追記。--Leonidjp会話2017年5月13日 (土) 08:40 (UTC)[返信]

「富士信仰」について
"長四郎中道をすること三十四度"は十分に信仰における用法。
「(陰暦)月の最初の2週」について
どこかで日本語で見た記憶があるので、出典を探しておきます。
「離 二見」について
出典無効のタグは付させてもらった。--118.83.188.9 2017年5月13日 (土) 18:35 (UTC)[返信]
>>"長四郎中道をすること三十四度"は十分に信仰における用法。
コメント この主張は、あるキリスト教信者が「バンジージャンプすること34回」だったら「バンジージャンプ」という語がキリスト教信仰における用法であると見なします、というようなものであり、日本語読解として飛躍しすぎ且つ独自研究。--Leonidjp会話2017年5月14日 (日) 00:06 (UTC)[返信]
「離 二見」が当該仏典に見当たらなくても、「辞典の内容は、出典の著者が仏典を解釈なり要約した」ものであって構わないが、Wikiを編集する際は、出典を字義通りに要約しても独自研究になると言っているに等しい。馬鹿げた主張である。--118.83.156.158 2017年6月6日 (火) 17:36 (UTC)[返信]
>>出典を字義通りに要約
コメント 「離 二見」というこの問題(中道#部派仏教・部派仏典)に関わる出典というのは総合仏教大辞典p.998の右上にある②のことであって、そこに出てくる「断」とか「常」とかいう2語は、IP利用者が創出した「離 二見」というフレーズに含まれていないわけだが、どこへ消えたのだろう。IP利用者は「字義どおりに要約」したと称しているようだが、「要約」することによってこの2語を消してしまっているのではないか。総合仏教大辞典のこの②が「離れる」と言っている対象はこの「断」や「常」であるとは思わなかったのだろうか。この②の現物を読んでいれば当然そう思えるはずだが。「離れる」の対象が「二見」そのものではなく断や常であるとしたら、大正新脩大藏經データベースを使って探すべきキーワードは断や常であることになるが、なぜかIP利用者は「二見」だけを探している様子である(中道#部派仏教・部派仏典)。出典たる②に照らせば、これは探し方が足りないであろう(べつに私が探したいわけではないので、自分で探すことはしない)。出典たる②が示している語が、当該仏典の原文にあるのか無いのかを知りたいなら(IP利用者は明らかにそれを知りたい人であるはずだが)、②の内容を「要約」してから探すのではなくて、要約する前の状態で書いてある語を探さねばならないだろうに、なぜそうしないのだろうか。不思議である。この箇所のテンプレートでずっと前から指摘しているのはこのことなのだが。--Leonidjp会話2017年6月6日 (火) 23:42 (UTC)[返信]
報告 上記2017/06/06 23:42(UTC)から二ヶ月ほど経ちましたが、そこで指摘されている問題点は解決していません。--Leonidjp会話2017年8月4日 (金) 10:31 (UTC)[返信]

2017-05-15

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こちらについて。

  • 下記の部分、削除。理由:yamaをMadhyamāから分割して翻訳できることの根拠が、出典を伴って示されていない。「語尾」とあるのは、①サンスクリット文法における語尾のことを指すのか、それとも、②たんに「語末を含む部分」という意味で語尾と言っているのか不明。③①であることの出典はない。④もし②なら、切断の位置がyであることは切断者の恣意でしかないので、切断行為および、切断後のyamaの語義が、「中道」を解説することと如何なる正当な関係や必要性をもつのか不明となる。切断の、文法的正当性も不明。③④により、これは当記事に載せるべきではないし、載せる必要がない。
    • Madhyamā の語尾 yama は二子(双子)や[[閻魔]]([[閻魔#インドの「ヤマ」|ヤマ]])を指し<ref>[http://spokensanskrit.de/index.php?tinput=yama&script=&direction=SE&link=yes यम (yama)] - Spoken Sanskrit Dictionary.</ref>

以上。--Leonidjp会話2017年5月15日 (月) 00:18 (UTC)[返信]

2017-05-18

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この編集について。下記の部分、削除。理由:①madhyamaが連語もしくは複合語であることの出典が無い。②かりに連語もしくは複合語であったとしても、madhyamaがmadi/mahIとyamaによる連語または複合語であることの出典は無い。madhとyamaとの連語や複合語であることの出典も無い。③ ②により、madhyamaの分割の位置がyであることは分割者の恣意にしか基づいていない。従ってこの分割の文法的正当性は示されていない。④madi/mahIが、yamaと「連語もしくは複合語」の関係になった途端にmadhに変化することの文法的根拠(出典)も挙げられていない。⑤Madh-yamaという「連語もしくは複合語」の存在そのものの出典が無い。madiyamaやmahIyamaという語の存在自体の出典が無い。⑥ ①〜⑤により、madhyamaをmadi/mahIとyamaに分割したうえで分割後の語義を述べることが、中道を解説することに如何なる正当な関係及び必要性をもつのか不明であるため、この部分は載せる必要が無く、載せるべきでもない。madhとyamaに分割した場合も同様。

    • [[連語]]もしくは[[複合語]]として見た Madh-yama (मध्यम) の madi (मदि) または mahI (मदि) には「ある種の農機具([[まぐわ]]や[[鋤]])」の意味があり<ref>[http://spokensanskrit.de/index.php?tinput=madi&script=&direction=SE&link=yes madi (मदि)], [http://spokensanskrit.de/index.php?tinput=madI&direction=SE&script=HK&link=yes&beginning=0 mahI (मदि)],  - Spoken Sanskrit Dictionary.</ref>、yama (यम) には「[[閻魔#インドの「ヤマ」|ヤマ]]([[閻魔]])」の意味がある<ref>『仏尊の事典』 関根俊一著 (学研)。</ref>。仏典では[[畜生]]の胎内にヤマ(閻魔)の世界があると説く<ref>『<small>ブッダ</small> 神々との対話』 中村元訳 (岩波文庫) 第Ⅰ篇 第五章 第九節二。
    • ※なお、参考までに言えば、spokensanskrit.deよりも遥かに情報量の多いであろう荻原雲来の漢訳対照梵和大辞典においては、二語以上より成る合成語は、語同士の接合部にハイフンを書いてあることが、辞典の冒頭(Ⅲページ)に述べられている(合成語というのが、IP利用者の言う「連語もしくは複合語」と同じかどうかは知らない)。ちなみに、この荻原の辞典でmadhyという5文字が並んだ形から始まる単語の筆頭にあるのはmadhyaであり(995頁)、そこからmadhyamaまでの間には、〈ハイフンとyamaを含む語〉は載っていない。なお、madhyamaより後は、madhyama-padaのようにmadhyamaの後ろにハイフンが付く語が載るので、この件には無関係となる。従って、もしもmadhyamaがmadi/mahlとyamaの「複合語」「合成語」と言いたい場合は、madiやmahIという見出し語付近にmadi-yamaとかmahI-yamaという語が載っているかどうかを調べればよいのだし、もっと直接に、madh-yamaが載っているのかどうかを調べてもよい。もしそれらが載っていたとしても、それらの語が、「中道」を意味する語と如何なる関係があるのかを出典を伴って言えないならば、結局は中道に載せる必要はないことになる。中道という漢語の原語にはyamaの直前にハイフンのある“-yama”という形は現時点ではみつかっていないことに留意すべき。またもしそれらの語が辞典等に載っていないなら、それらの語はその存在自体が出典によって裏付けられていない単なる造語ということになり、従って仏典や仏教用語とは関係がない。
    • ※他の記事でこれと同様の仕方で語の分割を行っても、同じロジックにより掲載に反対できますので、覚えておいてください。

以上。--Leonidjp会話2017年5月18日 (木) 00:12 (UTC)[返信]
下線部を追記。--Leonidjp会話2017年5月18日 (木) 00:32 (UTC)[返信]
取り消し線と下線で訂正。--Leonidjp会話2017年6月4日 (日) 02:50 (UTC)[返信]

2017-05-23

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中道#中道の用法の節で一次資料のみを出典としている記述についての問題点の指摘を、記事本文に記入しました(差分)。問題点の多さと深刻さについて周知したいため、ここでもお知らせしておく次第です。指摘内容は、この差分をご覧ください。

なお、指摘内容のうち「妙法蓮華経文句」という経文に関係する部分は、ノート:中道#検証もご参照ください。--Leonidjp会話2017年5月23日 (火) 05:46 (UTC)[返信]

報告 四禅菩薩見性ヴィパッサナー瞑想正覚浄土教でも、仏典の原文のみを出典とした記述について個々に問題点を指摘しておきました。--Leonidjp会話2017年5月24日 (水) 07:59 (UTC)[返信]

5月27日編集理由

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梵行者とバラモンの関係について

「梵行者」の原語はブラーフマナに違いないが、このページの目的ではないので除去した。

二明・三明の記述が出典にない等について

そもそもこの出典は、中道は政治用語の中道と違って、二辺を前後の関係で捉える行道であるということを記述した際の出展である。Leonidjpがその記述を分断してしまったため、そぐわない出典となったのであった。冒頭文を引いた所行道ぐらいはつけさてもらう。

声聞或いは独覚が退入する地について

何らおかしくはない。中道とはの文節レベルの説明が重要なのであって、主語が何かは問われない。また、声聞或いは独覚が退入する地は、声聞から独覚に相を移す地と考えれば無上正等菩提でいいのである。なぜかは「三藐三菩提」のページに記述されているとおり。奇しくも、そこでのLeonidjpの[疑問点]も無効である。

所作と「作する所」について

「作する所」でも一向に構わないが、文章にしにくいから所作をとしただけである。日本語で「所作」というと軽く見られるため、冒頭文に従って(行道)を括弧つきで付加したのである。

悪鬼境界の二辺について

二辺悪鬼境界としても同じこと。以降の文はより踏み込んだ記述で、中道を越えた記述なので削除した。--118.83.136.55 2017年5月27日 (土) 12:15 (UTC)[返信]

>>Leonidjpがその記述を分断してしまったため、そぐわない出典となったのであった。
コメント 証拠も挙げずに他人のせいにするという論述には抗議する。誰それが何々した、と言うなら証拠を挙げよ。
>>何らおかしくはない。中道とはの文節レベルの説明が重要なのであって、主語が何かは問われない。
コメント 「中道とは、声聞や独覚が退入する地である」などと主張したら(本文はそうなっていたのであるが)、その声聞や独覚が「退入」という動詞の主語であるのであり、それを主語とする語義が中道の語義であるという主張になってに含まれてしまうのだから、中道の語義において「退入の主語が何かは問われない」などとは全く言えない。退入の主語を「声聞あるいは独覚」と名指ししたのは執筆者なのだから、その名指しは出典に照らして適正なものかどうかが「問われる」ことになるのは当たり前であり、まさにここで「問われて」いるわけである。「問われない」などと言い張っても無駄である。私が執筆者に問うているのだから。また、退入の後ろにある名詞のうち「地」だけが退入の目的語になっていて声聞と縁覚は主語にされているのはなぜか、という疑問には何ら回答がない。
>>また、声聞或いは独覚が退入する地は、声聞から独覚に相を移す地と考えれば無上正等菩提でいいのである。なぜかは「三藐三菩提」のページに記述されているとおり。奇しくも、そこでのLeonidjpの[疑問点]も無効である。
コメント 「と考えれば〜いいのである」は二次資料による裏付けの無い独断なので独自研究に該当することが明らかになった。「発表済の情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈」である。それを「信頼できる情報源において未発表の説」と言うわけであり、経文の原文が「未発表」なのではない。(だから従って、経文の原文を二次/三次資料なしで解説した文はすべて「信頼できる情報源において未発表の説」に該当する。解説ではなく紹介です、などと言い張ってみても、紹介としてさえ不審な点があれば突っ込まれるのは当然のことだし、突っ込まれて回答できなければ「不審な紹介」とか「紹介と称する不審な解説」として認知されるのも避けられない。)なお、「三藐三菩提」のページがWikipedia記事なら、Wikipedia記事は別記事の出典にはできない。
>>「作する所」でも一向に構わないが、文章にしにくいから所作をとしただけである。日本語で「所作」というと軽く見られるため、冒頭文に従って(行道)を括弧つきで付加したのである。
コメント 国語辞典で「所作」をひいても「作する所」などという語義はなかろう。とすれば、この二語は同義語ではないのだから、勝手にこの二語を等置と見なしてよいわけはないし、「所作」や「作する所」と「行道」との相互関係を説明している出典は無かったはずである。「行道」が中道の語義だと言っている二次・三次資料はないし、所行道というのも、二次・三次資料に従えばpratipadの漢訳として荻原の梵和大辞典に挙げられているだけであって、「中道」の語義だと言っている二次・三次資料は無い。また、記事の冒頭文にあるのは「(所)行」というこれまた丸括弧で曖昧化された名詞であって、そこには「所作」などとは書かれてない。--Leonidjp会話2017年5月30日 (火) 04:00 (UTC)[返信]
下線と取り消し線で加筆、修正。--Leonidjp会話2017年5月30日 (火) 10:19 (UTC)[返信]
補足する点があるとすれば、「『中道を終に不す』ものの主語は問わない」と言っているのであって、中道とは何かを説明している「退入聲聞或獨覺地」で十分だという意味である。それ以外、Leonidjpの言い分はほとんど言い掛かりに近いものです。
※↑この、署名の無い書き込みは、利用者:118.83.140.65によるものです。(参照)。--Leonidjp会話2017年5月31日 (水) 23:46 (UTC)[返信]
「言いがかり」というなら、どこがどう言いがかりなのか具体的に説明できなければしょうがないですね。「言いがかり」とラベルを貼れば済むような問題ではないので。それから、また「問わない」などと言っていますが、この出典たる経文のこの部分は、何を主語としているのか、と現実に問うているのは私です。出典が主語として置いているものを無視して、出典が主語として置いていないものを主語と認定してしまったら、出典の読み方として誤読です。誤読に基づいてWikipedia記事を書くことが正当化されるわけがない。まあそもそも、一次資料を二次資料なしで解説している時点で独自研究にあてはまるのでアウトです。何度も複数の人から説明されているように。--Leonidjp会話2017年5月31日 (水) 23:21 (UTC)[返信]
>>「『中道を終に不す』ものの主語は問わない」と言っているのであって
コメント それは、この件に対する応答になってません。私は、「声聞あるいは独覚が退入する地」という読解の、その退入という動詞の主語を声聞と独覚に決めることがなぜ正しいのか、と質問してますので。--Leonidjp会話2017年5月31日 (水) 23:28 (UTC)[返信]
それから、この利用者:118.83.140.65というIP利用者が、Leonidjpと利用者:Doomreaperさんの名前を出して、この二人がソックパペットの疑いがあるだの、Leonidjpの編集態度が不当だのと、具体的な証拠も挙げずに管理者のノートページに注進しに行っているのを見ました(参照)。予め言っておきますが、(管理者を含めて)他人を説得したいなら、具体的な証拠は当然必要ですし、証拠らしきものを出すだけでは合意ができない場合(証拠の評価が人により一致しない場合)は、どの証拠が何に該当しているのかということをあなたが論述しなければなりませんので、例えば「Leonidjpは荒らしだ」などとラベルを貼るだけでは、管理者の説得など無理です。それから、むかしWikipediaのどこかで読んだ記憶がありますが、証拠が無いのに他人をソックパペットと呼ぶことは禁止事項に定められていたような覚えがあります(どなたかご存知ないですか?)。--Leonidjp会話2017年5月31日 (水) 23:45 (UTC)[返信]
報告 (ウォッチリストに入れている人が少なそうな記事なので、ここで報告しておきます)。三悪趣においても、一次資料のみを出典とし且つ出典不足な記述を載せようとしているIP利用者の編集が行われています。--Leonidjp会話2017年6月3日 (土) 23:28 (UTC)[返信]
要するに利用者:Leonidjpは、中道は三悪趣、少なくとも畜生道と密接に関わりがあると言いたいのだろう。本当はそのことだけ主張したいのではないか? 自分で編集するのが嫌なのなら、私が関連項目に反映してあげよう。どうせ除去するつもりだろうが。--118.83.156.158 2017年6月6日 (火) 17:36 (UTC)[返信]

中道が畜生道と関係がないと言っている人はいないので、畜生道が中道の関連項目に載っていても構いませんが、除去したい方がおられたら、ご随意に除去してください。--Leonidjp会話2017年6月6日 (火) 23:10 (UTC)[返信]
利用者:Leonidjp は、中道や中観を論じたり研究したりすることは、畜生道を論じたり研究したりすることと大差ないという考えの持ち主なのであった。はからずも、大乗経典が「二辺だけではなく、中道をも離/出/捨/滅」しなさいという記述を多出させるのは当然のことなのである。そのことに異論を唱える方がどうかしている。それもまた Leonidjp の「Wikipedia:荒らし#分かりにくい荒らし」なのであった。--118.83.156.70 2017年6月7日 (水) 17:09 (UTC)[返信]

>>利用者:Leonidjp は、中道や中観を論じたり研究したりすることは、畜生道を論じたり研究したりすることと大差ないという考えの持ち主なのであった。はからずも、大乗経典が「二辺だけではなく、中道をも離/出/捨/滅」しなさいという記述を多出させるのは当然のことなのである。
コメント 何かまたIP利用者氏がこのように結論だけを投げ出しておられますけど、この「大差ないという考え」をLeonidjpが主張したことは無いですね。私は「畜生道と中道が関係ないと言っている人はいない」と書いただけなので(参照)。それで、IP利用者氏がこの編集でテンプレートを除去した理由がソレであるようです。まあ全体としてこのIP利用者がこの書き込みで何を言いたいのか理解できないので、このテンプレート除去の理由は他人に理解可能なものになっていませんから、テンプレートは戻しておきます。この書き込みを理解できる方がおられたら、解説をお願いします。
コメント まあ、Leonidjpの内心がどうであろうと、「仏典の原文にある三文字の字の並びの読み方が二次資料で確認されてない」という指摘内容(それがテンプレートの指摘内容ですが)の事実性には何ら影響がないのですが。
>>それもまた Leonidjp の「Wikipedia:荒らし#分かりにくい荒らし」なのであった。
コメント 「分かりにくい荒らし」と呼べば直ちに相手がそのように認定されるというわけではないのだから、呼ぶだけでは何にもなりませんよ。Wikipedia:荒らし#分かりにくい荒らしというページに書いてあることに該当してなければ無関係なのだから。--Leonidjp会話2017年6月7日 (水) 23:16 (UTC)[返信]
この問題のテンプレートについては#2017/06/04-3にも指摘してあります。Leonidjpの人物像をイマジネーションの中で作り上げて発表してみたところで、このテンプレートが指摘する問題は何にも解決してませんので、テンプレートを勝手に剥がさないようにお願いします。--Leonidjp会話2017年6月7日 (水) 23:57 (UTC)[返信]
かくして、利用者:Leonidjp は、中道や中観を論じたり研究したりすることは、畜生道を論じたり研究したりすることと同義であるという考えの持ち主であることが明らかとなった。--118.83.141.75 2017年6月9日 (金) 17:53 (UTC)[返信]
「同義」という日本語を理解していないようです。--Leonidjp会話2017年6月9日 (金) 23:17 (UTC)[返信]
利用者:Leonidjp は、中道や中観を論じたり研究したりすることと、畜生道を論じたり研究したりすることとの違いは、観点の違いだといっているようだ。--118.83.141.75 2017年6月10日 (土) 16:56 (UTC)[返信]
「言う」という日本語が身についていないようです。--Leonidjp会話2017年6月10日 (土) 22:59 (UTC)[返信]

サンスクリットについて

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中道で出典に使われている『漢訳対照梵和大辞典』の995頁には、

madhyama-pratipad [女] [漢訳] 中道,中行

と書いてあるのですが、これが「中道」の原語もしくは漢訳として中道の記事に採用されてないのは、なにか理由があるのでしょうか?  なお、[女]というのは女性(名詞の性でしょう)を指しています。--Leonidjp会話2017年5月14日 (日) 00:00 (UTC)[返信]

また、同辞典の995頁のmadhyamaの項目では、madhyamaの訳と漢訳が記述された後に続いて、5行目に、

〜ā pratipad 中道,中道(行),中道義,中行道 ; 中部[=音階中の第四または第五音] ; [三音階中の中央のもの]; [中位国の君主]; 第二人称(文法語); 〈漢訳〉 [音階の名]中令, 中婦. 身体の中央部,腰.中央 ; 子午線.

という訳および漢訳が記述されています(名詞の性は省略しました)。これが中道の記事に採用されていないのは何か理由があるのでしょうか?--Leonidjp会話2017年5月14日 (日) 09:32 (UTC)[返信]

報告 総合佛教大辞典p.997には中道はmadhyamā pratipadの訳だと書いてあります。岩波仏教辞典第一版p.574および広説佛教語大辞典p.1183も同じです。--Leonidjp会話2017年5月14日 (日) 09:48 (UTC)[返信]