ノート:ハモ/過去ログ1
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個人的記憶による方言除去
宮城方言についての記述をIPユーザーが繰り返し除去しておりますが、個人の経験にもとづいて私は知らないというのは、除去の理由になりません。ウィキペディアの記述は、Wikipedia:検証可能性の方針にもとづくことが求められます。個人の記憶でこうだと確信できていても、ウィキペディアの編集では、『宮城県史』のような書籍に記されたことを否定する力はないのです。ウィキペディアは匿名の人が自由に書き込める方式で作っていますので、その個人の確信を安易に信用すると、悪意のデマの混入を防げないという事情もあります。しかるべき典拠にもとづかずに除去編集を続けられますと、荒らしとみなさざるを得ません。各地の方言については研究の蓄積がありますから、どうぞそれらを調べてから修正してください。--Kinori(会話) 2015年12月6日 (日) 05:04 (UTC)
- 「時期が明示されない 民俗学的に合理性がない 穴子の項との整合性が無い 傍証がない 何故これにこだわるのか。恣意性が認められる」と要約欄に書いてまた除去されましたが、私にはこの指摘のほうが理解できません。『宮城県史』を参照されましたか。他に何か文献に当たりましたか。--Kinori(会話) 2015年12月7日 (月) 12:07 (UTC)
論証は掲載する側にあるでしょう。宮城県史の佐々木某の記述以外に、傍証があるのでしょうか。宮城県史だから正しいというなら、それは権威主義としか言えないでしょう。資料が少ないという事情はあるでしょうが、不正確なことは記載すべきではない。それこそ悪意のデマの混入を防ぐ立場の基本的な考え方になると思います。意外と権威主義なんですね。この論争は、ささやかなものながら、ウィキペディアの本質に関連する問題になるでしょう。--以上の署名のないコメントは、240d:2:101:3a00:1875:d35f:b91f:f973(会話)さんが 2015年12月7日 (月) 12:22 (UTC) に投稿したものです(コメントの最後に--~~~~と書くだけで自動的に署名できます。--Triglav(会話) 2015年12月8日 (火) 10:29 (UTC)による付記)。
- 私は権威主義とは呼びませんが、それがWikipedia:検証可能性が採用している方針です。『宮城県史』で佐々木喜一郎氏が記したことと、IP氏や私の意見を比べるなら、佐々木氏のほうが上なのです。否定するなら別の資料をもってきてください。--Kinori(会話) 2015年12月7日 (月) 13:11 (UTC)
- 議論拝見しました。。確かにIP様のおっしゃられるように、どのくらいの年代や地域的な分布などかなど不明な点もあります。私は宮城県の方言研究はまったく知りませんが、果たして郷土文献を悉皆的に調査した記述であるのか疑問でもあります。
- そこで、折衷案として、「仙台ではアナゴのことをハモあるいはハムといったとされる」あるいは、「佐々木喜一郎は1956年(1987年?)時点で仙台ではアナゴのことをハモあるいはハムといったとする事例を報告している」としたら如何でしょうか。このような形にすれば『宮城県史』もしくは佐々木氏の見解は紹介しただけで、これが妥当である見地には必ずしも立たないというニュアンスになります。
- IP様の考える問題意識自体は重要であろうと思います。宮城県にお住まいの方なのか存じませんが、地元の方でしたら郷土文献にアクセスしやすいでしょうから、これを機に文献を調査されてみては如何でしょうか。--でここ(会話) 2015年12月7日 (月) 13:40 (UTC)
- (追記)宮城県立図書館のHPで宮城の方言について検索してみたのですが、思いの外文献や論文などが多数ある様子です。ざっと検索した限りでも同じ佐々木氏によるこちらの論文や1960年代のこちらの論文などが確認されます。これ以上は調べませんが、どうも調査すればもっとはっきりしたことがわかってくると思いますよ。--でここ(会話) 2015年12月7日 (月) 13:53 (UTC)
初めてログインという操作をしました。まず、繰り返し基本を述べますが、佐々木氏が県の委託者であり漁師でないと仮定して間違いないでしょうから、伝聞情報であり、したがって二次情報であると考えられます。二次情報を扱う以上、複数の情報を検討し判断するのが基本中の基本です。ところがKinoriさんは宮城県史に執着されます。しかし、Kinoriさんの記述では佐々木氏の引用のひとつ前の引用は『日本おさかな雑学研究会 『頭がよくなる おさかな雑学大事典』 p.73-74 幻冬舎文庫 2002年』となっていますね。幻冬舎文庫ですよ。とてもいかがわしい、キオスクでポルノ売っているような文庫と並べられた佐々木氏は、なんと評したらよいのでしょう。いかがわしいです。佐々木氏はそのような方ではないと思いますが、Kinoriさんの引用の仕方にはいかがわしさを強く覚えます。 文章も唐突です。そんな状況で幻冬舎文庫を「しかるべき典拠」と自賛し、「佐々木氏のほうが上なのです」と言うのは厚顔無恥と思います。並べられた佐々木氏に失礼です。
私は、何も記述していません。ただ不正確な記述にダメ出ししただけです。それを悪意のデマの混入と称される状況を悪しき権威主義と言わずしてなんというのでしょう。
さて、『宮城県史』を読んだかとの問いがありました。佐々木氏の文献については、ネット検索では簡単に閲覧できないようです。国会図書館にはあるようですが。現在は宮城県に住んでいない私としては、最速の手はないようです。これを読めとは酷なことをおっしゃいますね。 ちなみに第三者でここさんが指摘された文献も、ネットでは閲覧できませんでした。 とはいえ、傍証を揃える義務は私にではなくKinoriさんの側にあることを繰り返し強調します。そう、問題の文書を掲載したのですからね。もし論証責任は無いと主張されるならば、私もそっくっり真似させていただきます。Kinoriさんのところに書き込みをして、出典を示せばいいわけですから。幻冬舎文庫ネタはいかがでしょうか?
私のささやかな記憶のルーツは、震災で消滅した、閖上という、漁港と水産物加工の街にあることを明記しておきます。この記憶が津波と同じように権威主義のもとに消し去られることに強い反感を覚えます。権威主義者は大津波は来ないと重々しくご宣託し、そして無策を決め込みましたね。市民が異議を唱えれば、報告書に書いてあるだろう、それを読んでから文句を言えと・・・報告書には地震の想定に上限がありトリックなんですが・・・私だって貞観地震のこと、沿岸部でのボーリング調査結果も知っていたのに。知らないふりをし、震災後は想定外とのたまい、建設利権に血まなこになる。それが権威主義者の本性ですね。同類です。
第三者でここさんの提案についてはまだ諾否を明らかにする時期にないと思います。輪郭を明確にしたいです。
追伸です 先ほど誤字がたくさんあり失礼しました。修正とついでのコメントです。「Wikipedia:検証可能性」について、要求しているのは出典を明らかにせよということです。それはそうです、出典の明らかでない話は議論のしようもないですからね。出典を明らかにしたら義務が果たされたわけではありません。ここから議論が始まるのです。出典が明らかならば、それで権威主義に浸れるというのはなんとものんきな話ですね。例えば『日本おさかな雑学研究会 『頭がよくなる おさかな雑学大事典』』が出典だというのは、いかがでしょうか、むしろいかがわしさが加速していませんか。「Wikipedia:検証可能性」が要求しているのは、最低限の議論の場を提供できるような書き方をしなさい。ということです。それ以上でもそれ以下でもありません。これを錦の御旗のように扱う方がいることに驚きました。格好の権威主義のサンプルを頂きました。--以上の署名のないコメントは、GarnetiteCat(会話・投稿記録)さんが 2015年12月7日 (月) 20:43 (UTC) に投稿したものです(コメントの最後に--~~~~と書くだけで自動的に署名できます。--Triglav(会話) 2015年12月8日 (火) 10:29 (UTC)による付記)。
◎◎「仙台ではアナゴのことをハモあるいはハムといった。」という一文の意義について◎◎
昨日の書き込みは、情に偏ったものでしたので、私のKinoriさんへの異議の内容を再構成してみたいと思います。私はウィキペディアの操作に習熟していないため、初期の書き込みは文章量の制限を回避できなかったという経緯があります。加えて「個人的記憶による方言除去」とレッテルを貼られ、実態としては個人的記憶の抹消を計られたり、「悪意のデマの混入」、「荒らし」等、ウィキペディアの世界の悪行を一身に背負わされるような表現をされたりして、強く怒りを覚えたためでした。これについては昨日の記載しましたのでここでは再論しません。幾つか論点を提示します。
最初の前提。ウィキペディアの意義。ウィキペディアは議論の場です。草の根的な議論を通じて、知識を蓄え公開すると言うのが根本理念です。自分が記載したことを奢り、議論を権威的に抑えこむなど、理念からの乖離が甚だしい、醜悪なものです。ウィキペディアを私物化しようとする人物に、ウィキペディア世界での居場所は無いと思います。
第二の前提。議論の相手は誰なのか?問題となっている鱧の項について、Kinoriさんが記載者側として応答していますが、通常は議論によって成稿を得るというのがウィキペディアの根本的なスタイルです。残念ながら私は過去の議論を承知しておりません。ですからKinoriさんが鱧の項の全体に関し責任のある方なのか、問題になっている「仙台では・・・」の一行のみの担当なのか判然としません。しかしKinoriさんの記述スタイルからすると、鱧の項全体に責任を持っていらっしゃるようですので、この点には踏み込まず議論を続けます。
そのように前提すると、現在の状況はかなり奇妙であると言わざるを得ません。何故なら日本語版ウィキペディアの鱧の項に関する議論を、鱧が生息しないと記載者がまさに書いているその土地に関連して論争しているからです。宮城県出身で宮城県在住と思われるKinoriさんと、同じく宮城県在住と思われる第三者でここさん、そして宮城県出身で現在宮城県に在住していない私の書き込みで、議論しているからです。 Kinoriにさんついては、ご自身は魚類に関する知識はおぼつかないとしか思えない状況です。引用の仕方にも知性が存在するのですが、引用が卑しいのは、某魚類図鑑にとどまりません。これは一体何と理解すればよいのでしょう「岡嶋(2014)、p.70」何か欠落していますよね。
日本全体にとって「仙台は」の問題の文章は、ゴミのようなものです。むしろ、日本全体から見ると、あの文章は突出しており、他の地域には触れず、「仙台では・・・」と突如記載することの不公平さが印象に強いのです。「仙台では・・・」と書いたことに日本全体に関連する学術的意義があれば、それを記載するべきです。それがなくて、突如仙台ではと書き込むことになんの意義あるのか。宮城県人の通弊として宮城とは言わず仙台と言いがちですが、その田舎臭さも含め、この一文は、宮城県出身者の恣意的な挿入ではないのか。いわゆるお国自慢のたぐいではないのか。という深刻な疑問に、なにも答えてくれません。ただ宮城県史に書いてあるなどと極めてローカルな話をして済まされる問題では無いのです。我々は宮城県の民俗について議論しているのではありません。それは側枝でしかありません。
第三の前提。文章的な関連性。問題の文章の二行前は、「地方名にハム(広島県)、スズ(徳島県)、バッタモ(京都府丹後地方)、ウニハモ(福井県)など。」とあります。まず地方名は、広域です。ところが問題の文章では、「仙台では」と文頭に狭い地域名称が出てきます。大体仙台市域には有力な漁港がないのです。このいやらしさは前述しました。特筆すべきは「ハム(広島県)」です。この後に仙台では穴子のことをハモあるいはハムといった。という文章が続けば、広島と仙台の関連性にどうしても興味をいだきます。しかし何も記述はありません。このように問題の一文は孤立しています。
第四の前提。穴子の項との対比。今回の問題は鱧の項に記載された一文が問題となっています。しかし、その内容は穴子に関するものです。そこで、相互連携を確認するべく穴子の項を見ても、対応する文章はありません。つまり、「仙台では・・・」の一文は何重にも浮いているのです。論旨から逸脱しますがウィキペディアの穴子の項を見ますと、穴子の成体は顎の力が強いらしいので、細長く顎の強い(噛みつく)大きな穴子を鱧の同類として呼称することは、有り得る話だなと思う程度です。
第五の前提。私の記憶。一個人の記憶です。ここだけ仙台市の話になります。私が知っていることは、少なくとも穴子は穴子と呼ばれていたということです。生きている穴子を捕まえたこともあります。アナゴは子供の時のラグーンでの遊び相手です。潮干狩りのついでですがね。ただ、ハモと呼ばれる魚の加工品(一夜干し)が販売されていたことを知っています。しかし骨切りの様子はなく単に開いて串を打って加熱し、少し干したもので、うなぎの蒲焼きと同類の形状でした。食べても骨が気になるということはありません。もちろんアナゴと呼ばれるものも同様な加工をして売っていました。ハモと呼ばれるものより小ぶりです。現在の保存・調理法とは違いどちらも塩気が強かったと思います。ここからは推測ですが、ハモは大型の穴子だったのではないかと思います。「しょいこさん」が行李にいれて行商する際に重量を減らすために干してあるようでした。でもコレいらないですね。--GarnetiteCat(会話) 2015年12月8日 (火) 11:52 (UTC)
補註 第五の(議論の)前提(議題)ですが・・・「でもコレいらないですね」というのは理の観点からです。情の観点からはこれが核心となります。--GarnetiteCat(会話) 2015年12月8日 (火) 13:54 (UTC) 何度か推敲しました。--GarnetiteCat(会話) 2015年12月8日 (火) 16:21 (UTC)
すいませ~ん。反論も弁明もないので、毎夕呆れ返っています。思わず推敲しちゃうし。このまま当事者が沈黙を決め込んだ場合、どう処理されるのでしょう。--GarnetiteCat(会話) 2015年12月9日 (水) 09:16 (UTC)
推敲は暇つぶしにしていますが、論旨は変えていません。もちろん渇望する反論・弁明が入稿されれば、時系列的に混乱を招きますから、その後は文章は変えません。私が声を大きくして言いたいのは、それだけ焦れているということです。私は、怒って振り上げた手をどうしたらいいのでしょう。問題を提示する以上、可能な限り即応できるようにするのがネットの礼儀と思い、ここ数日過ごしてきました(手ぐすね引いて待っていました)が、はかばかしくありません。上位の管理者に相談するべきでしょうか?ウィキペディアのプロトコルは詳しくないので騒動にしちゃっていいのだろうかと逡巡します。あっもう騒動ですか。 でも、Kinoriさんが事を収められないというこはKinoriさんにとって不名誉この上ないことですね。現実社会のお立場は知りませんが、ウィキペディアの世界でもお立場はあるのですよねぇ。今更、数日留守にしてましたぁ的な弁明は通用しませんよ。--GarnetiteCat(会話) 2015年12月9日 (水) 09:53 (UTC)
- 横からですがコメントを。1、Wikipediaは議論の場ではありません。WP:NOTOPINION。議論は記事の推敲や意見の対立の解消のための手段であり、Wikipediaの主目的ではありません。2-1、記事に「担当」はいません。主執筆者はいるかもしれませんが、担当ではありません。Wikipedia:記事の所有権。2-2、「筆者(n年)」などの記述法はハーバード方式と呼ばれるものです。もっともこの記事の場合アンカーへのリンクがないため不親切ではありますが。2-3、宮城ローカルの慣習なり通例なりは存じ上げませんが、地方名的に仙台地域以外で他の魚を「ハモ」と呼ぶ例がないならば、仙台に関する記述が孤立するのは致し方なしではないでしょうか。3-1、地域を宮城に改めてください。3-2、広島での地方名を記述した後に別の魚の地方名を記述せよ、とのことでしょうか。すると次に徳島の地方名が記述され、複数種の魚に関する地方名が入り乱れることとなり、混乱を招くと思います。4、穴子の記事に地方名に関する記述が無いのなら、書き足せば済む話です。5、あなたがどのような経験をしてきたのかは存じ上げませんが、ご自分の経験を根拠にしないでください。Wikipedia:独自研究は載せない。どうしてもご自分の経験を発表したいなら、Wikipediaではなく、ブログなど然るべき場でお願いいたします。自由に書き込めるウェブサイトはWikipediaだけではありません。最後に、いわゆる即レスはWikipediaではそれほど求められておりません。Wikipedia:合意形成では1週間とありますが、そのくらい待ってください。手を振り上げる必要はありませんので、気楽にお待ちください。私からのコメントは以上です。--【会話】Ccgxk【投稿記録】 2015年12月10日 (木) 16:11 (UTC)
Ccgxkさんご指摘いただきありがとうございます。 コメントの1についてはご指摘のとおりです。勇み足で失礼しました。ここまでの流れでお分かりの通り、意見の合致しない点について、きちんと議論することを強調したく。あのような記述となりました。 コメント2-3ですが。「地方名的に仙台地域以外で他の魚を「ハモ」と呼ぶ例がないならば、」とお書きになっているまさにそのことが問題となっているのです。例がないことをKinoriさんの手法で証明するためには、全国各県の「県史」を悉皆調査することになります。Kinoriさんがそれをやっているのならこのような揉め事にはなっていないのです。 3-2や4について、思うのですが、魚類を記述する場合のルールは無いのでしょうか? ご指摘の「書き足せば済む話です。」ですが、私はその論法には同意できません。無限の増殖を可能にする論法です。 5については同意いたします。繰り返しになりますが、いりませんね。--GarnetiteCat(会話) 2015年12月11日 (金) 10:35 (UTC)
- コメントありがとうございます。まず魚類記事のルールは有るのか?の点について。Wikipediaでは特定のジャンルの記事に関するルール決めなどを行うプロジェクトというページがあります。どうもプロジェクト:魚は無いようなので、プロジェクト:生物、そして参考までにプロジェクト:鳥類を見てみたのですが、地方名に関するルールはありませんでした。さて、問題の「これいる?」ですが、先行議論としてノート:アラを挙げておきます。これを見ても地方名は決して不要な記述とは見られていない、むしろ閲覧者向けに重要な情報と考えられているように思います。私の意見としては、いります。--【会話】Ccgxk【投稿記録】 2015年12月11日 (金) 13:30 (UTC)
Ccgxkさんコメント有難うございます。 まずノート:アラについては貴重な資料でありますので、熟読させていただきたく思います。
次に「コレいらないですね」問題を見てみます。私の言葉足らずで、大変失礼しました。主語「コレ」の指すものは、「私の個人的記憶」として書き込んだ内容です。問題のKinoriさんの一文もしくは「魚類の地方名」ではありません。
最後に、Ccgxkさんのご意見ですが、魚類については明確な記述ルールが無いが、「魚類の地方名」については掲載したほうが良いのではないか。ということですよね。
そうだとすれば、私も基本的には同意します。ただし実際は困難な問題があるように思います。民俗学的な問題になるなるのでしょうが、名前の問題、地域間の関連性、地域の特性等思いつくだけで泥沼になりそうです。漁労民に関する問題なので、黒潮であるとかそのような観点も出てくるでしょう。そのような問題をメインテーマにした著作があればよいのですが・・・無いのでしょうか? とにかく、片手間ですむような話ではないと思いますし、簡単に解決するならこのノートは存在しないわけです。--GarnetiteCat(会話) 2015年12月12日 (土) 11:34 (UTC)
- そういう便利な情報があれば一番なのですが、それが見つからないからあの一文だけなのかな、と。とにかく、おっしゃる通り「片手間で済む話ではない」ので、宮城や仙台の民俗、あるいは魚類全般のどちらにも明るくない私としては、如何ともし難いです。--【会話】Ccgxk【投稿記録】 2015年12月12日 (土) 14:52 (UTC)
お返事が遅れたのは、図書館に行ってから書こうと考えたからです。1987年の阿部宗明監修『原色魚類大圖鑑』96ページには、マアナゴのいくつかの地方名の中に、ハモがあります。また、1989年改訂13版の『原色魚類検索図鑑』Iの316ページで、はもが北海道・東北地方・山陰地方でまあなごの地方名だとされています。本文は、後者に従い、ハムを加える形で修正するのがよいと考えます。
ここまで指摘された理由は「仙台ではアナゴのことをハモあるいはハムといった。」という一文を除去する理由にはなりません。『宮城県史』がいかがわしい本だというなら、この一文を除去する理由になるでしょう。しかしGarnetiteCatさんは、『宮城県史』ではなく別の本をやり玉にあげています。関係ないです。(ちなみに、私がこの記事の中で書いたのは、この一文だけです。)
仙台市に大きな漁港がない(漁村はありました)としても、魚屋はありますから、魚の名も当然あります。仙台で呼ばれた魚の名は地方名でないということにはなりません。そもそも、昭和生まれ[1]の方なのでしたら、1956年にまとめられた記述を自身の記憶で否定することはできないでしょう。
でここさんは、この一文では年代や地域が不明だから妥当ではないとお考えのようですが、私には意図することがよくわかりませんでした。ゆえに佐々木喜一郎氏が個人の思い込みでいい加減なことを書いている可能性があり、本当は仙台でハモとは言わないのかもしれない、とお考えなのでしょうか。だとしたらそのように考えるべきではないと申し上げます。『原色魚類大圖鑑』は、どの地方とも書かずに名をあげていますが、だからといって記述内容が疑わしいということにはならないでしょう。『原色魚類大圖鑑』に列挙された名のいくつかが『原色魚類検索図鑑』に欠けているとしても、いっそ書かないほうがいいということにはならないでしょう。
信頼できる文献によって地方名の存在が確認できれば、その文献の内容をねじまげないよう忠実に記すべぎだと思います。つまり典拠とした文献に「仙台では」と書いてあるなら、仙台以外のことについて断定せず、単に「仙台では」と書くのが正しいのです。それによって、正しく仙台のことしか伝わらなくなります。「本当は仙台では言わないかもしれない」といったニュアンスを独自に想像して付け加えるのは、かえってよろしくないです。年代や広がりが不明なままでも、地方名としてハモが存在するというだけで、意味ある情報です。立派な図鑑が年代・地域を不明にしたまま地方名を掲載しているのはそのためでしょう。ウィキペディアは加筆ができるのですから、さらに調べて加筆するのはよいことですが、除去には及ばぬことと思います。--Kinori(会話) 2015年12月12日 (土) 16:21 (UTC)
◎◎お待ちしておりました◎◎
Kinoriさん。まず最初に、Kinoriさんが問題の一文以外は記載していないということでした。この点、了解しました。ではありますが、そういう非難を浴びる文章が現に存在し、この中に、ご自身の文章を割りこませたことは事実で、おさかな雑学大事典と並べて記載されているのですから、同類という印象は否めません。これまで編集の議論はなかったのですか?謎です。
私は、個人的記憶を、記載せよと要求したことは一度もありません。しかし、すでに記載された文章を評価するときに、私は私の記憶にも客観的情報にも照会し判断します。
仙台市域にも無論魚屋はあります。「仙台で呼ばれた魚の名は地方名でないということにはなりません。」全くそのとおりです。何も異論はありません。
さて今回指摘のあった仙台市域の10km程度しかない海岸線で、そこにも漁村があるという件、七北田川河口の蒲生のことでしょうか。その蒲生には日和山という丘があります。石巻にも同名の丘があります。これはいずれも漁労民が海の様子を観察する高所のことを呼ぶ言葉です。黒潮を伝って、人々が往来した痕跡であろうと思います。日和山は全国に分布します。これは一例ですが、漁労民の活動、その固有の文化の伝搬、という問題は、一つの市町村のエリアには到底収まらず、時には県のレベルさえも超えて、広域で考えなければならない問題であると思います。
それから、時代的変遷、私の年齢の範囲ばかりでなく、もっと広く情報を収集することが望ましいと思います。読者にとって利便性があります。
もちろんご指摘の通り、佐々木氏が記述した時点での状況の記憶は私にはありません。しかし、この論法は、20世紀初頭の状況の記憶は佐々木氏には無いということを、Kinoriさんが主張しているということにほかなりません。この議論を続ければ時代変遷はあやふやになるばかりです。
さて、最終問題。Kinoriさんの「信頼できる文献によって地方名の存在が確認できれば、その文献の内容をねじまげないよう忠実に記すべぎだと思います。つまり典拠とした文献に「仙台では」と書いてあるなら、仙台以外のことについて断定せず、単に「仙台では」と書くのが正しいのです。それによって、正しく仙台のことしか伝わらなくなります。」というご意見ですが。私は、なぜ仙台だけ掲載するのかという点を議論しているのです。
Ccgxkさんのご意見にはどう対応するのでしょうか。「3-1、地域を宮城に改めてください。」これは上位者としてのジャッジのように受け止めましたが、コメントなしですか?
小さな地域を問題にするならば、日本全体に関連する学術的意義を、つまり仙台でこう呼んでいるということが、宮城県人以外にとっても意義のあることだという記載の仕方をしなければいけない。「県史」という文献に基づいて論ずるというのなら、全国県史の悉皆調査が必要になりますよと、何かの折に書いたと思うのです。宮城県史の記述には、全国レベルの意識はないようですね。おそらく福島県でも岩手県でも同様だったはずなのに。
私は、アナゴがハモと呼ばれる事情について作業仮説をたてており、以前言及したと思います。ですから「1989年改訂13版の『原色魚類検索図鑑』Iの316ページで、はもが北海道・東北地方・山陰地方でまあなごの地方名だとされています。」に納得します。これをそのまま紹介すれば読者の利便性が良いと思います。仙台という極小地域を論ずるのは唐突であり、飛躍がありすぎる。と、繰り返し申し上げます。
最後に、私も図書館で調べるべきでした。ささやかな蔵書だけでなんとかしようとしたため、情報提供できず失礼しました。 (もう推敲しませんので誤字脱字はご容赦ください。)--GarnetiteCat(会話) 2015年12月13日 (日) 05:03 (UTC)
◎◎佐々木喜一郎氏に関する予備的作業◎◎ すいません、追加です。横浜の住人として、ネットでですが佐々木喜一郎さんに関し下調べを行いました。 1.神奈川県行政ネットによる全体検索。ヒットしませんでした約40の自治体もしくは大学の図書館です。宮城県史は神奈川県立図書館に一組。 2.Amazonによる検索。6件ヒット。魚関係は2件。この2件は「この本は現在お取り扱いできません。」。4件は岩沼関連。
次にKinoriさんが、「つまり典拠とした文献に「仙台では」と書いてあるなら、仙台以外のことについて断定せず、単に「仙台では」と書くのが正しいのです。それによって、正しく仙台のことしか伝わらなくなります。」と述べていらっしゃいますが、このことに首を傾げてしまいます。 元の文章は。カギカッコに収まっていませんでした。つまり、直の引用ではなく、佐々木氏の文章を要約したのだろうと思っていました。そうではなく直接の引用なのでしょうか、であるとすると書式がルール違反ですね。
とにかく、佐々木氏の原文をその前後も含めて読んでみたいと思うのですが。上述の通りネットでは捉えられない方なので、苦慮しています。--GarnetiteCat(会話) 2015年12月13日 (日) 08:28 (UTC)
◎◎中間的なコメント◎◎ 私が佐々木氏の文章を読んでみよう思うのは、それで私の論旨が変わる可能性があるからではありません。
佐々木氏が単なる「雑学的な」昔語りの存在なのか、学術的に努力された、いわゆる「信頼に値する」記述者なのか?という問題に関心を持ったからです。このように考えたのは、Kinoriさんの佐々木氏に対する姿勢に、熱い偏執のような思いを感じるからです。もっと下世話な言葉にすると・・・既に書きました。1950-1960年代、民俗学はその基礎を整えた時代だと思います。柳田國男、宮本常一、渋沢敬三といった先駆者が学問を切り開き、盛んに著作を発表していった時代です。この方たちの著述が出版される時代に、佐々木氏の著述も宮城県で発表されているのです。例えば渋沢敬三氏の場合魚類に関する著述があり、こちらのほうが真の興味を覚えます。そうではありませんか?
さて、宮城県史ですが、入手可能となりました。復刻版を借りることができそうです。もう少し時間がかかると思います。
それから、ハモをハムと呼ぶという問題について。単に母音が変化しただけですから、訛りの類です。仙台の独自性の論証にはなりません。広島でもこのように訛るのですよね。瑣末なことで、無視して良いと思います。少なくとも訛りについて論ずる項に譲るべきです。--GarnetiteCat(会話) 2015年12月14日 (月) 10:31 (UTC)
- まず、並べて書いてあるから同類というのは乱暴にすぎます。そのような論難はやめてください。
- この一文は、いくつか文字を変えたものの、参照元でもほぼ同じです。現在のこととして記されているのを、ここでは過去形に直しました。本を借りた時点でご自身の目で比較し、問題があるとお考えならWikipedia:削除依頼を出してください。私は、この短文に創作性はないと判断しています。
- 本題についてですが、仙台だけでよいという考えはありません。他地域のも調べがつきしだい載せてほしいと考えています。あなたが諸々の民族学者の書いたもの渉猟して加筆・修正するなら、私にとっても嬉しいことです。
- 反対がなければ問題の箇所を書き直したいと思うのですが、GarnetiteCat さんは「ハム」を書くことに反対なのですね。しかし、母音の変化など無視していいというお考えは、どういう民俗学者も、どういう言語学者も支持しないだろうと思います。母音だけが違う語があれば、同系統であることの証拠として注目されることでしょう。しかし無意味ではありません。かつ、この文は「仙台の独自性」について何も触れていません。GarnetiteCat さんは、「仙台で」という文を「仙台だけで」と読み替えておられるようですが、二つは同じではないのです。--Kinori(会話) 2015年12月17日 (木) 03:48 (UTC)
◎◎速報◎◎
1.マアナゴがハモと呼ばれることについて。
- 百科事典系、うんちく雑学系、類書・・・みなコピペしたみたいに、北海道・東北ではマアナゴのことをハモと呼ぶ。と書いてあります。
- ただし、秋田県では県としてのPRとして「男鹿半島のアナゴ」ことクロヌタウナギを押しており、この例に見られるようにいわゆる地域名についてはたくさんありそうな様相です。
2.ハモとハムにいて
- ハムは和名類聚抄にある古語とのことです。ただし私は和名類聚抄そのものを読んでいません。その他の古書もあるそうですが、和名抄を紹介すれば充分でしょうか。一書に室町のころハモに移行したとありました。母音U→Oの変化が趨勢となったのですが、これについては詳細を知りません。これは京都のことでしょう。そうすると柳田風の言葉の伝搬プロセスからすると、古語が京都から遠い地方に残っているということになります。
3.佐々木喜一郎氏と宮城県史について
- 3-1佐々木喜一郎氏については「著作権台帳 文化人名録(第24版 日本著作権協議会/編集・監修・出版 1997.10)」にも記載なし。
- 宮城県史15巻「博物」の「動物植物」を記述。ただし15巻は「動物植物」の他に、「巨樹・名木」と「地質と化石」を含み三章で「博物」を構成。ナンダコリャ?佐々木氏は県史編纂委員に名前が見られるが経歴不詳。
- 3-2「動物植物」の「魚類」をざっと読んだところでは、序文に続く筆頭が「1.アナゴ」であり、冒頭の文章が「仙台ではハム又はハモという。」となっている。ハム又はハモであることに留意。記載において地域名を特に論考する姿勢はなく、適宜注釈的に言及する程度。
- 3-3宮城県史「博物」について。「博物」の名称のとおりであり、現代科学以前の近代博物学の範疇。記述と分類はあるが分析はない。ただし「地質と化石」は様相が異なる。
以上、ラフな書き込みですが、これで見通しは立ちます。要するに、地域名称を追求するならば、それこそ漁村の数だけ、名称がある。一方漁撈民の交流・移動により広域名称も船泊を介して存在する。広域名称も推移する。そこで、ハムは広域名称である。(和名抄)現在の知見で言うところの鱧という魚が生息しない地域を中心に、マアナゴがハムと呼ばれる。(多数の書籍)理由は、マアナゴの成体は、「喰む」、漁撈者にとって要注意の魚類であるから。(私見)そしてハムはハモに名称が推移する。(多数の書籍。母音U→Oに注意。)
もう一つ、佐々木氏の独自性はもうどこにもないです。宮城県史だから、読者の便を考えて、地域の習わしにより「仙台では」と書きだしたのであり、それは全国に拡散希望したわけでもなく、後世こんなことで議論になるのは、ご本人が不本意でしょう。--GarnetiteCat(会話) 2015年12月17日 (木) 12:39 (UTC)
補遺 和名抄では「波無」と書くそうです。--GarnetiteCat(会話) 2015年12月17日 (木) 22:01 (UTC)
◎◎自己の見解が変遷していることに関する弁明あるいは鱧に関する既存の記述への批判◎◎
一言で言えば迂闊でした。ウィキペディア日本語版 鱧の項 及び 穴子の項 に関する既存の記述を、無意識のうちに、足がかりとして議論していました。このため新事実や見通しが立つごとに意見が変容していると思います。しかし、これまで、ウィキペディアの既存の記述を頭から疑ってかかるというスタンスはとれませんでした。 今、和名類聚抄を確認することが課題となっております。和名類聚抄でハムが確認されれば、前記の私の作業仮説は大筋確立することになります。現在はそれが主な作業ですが。しかし私はかなり憔悴しています。その理由は、
- 1-1 年末であること。
- 1-2 もし和名類聚抄で確定すると、Kinoriさんの文章に関する議論がどうのこうのという問題は吹っ飛んで、鱧の言葉の由来に関し全面的書き換えになること。
- 1-3 Kinoriさんの一文が存在する理由が、もともと鱧の項全体の内容がいい加減だから、許容される類のものであること。
- そうです、Kinoriさんはお魚雑学辞典の記述と同類と呼ばれることを嫌悪されますが、実態は、お魚雑学事典の記述があんなだから、類は類を呼ぶじゃぁありませんが、Kinoriさんの挿入文の怪しさが目立たなかっただけだということです。どちらにしろ、鱧の項全体のバランスを視野に入れれば、他の記述の評価に意識が行くはずで、我関せずなんて許されるはずがないじゃないですか。Kinoriさんは堂々本格的に同類であり、私も首を突っ込んでいる状態と思います。つまり、私は自省として・・・筋の悪い問題に首を突っ込んだなぁ・・・と怯んでいるということです。
- 2 何故誰も和名類聚抄の問題を指摘しなかったのか。和名類聚抄の調査は私がやります。私の言いたいのは、私が30分調べただけで出てくること、つまりそこらの本に書いてあることを、何故これまで誰も指摘しなかったのか。ということです。筋が悪いのは、鱧の項ではなくウィキペディアの全体かもしれない。 以上流石にわたしも時間がない。誤字脱字にご容赦を!!--GarnetiteCat(会話) 2015年12月19日 (土) 11:15 (UTC)
◎◎参考のための引用◎◎
平凡社 世界の大博物図鑑 荒俣宏著 第2巻 [魚類] 1989年5月30日初版第1刷
- アナゴの項より抜粋「《和漢三才図会》には、アナゴの形はハモに似て色はハモより浅く潤いがない・・・中略・・・また《大和本草》に、・・・ハモを海ウナギと呼ぶこともあるが、これは同名異種、とある。(以下略)」P174-175
- ハモの項より抜粋「・・・《大和本草》によると、長崎の中国人がハモを海鰻、ウナギを淡鰻とよんだという。《和名抄》では鱧を、ハムとよむ。《新選字鏡》では(魚偏に長)を使う、《大和本草》では海鰻こそ正しいとされる。
- 古語において、ハムというのはその形状が蛇に似るから。蛇を古語でハミといい、それが転訛したものである。また、江戸時代あたりから必ずハモと記されるのは、海鰻の漢音を使って呼ばれるから。(《東雅》)おそらく海鰻の漢音ハイマンが訛ってハモとよぶのは、江戸時代の知識人の衒学趣味がもたらしたものだろう。なお、その他鱗がなく肌が見えるから、はだみゆ、が訛ったとする説。歯持ちに由来するという説などがある。(以下略)」P175-176
荒俣宏を紹介する必要は無いと思いますが、若いころ購入した古書の借財が現代換算で10億ほどになり、その頃余技として書いた小説が角川書店のメディアミックス路線に乗って売れたためやっと借財を返したとか、結婚した相手と一度も同居をすることなく離婚。相手はその後死去。この人が江戸文化研究家の肩書を持つ杉浦日向子であるとか、本人が博物学の対象になるような奇人です。
朝日新聞社文庫 さかな異名抄 内田恵太郎 1987年6月20日第1刷発行
4.沿海の底魚-すわる魚 鱧の項の全文
- 「熱帯性の魚で太平洋、インド洋の熱帯、亜熱帯に広く分布し、日本では西南部、ことに瀬戸内、四国、九州に多く、暖流の影響の弱い本州北部から北にはいない。二メートル以上になり、口が尖って大きく、鋭い大きな歯があってかみつく。小骨が多いが美味。和名ハモは一般的な名だが、漁業者はハム(神奈川、高地その他)ハブ(大分姫島など)ハミ(富山の一部)などともいう。ジャハム(高地、瀬戸内、石川の一部)ウニハモ(福井)バッタモ(丹後宮津)などの名もある。鱧・ハム・ハミ・ハブは同じ意味で、噛み付いて危険だからだろう。ハミは西日本でマムシのこと、ハブも恐ろしい毒ヘビだ。習性から来た名と思われる。しかしハモは日本語ではなく、中国名の「海鰻」の唐音だという説がある。北方のハモのいない地方では、マアナゴまたはホラアナゴ科の別の魚をハモと呼ぶ。
- 海鰻は現在ふつうアナゴに当てているが、ハモがその音から来た名とすれば、最初はウナギに似た海魚を一般にハモと呼び、地方によってその名に各別種の似た魚を当てたのかもしれない。
- 瀬戸内西部ではハモにごく近いが別種の和名スズハモがいて、漁業者は区別している。」P113
内田恵太郎は九州大学水産学科教授、同水産実験所所長。退官後同大名誉教授。1960年死去--GarnetiteCat(会話) 2015年12月19日 (土) 13:29 (UTC)
◎◎怒りとともに振り返れ◎◎
「4、穴子の記事に地方名に関する記述が無いのなら、書き足せば済む話です。」Ccgxk【投稿記録】 2015年12月10日 (木) 16:11 (UTC)
「本題についてですが、仙台だけでよいという考えはありません。他地域のも調べがつきしだい載せてほしいと考えています。」Kinori(会話) 2015年12月17日 (木) 03:48 (UTC)
どちらにも共通するのは、揉めた時、対象の文言を削除するのではなく、対象の文言を残し、それに、異議申し立ての側の文章を、併記する仲裁の考え方です。これが、適用されると、文章は増加し論点は暈けていくのですが、現実問題としてウィキペディアでは容認する傾向にあるということでしょうか。
痛感するのは、ウィキペディアでは編者というものが不在なのではないか。ということです。エディターです。私は編集感覚で「これイラナイ」と一文を削除しました。知見として諸々曖昧で、前後の文章と釣り合いがとれないからです。編集においては、削る作業です。ウィキペディアに欠けているのは、この作業のようです。
編者のない辞書ってあるのでしょうか。
--GarnetiteCat(会話) 2015年12月20日 (日) 14:17 (UTC)
◎◎確報◎◎
古写本和名類聚抄集成 第三部 馬渕和夫 編著 勉誠出版株式会社 2008.8
P635-6 伊勢本および天正本 和名類聚抄 どちらも同文 以下抜粋
「鱧魚 本草云蟲魚上昔礼 和名波無 味甘寒無毒者也 陶隠居注云 蟲介作鱧字也」影印本です。一部の字は近似の文字に置き換え。(蟲と会)
◎◎宮城県史15巻「博物」のうち「動物植物」のうち「魚類」再考◎◎
- 動物植物は動物の項が昆虫類、貝類、魚類、その他の動物に別れる。著者は佐々木喜一郎となっているが、冒頭に断り書きがあり、昆虫類は、東北大加藤陸奥雄教授に、鳥類は、日本野鳥の会会員熊谷三郎氏が執筆したとのこと。動植物全体が123頁。昆虫13頁。貝類7頁。魚類17頁。鳥類21頁。その他の動物5頁。植物10頁。地誌的記述63頁。合わせて123頁という構成。(頁重複を両方でカウントしたため)ちなみに博物の残りは、「巨木名木」132頁「地質と化石」201頁。
- 佐々木氏の魚類の項は魚類15種に限定して記述。冒頭に仙台市の水産市場における主要な魚類名称と、漁期、漁場、おおまかな量を表として掲載。この表には「はも(あなご)」の項がある。表に併記された本文の最初が、アイウエオ順で、「1.あなご」であり書き出しが「仙台ではハム又はハモという。」主語が略されているので当然・アナゴのことであり、表では「はも(あなご)」となっていることとの連携をとっているのである。以下あなごの全文。「1.アナゴ 仙台ではハム又はハモという。京阪地方で賞味するハモとは全くの別種である。蒲焼きとして食するときは、なかなかの好味であることは、品川の「アナゴ丼」を味わっている人には、うなずかれることと思う。この魚の幼魚はウナギの幼魚と非常に似ているので、普通標本としてその身代わりを務めているが、成魚では、その背鰭のつき所を見ると直に区別出来る。ウナギでは胸鰭のつけ根のかなり後方から起こつているが、之ではすぐその後方から始まり、ハモではやゝ前方から始まる。」P21
- 佐々木喜一郎氏が編集委員であることは前述したが、この巻の編集には携わっていない。この巻の編集は、渡邉波光 岩間初郎 戸井堯 守谷充恵とクレジットされている。
- 佐々木氏の執筆部分で、「宮城県」の用語が出てくるのは、たいへん粗雑な読み方であるが、ざっと3回のみ。魚類の項には皆無。これは、そう書くより書きようがない場合、例えば宮城県施設に言及するような場合。「博物」の他の執筆者は当然のことながら頻繁に「宮城県」の用語を使っており、この点が佐々木氏の特徴となる。そもそも、事例として紹介されるのが江戸時代のものが多く、明治以降は少ないためである。
- 15巻以外は読んでいない。14巻は「文学 芸能」、16巻は「名所 旧蹟」。民俗は19-21の3巻があてられている。しかし、博物の記述が、既に民俗学の対象領域であり、なおかつ西洋風の博物学というより「和漢三才図会」のような江戸文化的な、漢学的なもしくは儒学的な感触で、下々のことを記載する印象。
- 1956年時点で東北大を擁する宮城県において、このような貧弱な著述が県史を飾ったことは、驚愕。なにか、東北大の協力が得られない事情を推測することができそうだ。
--GarnetiteCat(会話) 2015年12月23日 (水) 13:45 (UTC)
◎◎できなかったこと◎◎
現代の生物学におけるハモが、生息しない地域での、現代生物学におけるアナゴがハモと呼ばれる時期。あるいは、それ以前の呼称の痕跡。これは調べることができませんでした。
◎◎再構築◎◎
- ハムが古語のヤマトコトバであること確定しました。和名類聚抄が平安中期です。前述のとおり、鱧が生息しない地域に、ハムの用語が伝えられる時期は明瞭ではありません。とはいえ、朝廷の勢力により、政治的に言葉が流入するとした場合、多賀の柵が多賀城に整備されるとか、そういったことが、東北中南部では想定され、それ以前に流入したと考える必要はないでしょう。政治的に一体となれば、漁労民の交流も盛んになり、漁具の伝搬も進むでしょう。そしてハムという言葉が普及するでしょう。時期は詳細に論じられなくとも、ハムという言葉が伝わって、残っていることが時期の古さを示唆するでしょう。ハム→ハモの時期より以前ということです。
- 第二の課題。これも、京都での動きを中心にすることですが、鎌倉幕府が禅宗を導入し、中国僧が来朝。室町時代には幕府の庇護もあり五山が隆盛となり、禅僧が文化を担うようになります。明朝との僧を介した文化的な交流、と平行して勘合貿易のような商取引も盛んとなり、大量の漢籍が購入されるようになります。諸説あるとはいえ、海鰻(ハイマン)からの影響は大であるでしょう。ハムをハモと呼び替えるのは、音韻的には受け入れやすいですから。そこでおそらく室町期にハムはハモになる。江戸期になると幕府の意向もあり各藩で儒学を奨励し、儒学者を養い、藩内の教育に当たる。文化人が僧から俗に広まったわけです。例えば貝原益軒の大和本草とか。これらが、ハモと呼ぶことを支持する。その後鎖国による沈滞。
- こうしてみると、宮城県史は特異な事項を発見し発表したわけでもなく、人に知られぬ秘話を紹介したわけでもない。ただ、知らない人がうっかり間違えると、不便であるから、便宜的にアナゴとハモの関係を説いたのだ。この記述が、逆に不便をきたすとは、思いもよらなかったことだろう。
◎◎結論◎◎
鱧の「名称」項 全面書き直し。
ハモの古語はハム。(和名類聚抄)
ハムが全国に広まるのと並行し、鱧をハモと呼ぶ傾向が生ずる。
また、ハモが生息しない寒冷地、北海道、東北、北陸地方においては、マアナゴ等アナゴの仲間をハモと呼ぶ。
・・・うんちく略・・・
他の魚
現代中国語でハモは「海鰻」(hǎimán)といい、「鱧」(lǐ)という漢字はライギョ類を表す。
「仙台では・・・」の一文は全削除。
異論は早めにお願いします。でないと更に論考が進みます。ショボン。(/_;)
- お返事が遅れてすみません。とはいうものの、坊主憎ければ、的な誹謗はやめてください。佐々木喜一郎氏は、宮城県の郷土史研究家です。古い人なのでネットからはヒットしずらいでしょうが、宮城県図書館のサイトで著者名検索をしてください。魚の方言に関する著書や論文がヒットします。さらに『宮城県史』について、東北大の人が少ないなどと、前に権威主義を難じていた人の言葉とは思えない言い方で批判していますが、これが当時の一般傾向です。東北大、というか旧帝大の学者で郷土史や郷土研究に目を向ける人はごくわずかだったのです。郷土史が地方史と呼び直されてから編纂させれた平成『仙台市史』にも、東北大の人はさほど多くはありません。勝手な思い込みで他を非難すべきではありません。
- それから、佐々木氏の説の独自性とか、仙台の独自性などは、本文でもノートでも説かれていません。それはGarnetiteCatさんの頭の中に生まれた考えですから、わざわざこの場で否定する必要はありません。そのまま頭の中で葬り去ってください。
- 「揉めた時、対象の文言を削除するのではなく・・・」という箇所について。ユーザー同士が揉めたときには、ではなく、文献により異なる説明がある場合には、というふうに条件を改めて言うなら、GarnetiteCatさんの想像通りです。基本的に併記する方向で、書き方を工夫していきます。Wikipedia:検証可能性やWikipedia:中立的な観点がここらあたりに関する方針です。
- で、本題であるべき記述内容についてですが、和名抄の記載は書く価値があることですから、ぜひ加筆してください。他にもしかるべき書籍・論文に記述があることは書くべきでしょう。「ハムが全国に広まるのと並行し、鱧をハモと呼ぶ傾向が生ずる。」というような、GarnetiteCatさんの私見は記すべきではありません。仙台でハムともいったということは、しかるべき資料にあるのですから、記載したほうがよいと考えます。--Kinori(会話) 2015年12月28日 (月) 14:56 (UTC)
おやっ、Kinoriさん。文献猟色に時間がかかった・・・ということではないのですね。
さて、まず、ココカラ。
「『宮城県史』について、東北大の人が少ないなどと、前に権威主義を難じていた人の言葉とは思えない言い方で批判していますが、」という点のすれ違いについて。
勘違いしないで頂きたい。私は学者とか、学術機関を否定するものではありません。然るべき学術機関に属し、研究をしている方は、然るべきトレーニングを受け、然るべき議論のルールを心得ていると思うからです。それができなければ、地位を得られないだけです。まさに私が苦慮している状況を、解決する可能性を持つものです。然るべきトレーニングを受け、然るべき議論のルールを心得ているということは、当方としても、究明しやすいということです。もし学者が誤っていれば、議論を撤回することもトレーニングされているので、去り際が鮮やかですね。つまり学者さんには失礼ですが、学者さんは扱いやすいのです。
東北大の関与が少ないのが一般的な時代であった。とのこと、つまりそれだけ学術的な価値のある論説を望める時代ではなかった。残念です。
ちなみに、「博物」を一巻として記載する試み。東日本では宮城だけみたいです。精密に読んでいません。(他の県の県史の詳細までは。)その試みや善し。だけど内実がないから、他県がリスペクトすることはなかったでしょう。
振り返ってみましょう。「『宮城県史』のような書籍に記されたことを否定する力はないのです。」という主張に対して、この書籍の15巻には資料価値が乏しいということを論述してきました。宮城県史に書かれようと書かれまいと、佐々木氏の記述が全日本という観点で深甚な意味があるのか、という疑問・否定を繰り返し主張してきました。
なぜ疑問に思ったのかといえば、上述の通り、然るべきトレーニングを受け、然るべき議論のルールを心得ていると思得ないからです。
よく論旨を汲み、批判していただきたいと思います。
そして、重箱の角を突くような、反論できそうなポイントに拘る卑しさはどうにかなりませんか。
佐々木氏が1950年台に記述したことに、意味が無いというのは、日本全体から見てのことです。Kinoriさんは都合の悪いことは無視する。それは枚挙に暇がない。
反論するのも煩わしいのですが、ハムの語が成立したのは。少なくとも中世前期。そして宮城にはハム・ハモの語がある。であれば、ハムからハモへの音韻の移行が、いずれかの時代に起こった。それだけのことです。
「「ハムが全国に広まるのと並行し、鱧をハモと呼ぶ傾向が生ずる。」というような、GarnetiteCatさんの私見は記すべきではありません。」
私見だとおっしゃるなら、「。「ハムが全国に広まる。その後、鱧をハモと呼ぶ傾向が生ずる。」でよろしいでしょうか。これまで私が参考文献として挙げたものが足りないということなら、まだ掲載するものはありますよ。いずれ、宮城県にハムという語が伝承されているらしいということは佐々木氏も証言していることです。
Kinoriさん。何を主張したいのですか。私の論点は、室町から江戸期の名前の伝承に移っているのに、佐々木氏は1950年代末について証言しているだけです。彼が宮城県で出版した他の著書についても、やはり同年代の証拠として、やや低い情報レベルで扱われるだけです。「郷土史家」?自称ですか?他称ですか?一体誰が彼を郷土史家と認めたのでしょう。史家というなら、宮城の古文書を大量に呼んでいるはずですね。そこから知見が得られるはずですが、実例を知りません。彼は古文書を引いているのですか?
地域での魚に関する書籍ということであれば、たとえば、大阪であれば「浪花の風」(久須美祐雋)のような古書、和歌山で「紀州魚譜」(宇井 縫蔵)のような近代的知見にたち、分析が深く、なおかつ古く1949年出版のような、信頼の置ける出版物とは雲泥の差があります。何か反論はありますか。
宮城県史15巻が信頼に値しないと言うのは繰り返し述べていますが、未だ反論はありません。このようなパチもんを、錦の御旗にして押し切りを図るような人物を、権威主義者というのです。権威主義者は本物の権威に弱いから、私が東北大を持ちだしたことをに権威を感じ、食いついたわけですね。想定内です。誠にあなたに告げます。こういう人物が一番厄介なのです。論破されても、しばらく沈黙し、さらに粘る、粘る。まともに論証できなくとも粘る。そして、いきなり、じゃあこれで・・・みたいに押し切ろうとする。
「坊主憎ければ、」ってなんでしょうね、貴殿がナマクラ刀を振りかざすから、その刀がなまくらだと指摘しているのです。どこが可怪しいのでしょうか。いやおかしかったですか、竹光でしたか。まっとうな反論をしてください。
--GarnetiteCat(会話) 2015年12月29日 (火) 12:08 (UTC)
◎◎雑語◎◎
学者について。
- 反論しやすいという話は、例の小保方晴子の事件を想起してもらえば、理解が早いと思います。
- 次に、試論ではありますが、1950年代末に大学教授・職員の論考を期待する理由について。南部陽一郎博士は1950年に30歳で大阪大の教授になっています。これは物理学ですが、要するに、戦災で人材が不足していたための措置でした。南部氏が天才であったからでは無いと思えます。(南部氏がその天才ぶりを発揮するのは一般にはプリンストンの時代からと言われています。)ことほどさように人材は不足していました。ですから、新進気鋭の論客が進出する好機でした。
- 逆に、旧態依然の、科学的に杜撰な人物も重宝がられたのかもしれません。人材不足ですから。
佐々木さんについて
佐々木さんを振りかざすKinoriさんと議論するごとに、佐々木さんを貶すので、その文を綴るごとに私は気鬱になります。この論議、有りもしない高みに佐々木氏を登らせ奉ろうとする、Kinoriさんとの論理での闘いであり、佐々木さんという、おそらく好々爺であったであろう人物との闘いではないのです。Kinoriさんに警告します、あなたの行為は佐々木氏を弄び、意地になっているだけだと。
鱧の項全体について
「で、本題であるべき記述内容についてですが、和名抄の記載は書く価値があることですから、ぜひ加筆してください。」と言うのは、私は関与しないから、自分でやれ。ということですね。そして、自分は「仙台では・・・」の文の掲載を維持するということですね。我関せずの態度。指摘は二度目でしょう。同類が生き残る姑息な手口ですね。
地方自治体の窓口たらいまわしと酷似していますね。見逃して、詐欺にかかるところでした。学問に真摯さのない姿勢も、狡猾さもあなた方は同類です。もしくは同じ穴のムジナです。他に表現する言葉を知りません。
--GarnetiteCat(会話) 2015年12月29日 (火) 14:24 (UTC)
新事実がなにもないのですから、年内にケリをつけましょうね。
--GarnetiteCat(会話) 2015年12月29日 (火) 14:38 (UTC)
和名抄について知らなかった。という反省は無いのですね。「和名抄の記載は書く価値があることですから」って、あなたはどれだけ偉い人なのでしょう?なぜ、このような上から目線で、言葉を綴れるのでしょうか。あなたは和名抄の編者より、崇高な存在なのですか。こういうことに頻繁に現れるのが、あなたの傲慢さであり権威主義者という属性をなのです。
つまり、佐々木氏にはシンパシーを感じる私ではありますが、Kinoriさんについては何の痛痒も感じません。どれだけ、論破されたことを無視し、素知らぬ顔を続けるのでしょうか。もちろん、佐々木氏の評価が墜ちるということは、それを引いたKinoriさんの評価がすごく低いということです。あなたの他のテーマの記載も検討してみたいと思います。あっ「大年寺」の記載はつまらなかったですね。(゚∀゚)--GarnetiteCat(会話) 2015年12月30日 (水) 10:57 (UTC)
もう、馬鹿馬鹿しく、記載がオックウなのですが・・・・
Kinoriさんは、「信頼できる文献によって地方名の存在が確認できれば、」とか申されます。「信頼できる文献」という表現に、テキストにも優劣があるという、価値評価が存在することを、Kinoriさんが認識してていることは明らかです。
ですから、私は最初、哄笑し、まぁそうもいかんなぁと、検証を始めました。私の初期評価では、宮城県史はアプリオリに信頼できるものではなかったからです。その後状況が明らかになり、博物の巻が他県から見れば異形であること、博物の巻の内容が、古老の昔語り程度の雑学(それはそれで貴重なのだけど)であり、やっと地質学において、科学というシステムに馴染んでいることを見出しました。
しかし、そもそも地質学というものが日本の近代科学において自然科学系のはずなのに、極めてヒューマンでクク、権威主義、スターリン主義、アメリカ流合理主義の三竦みに加え学際的に地震学、火山学、地球物理学からのアプローチに対し、なにも答えられない、知らぬふりをする、それでとりあえず地位は守ろうとする、という混沌の様相を
示し、Kinoriさんに是非参考にしていただきたい、(今となっては)茶番劇のようなものです。(プレートテクトニクスの拒絶と受容―戦後日本の地球科学史 2008/6
泊 次郎 東京大学出版会)
次に地方名ですが当時Kinoriさんがハムとかハモという用語を地方名と認識していたことは明らかです。そしてその認識が誤りであったことも明らかです。ハモからハムが派生したと言う寸前まで行っていた、匂わせていた、はずです。それに関する自省はどこにもない。自省などしたことがないのではないか、と思えるほど傲岸不遜です。--GarnetiteCat(会話) 2015年12月30日 (水) 14:58 (UTC)
「それから、佐々木氏の説の独自性とか、仙台の独自性などは、本文でもノートでも説かれていません。」はい。そうであれば、鱧の項の本文にあえて記載する必然性は無いということで、Kinoriさんがお認めになったということでよろしいですね。
--GarnetiteCat(会話) 2015年12月30日 (水) 15:17 (UTC)
「仙台でハムともいったということは、しかるべき資料にあるのですから、記載したほうがよいと考えます。」このお言葉に、苦渋しておりました。笑い転げてもいました。
「しかるべき資料」が、少しも信頼できる、価値のある資料ではないと、何度書き込んでも、反論がない。前述のように、しばらく知らぬふりをして、それから抜け抜けと持ち出す。その繰り返し。1950年台に何が起こったでしょうか。おそらく中世からそうであったことを、1950年台に記載したから、貴重な資料であると主張されるのですか。このような資料に対する評価のセンス、目利きの眼力は、「お魚雑学事典」と同居しても気にならない、あえてより良くしようと一歩を踏み出さない、それどころか隣人を擁護さえしない。いっしょにするなと切り捨てる。酷薄だ。
諷意のたぐいですが、江戸期の長屋のご隠居が「ソウサナァ、昔は貴族や僧侶、武家の一部も、薄化粧でお歯黒を塗り御所言葉で話してたのものさ。」などと、熊さんに語っている。これが然るべき資料でしょうか。これは三次資料でしょか。同時代の信長公記とか惟任退治記とかに書いてあるなら、一級資料でしょうが、落語の速記録に書いてある類は然るべき資料とは呼ばないと思うのです。風俗の資料にはなります。
閑話休題。
問題のテキストは、そこに書いてある内容が実際に起こった時期と、著しく乖離しています。しかも、その主題を書き留めることが、その文の機能ではなく、単に読者の便宜のために、ガイドライン的な注釈として書き込まれたものだと申し上げました。なのに
老人の繰り言のように「しかるべき資料にある」ですからね。実は、ボケ防止にパソコンやってるなんて言わないでくださいよ。
実は、太平洋戦争期まで、仙台では●●がハムもしくはハモと呼ばれていた。それが戦後になってアナゴがハムもしくはハモと呼ばれるようになったとか。そういう新事実が明らかになるのであれば、その新資料とセットで、掲載される確率は上がります。
しかし、そもそも宮城県の中での話が全国的にどれだけ意味があるのか、という評価を、卓越した評点・賞賛により乗り越えなければなりません。
Kinoriさんには室町-江戸期の素敵な文献を紹介してくださることを期待します。そうでなければ、「宮城の方言」の項を新規にお作りになって、そこで余生をお楽しみください。
最後に、議論のすり替えについて。こういう姑息なことをするから、要注意なのです。「文献により異なる説明がある場合には、」引用した文献に異なる説明なんかないでしょう。みんな親和的ですよ。ハムとハモに関し勘違いしている方が、生物学系の方ではおりますが。(自称史学者?で知らない方もおりますが、このことを知らないのは、史学者の肩書に壊滅的な問題が有ります。)そこさえ誤謬を正せばさほど異端の説は無いかと思います。対立しているのは文献の評価ではありませんか?誤魔化さないで下さい。
ただ、重複するので編集する必要が生じます。Kinoriさんの引用は時期的に新しく、魚の名前という観点で論考したものではないし資料価値が乏しい。私が、引用、報告したものは魚の名前を論じたものであり(「浪花の風」は身辺雑記、念のため)、資料価値はきちんとある。とはいえ、多すぎる。ダブっている。
同様の内容・重複する内容の文献があるのだから、Kinoriさんの引用したものでは、佐々木氏の一文は省かれてしかるべきであり、「1989年改訂13版の『原色魚類検索図鑑』Iの316ページで、はもが北海道・東北地方・山陰地方でまあなごの地方名だとされています。本文は、後者に従い、ハムを加える形で修正するのがよいと考えます。」は残す方向で整理するべきだと申し上げます。原文をそののまま掲載すれば、良いと思います。和名抄との食い違いについて、現代の論者(荒俣氏あたり?)の文も引用すれば、座りが良いかなと思います。
それでは、良いお年を。--GarnetiteCat(会話) 2015年12月31日 (木) 08:06 (UTC)
あじゃらかもくれん てげれっつのぱあ
おあとがよろしいようで
--GarnetiteCat(会話) 2016年1月13日 (水) 12:09 (UTC)
マアナゴについては、「北海道・東北地方・山陰地方では、マアナゴの地方名」云々と書いて、出典として『原色魚類検索図鑑』と『宮城県史』両方を記載したらよいのではないでしょうか。仙台が東北地方に含まれることは明らかなので、『原色魚類検索図鑑』の記述を宮城県史の記述が補強しているという形になります。(脚注でその旨を説明したほうが、記事を検証する人に対してより親切かもしれません。)
和名抄の記載については、慎重にいきたいのであれば、校本や注釈本等を参照して特に語句の意味について注意喚起されていないことを確認して書く。あまり気にしないのであれば、「どこそこに鱧(はむ)と表記がある」と書けばよいと思います。資料をみつけた人が書くのが良いと思うので、GarnetiteCatさんにお願いしたいです。その代わりといってはなんですが、この問題を調べている時にシイラについて扱った文献を見つけたので、それをもとに「シイラ」に加筆をしてみました。加筆事項では触れませんでしたが、言葉がどのような経緯で文献に載ったのかということについて考察がなされていますので、もし興味があればご一読を。
ハムとハモについては、母音が変化したというのはおそらくそうなのでしょうが、どっちが古いとか新しいとか、どういう経緯で変化したかとか(はむ→はも→はむ、という変化もありうる)、母音が混同されているのかいないのかとか、そもそもカナ表記が発音を正しく表しているのかとか、そういう問題は難しく専門家がきちんと論じたものでないと信用できないので、あまり余計なことは書けないように思えます。その上で「ハム」が「訛り」である(ので取るに足らない)と断定せずに、一応記録された方言名の一つとして書いておくのがよいと思います。
ここから先、Wikipediaのルールがどうとかいうことを無視してざっくばらんに話しますが、言語学上「訛り」は気まぐれに起こる「誤り」「癖」などではなく、一定の法則性・社会性・地域性をもっておこる"方言"の一特徴である、そしてその「訛り」がどれくらいの広い地域でみられるかは、具体的にどの「訛り」を見ているかによって大きく異なる場合がある、と考えています。このように慎重になるのは例えば「日本言語地図」などを見ていただくと納得されるかもしれません。件の佐々木喜一郎氏がそういう言語学上の知識をもってしてう段とお段を聞き分けていたとは思いがたいですが、地域史の事項について学問的態度をもって「記載」してきたわけですから、当時の記録としては信頼がおけるものと考えます。
--Insanity(会話) 2016年2月3日 (水) 16:39 (UTC)
Insanityさんコメントを有難うございます。本日は、この問題のために借りていた書籍の、最後の分の返却期限で、時間的に間に合わず、20時頃「返却ポスト」に放り込むという乱暴狼藉を行い、ガツンという嫌な音を聞き、鬱な気分で帰ってきました。そして、コメントを読ませていただき、書き込みを行っています。
さて、ご指摘の内容については熟考の上、コメント申し上げたく存じます。当方、前述のとおり、武装解除(ジョークですヨ)済でしたので、ご示唆いただいた文献等にも目を通してからにしたいと思います。
現時点で、申し上げられることは、音韻変化に関する当方の2015年12月14日の発言について。あれは、所謂クスグリです。「母音の音韻変化はままあること。」というのがサワリで、「だからたいしたことじゃぁない」というのがKinoriさんに対するクスグリです。落語で言うところの。ですから、今後再論し経過を検証しますが、この点を足がかりとしてコメントされても、当方としては何も申し上げることはありません。
さて、2015年12月31日の当方の提案は、撤回いたします。早期解決のため、当方としては深甚な譲歩を行い、Kinoriさんの探してきた引用文を前面に出す形での提案でしたが、1ケ月も放置されるようでは、譲歩の必要もないと考えます。従いまして、それを前提としたInsanityさんの提案も同意いたしかねます。--GarnetiteCat(会話) 2016年2月4日 (木) 13:14 (UTC)
鱧と穴子 これまでのまとめと現在の試み
Kinoriさんがリタイアされ、復活の兆しがない状況で、新春の息吹が感じられ、白梅もほころぶ季節になりました。ここで気分を新たにするため、項を改め、進めていきたいと思います。
発端
「時期が明示されない 民俗学的に合理性がない 穴子の項との整合性が無い 傍証がない 何故これにこだわるのか。恣意性が認められる」
ウィキペディアに無知な二ヶ月前(今でも毛が生えた程度ですが)、書き込み方がわからないまま、要約欄に上記の通り書き込みましたところ、
Kinoriさんに「私にはこの指摘のほうが理解できません。」と一蹴されたところからこのノートは始まりました。
つまるところ、私の言いたいことは、上記が全てであるといえますが、議論の中途では、作業仮説を更新し、例えば「ハム」の取り扱いについては、主張がブレた場合もありました。
その点に注意しながら、振り返ってみたいと思います。
「『宮城県史』を参照されましたか。他に何か文献に当たりましたか。」「『宮城県史』がいかがわしい本だというなら、この一文を除去する理由になるでしょう。」「『宮城県史』で佐々木喜一郎氏が記したことと、IP氏や私の意見を比べるなら、佐々木氏のほうが上なのです。」
これはKinoriさんの発言です。これに促される形で私は『宮城県史』の復刻版を取り寄せて、読むことになりました。しかし、当初からの疑問、「時期が明示されない。」つまり、穴子がハム、ハモと呼ばれた時期については不明のままであり、『宮城県史』が「1956年にまとめられた記述」であるとして、いったい1956年という時期に何があったのか。これもわかりません。Kinoriさんが県史の重要性を繰り返し主張するばかりです。
そこで新しい発見・見解が公表されたのか。それとも佐々木氏が、それ以前に発表した卓越した発見・見解を、『宮城県史』に於いて再論しているということなのか。ということが想定されたのです。私は県史15巻『博物学』の表題に惑わされたのかもしれません。そのような大仰な記述は皆無でした。県史の記載は拍子抜けするほどあっさりした雑文であり、佐々木氏は軽みのある語り口で、魚の雑学を記述しているのでした。アナゴをハム・ハモということに関しては、品川のアナゴ丼を引いて説明しています。軽妙な雑文なのです。この点については報告済みです。私は虚仮威しに引っ掛かったようです。まさに権威主義者の手口です。
それから、Kinoriさんの記述スタイルについて、失望することもありました。問題の文章が引用だと言い出したのです。
ところが、正確な引用ではなかった。(論旨には影響ない?)それなのに、彼は以下のようにのたまうのです。「信頼できる文献によって地方名の存在が確認できれば、その文献の内容をねじまげないよう忠実に記すべぎだと思います。」これを覚えておいていただきたいと思います。
私が、県史の実態を引用したあと、Kinoriさんから何の反論もないのです。それどころか、開き直ったように、「佐々木氏の説の独自性とか、仙台の独自性などは、本文でもノートでも説かれていません。」と書き込んでいます。これは私のコメントではありません。
ですから、県史が引用に値する貴重な資料だと主張する、もしくは単に引用を主張する場合は、別途きちんとした反論が必要な状況です。
クスグリの顛末
先の引用にもありますように、最終的には、「佐々木氏の説の独自性とか、仙台の独自性などは、本文でもノートでも説かれていません。」とコメントした、Kinoriさんですが、それ以前には、「信頼できる文献によって地方名の存在が確認できれば、その文献の内容をねじまげないよう忠実に記すべぎだと思います。」「仙台でハムともいったということは、しかるべき資料にあるのですから、記載したほうがよいと考えます。」と、コメントしています。これはどのような意味でしょう。つまりアナゴのことを「ハム」という。ハモと呼ぶのは広域現象なので、ハムこそ「宮城の方言」と考えていたのでしょう。もちろん、この時点では佐々木氏の独自性、仙台の独自性を考えていたに相違ありません。
そこで、私はKinoriさんに対し「ハム」はハモの音韻変化だから、さしたる問題ではないという、クスグリを入れました。それほど、Kinoriさんの言質を得ることが困難だったので、苦肉の策なんですが。論議を混乱させたことはお詫びしておきます。
しかし、
- Kinoriさんの、「ハム」が仙台の地方名とする認識。
- 私の、その程度の訛りは、重要ではないという、クスグリ(ツッコミ?)。
どちらも消し飛んでしまいました。以下項を改めます。
和名抄類集(波無の確認とその影響)
議論がズルズルと続くので、県史を求め、嫌嫌図書館通いを始めた私ですが、県、市の中央図書館を徘徊して調べるとたちどころに判明したのは、
- 和名抄類聚の件 大和言葉としてハムは古語である。(すなわち地方名ではない)
- 百科事典、魚類辞典など類書みな、『東北、北海道(北陸を含む場合あり)では、アナゴのことをハモ・ハムという。』と書いてある。
という、情報です。これを元に考えると、
仙台の地方名説は否定される。音韻変化は重要ではないという、クスグリも当然否定される。ということでハモ→ハムという論調が、180度転換し、ハム→ハモらしいということになりました。
要するにつまらないことを議論していたわけです。それから、アナゴのことをハム・ハモと呼ぶという現象が広域現象である以上、Kinoriさんの報告した『原色魚類検索図鑑』の件は、宮城県史の記述の傍証というよりも、むしろ宮城県ばかりでなくその周辺の広域で同様の事例が多数あることを示唆しているものでした。
現在私のもとにはそういった資料が集まりつつあります。必要であれば、報告したいと思います。
項の見出し以外の太字はKinoriさんのコメントからの引用です
次回はInsanityさんのコメントについて触れさせていただきます。長くなりまして申し訳ありません。--GarnetiteCat(会話) 2016年2月10日 (水) 10:03 (UTC)
- お待ちしております。(文献の情報を正しく取り扱っているという意味で)正確な記事を作るための有意義な議論となることを期待しております。--Insanity(会話) 2016年2月10日 (水) 13:16 (UTC)
駄文は利用者ページに引っ越しました
質問をさせてください
Insanityさん、遅くなりまして大変申し訳ありません。実は書き出しが、成案を得られず、悩んでおります。重ねて、申し訳ありませんが、いくつかご教授頂きたく存じます。
1.「『宮城県史』を参照されましたか。」
Kinoriさんとのやり取りについて、前段において振り返りました。このような状態で、Kinoriさんは投げ出してしまいましたのに、Insanityさんは、そのKinoriさんが、私に批判されて反論をしていない、その内容について、なにも論ずることなく、採り上げられて、仲裁案をお示しになられました。このことをどのように理解したものか、苦衷しております。
ご紹介頂きました「シイラについて扱った文献」は、とても参考になりましたし、私が参考文献として思い描くイメージ通りの文献であると思います。
わたしは、Kinoriさんを、また彼が引用した文献を、批判してきたのですが、それは、彼が引用さえしていれば、引用する元の文献のクオリティは問わないという、欺瞞に満ちた姿勢を崩さないからでした。そして、彼の引用した文献は、質が悪いのだということを、実際に文章を転載し、報告してきました。
Kinoriさんは、俗にいうところの『ハッタリをかまし』たのです。私に宮城県史を読んだのかとプレッシャーをかけておいて、実はご自身が、きちんと読んでいない。引用の姿勢もずさんで、言葉が正確ではない。『文献の情報を正しく取り扱っているという意味で』は、とんでもないことです。そしてそのことを指摘すると、「この一文は、いくつか文字を変えたものの、参照元でもほぼ同じです。」と、一言の謝辞もなく開き直る始末です。
このような状況で、反論の代わりに、Kinoriさんが最後の最後の書き込みで、佐々木氏が史学者だと言い出した。これは、予想されたことではあったのですが、出し方が醜悪でした。何の論証もなく、ただ史学者だと。また権威を持ちだしたというわけです。習い性となると申しますが、Kinoriさんは批判されても批判されても、思考パターンを変えることはできないようです。
(なお、佐々木氏が斉藤報恩会の関係者で、会報に寄稿していることは判明しています。しかし斉藤報恩会が解散状態で、そのライブラリーも仙台市に寄贈された後については不明です。)
このようなわけで、大変心苦しいのですが、私の引用・報告で、ご納得いただけないのであれば、実物をお読みいただきたいと思います。
2.ウィキペディアの世界には先取得権のようなものがあるのでしょうか
前に貴重なコメントを頂いたCcgxkさんにせよ、Insanityさんも、Kinoriさんに対し、過保護です。なにか明示されない不文律があるのでしょうか。もしそうであれば、このウィキペディア世界との距離を考えなおさなければならないと思っています。
3.Kinoriさんの姿勢に疑問があります。どのようにお考えになりますか?「Wikipedia:新規参加者を苛めないでください」
Wikipedia:新規参加者を苛めないでください
このような文章がありました。『新規参加者には、親切に、礼儀正しく、そして根気を持って接しなければなりません。なにか理由があったとしても、彼らに敵意を向けてはいけません。この事ほど、新規参加者を怖がらせ、ウィキペディアへ関わるのを避けさせてしまうことはないのです。』ああ、最初に、あのような扱いを受けていなければ、このようなところでとどまってはいないでしょう。
最後に(質問ではありません)
Insanityさんが『資料をみつけた人が書くのが良いと思うので、GarnetiteCatさんにお願いしたいです。』といってくださったのに、申し訳ありませんが、私はウィキペディアの作成に参加したいとは思いません。ユーザーとして、異議の申し立ては行いたいと思いますが。
それに、和名抄類聚の件は、調べてみると一般常識ではないにしろ、日本史においてはごく当たり前のことのように思えます(私は高校で日本史が習得できないカリキュラムでしたので赤面してしまいます)。ですから、これも先取権だというのであれば、哄笑をもって、権利の放棄を宣言いたします。私の哄笑が向けられる先は、もちろんKinoriさんです。彼が、リタイアした理由がこれを知らなかったという、事実です。まさかとは思いますが、彼は自分自身も史学者だと、自負していたのかもしれません。(笑) しかし彼の権威は脆く崩壊いたしましたね。(笑)
--GarnetiteCat(会話) 2016年2月21日 (日) 12:36 (UTC)
1. 県史は参照しておりません。本当はちゃんと確認すべきではあるのですが、明治時代的空気というのと、(趣味が高じて研究といったレベルでなく)「趣味的研究」というものについて心当たりがあるのでそれで想像しております。私としては、GarnetiteCatさんとKinoriさんの仲裁をしたというより、きちんと学術的な記事で裏付けできるものだけを載せるという編集方針と、使えるものは(多少怪しくても)何でも使おう、という編集方針の中庸をとったつもりなのです。こういうジレンマは自分ひとりで記事を書くときも感じています。
2. 先取権はありません。自分の書いた記事に「所有権」のようなものを感じる人もいますが、当然、共同編集による記事の改善というWikipediaのやり方に有害な考え方なのでわざわざそれを否定する文章があります。[note-i 1]にもかかわらず宮城県史を残そうとした理由は、ほかの文献による広がりのあるが境界が明らかでない情報と(まさか北海道・東北の津々浦々全部回って調べたわけではあるまい…しかしそうするとどこで情報を拾ってきたのか?)、(資料としては低質ながら)宮城県史による点の情報を両方提示することで、足りない信頼性をなんとか稼ごう、こういう算段によるものでした。なので正直なところ、消すなら消すでそれもありだな、くらいに思っていました。
3. おそらくアカウント取得前に記事とは関係ない理由で記述を除去したりしたときに心証が悪くなっているためかと思われます。こういう編集があると荒らしではないかと身構えるのも止むをえないことです。私は多少のことがあっても、新規参加者について拙速に何がしかを決めつけるべきでないと思っているのですが、そう考えるのも理解できます。Wikipediaの感覚でいうと、途中から相手にしなくなるというのは、なんというかすごく穏当な部類の対応にはいると思います。(ほかの例が悪すぎるのかもしれませんが。)相手が反応しなくなったら(場合によっては自分のやり方が間違っていないか他の参加者の反応で確認するなどして)自分の編集方針で淡々とすすめるべきで、特に気に病むことはありません。
4. どういう手順でやっても記事さえ良く出来れば良いのですが、私が文献を調べるのも二度手間になるし、ひとりで文献調査・執筆・検証してまとまった文章を書くことが良い記事を書くための早道、ということもあるのでお願いしました。まあ、無理して参加するものでもないので、良い文献に出会った時にでも気が向いたら参加していただければと思います。
- ^ ただし、先取権といったらよいのかわかりませんが、どちらでもよいことについて変えるとか変えないとかいう議論をすることは無益とされ嫌われています。リダイレクト(別名からの誘導)の作成ではなく、記事の名前を変更するには相応の理由が必要とされているのがこの論理によるものです。
--Insanity(会話) 2016年2月21日 (日) 15:57 (UTC)
なので正直なところ、消すなら消すでそれもありだな、くらいに思っていました。
コメント有難うございます。拙速ですが、取り敢えず申し上げられることは、最初に戻って、鱧の項にKinoriさんの書き加えた文章を削除するという、当初の私の意見と行動を、可能性の範囲としては、お認めいただいたことを、確認しておきたいと思います。これは、「アカウント取得前に」最初に起こした行動です。
「記事とは関係ない理由で」というのは残酷です、もっと経緯ログを確認してもらえればと思います。
「私が文献を調べるのも二度手間になるし」Kinoriさんが私に強いたことですよ。
「きちんと学術的な記事で裏付けできるものだけを載せるという編集方針と、使えるものは(多少怪しくても)何でも使おう、という編集方針の中庸をとったつもりなのです。」その内容をお聞かせ願いたいと思います。
「まさか北海道・東北の津々浦々全部回って調べたわけではあるまい…しかしそうするとどこで情報を拾ってきたのか?」日本全国を網羅する方言の研究は現存しますから、お考えを改めていただきたいと思います。津々浦々ほどの精度ではありません。アナゴ・ハモを集中的に分析する目的を持った資料は、存じませんが、アナゴ・ハモが頻繁に出てくる資料なら、東日本については目を通しております。東北についてはお求めになるのであれば、図示致します。(図表のアップの仕方に習熟していませんが。なんとかします。)
--GarnetiteCat(会話) 2016年2月21日 (日) 16:38 (UTC)
- 除去云々については、ハモの編集ではなくてこっちのことです。詳細に指摘していなくてすみません。
2015年12月3日 (木) 15:32 (差分 | 履歴) . . (-54,774) . . 仙台放送 (全文削除は好ましくない というご意見を頂き、基本情報を残しました。この企業が深甚な環境汚染企業であることについては、なんら変わりありませんので。代わりはありません。) (タグ: サイズの大幅な増減) 2015年12月3日 (木) 15:16 (差分 | 履歴) . . (-55,776) . . 仙台放送 (全削除します 電波発信によって近隣の家屋が電波障害を被ったこと、そもそもテレビ受信に大きな障害があったことに対し、明瞭な記述がない限り、削除以外選択しがないようです。) (タグ: サイズの大幅な増減)
- アナゴ/ハモについて、図示できる程度の粒度で資料が揃うとは思っておりませんでした。正直見くびっておりました。そういう資料であれば佐々木翁にはご引退いただけそうで…。書籍にかかれている地図をまるまるアップしてもらうとすると、著作権関連の問題が生じる可能性もあるので、どの本か教えていただければ十分です。(もっとも入手が大変なら、記事化するのに時間がかかりそうですが。)--Insanity(会話) 2016年2月21日 (日) 17:53 (UTC)
この件ですね、これを悪行として、問題人物とみなしたと。それでは、なぜ、このような操作が、アルゴリズム上、なんのブロックもなく、可能なのでしょう。ご教授いただきたいと存じます。
--GarnetiteCat(会話) 2016年2月22日 (月) 10:45 (UTC)
(システム的に)問題人物とみなした、というのではなくて、個人的に抱く印象が悪くなったのかもしれない、という推測です。私としては同じ問題が繰り返されているわけでなければ、Wikipediaのためにもお互いのためにもならないので、無闇にとりあげて問題をこじらせたくないというのが本当のところです……。さて、「このような操作」が何を指しているか分からないのですが、編集の記録が公開されていることを指しているのであれば、これは「履歴表示」で「投稿記録」をクリックすることで誰でも閲覧することができ(詳しい説明)、どんな人たちが記事の編集に関わっているのか調べたり、編集方針を議論するときや管理権限を任せる投票を行うときにどんな人物か確認することができ、おたがいに顔の見えないインターネット上の共同編集では唯一人となりを知ることができる非常に有用なものだから存在していますと答えます。Wikipedia が始まった時からある仕組みであり、これがなかったらWikipediaは成功していなかったかもしれません。「このような操作」が問題人物とみなしたことを指しているのであれば、先に述べたように心証について話しているだけで、操作とかシステムとかは関係ありません。--Insanity(会話) 2016年2月22日 (月) 12:38 (UTC)
『「このような操作」が何を指しているか』仙台放送のウィキペディアを全削除した、私の「デモンストレーション」を指しています。言葉が足らなくて申し訳ありません。
ちょっと焦りました。私は、自分の行いを客観的なログにより顕にされるということに、抗議する心づもりはありません。
--GarnetiteCat(会話) 2016年2月22日 (月) 12:55 (UTC)
記事から項目の全部もしくは大部分を除去する行為は、利用者ページで過去の内容を過去ログとして最新の情報を見やすくする場合、二つ以上の記事を統合しリダイレクトにする場合、内容のほとんどが出典に基づかない記述であったときに大幅に書き換える必要があるときなど、有用な場合もあるので許されています。また、基本的にWikipediaは、問題を起きないように、できることを予め可能な限り絞っておくというスタンスではなく、やむをえない部分のみを制限するというスタンスを採用しています。誰でも記事を書ける仕組みである以上、誰でも荒らし行為ができるというのは避けられないことなので、結果として参加者の善意を信用する割合が大きくなっています。--Insanity(会話) 2016年2月22日 (月) 14:08 (UTC)
それでは、私の行為は、あらし?であると?--GarnetiteCat(会話) 2016年2月22日 (月) 14:14 (UTC)
「デモンストレーション」は、記事を執筆しよう、改良しようということを(直接の)目的とした編集とは言えないので、Wikipediaから見ると荒らし行為あるいは目的外利用にあたると考えられます。もちろん、ルールについてよく知らなかった、Wikipediaがどのような場かわからなかった、議論のやり方がわからなかった、ついつい熱くなって衝突してしまったなどということはあるので、そのようなことばかり何度も繰り返すのでなければ、そのことで非難したり、GarnetiteCatさんが荒らしであるなどと言うつもりは(私は)ありません。--Insanity(会話) 2016年2月22日 (月) 14:45 (UTC)
再び、「個人的記憶」で申し訳ないのですが、私の父母の家は、仙台放送の本社及び送信所のある大年寺という丘にありました。舌状丘陵という地質学用語の好例と言える地形でした。私の家では、電波が強すぎる、発信源が複数ある、といった状況で、画像・音質の鮮明度が現在では考えられないほど悪いという状況が、恒常化していました。工場の煙突が放出する煤煙、有害物質と、全く同様で、距離が保たれれば、さしたる問題ではないのかもしれません。結局自費でケーブルに接続しました。自治会は動かず、行政も動きません。ですから、これを論証する資料はないのです。
--GarnetiteCat(会話) 2016年2月22日 (月) 14:47 (UTC) -- 発言箇所を移動させていただきました。--Insanity(会話) 2016年2月22日 (月) 15:36 (UTC)
結局、『Wikipedia:新規参加者を苛めないでください』に戻ってくるのでは無いでしょうか。
Insanityにさんにその意図がないにしろ、過去を振り返り論ずるときに、滲み出てくる、Kinoriさんの所有権意識、私に対する素朴な憲官的言動。彼は、私に対し、「しかるべき典拠にもとづかずに除去編集を続けられますと、荒らしとみなさざるを得ません。各地の方言については研究の蓄積がありますから、どうぞそれらを調べてから修正してください。」と、の賜り、そして自滅しました。ハッタリかましたこと。この議論を、恐らく、必死に閲覧しているであろう、Kinoriさんの意識は、栄誉欲が染み出してきていますから。--GarnetiteCat(会話) 2016年2月22日 (月) 15:02 (UTC)
ここは「ハモ」のノートページですし、同じことを何度言っても仕方がありませんので、まずは記事を改善することについて考えませんか。どうしてもKinoriさんの行動が不適切と考えるならば、ほかの利用者からの意見を募るコメント依頼をするという手がありますが、厳しいことを言うと、このように記事を改善することができたのに所有権意識により妨害されました、と示すことができない現状で、これからも記事の編集に参加する予定は特にないというGarnetiteCatさんの意見に共感する人はほとんどいないと思われますのでおすすめしません。--Insanity(会話) 2016年2月22日 (月) 15:36 (UTC)
「所有権意識により妨害されました、と示すことができない」なるほど、論証には足らないのですか。しかし彼の人の行いを、他にどう解すのかと?・・・もうこの方面の話は、出尽くしましたね。--GarnetiteCat(会話) 2016年2月22日 (月) 15:58 (UTC)
論証云々というより、出典を追加するなど記事が改善できるところを先に改善したほうが、議論する価値があると思ってもらえるということです。(みな、百科事典の編集のために、議論しているのです。)出尽くしたということには、同意です。--Insanity(会話) 2016年2月22日 (月) 16:07 (UTC)
ファイルのアップロード
全国方言集覧に基づく表です。
マアナゴを加えた作表作業に入ります。ま、気長にお待ち下さいネ。--GarnetiteCat(会話) 2016年2月26日 (金) 11:26 (UTC)
お待たせしました。
--GarnetiteCat(会話) 2016年3月22日 (火) 11:08 (UTC)
図表の凡例
- この出版物は、「日本言語地図」を凌駕する大部の著作です。そして、検索大辞典と銘打っているように、ほぼ羅列が延々と続くものです。 編集にあたっては各都道府県ごとに章を作るスタイルです。 注釈はありません。 私はそれを、アナゴ類・マアナゴ、ハモのみ抜粋しました。そして、地図になぞらえて表示したのです。
- 発刊は2001年-4年です。
- この著作は集団作業により作成されたようです。しかし、いわゆる聞き取り調査を、各地域に万遍なく行うような、フィールドワークを実施するということではなく、既存の膨大な文献から、一旦カードを作成し、それをソートしたものです。つまりコンパイルする手法です。ベースとなる文献の時系列は概ね無視されています。そして地域については、その文献が示唆している地域をそのまま記載しています。地域名称も、文献発表当時のままで、その後の町村合併があるため、現存しない地域名称が多数見られます。
- 書名のサブタイトルは【動植物標準和名⇨方言名検索大辞典】となっていますが、巻頭で編者が編集の困難として、標準和名というものが確立していないことを挙げています。そのようなこともあってか、各頁の記載にあたっては、【和名⇒方言名検索】と表記されており、いささかトーンダウンしています。
- ということで実際の表記は、「和名⇨方言名」であり、和名は小項目として扱っています。
- 例えば、北海道のアナゴ類について、原著では
アナゴ類〔魚類:アナゴ科〕 ウクルルベ〔北海道:アイヌ名〕 ハモ〔北海道各地〕 ハモ〔北海道室蘭市〕
と記載されており前後は動植物名が五十音順には記載されています。私の図表ではこれを抜粋しました。
- (掲載なし)とクレジットされているのは、原著に存在しないという意味です。(掲載なし)と原本に記載されているのではなく、その県にはその項目が存在しないという意味です。
- 原著から抜粋した項目は、和名 アナゴ類、マアナゴ、ハモの3項目です。ハモ類もしくはマハモという項目は調査した範囲では存在しません。
- 原著では五十音順ですが、便宜上、アナゴ類、マアナゴ、ハモの順に各県配列しました。
もしアップデートに不備がありましたらご指摘ください。もっとも、恒久的に表示する意思はないのですが・・・--GarnetiteCat(会話) 2016年3月22日 (火) 11:18 (UTC)
Insanityさんもしくは他の方でご意見ありますか?
コメントいただけなければ本文の編集に入ります。--以上の署名のないコメントは、GarnetiteCat(会話・投稿記録)さんが 2016年3月27日 (日) 13:35 (UTC) に投稿したものです(111.217.27.53による付記)。
あっごめんなさい。--GarnetiteCat(会話) 2016年3月28日 (月) 12:28 (UTC)
アップデートしたファイルに付いて、重ねて警告が来ています。画像ファイル形式pdfによってアップロードしたため、目をつけられているようです。pdfは好んで使う形式です。しかし、既存の論文・出版物からの引用が、公的な目的であれば許されるならば、私の作表はその範疇であると思うのですが、どうもクレームを回避できません。今後消失するかもしれません。あしからず。--GarnetiteCat(会話) 2016年4月3日 (日) 14:40 (UTC)
編集しました
変更は最小限にとどめました。以下にハモの記載全体の問題点を書き留めます。
ハモの生息領域に関する記述の矛盾
- 「生態」欄には 西太平洋とインド洋の熱帯・温帯域に広く分布し、日本でも本州中部以南で見られる。 と記載。しかし
- 「漁獲」欄には 水揚げ第4位に銚子漁港(千葉県)が記載され、矛盾している。
ハモの生息領域に関する実態資料の欠落
私見では、関東地方沿岸は生息域であり、東北地方南部であるいわき市においても生息していると考えるのが妥当である。しかし、生息域は行政上の区分とは一致しないのが当然である。正確な生息域の北限については、確定できる調査資料が欠落している状況。ボーダーラインと思われる一帯は放射能汚染地域であり、現在の全地球的温暖化現象も考慮しなければならず、大きな課題である。
百科事典等では、北海道・東北を除く日本全国で生息。あるいは、北海道・東北・北陸を除く日本全国で生息。と記載され、北陸における実態についても、同様に未調査。
権利じみたもの一切の放棄について
私は、記載を目的にして、ウィキペディアに口を挟んでいるのではありません。不正確・質の低い記述に抗議するために、稀に編集を行います。基本は、質の悪い文言の削除ですが、結果としてやむを得ず記載にまで踏み込む場合があるという状況です。従って、より良く改めて頂く分には何も問題ありません。ここまで調べた資料もどうぞお使いになってください。--GarnetiteCat(会話) 2016年4月20日 (水) 07:17 (UTC)
今回の問題から学ぶべきこと
Kinori氏の記載に対する異議。これが全てです。ここから戒めとすべきことは、Kinori氏が、自らが資料として持ちだした宮城県史の記述について、その評価について瑕疵があったということです。
簡単なことです。調べてみれば、宮城県史の記述について、実態が顕になります。それに対しKinori氏は、「宮城県史」デアルカラ絶対的に正しいと宣ったのです。つまり、自身が依拠している資料を精読していない。とんでもないことです。
このような構図は、記紀に対し異論を唱えた諸子の議論に対し反論した太平洋戦争以前の国家権力と同様です。クサイデス。
調べれば、見通しは明らかで、それなのにKinori氏や数多のウィキペディア関連のヒトビトが、否定的な立場をとった。・・・これが留意すべき問題です。
つまり、ウィキペディアはその程度の、知識レベルの存在だということです。
つまりKinori氏は、辞典レベルの内容をコンパイルしている程度の存在であり、それ以上ではあありません。辞典では採り上げない内容に踏み出して、自分を奢ろうとするあまり、資料価値の低いものにまで手をだすというのが、ウィキペディア側で何件も著作している人物ということでしょうか。
--GarnetiteCat(会話) 2016年6月29日 (水) 11:32 (UTC)--GarnetiteCat(会話) 2016年7月13日 (水) 09:26 (UTC)