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ノート:ヨーロッパにおける政教分離の歴史

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報告&改めて提案

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報告

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  • 報告 ノートでの合意にもとづき、
「1 政教分離における歴史学的視座」にコントアウトを付し、
「2.2 古代のキリスト教思想(〜500年)」を「初期キリスト教」に移動し、
「2.3 キリスト教普遍世界(500年〜1500年)」を「中世ヨーロッパ」に移動しました。--Greenland4会話2017年6月23日 (金) 10:47 (UTC)[返信]

関連する質問・提案・報告等

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(サブ節化させていただきました) --Greenland4会話2017年6月24日 (土) 15:45 (UTC)[返信]


(質問と提案)横からすみません。前回の改名提案の手続きはいつだったのでしょうか。Wikipedia:改名提案をみても探すことができませんでした。今回の分割提案はSusukaさんがやってくださって助かったのですが。もし、手続きをしていないのだとしたら、いったん分割前の名称「政教分離の歴史」に差し戻すべきではないでしょうか。そのうえで、あらためて「キリスト教国家論の歴史」など、正式に改名提案をおこなうべきではないかと思いますが、いかがでしょうか。--Greenland4会話2017年6月24日 (土) 13:12 (UTC)[返信]

Susuka(会話)さんが2017年3月11日 (土) 17:20に提案されています。その後、議論停止案件で除去されました[1]。大和屋敷さんの「キリスト教国家論の歴史」の改名提案は 2017年5月27日 (土) 12:09です。--121.107.209.16 2017年6月24日 (土) 13:39 (UTC)[返信]
返信 そうでしたか。過去ログはまったく見ていないのでトンチンカンな質問をしてしまいました。御丁寧な返答、ありがとうございました。提案を取り下げます。--Greenland4会話2017年6月24日 (土) 13:44 (UTC)[返信]
報告 本記事分割前の中世部分について、ノートでの合意が成立し、「中世ヨーロッパにおける教会と国家」への改名作業をおこないました。--Greenland4会話2017年7月1日 (土) 18:32 (UTC)[返信]
コメント 121.107.209.16さん、新記事作成お疲れ様です。そして、ありがとうございます。上でYuukin0248さんもおっしゃっていますが、「要出典」タグ、「独自研究」タグが異様に貼られていて、本記事、「初期キリスト教」、「中世ヨーロッパ」(「中世ヨーロッパにおける教会と国家」に改名を提案中)、いずれも、よく練られた素晴らしい文章であるにもかかわらず、可読性がおおいに損なわれています。こういうタグが貼られてしまうと、どんなによいことが書いてあっても「文字列」にしかみえないような人も出てきてしまうので、実に不毛で情けない話です。これは、本改名提案とは別に今からでも着手できることであり、また、緊急に取り組まなければならないことでもあります。今は、出典に関しては以前より厳しくなっていて、極端な話、一つの文につき一つ以上の出典をつけなければならないような状況ですので、そのあたりもお含みいただいて、各自、可読性の向上に御協力くださいますよう、よろしくお願いいたします。--Greenland4会話2017年6月26日 (月) 00:29 (UTC)[返信]
コメント 言葉足らずでした。121.107.209.16さんには、分割後の2記事について「正確性」タグの除去などの作業をしていただいており、可読性が格段に向上しております。上のお願いは主として本記事にかかわることです。検証可能性に関しては、山川出版社の「宗教の世界史」シリーズなどでも相当補えるものと思います。
  • 松本宣郎『キリスト教の歴史(I)』山川出版社〈宗教の世界史〉、2009年8月。ISBN 4634431386 
よろしくお願いします。--Greenland4会話2017年6月26日 (月) 00:56 (UTC)[返信]
その「要出典」は多くは私が付与したものですが、それは硯箱さんとの対立的な議論のなか、「そこまでいうなら出典くらい明記してください」という思いを込めて付けたものでした。しかしそれも過去の話で、分割が実現できましたので協力します。本音からいえば、山川各国史などで出典を明記することなど容易であったのに、硯箱さんが学会で一流と認知された学者の出典に厳密に依拠するべきだといった議論にもっていかれ、私もそれに感情的に反応したためにここまで長くなったのだと思います。勉強になりましたので、今となっては有益であるとは思えますが。--121.107.209.16 2017年6月28日 (水) 15:52 (UTC)[返信]

報告「政教分離の歴史」のテンプレート]をつくっておきました。この記事のタイトルがどうなるかは別として、テンプレートくらいは必要だと判断しました。最低限、121.107.209.16さんのつくってくださった「イングランドとニューイングランドにおける政教分離の歴史」の記事には貼るべきと考え、貼っておきました。他の記事への貼付はいましばらく待った方がよいと思いますので、今は、それだけにとどめておきます。--Greenland4会話2017年7月1日 (土) 00:32 (UTC)[返信]

改めて提案

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  • 提案 みなさま、御確認ありがとうございました。図らずも無知浅学で我がまま気まま、礼儀知らずな私が、分不相応にもかかわらず進行役のようなかたちとなり、みなさまにたいへん不愉快な思いをさせてきたのではないかと思います。数々の不行き届きの段、お許しください。水に流していただけると幸いです。とくに硯箱さんには大変無礼なことを申し上げました。重ねてお詫び申し上げます。さて、前回提案の(1)~(6)のうち、前節報告のコメントアウトおよび移動編集によって、(1)~(3)は解決したことになります。121.107.209.16さん、Susukaさんには移動後の書式調整など御尽力いただきまして、ありがとうございました。移動後の各記事をみれば、いかにこの記事が精魂込められた素晴らしい記事であるかがわかろうかと思います。実は「初期キリスト教」「中世ヨーロッパ」ともにそれぞれ幅広い対象を扱う壮大な記事であり、古代史・中世史に詳しい方々から磨きがかけられ、さらに良い記事になっていくのではないかとおおいに期待されるのであり、各記事「再生」の場に立ち会えたこと、嬉しく思います。のこるは(4)~(6)、言い換えれば、「記事名」と「時代」ということですが、議論を通じて「空間的広がり(地域)」が新たな論点として浮かび上がったという段階ではないかと思います。「記事名」「時代」「地域」は、それぞれ互いに深く結びついており、これについては一連の御意見となろうかと思います。一挙に全部と欲張らず、とりあえず「記事名」にしぼって話を進めたらどうでしょう。少し整理をさせていただくと、
A 改名せず(「キリスト教国家論」を維持)
B1 記事名「政教分離の歴史」(全世界を対象)
B2 記事名「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」(主としてヨーロッパを対象)
B3 記事名「政教分離成立の歴史」
B4 B1~B3以外で「政教分離」を使用した記事名
C 「政教分離」を使用しない記事名

このなかから選ぶということにしたら、いかがでしょうか。ここで気をつけたいのは、《「政教分離の歴史」(主としてヨーロッパを対象)》は候補から外したいということです。これは騒動のもとになりますから、これだけは避けたい。そして、議論が長引いた場合でも、少なくともAではない=おそらくBのどれかになりそうということになったら、その段階から編集可能としてもよいのではないかと思います。--Greenland4会話2017年6月23日 (金) 18:41 (UTC) [返信]

提案 (追加)差し出がましい提案かもしれませんが、いったんGA(良質な記事)は返上したらどうかと思います。おそらくは中世部分が評価されたうえでのGAだろうと思うので。ノートで完全合意が成立したら、そのときあらためてGAなりFAなりを目標にしたらよいのではないかと思います。共通の目標ができたら、かつての論争相手も編集協力者という関係に変化し、気持ちよくこの問題を終えることができるかもしれないからです。--Greenland4会話2017年6月23日 (金) 20:03 (UTC)[返信]
コメントでは、言い出しっぺから。B1~B3のどれでもよいと思います。B1が簡潔さと自由度においてすぐれていて、B2とB3は厳密さにおいてすぐれていますが、そういう意味ではB3が意外とよいのではないかと思います。書き手の誤解も少なく、読み手が予備知識ゼロでも記事名自体が政教分離(原則)の起源が欧米にあることを「教える」ものだからです。理想はB1で、「後史」部分を硯箱さんが書いてくださるとたいへん良い記事になるのではないかと思います。私は無理です(やる気も能力もありません)。ただし、そうなったとしても、「固有」論は、少なくとも記事のなかでは封印していただきたいと思います。いくら固有だと言っても、現実には言葉そのものが固有に使われていないので固有にならないということで、結局わからなかったです。この議論には向いていないと痛感しました。B2でもよいと思います。以下の議事進行はどなたかにお願いして、おいとましたく思います。--Greenland4会話) 2017年6月23日 (金) 19:01 (UTC)(少し加筆)--Greenland4会話2017年6月23日 (金) 19:20 (UTC)[返信]
  • コメント まず、Greenland4さん、TENさんにおかれましては、歴史学的観点による硯箱さんの主張を解説・補強してくださり、合意形成を引き出して下さるなどの大きなお働きについて、深く感謝しているということを述べさせてください。また、Moon.riseさん、ジャム・パンナさん、Susukaさんなどの常識的な見地からの発言や素朴な疑問・発言なども、大変参考になりました。Yuukin0248さんの簡潔なまとめ、アルトクールさんのご仲裁、初期から議論にご参加され進行役も務めて下さった雅ハルカさんと大和屋敷さん、そして最初に改善を試みて下さり非常に面倒な文献調査をしてくださった121.107.209.16さんにおかれましては、それぞれがWikipediaの記事をよくするために多くの時間を費やされたことと思います。それについても感謝しかありません。硯箱さんにも、記事名の改名に反対しない旨を再びご表明いただきましたことについて感謝いたします。
現時点でいいと思う記事名は、
  • B4「政教分離原則成立史」
  • B4「政教分離」としてこの記事にして定義を書き歴史節を設ける(定義としては、意味は定まっていないとし、使用例を書くしかないでしょうが)
  • B4「政教分離原則成立の歴史」
  • B3「政教分離成立の歴史」
  • B4「ヨーロッパにおける政教分離」としてこの記事が扱う範囲を定義部に記し歴史節を設ける
  • 「ヨーロッパの教会と国家」
  • B2「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」
です。私は記事名に、「〜の歴史」とつけることに長らく反対の立場を取ってきました。理由としては、政教分離はときに政教分離原則ライシテライクリッキなどと同じ概念として使用されることがある言葉なので、「政教分離の歴史」だけだと「政教分離原則の歴史」などと勘違いされる恐れがあるからです。その点、「政教分離原則成立史」や「政教分離原則成立の歴史」であれば誤認はないんだろうと思います。「ヨーロッパの教会と国家」はそういう翻訳が多いと思ったためですが、Greenland4さんなどから「教会と国家」を見てどのように感じたかというコメントを拝見し、これも一般的にわかりづらい名前なんだろうと認識しました。また、121.107.209.16さんがイングランドとニューイングランドにおける政教分離の歴史を新規立項してくださったので、「政教分離の歴史」を複数記事に担当させて「政教分離の歴史」シリーズの一つという位置づけで「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」のようにしていくのも、利便性が高まるといえるでしょう。この記事に何を加筆できるのかがまだ定まってないので、多めに挙げておこうと思います。
硯箱さんが執筆された内容は、歴史学的知見に基づいていることが前提なのですが、「歴史学的知見」「歴史学的視座」というひと言で済ませてしまっては、Greenland4さん、TENさんのような深い知識をお持ちの方なら阿吽の呼吸で理解されるとはいえ、一般的には非常にわかりづらいんじゃないかと思ってます。一番分かりづらいのは、「歴史学的知見」に基づくと、なんで政教分離原則ライシテライクリッキと違う概念を指すことになるのか、ということじゃないでしょうか。これについては、硯箱さんの、狭義の政教分離がライシテライシズムと同義として用いられるという発言で解決を見たと思います。当初から論点となってたのは、硯箱さんが主張されている「政教分離」は、一つの主張にすぎず、一般的には共有されてないために、それを一主張として記述するのはいいとしても、一般的には独自研究や雑多な記事の羅列にしか見えない、ということです。定義部には新たに、この記事における「政教分離」が、ライシテライクリッキほどの狭義の意味を指さず、また、政教分離原則ほどの広義の意味を指さないということ、この記事において「政」が指す範囲と「教」が指す範囲等を簡潔に概説すべきじゃないかと思います。まあ、できれば硯箱さんが主張される「政教分離」の定義を執筆していただけると議論しやすくなるのですが、難しいでしょうかね。また、アメリカ合衆国やフランス革命以降の「政教分離」を政教分離原則#歴史のみで記述するなら、政教分離の歴史政教分離原則#歴史へのリダイレクトがいいんじゃないかと思います。ちなみに、この議論の初期段階では、私はこの記事は「(中世)ヨーロッパの教会と国家」にすればいいと思ってましたので、アメリカ合衆国などは政教分離原則#歴史に書けば良いんじゃないの? と主張をしてたと記憶してます(履歴は見てませんがおそらく。文献で言うと『宗教の事典』でいう第三類型(アメリカ等)は政教分離原則にぜんぶ書けば良いという主旨の主張)。これらの分野について、(今後は硯箱さんが編集されないということなので)現時点で意欲的に執筆されてる121.107.209.16さんがどう考えられているのかも参考とさせてもらえればと思ってます。いったんGA(良質な記事)を返上し改めて目指すということについては、そのほうが良いでしょう。--ぽてから会話2017年6月23日 (金) 21:16 (UTC)[返信]
コメント新しいロードマップを提示していただきありがとうございます。横槍をいれてばかりで会話さんにはストレスをかけていると思いますが、冷静な対応と議論の方向性の提示に本当に感謝しております。以下、意見です。
歴史学的知見に基づいている、と言う表現が適切かはさておき、歴史分野に関連する書籍と照らして硯箱さんの書いている内容は総体的には違和感を感じるものでは無い、と言うのが個人的な感想ではあります(私の読む分野の本はちょっとこの記事の主題とは直接関わる領域の物ではありませんが)。長文からくる主張の分かりにくさや議論姿勢について思う所はありますが、主張されていることは独自研究と切って捨てることができるような突飛な話ではないという感想です。ただし、ぽてからさんの言われる通り、そして昨日買ってきた書籍にある通り、政教分離と言う単語自体が多義性のある単語であるため、当然のように教会と国家の分離現象と言う意味で使用しては一般的には意味が解らないと言う意見に同意します。
その上で、私の意見としては以下です。(上にあるほど好ましい記事名であると思います)
  • B2「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」・・・(この場合「政教分離の歴史」は曖昧さ回避のようなページになるのかなと思っています))
  • B1「政教分離の歴史」(全世界を対象)・・・ただし冒頭に言葉の定義に関する簡潔な説明を設ける形式とするのが絶対条件
また、反対の立場を述べるのは建設的でないかもしれませんが
  • B3「政教分離成立の歴史」・・・(政教分離の多用な意味のうち、本記事の現状である「ヨーロッパにおける聖権と俗権の分離」と言う意味あいと適合しづらい名前に見えます)
には個人的に賛成しづらいです(大多数の方がそれでまとまるなら、仕方ないかもしれませんが・・)
  • A「キリスト教国家論の歴史」・・(一言で言って「キリスト教国家論」が一体何なのかがわからないです。この名前にもとづいてこの記事がどう編集されていくのか、「政教分離の歴史」よりわかりづらくなると思います)
には明確に反対させてください。--TEN会話2017年6月23日 (金) 22:06 (UTC)[返信]
コメント 専門的な知識から提案やコメントをされたGreenland4さんをはじめ、皆様が記事の改善のために議論に参加していただいたことに感謝します。
さて、記事名に絞って話を進めることと、GA返上に賛成します。
GA返上は、ここまで分割が行われているのですから必然です。分割された部分や現在の記事は無出典が多いですから、それらを直した上でGAは可能だと思います(それにしても、要出典が多いですね)。以下は、改名提案へのコメントです。
  • A 一応反対します。TENさんが『「キリスト教国家論」が何なのかわからない』と仰られていますが、その通りだと思います。
  • B1 反対はしません。結局、今回分割が進められた部分や「政教分離原則」への案内が行われるなど、この記事名で担えないことはありません。
  • B2 100%主観となってしまったため、表明しません。ただ、ぽてからさんも仰られたように「○○の歴史」を構成する記事となるため、わかりやすくなる。
  • B3 賛成寄りです。概要を読むに、政教分離が成立していった歴史を扱っているというのが読み取れますので、案の中ではかなり優れていると思います。
  • B4/C 意見はありませんが、「ヨーロッパの教会と国家」にも興味があります。
と、いったところでしょうか。なかなか決め手がありませんので、申し訳ありません。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年6月24日 (土) 00:25 (UTC)[返信]
コメント 皆様のご協力に心より感謝します。そして硯箱さんも分割に合意していただきありがとうございます。すでに内容豊かな初期キリスト教中世ヨーロッパに対しても今後私からも加筆をしていくこともあるかと思います。さて、記事名についてですが、B2の「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」でもいいのですが、私はB1「政教分離の歴史」でよろしいのではないかと考えます。
私がこの記事への編集に関わったのは内容よりも、分量の過剰が最初に気になったためでした。しかし分量の問題もGreenland4さんの移動分割と硯箱さんによる合意によって解決いたしました。その意味では、残された記事の名前について私は特にこだわりはありません。
  • A 「キリスト教国家論」は大和屋敷さんのご提案ですが、この提案について私は一度賛同しながらのちに硯箱さんの異議を認めて撤回しています。なお、私は当時の改名議論では「キリスト教と国家」「教会と国家」などを提案していました。日本語や英語の各種事典でも「キリスト教と国家」「教会と国家」という項目は存在しますし、「政教分離」の英語の直訳は「教会と国家の分離」なので、本来の意味に忠実なのであればこれの方が適切なのですが、日本の一般用語としては全く定着していません。個人的には「政教分離」は誤訳と思っていますが、日本語として定着している以上、Wikipedia:記事名の付け方から賛成いたします。つまり、「キリスト教と国家」「教会と国家」は撤回しますし、また「キリスト教国家論」または「キリスト教国家」については、ノート:ヨーロッパにおける政教分離の歴史/過去ログ7#「キリスト教国家論」の関連文献を読み込んだうえで新規立項するといいと思います。以前の改名議論は、分割以前の「古代・中世・近世総論」状態について、硯箱さんが記事の統一性の観点より分割に反対されていたので、しかたなく改名議論へとシフトチェンジしました。しかし、いまやその改名議論の前提である記事分量問題が解決いたしましたので、硯箱さんが文献を提示しつつ反論もされているので、もはや「キリスト教国家論」にこだわる理由もないのではないかと思います。大和屋敷さんもおそらくは同意されるのではないでしょうか。
  • B1「政教分離の歴史」がベスト。
  • B2の「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」は可。「イングランドとニューイングランドにおける政教分離の歴史と併存させるというのもいいと思いますが、硯箱さんも反対されていることですし、私はこだわりません。
  • B4、Cは「政教分離の歴史」に「成立」や「原則」といった語句を付与することに反対はしません。なお、「政教分離と政教分離原則は異なる」という見解に対しては、広義の政教分離と狭義の政教分離の違いであって、「政教分離とは、世俗化や近代化といった歴史的過程を経て、憲法上の政教分離原則として結実するまでの一連の過程、あるいはその過程における教会・宗教と国家の関係のこと」ではないかと思います。この定義は独自研究です(笑)。wikipedia技術上からいえば、「政教分離」(総論)と「政教分離 (法学)」を分けるというアイデアもあるかと思います。これもいま思いついただけのことを発言しているだけなので、私からこの点について学術的な議論をする気はありませんので軽く聞き流していただければと思います。--121.107.209.16 2017年6月24日 (土) 13:03 (UTC)[返信]
コメント Moon.riseです。合意部分の編集および、次段階の記事名まとめへと進んでまいりましたことを嬉しく思います。すべての皆様への感謝と、特に、これまで提案・進行して下さっているGreenland4さんへの感謝を申し上げさせてください。また、これまでの流れから、私からTENさんへの感謝も特に申し述べさせていただきたいです。
さて、記事名についての意見です。
  • B2 記事名「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」(主としてヨーロッパを対象) 私の意見ではこれがベストと思っております。理由はこれまでに挙げてきた通りではありますが、「記事の守備範囲を明確にする」これができることを重要と考えております。
  • B3 記事名「政教分離成立の歴史」 次いでこちらもよいと思っております。理由についてはほぼ同じです。こちらの場合には、すでにある「イングランドとニューイングランドにおける政教分離の歴史」との併存について、きれいに整合するのかどうかが、ちょっと気にはなります。--Moon.rise会話2017年6月26日 (月) 11:45 (UTC)[返信]
コメント みなさま、御意見ありがとうございました。もっとたくさんの意見表明があるかと思いましたが、5人にとどまりましたので、この意見表明をもとに記事名を決めていきたいと思います。「おいとまする」というのも無責任な話で、そこはお詫び申し上げるとともに撤回します。見通しもわるくなったので、改めて下に新しい節を設けてそこで審議しましょう。--Greenland4会話2017年7月1日 (土) 18:54 (UTC)[返信]

改名に関する意見集成とそれを受けた議論

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意見集成

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提案項目 A「キリスト教国家論の歴史」 B1「政教分離の歴史」
(全世界対象)
B2「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」
(主としてヨーロッパを対象)
B3「政教分離成立の歴史」 B4/C その他
Greenland4 反対 賛成 ベスト 賛成 賛成 わりとよい 意見なし
ぽてから 意見なし 反対 賛成 よい 賛成 よい 「政教分離原則成立史」
「政教分離原則成立の歴史」
「政教分離」歴史節
「ヨーロッパにおける政教分離」歴史節
TEN 反対 賛成 賛成 反対 現状と不適合 意見なし
Yuukun0248 反対 賛成 棄権 賛成 かなりよい 意見なし。「ヨーロッパの教会と国家」には関心あり
121.107.209.16 反対 分割後の名称としては不適 賛成 ベスト 賛成 賛成 反対せず 「成立」「原則」を付すことに同意
Moon.rice 意見なし 意見なし 賛成 ベスト 賛成 次点 意見なし

以上、私も含めて6人の意見が表明され、まとめると上のようになると思います。加除訂正ありましたら、各自で対応お願いします。方向性としては、A「キリスト教国家論の歴史」という現状の記事名を変更した方がよいことが改めて確認され、ここにはコンセンサスがあるとみてよいと思います。そして、新しい記事名称を選ぶとすればB1〜B3のなかからということでよいのではないでしょうか。「反対がない」という意味では、B2で決定ということになるわけですが、そういうふうに話を進めてよいのか、それも含めて御審議いただければと思います。なお、上に設けた「査読のコーナー」に記事名や記事の方向性を考える際の有力な手がかりが書き込まれる可能性もあると考えます。--Greenland4会話2017年7月1日 (土) 21:13 (UTC)[返信]

意見集成をふまえた議論

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報告改名合意成立とみなし、記事を「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」に移動しました。みなさま、おつかれさまでした。ありがとうございました。--Greenland4会話2017年7月11日 (火) 11:52 (UTC)[返信]
報告移動の作業をおこないました。--Greenland4会話2017年7月12日 (水) 21:45 (UTC)[返信]

査読のコーナー

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分割作業も済んで、だいぶ見通しもよくなり、あらためて記事名について、記事の指し示す範囲について論じることのできる環境が整ったように思います。とはいえ、実のところ「最初に改名ありき」という話でもないように思うのです。これが、硯箱さんも御指摘なさった「ウィキペディアの限界」であり、この記事のつづきが加筆されず、また、内容面での改善が何ら図られることもなく放置されることも充分に考えられるからです。そこで、現状の本記事の内容について、査読するコーナーを設けました。本記事が諸文献を渉猟して書かれた格調高い文であることは疑いのないところではありますが、しかし、「政教分離の歴史」ないし「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」(の一部)を説明するものとして成功しているかどうかはまた別の話です。「欠席裁判」ということになってしまうかもしれませんが、ウィキペディアの場合、そこにいる人がまた新しい当事者になるというしくみであり、そこにいくばくかの可能性もあるわけですから、他の議論参加者がどうこうというような話ではなく、「記事の改善」だけにしぼって論じていただきたい。不毛な対立を避けるために、このコーナーのなかでは互いにコメントを付けあうことは禁止とします。ここでの議論参加者は少なくとも、議論を通じて政教分離について考え、学び、調べもしたと思います。ここはひとつ、各自、レポートを受理した指導教官のような気持ちになって本記事を査読・論評いただければと思います。みなさま、どうかよろしくお願いします。--Greenland4会話2017年7月1日 (土) 19:39 (UTC)[返信]

Greenland4(1)

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では、言い出した者から。まずもって、主筆者の執筆に向けた労苦と情熱には心から賛辞と感謝を申し上げたいと思います。そのうえでの話ですが、本記事にはいくつかの問題点があると思います。本記事が、当初から「政教分離の歴史」を企図して執筆されたことは明らかで、そのことは、「宗教改革(プロテスタント側から)」節から「ドイツの領邦教会制度」節にかけて、「ルター派の側もザクセン選帝侯などが政治的理由から硬化した態度を取り…」(本文)、「かくして宗教改革は教義の問題をこえて政治問題と化した。」(本文)、「ドイツ国内の政治問題への宗教改革の関与を規定することになった」(画像キャプション)、「当初はごく限定的な教会の腐敗の問題、あるいは教義上の問題から出発した宗教改革は、その影響が広汎にわたるとともに政治的な傾向を強くした。具体的には宗教改革はまず教皇首位権への挑戦という宗教内の政治的問題に変容し、さらにドイツ国内の皇帝権に対する諸侯の自立を求める、極めて直接的な政治問題に転化した。」(本文)…というふうに、しつこいぐらいに「宗教改革の政治問題化」というフレーズが繰り返されていることからもわかります。こういう書き方だと、読者には「政治問題化」したからこそ宗教改革から宗教戦争が派生したんだろうなというくらいは伝わるだろうし、その程度のことは漠然とであれ常識として元々知っていたという人も多いと思います。しかし、一番肝心なこと、そもそもルターらの言ったことが「『なぜ』政治問題になったのか」が書かれていません。ここにおいて「なぜ」「どうして」の問いが発せられていないので、説明がひじょうにわかりにくいものになっています。ルターが「聖書のどこを読んでも教会のことなんて書いていない」と言ったこと、これが大きかったわけです。あの局面でこれを言ったら必ず政治問題化するだろうということが、本記事を読んでも伝わらないのです。このことばこそ、当時、社会にあって絶大な権威と権力をもっていた教会を蒼ざめさせる力をもっていたし、教皇と張り合いながらも帝冠を教皇から戴いている立場の皇帝の心胆を寒からしめるものであった。ルネサンスの芸術も色あせてしまうほどの衝撃、「神聖ローマ」の名前に砂をかけ泥を塗るような驚き、今までプロレスをやってきた教皇・皇帝に対し、無粋ながらも外側から剣をもった観客が乱入したくらいのインパクトがあったわけです。経済的にはイタリアから搾取され、政治的には教皇・皇帝のどちらか、あるいは双方への屈服を余技なくされていたドイツ諸侯のなかには少なからずルターの言葉を「これはイケる」「使える」と思った人たちがいる。だからこそ「政治問題化」したのです。これは、割と小中学生にもわかる理屈でしょう。これに言及しただけで「宗教改革」で把握される諸事象のうち、「政教分離」につながる要素の半分は説明したことになるのではないかと思います。ところが、ルターらの聖書中心主義や万人司祭主義はずっと後の「宗教改革派の諸思想」節に申し訳程度に出てくるだけで、それも専ら神学的話題としての言及であって、政治にあたえた影響はまったく考慮されていません。これだと、わかっている人もわからなくなってしまう。肝心なことは書かれておらず、その周辺のことばかり詳細に描かれているので、「流れがつかみにくい」「わかりにくい」「冗長なところが多い」、もっというと「歴史叙述になっていない」というのが第一点。長くなりそうなので、今日はここまで。他のみなさんの査読もお待ちします。--Greenland4会話) 2017年7月2日 (日) 23:22 (UTC)(リンクや字句の修正)--Greenland4会話2017年7月3日 (月) 01:18 (UTC)[返信]

査読を受けて

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根本問題としてルターが教会を否定したことはありませんし、明確に教会に固有の救済的価値を認めています。基本文献であるマクグラスを読めば、この点は明確です。次に政治問題化した事情については二世界論が重要で領邦教会制度を思想的に援護することとなったことは明確にされているように思われます。政治状況については分割によって承前関係が失われているためにわかりにくくなっている観はあるとは思います。ところで、中世において政治思想が神学的文脈において考察されることについてはすでに歴史学上の常識であり、この点は将基面貴巳『ヨーロッパ政治思想の誕生』で研究動向が詳しく記載されております。この点についても承前関係がないためにここだけ読むと、なぜルターの思想が政治社会に影響を与えるのかということがわからないというのはありえることですが、歴史学に通じていらっしゃるのなら、ノートでの議論においてこの点に疑問を呈されるということは基本的にないように思われます。ワルター・ウルマン以降の政治思想史の学術的潮流をご存じであれば、この点について疑問は特にないでしょう。当時のドイツがイタリアから搾取されていたというのも明らかに現状の歴史学研究の成果に反するもの(アンドルー・ペティグリーを見よ)で、贖宥状の問題に関してもむしろそれはドイツの一大産業であり、宗教改革もその印刷革命の産業的興隆と商業的隆盛に支えられたものであることが定説となっています。--硯箱会話2017年7月3日 (月) 04:45 (UTC)[返信]

ちょっと内容面ではまだ読み込み不十分なのであまり明瞭な査読はできないのですが、西洋政治史や政治思想史だけが歴史学ではないので、「歴史学を知っているなら疑問の余地はない」という言い回しは不適です。その理屈でいくと私は「なぜルターの思想が政治社会に影響を与えるのか」について疑問無しとはしないので、この記事には関与できないという感じになります(私が普段取り扱ってる分野では基本的にルターを問題にしないので・・)。端的に言って、この記事の問題点は読者に(そして執筆者に)事前知識を要求しすぎる点だと思うので、正直分割前の状態であっても「なぜ」の説明ができていたようには思われません。早い話、分割前の過去の多くの読者、執筆者が「なぜ」初期キリスト教や中世ヨーロッパの説明から始まっているのか、読んでわからなかった事実がありますし、それは現存部分についても同様に見えます。具体的にここ、と言えるほど読み込めていませんが、「歴史」と銘打ちつつ、事象の羅列になっていて「物語」が見えてこない印象です。上の査読の文章を読んでいても、歴史学研究の分野では硯箱さんが正しい(かどうかを判定する知識量が私にありませんが)かもわかりませんが、読んでいてに頭に入ってくるのは間違いなく(現在の記事の文章よりも)Greenland4さんの叙述の方です。この点、個別の内容はともかく文章構成についてはGreenland4さんの指摘通り因果関係(なぜ)の記述を強化し(かつ簡潔に)する必要があると考えます。--TEN会話2017年7月3日 (月) 06:03 (UTC)[返信]
正直わかりやすいからよいという基準で話をされても、事実と異なることをわかりやすいから記述せよという話になるなら、それは私には全く意味がわからない議論です。百科事典として簡潔性を期すのはもちろんですが、宗教改革に関わる研究で明らかに否定されている見方を採用すべきというのは私にはよくわかりません。中世政治思想の伝統と近代の社会思想や政治思想との連関性とそこにおける教会法論と神学の影響が再評価され、日本でも主要な政治思想史家がこれを支持し、すでに定説となっているのですが、それがわかりにくいから記述されるべきでないという議論であれば、それは明らかにおかしいのではないでしょうか。とはいえ、私自身は研究動向を述べているだけですから、それをどこまで記述に振り分けるかは別問題です(私だったら読者のために詳しく記載するでしょうが、ウィキペディアに記載されるべきかは判断を保留します)。「物語」として記すべきというのも私にはよくわかりません。繰り返しになりますが、政治状況についてはいささか説明不足なように思われますが、Greenland4さんの説明はかなり研究成果に反するものであるので、そりゃちょっとないんじゃない?という話です。社会における宗教熱の高まりと民衆信仰の拡大、前宗教改革的な思潮、特殊ドイツ的な政治状況、それらと物理的な印刷革命が結びついたことによって宗教改革は激化し、政治問題化さえしたということ、そもそも当時の人がみんながみんなルターに飛びついたというような単純な状況ではないことは、その著作の販売網についての研究によっても明らかです。因果関係の記述を強化することには全く賛成ですが、ありもしない因果関係を作る必要はないのではないでしょうか。TENさんの文章を読みますと、私が政治思想史だけを採用せよと言っているように思われている気がするのですが、私はあくまでGreenland4さんがルターの影響という話で「物語」を作られていたので、少なくとも思想史上の政治における影響については定説があるということを示したのみで、その他の社会史的・政治史的な研究動向についても簡潔ですが指摘していることはおわかりと思われますので、その点については確認していただきたく思います。私の発言の趣旨は歴史学全体を見通して、さすがにそのような説明はありえないという発言です。因果関係の不足そのものに対して反対しておらず、その不足はむしろ私も指摘していることをご確認下さい。社会史的な背景については渡邊伸『宗教改革と社会』および永田諒一『ドイツ近世の社会と教会』という邦人研究者による中心的な文献(学界でも文句なく信頼されている著作だが、どこまで盛り込むかは要検討)があり、関連する教義についてはマクグラスの大学教科書シリーズ(最低限これくらいは押さえたい)が翻訳されております。政治史については世界歴史大系で問題なくカヴァーできると思われます(この点に関して概説以上に踏み込む必要は感じません)。印刷革命についてはアンドルー・ペディグリーのものをはじめ、最近は様々な体系的著作の訳書が出されており、研究動向を踏まえるのは容易なはずです(印刷革命なくして贖宥状も宗教改革もないというのは通説)。--硯箱会話2017年7月3日 (月) 06:44 (UTC)[返信]
うーん、そうですねえ。「わかりやすいからよい」という話ではないです。Greenland4さんの記述内容に仮に誤りがあったとして、「これは違う、修正。」「これも違う、修正。」ではそこでどんづまりで話が先に進まないのです。私のとらえ方は本意ではない、とのことですが、なかなかにそれを最初の文章から読み取るのは困難です(^^;
で、せっかく因果関係の説明についての提案がなされたので、私の発想としては以下です。
  1. (私の見解として)現状の記事は因果関係が分かりづらい。
  2. Gleenrand4さんの叙述する因果関係の説明は非常にわかりやすく見える。
  3. 硯箱さんの意見として、事実関係に誤りが見られるという指摘がある。
  4. では、Gleenrand4さんの叙述構造をベースに、硯箱さんの指摘で内容を修正しつつわかりやすい文章を作る。
という流れを想定したいところです。例えば現在の「概要」節などは、「1章では○○についての研究史を概観しつつ、筆者の立場を明らかにする」「2章では××の見解に基づき○○の今日的理解を詳述する」~というような、まさに歴史学分野の専門書や論文の概要や前文に典型的な構文になっています。が、百科辞典の概要で求められるものはこれではなく、どう考えてもGreenland4さんのもののような、全体像を把握できる簡潔な叙述だと思うのです。なので、概要、或いは宗教改革の節の冒頭にはGleenrand4さんの叙述のようなものを持ってきて(詳細の正誤ではなく、構成としての話です。)その上で、内容に研究動向と齟齬があるのであれば、研究動向に沿った内容に改めれば全体像のつかみやすい概要節が出来上がるのではないかなと思うのですけども。まあもうちょっと本を読んでからでないと具体的に私の方から提案はできませんが・・。
ちなみに、「物語」と表現しましたが、個々の記述の骨組みとなる軸が必要というだけです。なお、蛇足で言うと、硯箱さんの言う研究分野の常識については、今のところ私では判定不能なので、上の話はあくまで指摘が的確であるという仮定の上での話です。--TEN会話2017年7月3日 (月) 07:34 (UTC)[返信]
『世界歴史大系ドイツ史1』を読みましょう。現状日本で最も信頼できる概説書というだけあって、確認したところ、以上の論点はほとんど盛り込まれています。難しい議論に立ち入る必要はありませんが、せめて通説的見解だけは共有したいものです。いくら素人向けのウィキペディアとはいえ、ノートの議論においても、これぐらいの内容は常識として踏まえることは出来ないんでしょうかね。百科事典の概要については世界大百科事典などは研究史についての記述も簡略ながらあるので、一般的に研究史に配慮がないというのはどうかなと思います。そしてウィキペディアにそれが求められていないというのも、私には論理がよくわかりません。あまり細かく指摘するのは角が立つので言いたくないのですが、たとえば「社会にあって絶大な権威と権力をもっていた教会を蒼ざめさせる力をもっていたし、教皇と張り合いながらも帝冠を教皇から戴いている立場の皇帝の心胆を寒からしめるもの」についても、宗教改革の当初において教会組織に明確な打撃をルターは与えているように思われません(既知のとおりルターの支持者はカトリック側にも当初多数いた)し、皇帝はこの時期教皇から帝冠を戴いてません。実質的にはフリードリヒ1世の神聖皇帝理念以降徐々に皇帝権はローマ教皇の権威に依存しなくなっていましたが、カール5世の場合祖父のマクシミリアン帝以後、形式的にも戴冠されていないので、その主権においてローマ教皇の権威への依存度はほとんどありません。むしろイタリア戦争、オスマントルコ問題と新大陸支配の問題において教皇の協力を必要としていたという現実的な事情があった点を重視するのが一般的ではないでしょうか。正直これ一つだけでなく、指摘すればきりがないのですが、こういう議論は望みません。ただわかりやすいから正しいと思っていらっしゃるなら、これらの点を見れば明らかにおかしいのはさすがにわかるでしょう。これは純粋に査読的な話題です。--硯箱会話2017年7月3日 (月) 08:13 (UTC)[返信]
うーん「わかりやすい」から「正しい」としているわけではないのです。また「研究史」が必要ない?という読解はどこからでてきたのかよくわかりません。単純に個々の事象の羅列をわかりやすい因果関係に乗った説明に直すべきというだけですが、まあこれ以上は不毛なので繰り返しません。現状、西欧中世以降の知識不足は否めないので、ご紹介頂いた『世界歴史大系ドイツ史1』は読んでみるとします。--TEN会話2017年7月3日 (月) 09:16 (UTC)[返信]
はっきり言ってしまうと、査読の問題になってしまうと、最低限の知識が共有されないと話を進めづらいということです(査読というのは内容的な適切性を検討することですから)。そして説明に唐突感があるのはこの記事が少なくとも以前には思想史的流れと社会史的流れを備えていたところがあるのですが、それが現状寸切りになっているところにあるのではないかということです。もちろん説明不足もあると思われるので、その点について加筆されるべきことは大いに頷けるのですが、ここらへんの話題についてノートの議論がかなりいい加減な理解になっているようなので、加筆するにはまず通説と基本文献を確認する必要はあるでしょう。因果関係をわかりやすくするのはそうですが、その前に因果関係を適切に整理すべきでしょう。そうでないと議論はいつまでも正しい道に向かいません。宗教改革の政治問題化の背景には前代の思想との関連性(元記事では前宗教改革思想とされていた)も問題になってきますし、叙任権闘争以来の帝国国制の独自性とハプスブルグ家の権力構造を述べざるを得なくなりましょう。ただそれを記述しきれるか、またそもそもそこまで記述するのが政教分離の歴史として適切かは別問題で、そうした議論をするには前提を共有していないと無理でしょうということです。その点、下手に説明を加えて書くより政治問題化したという事実だけ書いた方がよいようにも思われます(この話題はとても数行で済ますことは難しく、わかりやすくしようとするとどんどん重くなる印象です)。--硯箱会話2017年7月3日 (月) 09:39 (UTC)[返信]
ちなみにたまたま見つけましたが、贖宥状に関してレオ10世による贖宥状という記事がかなり今日的な通説を丁寧に敷衍しています。贖宥状の売り上げの大部分が実際にはドイツ各地の教会建築に使われていたこと、贖宥状の問題が政治問題化した契機が1518年8月27日の教皇レオ10世の特使に対するドイツ諸侯の苦情表明にあったこと(このとき贖宥状販売に携わったマインツ大司教アルブレヒト自身もドイツ諸侯筆頭として贖宥状を批判している)などは抜けていますが、総じて適切と思われます。参考にできるでしょう。--硯箱会話2017年7月3日 (月) 11:36 (UTC)[返信]

このコーナーでは互いにコメントを付けあうことを禁止としたはずですが、まあいいでしょう。現状、因果関係がわからない書き方になっていることは合意されたようですから、それだけでも前進です。「二世界論」や「印刷革命」「商業の発展」「贖宥状販売」を一番前に持ってきたうえで「宗教改革の政治問題化」を書いた方が、読者に対しては親切であり、今よりは相当改善されるはずです。冒頭に近いところで一文のなかに3回も「宗教改革の政治問題化」を連呼してそれっきりなんてよりはよほどスマートで論理的ではあるでしょう。ただ、本当に「二世界論」が当時のドイツの諸侯なり農民なりを実際に動かしたものであるかは個人的にはかなり疑問ではありますね。当時の一般の人がアウグスティヌス神学にそれほど通じていたとも思えないし、神学者や教会関係者が「政治化」を主導して宗教戦争が起こったと書けば、それはそれでウソになるでしょう。「最新の研究動向」といえば聞こえはよいですが、そういう「後知恵」のようなものを中途半端に歴史に混ぜたところで読者は混乱するだけではないかということを私はむしろ心配します。こういう話題こそ脚注に逃がしてやって「二世界論」は別に独立記事としてつくった方がよいでしょう。手前味噌ながら、私もChokorin名でむかし「八宗体制論」という記事を立てました。これは、「鎌倉仏教」執筆の副産物なのですが、研究史は「研究史」と断って末尾に付す、それでも収まらないテーマや話題は独立記事として別項立てるというのが事典の書き方としては優れていると考えます。ハイパーリンクで別記事に一瞬で画面が切り替わり、複数記事の参照で全体像を理解しやすいというくらいしか、ウィキペディアにはメリットがないんですね。「素人のための百科事典」ではなく「素人がつくる百科事典」なのであり、その程度のものであることは社会的にも認知されているでしょう。私のなかでもウィキペディアはボケ防止くらいの意味しかありません。アマチュアリズムを信用できない人は、あまりここには来ない方がよい。ここで何もかも説明しようというのは、すこぶるスジの悪い話であり、そういうことをやりたいというのであれば、御自分でブログを立ち上げて、そのなかで思う存分やられた方がよいと思います。「コンフェッショナリズム」についてもそう。独立記事もないのに節名にもってきているでしょう。こういうコケ脅しはやめるべきであり、脚注で扱うべき内容や専門用語を前面にもってきて「俺様」ぶりを発揮する方がおられるので、記事名みたいなつまらない話で足元をすくわれてしまうのではないかと思ってしまうのですね。そういう意味では、現記事名は記事内容にピッタリ合っているのかもしれません。「中世都市」とか「ナントの勅令」とか、本当に現状のままでOKを出せますか。そのまま放置しているということは、査読したうえでOK出しているのとさほど変わらんのです。所詮ひとまかせなのですよ。で、話をもとにもどすと、「二世界論」というのは、おそらく学部生にとってすら馴染み薄い用語のはずであって、たぶん院生レベルのタームだろうと思います。ところが、「政教分離」というのは本来は中学公民レベルで登場する用語であり、だからこそ、むやみにむつかしくはできない。硯箱さんはいみじくも「そういう単純な話ではない」とおっしゃったけれども、「そういう単純な話ではない」というあたりからスタートしているからこそ、話がこじれるんです。「重箱の隅をつつく」のは最後でよいのであって、そのようなところから始まっているから、なかなか前進できないのだろうと思います。そしてまた、上級者向けの記事となるであろう「二世界論」「コンフェッショナリズム」を立てるという、そのほんのちょっとした手間を惜しむからおかしなことになっているんです。「ドイツがイタリアから搾取されていたというのも明らかに現状の歴史学研究の成果に反する」というのも、それはそうかもしれないが、じゃあ、当時のドイツの人びとがどう考えていたのかはまた全く別な話なのですね。少なくともイタリアからの贖宥状販売部隊が諸手を挙げて歓迎され、教会建築なんかの資金に使われてドイツの人たちはみんなそのことに満足していたというのなら、そもそも宗教戦争は起こらないはずなのであり、現にフランスでは販売部隊の入国は禁止されていたわけでしょう。そういうのも含めて脚注処理がよいと思います。で、神学の話は中世段階でやめた方がよいと思います。神学的内容を読者は求めていないのであり、それを突っ込んで勉強したい人は「中世ヨーロッパにおける教会と国家」という素晴らしい記事があるのですから、そちらにまわっていただいた方がよい。「中世ヨーロッパにおける教会と国家」のなかでルターの思想に深くふれたところでそこにクレームをつける人はいないと思います。--Greenland4会話2017年7月3日 (月) 22:10 (UTC)[返信]

すいません、互いにコメント禁止、完全に頭からぬけていました。何にせよもう少し考えが整理できてからコメントします。--TEN会話2017年7月4日 (火) 00:20 (UTC)[返信]
Greenland4さんは開き直られている気がしますが、明らかに勉強不足で迂闊な発言をするのはよろしくないです。「少なくともイタリアからの贖宥状販売部隊が諸手を挙げて歓迎され、教会建築なんかの資金に使われてドイツの人たちはみんなそのことに満足していた」というのは史実ではありません。贖宥状の販売元締めはドイツのフッガー家、贖宥状の印刷業者はドイツ人で、販売者はドミニコ会員ですが、彼らもドイツ人です(民衆はラテン語を解しませんから、ドイツ語が話せる人が販売します)。また贖宥状はドイツ以外でも売られています。当時のドイツ人の意識を問題にするなら、これも慎重さが求められます。少なくとも当時ドイツ人の間にあったイタリア蔑視の風潮(ルターは軽蔑している相手を「イタリア人」と呼んでいます)とドイツ人ナショナリズムの問題が絡んできます。またフランスでも典型的な宗教戦争は起こっていますので、このGreenland4さんの論理は正直混濁していてよくわかりません(贖宥状問題がきっかけで宗教戦争になったという直接の因果関係を結ぶのは困難です)。何よりルターが政教分離の歴史で特筆されるとすれば、二世界論が出てくるのは当然で、大学生を対象とした教科書類に普通に載っているので、何を持って院生レベルと判断しているのかはわかりません(まずGreenland4さんは基本的な文献を読まれたことがあるのですか?政教分離の歴史において一般に政治的アウグスティヌス主義と呼ばれる二元論が重視されるのはハンス・ブルーメンベルクの著名な指摘も含めて、かなり常識的な範疇に属すと思われますが、ルターの二世界論はその典型的なものの一つです)。これを政教分離の歴史に書くべきでないという主張は根拠付けされているようには思われません。むしろルターの提題が政治問題化していく過程はそれこそ個別の記事で述べられるべきで、実際95ヶ条の論題にはそれが政治問題化する過程は背景説明などがやや不足している気がしますが、一通り書かれております。この記事で直接扱うべきことではないと思われます。少なくともルターの二世界論に比べれば、ヴォルムス勅令以前の贖宥状問題の政治問題化過程は蛇足に思え、政治問題化し宗教戦争につながったという書き方で済ませてよい気がします。ルターの二世界論をちゃんと理解しての発言とは思えません。そして記事のレベルとして中高生を対象にしているというのもおかしな話です。ウィキペディアは中高生向きの百科事典だったのでしょうか。対象を中高生に絞り、教科書気分で作られるなら、それはウィキブックスに書くほうがよいのではないでしょうか。--硯箱会話2017年7月4日 (火) 02:01 (UTC)[返信]
この項目は、互いにコメント禁止を前提として作られています。他人への批判ではなく、ご自身の主張をご表明いただけませんでしょうか。また、あらゆる知識に精通していないからという理由で批判することについては、今後一切ご遠慮いただけますと幸いでございます。ゼミの討論の場でも、学術的な議論の場でもございません。--雅ハルカ会話2017年7月4日 (火) 02:20 (UTC)[返信]
記事に関わる重要な論点について、互いにコメント禁止する必要性も感じませんし、たとえ一方的に宣言されていても、それによってノートでの通常的な議論が禁止されるというのは生産的とは思われません。また「あらゆる知識に精通していないからという理由で批判」というのは実におおげさで、正確には「基本的な問題を見落としている」点について意見のすりあわせが必要だろうと言うことを述べているだけです。学術的な議論の場でないというのも変な話で、ノートでの議論が学術的な話題に限られるわけではないことは確かですが、学術的な話題を議論することができないということではなく、むしろ専門家による学術的な内容を盛り込むことが方針文書で推奨されていることを踏まえれば、ノートの議論で学術的な議論が行われることに問題があるとは思われません。それも記事主題に直接関わることです。--硯箱会話2017年7月4日 (火) 02:54 (UTC)[返信]
あのですね。「鎌倉仏教」をもう一度よく御覧いただきたいのですね。最初に、中学のどの教科書でも書いてあるようなことを表で示して、中ほどに高校レベルで扱う「旧仏教の刷新」を説明し、最後に大学・一般向け(というほどではありませんが)、研究史に対する説明している。さらに、八宗体制論について学びたい人には別記事「八宗体制論」を用意している。普通は、そういう書き方をするものなんです。人にわからせよう、説明しようというのならば。最後まで読んでくれる人もいるかもしれないが、途中まで読んでくれて、でも、何ほどかのことがわかった、頭のなかで整理できたというのであれば、それはそれでいいわけでしょう? でも、この記事はそもそも「説明する」とは書いてなくて「概観する」と書いているんですね。そんな独りよがりのセリフは個人のブログのなかで吐いていただきたいのですよ。勉強不足は認めますが、しかしまあ、勉強したら少なくともこれよりはましな説明ができると思います。悩みは僻地に住んでいて、よい図書館がなくて文献がそろえられないことですね。いずれにせよ、中高生にもわかるように書くことは、一般読者にもわかりやすくなるはずだと思いますね。別段、読者を中高生に限定みたいな話はしていないはずです。--Greenland4会話2017年7月4日 (火) 03:14 (UTC)[返信]
記事のスタイルの問題と内容の問題を混濁されていませんか?そもそも政教分離の歴史と鎌倉仏教を同一レベルで論じるというところがまずわからない(記事のスタイルとしてGreenland4さんの書き方がスタンダードだとはどこにも書いていないうえ、記事ごとに対象読者が異なるのは普通。専門記事に専門的な内容がないのはおかしい)うえに、私の発言の主意は少なくともヴォルムス勅令前後の説明の不足そのものを言うのはわかるが、それはこの記事に書かれるべき内容かと言えばそうではないと思われることを言っています。そのうえでGreenland4さんは宗教改革そのものの背景について多く誤解されているように思われ、明らかに史実と異なる点については指摘する必要があって指摘したのです。政教分離の歴史として見たとき、ルターの二世界論を書かずにヴォルムス国会の政治的背景について深く掘り下げて書くことは、鎌倉仏教において法然の専修念仏を書かずに顕密体制や八宗体制を本論で論じるのと同じでしょと言っているのです(後世への影響を考えれば、思想史的な問題が中心になるべきところで思想面での直接的な問題を論じずに社会史的背景に注力するのはおかしい)。これでわかりますかね?--硯箱会話2017年7月4日 (火) 03:38 (UTC)[返信]
ちなみにこれは完全な追伸ですが、話題に出たので付け加えると、現在の鎌倉仏教記事も顕密体制(八宗体制)論記事もとくにその中心的主題である「王法仏法相依」に関し、北条時頼期の幕政における宗教体制の転換、および後醍醐天皇の宗教政策の転換というかなり重要な論点がほぼ完全に抜け落ちているように思われます。また摂関期・院政期における宗教政策の影響という最も大事な論点が欠けているように思われます。この点現状の記事はやや内容的には古く思われ、好評を持って迎えられた今日的研究である上島享『日本中世社会の形成と王権』は踏まえられるべきように思われます。参考になれば幸いです。--硯箱会話2017年7月4日 (火) 05:19 (UTC)[返信]
コメント上島享氏の名前もその書名も知っていますが、手元に書籍がない以上、中途半端に言及するわけにはいかないのですね。ウィキペディアは「知っていることを書く」のではなく「本に書いてあることを(自分のことばになおして)(どの本の何ページに書いてあるのかを必ず明示しながら)書く」のが大原則であり、そこを踏み外したら共用空間じゃなくなっちゃいますから。硯箱さんの加筆は大歓迎ですよ。確かに私は大幅に手直しして加筆もしましたが、別段、記事自体は私のものでも何でもなくてウィキペディア財団のものですから。「参考になれば幸い」とおっしゃいましたが、遺漏や情報更新に関して私が全責任を負うということでもないのです。「持ち寄り」が大前提ですから。そこに言及した以上、あなたが書かなくてはならないという話にもなりかねないんですけどね(笑)。ウィキペディアに対する考え方は改められた方がよろしいかと思います。--Greenland4会話2017年7月5日 (水) 23:36 (UTC)[返信]
なるほど、しかし田村圓澄も黒田俊雄も摂関期からの国家と仏教の関係の変化がその立論の中心にありお二方の主題もそこにある(鎌倉仏教が民衆的という性格を持つとすれば、その理由は寺院に対する王朝側の宗教政策の変化により、寺院の経済基盤の変化・王朝からの権門としての自立化、法会の大衆化、寺院内での諸階層の取り込みの進展、すなわち寺院の世俗化などの事象が民衆化の背景にあることは研究成果からも明白である。現況の鎌倉仏教記事では細かな学説史部分にこのような認識の一端は示されているが、なにより近年の鎌倉仏教の再評価は平安仏教の再評価そのものであることに鑑みれば、どこかで整理したその大筋が示される必要があることは火を見るより明らかであろう)ので、参考にしていながら、あえてそれを記載しない理由が私にはわかりませんね。わかりやすい説明を優先して学問的な理解の本筋を示さないというようなことをアマチュアリズムと称してGreenland4さんは正当化する傾向があるように思われます。しかしこのようなことはむしろアマチュアリズムに過剰な期待を寄せ、結果的に内容の悪化とアマチュアリズムなるものそのものへの不信を生む元ではないでしょうか。あくまでたまたま話題に出たのでついでに査読した感じですが、参考になれば幸いです。記事の過不足をアマチュアリズムなる概念をもって、さかんに論じられていましたので、ちょっと気になってしまいましてね。私からすると歴史学的に最も重要な不足のある記事を参考にと言われましても、はあ、その記事、でも大事なところ抜けてますよねとしか言い様がない。この流れの全体は結局アマチュアリズムそのものの否定につながっています。そして、こちらの記事の大事な部分を脚注なり別記事に持って行く根拠にもなりませんよねという話です。査読っていうのは記事内容の適切性をまず第一に考えるべきなのに、アマチュアリズムなる概念を理由に不適切な内容を根拠なく提示して混乱させるのはよろしくないと思います。ウィキペディアのアマチュアリズムがあるとすれば、それは無際限のアマチュアリズムではないのであって、信頼できる情報源を示して方針的に適切な内容を記載するという原則あってのアマチュアリズムです。勉強不足な人が勉強不足なまま、出典のない個人的感想を膨らませて書く場所ではありません。また私が申したように、この時期の政治関係は国制改革も複雑に絡んできますので、個々の事象に直接的な「なぜなに」は可読性の問題もあり、個々の事象の個別記事に記載されるべきでしょう。疑問を持った人が個別記事を読めばわかるようにハイパーリンクを張ればよい(本来はそういう構造になっているのがウィキペディアのスタンダードでしょう?)。とくに宗教改革の社会史的背景についてはここでそれほど深く触れる必要はないように思いますし、この記事が触れていないのは分割以前の記事に民衆信仰の高まりや公会議主義思想、全宗教改革的な教会改革論、人文主義など一通り書かれていたことにあり、記載がないわけではないので、それこそハイパーリンクで処理すればいいんじゃないですか。こだわる理由がわかりません。ましてや主要なコンテンツである二世界論を外せという主張は暴論でしかないので、根本的に主題への無理解を呈しているとしか言い様がありません。典型的な「木を見て森を見ず」式の主張に思われます。この節の始めでGreenland4さんは「レポートを受理した指導教官の気持ち」で査読することを提言されております。大上段に構えるのは結構ですが、勉強不足を早々に自ら認めさせられても文献一つも示すことが出来ないまま、ぐだぐだ言い訳をする人が「指導教官」とは片腹痛いのではないでしょうか。私はGreenland4さんをその記事履歴から非常に理性的で歴史学的な知識が豊富だと判断していたのですが、個別に実際にその執筆記事を検討したり、こうして議論で向かい合いますと、それも認識を改めねばならないかもしれません。--硯箱会話2017年7月6日 (木) 03:07 (UTC)[返信]
返信 なるほど。そこまで読んでくださいましたか。恐れ入ります。正直、だいぶ前に書いたものなので忘れていました。図書館に本を返すときにはいくらか気にするんですが、そのうち別のことが気になってそっちへ行っちゃうというところがあるんですね。おっしゃる通りです。私は歴史学的な知識は別段豊富ではないですよ。それは硯箱さんの買いかぶりです。むしろ御指摘のとおり、知らないことが多い。認識はあらためていただいて結構です。ただ、ウィキペディアは「知っていることを書く」のではなく「本に書いてあることを(自分のことばになおして)(どの本の何ページに書いてあるのかを必ず明示しながら)書く」のが大原則であり、そこを踏み外したら共用空間ではなくなってしまうというのは、繰り返し申し上げたいところです。記事の私物化や編集権ということが他の人から指摘されていたようなので。--Greenland4会話2017年7月6日 (木) 22:13 (UTC)[返信]
「本に書いてあることを(自分のことばになおして)(どの本の何ページに書いてあるのかを必ず明示しながら)書く」のが大原則、そのとおりです。私が問題視しているのは、では翻って最初にここの査読でGreenland4さんが提示した「割と小中学生にもわかる理屈」はとてもまともな本に書いてあるものとは思えないが、それを査読として提示するのはどうなのか、混乱の元にならないかということです。ここまでそういう文献に基づいて議論するということがこのノートではなおざりにされ続けています。私がこの記事を私物化していると主張している連中は、「ボクの考える政教分離」を振りかざして、この記事が独自研究といいながらやってきたわけですが、私がただ単に相手の主張が「そんなこと書籍を見ても書いてないでしょ、文献出せよ」と言っても出さない(ついでに文献を出しても読み間違っているので、指摘しても受け入れない)。「独自研究独自研究」と叫ぶが、私が「参考文献に書いてあるじゃねーか、見ろよ」と言っても見ないばかりか、「その参考文献が独自研究だ」みたいな意味不明な論理を展開する。そうして私が明らかにおかしなことを却下していることを記事を私物化していると印象づけ、編集権の主張だという(ついでに記事ほぼ全面に要出典を見境なしに貼り付けて、独自研究タグなども議論せずにどんどん貼っていく、駄々っ子のようで呆れましたが。典型的なタグ貼り荒らしですよ。最近のウィキペディアではこういう荒らしは容認されるようになっているらしいですが、上で【その「要出典」は多くは私が付与したものですが、それは硯箱さんとの対立的な議論のなか、「そこまでいうなら出典くらい明記してください」という思いを込めて付けたものでした。】というタグ貼り付け当事者の述懐があるように、体よく言ってはいますが、要は報復目的だということをゲロってます。要出典タグの本来の使い方は事実と異なる点について明確にすべき箇所に貼るもので、出典のないところに見境なく張るものではないことは周知の通りです)。馬鹿らしいでしょ。これが繰り返されているんですよ。で、Greenland4さんも結局皇帝と教皇のプロレスにルターが闖入みたいな話を作って、「ここに政教分離の歴史としての成分は50%くらいはあるぜ(ドヤ」みたいな話をしてしまってはやってることはこうした連中と変わらんでしょ、典型的な「ボクの考える~」論ですよ。「もっと冷静になれよ」という話です。--硯箱会話2017年7月7日 (金) 04:12 (UTC)[返信]
この記事の問題点は未完なところにあるのであり、10年間もスタブ状態が放っておかれたのですから、「ボクの考える政教分離」「こう書こうぜ」という論が噴出するのは当然だと思います。未完状態をどう解消していくのか、みなさんの御協力をあおぐのがよいかと思います。そのためのノートです。ノートでの議論については出典明記の義務はないはずです。ただ、本文に関しては、報復目的であれ何であれ、貼られたものを勝手にはがすわけにはいかないので、これについては手元に文献のそろっている硯箱さんに御協力をお願いしたいところです。TENさんは、一生懸命その作業をやってくださって、KANBUNさんの書かれた記事を守ろうとしてくださっており、たいへん頭が下がります。何とぞ、よろしくお願いします。--Greenland4会話2017年7月7日 (金) 12:09 (UTC)[返信]
私も黙っておりましたが、TENさんの地道な作業には私も心から感謝を申し上げたいです。私自身は編集合戦を防ぐため加筆には加わらないという明確な約束事もあり、動けないので、地道にやって下さる方がいるのは実にありがたいです。私も文献情報をTENさんに具体的に教えた方がよいのかだいぶ迷いましたが、一方で私は敵も多いようなので、変なトラブルに巻き込まれないよう、あくまで独自にやってもらったほうがよいと思い、この点については見て見ぬふりを通しておりました。
さて、しかし気になるのは【「ボクの考える政教分離」「こう書こうぜ」という論が噴出するのは当然だと思います。(中略)ノートでの議論については出典明記の義務はない】というような見解です。これは明らかに問題で、個々の「ボクの考える政教分離」を検証する文献的裏付けがなければ、これは要するにノートで独自研究を始めるということですから、これは明白に方針文書に反する行動ですので、耳を疑うところがあります。なるほど、最近のウィキペディアの質の低下の原因と議論の流れのいい加減さはここにあったかと気づかされました。Greenland4さんほどの方でも、いやむしろ独自のアマチュアリズムを信奉しておられるらしいGreenland4さんだからこそなのでしょうね。ここのノートでも信頼できる文献の情報が独自研究で、文献に基づかない検証可能でもない情報を中立的な観点などと強弁する論理がまかり通っていましたが、その精髄を今このGreenland4さんの発言に見て、私は呆れましたね。なるほど、どうりであのようなプロレス理論になるんですねぇ……。そうであれば、もうほとんど言うことはないですねぇ、無駄でしょう。--硯箱会話2017年7月7日 (金) 12:51 (UTC)[返信]
返信 「政教分離の歴史」というテーマはひじょうに大きなテーマであり、たとえば、そこにマキァヴェリ『国家論』を含めるかどうか、ルター「二世界論」を含めるかどうかというのは、大きな問題点として存在すると思うのです。それについてだけでも、AB両方含める、Aだけ含める、Bだけ含める、両方含めない、の4通りの意見が考えられます。こういうことに意見を戦わせることは不毛なことではないと考えます。それぞれの歴史観なり「政教分離」という事象に対する考え方の違いなのですから、おおいに論じ合えばよい。そして、「政教分離の歴史を考えるとき、「二世界論」は必須である」とか「マキァヴェリの思想は政教分離にとっては不要な情報である」というふうなことをわざわざ書いてある文献というのも考えにくいわけです。そこではお互い、自由で対等な立場で話し合えばよいと思うのです。ここにおいて自分はこの分野において通じているからとか、自分はプロだからなどということは持ち出すべきではないと考えます。もちろん、プロの参加を拒むという意味では決してありません。そこは誤解していただきたくないところです。『世界大百科事典』の記述に即していえば、政教分離成立過程には叙任権闘争、宗教戦争、フランス革命の3つの大きな画期があるということならば、叙任権闘争の前と後、宗教戦争の前と後、フランス革命の前と後で、教会と国家の関係がどう変わったかを書けばよいという考え方もあります。そういう考え方に立てば、宗教戦争のなかみを事細かく書く必要もないし、硯箱さんが「最低限に絞った」として書いてくださった「16世紀第一四半期の神聖ローマ帝国の政局」は不要かもしれない。単純に宗教戦争の始まる1500年段階の政教関係とそれが終わった1648年段階の政教関係を比較して、「だから宗教戦争は画期だったのだ」と書き上げる方法もある。これはあくまでも素人考えなわけですけれども、素人考えだからといって否定されるべきものではないでしょう。そして、あえていえば、こういう書き方からすれば、硯箱さんの精密正確な史実記載よりも、硯箱さんが馬鹿にしてやまない私のプロレス議論の方が「わかりやすい」のかもしれません。というのは、「聖書のどこにも教会のことなんか書いていない」という事実が(「聖書のみ」「信仰のみ」という考え方が宗教戦争を通じて)人びとに広く知られるようになったことの方がルター登場後の「最低限に絞った」史実の概略よりも「政教分離の歴史」というテーマに即しているという見方も成り立つからです。扱う対象が巨視的な視野を必要とするならば、テーマに直結した方がわかりやすいし、ある意味正確でもある。TENさんがフォローしてくださったのは、おそらくそういうことではないかと思います。そして、ものの知らない私であっても、本文に書くときはプロレスを事実としては書きませんよ。当たり前のことですが。私は、書籍に書いてあることをページも明示しながら書きます。いつも手前味噌ですみませんが、最近書いた「タンジマート」でも一文につき1~2の出典をつけています。今はこれくらいやらないとダメなんです。で、話をもとにもどしますが、読者が政局の詳細と「プロレス」のどちらを望んでいるかということに関していえば、これまた硯箱さんが軽蔑してやまない「素人目線」が必要だろうということなのです。そういう面からすれば、ノートでの議論で、いちいち「良心」だとか「常識」だとかを持ち出すプロというのは実にハタ迷惑な存在となるはずで、「良心がない」「常識がない」というのは人間に対する侮辱としてはおそらく最大級のものと思われるのに、何でたかが素人がつくる百科事典の議論で、素人の素朴な意見を言っただけなのにそこまでの侮辱を受けなくてはならないのかという話になるでしょう。議論のなかで文献の提示をしあうということは当然あってもいいわけですし、それには喧嘩にならないよう、誠実に向かいあう必要があります。しかし、それは大前提ではなく、必要に応じての話です。記事がある程度しっかりしていれば、ノートでの議論はそもそも発生しないものだからです。自分としては、あなたがKANBUNさんの労作をほんの少しでも大切に思う気持ちがあるのなら、どうして本文のルターに関する記事の「二世界論」に関する出典を付けてやらないのか?と思います。どんな大学生向けの教科書にも書いてあるのなら、その教科書を参考文献に掲げて該当文献のページを本文に添付してあげたらいいでしょう。そこで初めて検証可能性が生まれるのであって、単に「二世界論」というだけであっては、歴史学で扱う思想史上の概念なのか、そういう歴史認識を教義のなかに含めもつひとつの宗教的立場なのか判別もできないのです。本文に「要出典」「独自研究」というタグが貼られている以上、いつ誰によって削除されても仕方ないのであり、私の見解もそこから出ています。ノートで喧嘩しているヒマがあったら、何で出典を付けて差し上げないのですか。ほんの数分の作業でしょう。蛇足ながら、「政教分離における歴史学的視座」なる分割前のさまざまな論考、あれを冒頭に伏す時間があるんだったら、その分、啓蒙主義なりフランス革命なりについて加筆すればよかったでしょう。未完というのは、キツイ言い方をすれば欠陥記事なのであり、硯箱さんの行動は一生懸命墓穴を掘っているようにしかみえない。スタブ解消と要出典・独自研究タグの除去こそ、この記事を守るために硯箱さんが真っ先に行うべきことじゃないんでしょうか。それができない人ではないし、誰よりも上手に完璧にできる人のはずなのに、どうしてなさろうとしないのか、私には不思議でなりません。「喧嘩目的かよ、来るんじゃなかった」とは硯箱さん以外の議論参加者がおそらく誰しも感じていることであり、こういう膨大な議論もまた、本文をただ参照している人からみれば知らぬ存ぜぬの世界なのです。コップのなかの嵐をわざわざ覗きにくる酔狂な人もいません。(宗教の話や政治の話にはなるべくかかわらないし、かかわりたくないというのが普通です。)だからこそ、本文に関しては「本に書いてあることを(自分のことばになおして)(どの本の何ページに書いてあるのかを必ず明示しながら)書く」原則をただちに実行にうつしてください。「賛成です」というのでなく、これはルールなのです。サッカーで手を使ってはいけないのと同じレベルのルールなのです。ルールが守れない人はどんな名プレイヤーでも退場が宣告されるでしょう。そして、なぜルールになっているのか納得できないというのなら方針文書を熟読なさってください。(TENさんだって、本来ならば10年前に書かれた記事の出典を添付するような、いわば人の尻ぬぐいをやらなくてはならないのは本意ではないでしょう。私はそこは本当に申し訳なく思います。ただ、私もおいおいお手伝いしようとは思っています)。返信無用です。よろしくお願いいたします。--Greenland4会話) 2017年7月8日 (土) 01:47 (UTC)(補筆)--Greenland4会話2017年7月8日 (土) 02:30 (UTC)[返信]

この宗教改革前後の流れを今日的な通説に即してかなり端折って整理すれば、まず15世紀後半から帝国の国政改革が進行しており、それに関連して『皇帝ジギスムントの改革』なる文書が一部で広まった(が、忘れられていた)。マクシミリアン1世の時代になると公会議運動に影響を受けた改革運動が実行に移されたが、これは皇帝と諸侯の調和的な関係を目指したにもかかわらず、実際に現れたのは様々な局面での皇帝と諸侯の対立であった。同時に中央集権化を進め、百年戦争を経て領域国家化したイギリス・フランスとの競合関係が意識され、国民性・国家性が意識されるようになり、【「ドイツ国民の」神聖ローマ帝国】という称号が公文書に採用されるとともに、選挙から戴冠式にいたる皇帝即位のプロセスのすべてでローマ教皇の関与は排除され、皇帝位はローマ教皇権の権威から完全に自立した。一方でこの時期帝位を世襲し始めたハプスブルク家は神聖ローマ帝国外に支配領域を拡大するようになり、諸侯はドイツ以外でハプスブルク家が遂行する政策や戦争に巻き込まれることを危惧し、協力することに消極的だった。実際ハプスブルク家は自家の支配下にある領域を接続することを意図した地政学的政策をとっており、それは神聖ローマ帝国一般の利害とは必ずしも一致していなかった。こうした状況は皇帝の政策の一つ一つに対して諸侯に疑心暗鬼を抱かせ、改革の必要性とは裏腹に実際の帝国改革の局面で改革を遅延させる逆ベクトルをしばしば発生させた。こうした事態が進んだ背景には当時ヨーロッパではコーポレーション的観念が一般化し、王冠概念・国庫概念の進展と錯綜しながら、国家を法人格で捉える考え方が一般化したことにある。また神の平和運動に連なる平和共同体思想の影響も見逃せない。神聖ローマ帝国ではこうした改革の努力は帝国統治院(しかし実質的な機能は限られた)と帝国クライスという形に結実し、英仏とは異質な、実質的な連邦国家が形成された。ルターの95箇条の論題は当初こうした帝国の政治問題とは無縁であり、ルター自身もそれを政治問題としてではなく、特殊な教義問題として提出していた。ルターの意図(贖宥状に関わる教義問題の明確化)に反して論題は(「贖宥状批判」の論として)ドイツ語訳されてパンフレットとして流布した。しかし贖宥状は1518年アウクスブルクでオスマントルコへの十字軍税を教皇特使が諸侯に求めたときに政治問題化することとなった。諸侯はドイツ人民の疲弊を理由に、教会へのこれ以上の金銭的奉仕に一致して反対した(帝国議会で贖宥状が議題に上ったのはこれが初めてで、しかも反対意見の第一項に十字軍税とともに記載された。またこれには贖宥状販売を主導していたマインツ大司教アルブレヒトも諸侯筆頭として署名しているが、背景には皇帝選挙を巡る複雑な政治的駆け引きと買収、妥協と帝国諸侯の一致を国内外に示す政治的効果への配慮があった。時期的にもきわめて注目すべきであるにも関わらず、従来ルターの動向のみに的を絞っていた宗教改革研究で、この十字軍税と贖宥状問題は比較的最近まで見過ごされてきた。従来の研究が見過ごしていたことからわかるように、これは市井の一ベストセラー作家であるルター個人の言動とは無関係な政治力学が働いていたものである)が、これも背景には公益性と結びついた国庫概念の影響や国民意識の高まりがあった。しかし教皇特使はこの背景に当時流布していたルターの影響を見(実際ルターは贖宥状批判の先鋒でもなかったし、贖宥状そのものを批判していたわけではないのでこれは厳密には目論見違いであるが)、ルターを敵視するドミニコ会の運動もあり、ルターを召喚し審問することになる。議論は平行線をたどったが、事態を通して教会に対する批判精神を高めたルターは1520年に一連の三大改革文書を発表し、明確に教皇権を攻撃するようになり、ルター問題は完全に政治化した。このなかでとくに『ドイツ国民のキリスト教貴族に与う』は「万人司祭主義」と義認教会論を展開し、また忘れられていた『皇帝ジギスムントの改革』に注意を向け、そのラディカルな改革精神を鼓吹した(ルターのこの論文の影響で『皇帝ジギスムントの改革』が広く知れ渡るにいたったことは有力説で、おそらく定説である)。教皇はこれに対し1521年破門を宣告し、皇帝はこの問題をヴォルムス国会で扱うこととした。ヴォルムス勅令によってルターは異端とされ帝国追放を受けたが、密かにザクセンに匿われることとなる。フランスでは王権による聖職者への課税が許されているのに対し、ドイツでは逆に諸侯や都市が教会への金銭的負担をしている現状につねづね不満を持っていた諸侯や都市はこれをきっかけに改革運動を展開していく。一方当初はルターに好意的だった言論界は破門前後に分裂して批判の応酬を始め、ルターとは無関係な遠隔の地域社会で進んでいた類似の改革運動も巻き込んで宗教改革問題は全ヨーロッパ規模で議論されるようになった。この過程で改革運動は急進的な社会変革運動として暴発する事態(騎士戦争・農民戦争)もあり、ルターや諸侯の意図を越えて帝国国制を動揺させることともなった。ルターはこうした事態に諸侯の世俗的権力を擁護する論陣(二世界論、領邦教会制の理論的根拠となる)を張り、諸侯の側も(プロテスタント・カトリック問わず)教会統制を強めた。この間国内問題やオスマン帝国問題を抱えた諸侯と皇帝は協力的であり、1526年のシュパイアー帝国議会では改革派に大幅な譲歩が見られた。しかし、1529年のシュパイアー帝国議会ではカトリック側の強硬な姿勢で26年の決定が覆され、改革派諸侯はこれに猛然と「プロテスト」した。1530年のアウクスブルク帝国議会の段階においてカール5世は対外問題(またカール5世はこの年帝国議会以前にボローニャで教皇のイタリア王とローマ皇帝としての戴冠を受けて協力関係を築いていることから正統信仰を擁護する立場を鮮明にする必要があった。この戴冠式はローマ教皇による伝統的な戴冠の最後の事例であるが、ドイツ諸侯は参加しておらず、もはやドイツ国制上に位置づけられたものではないとするのが定説)をほぼすべて解決しており、こじれたドイツ国内の問題を根本的に解決せんとし、改革派諸侯も当初は平和的解決に期待を寄せたが、結局決裂した。・・・・・・(以下本文)といった感じでしょうか。かなり最低限に絞りましたが--硯箱会話2017年7月4日 (火) 11:05 (UTC)[返信]

コメント 余談ですが、日本の宗教政策は聖徳太子の時代などは非常に重要ですが、鎌倉仏教は国家体制主導ではないですから、幕府の宗教政策などを強調する必要はありませんよね。宗教政策の影響を最も大事な論点などと言ってしまわれると、日本の宗教について無知なのだなあと思われますよ。ヨーロッパ風の考え方ですよね。鎌倉仏教を主要な開祖を中心に論じる視点は間違ってません。硯箱さんは、手元に蔵書をお持ちなのはわかりますけど、ご自分が思っていらっしゃるほど、宗教全般の知識が完璧というわけでもないということもご自覚頂き、謙虚に耳を傾けながら議論してもらえませんかね。百科事典なんですから、教科書レベルの一般常識論とのバランスをとることは必要でしょう。論じるまでもありません。--ぽてから会話2017年7月6日 (木) 01:15 (UTC)[返信]

ぽてからさんはさすがに勉強不足ですね。私から指摘する必要もないですし、このノートで個人的に向けた追伸の、直接記事内容に関係のない話題に食らいついてくる意味がわかりませんが、文献に基づいて議論することくらいしましょう。感想論ばかりで実がありませんし、上の発言は逆に無知をさらけ出しております。この場合、文献も示さずに好き勝手に印象論を語っている側と、学説史を丁寧に踏まえ、文献を示しながら議論を行っている側のどちらに謙虚さが求められるべきかについても正常な判断が出来ないということであれば、ぽてからさんに議論に参加している意味はあるのでしょうか。これまでのノートでのぽてから氏の発言を見ても、議論攪乱が目に余るところがあります。--硯箱会話2017年7月6日 (木) 03:07 (UTC)[返信]
 横から失礼 ここは査読の場です。雅ハルカさんも仰られていますが、お二方はお互いの知識への批判を避けることはできないでしょうか。不毛な争いを避けるためにコメント禁止にしているのですが、もう争いが起きてしまっています。他の方と意見が異なるのであれば、他人の意見を無視して自分1人で査読すれば良いじゃないですか。これ以上コメントせず、査読だけをすれば争う可能性はなくなります。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月6日 (木) 07:33 (UTC)[返信]
査読というのは第一に内容面での誤りの有無をチェックするものです。構成面での議論をするなら、それは査読ではなく記事の通常議論です。そのうえで記事内容が基本的に正しい事象を伝えていることに対して、完全に明白に誤っている歴史認識を新たに採用せよという主張はとても査読とは思われません。査読とはまず先行研究を挙げ、そこで挙げられている事実との相違があるならそれを指摘し、研究史的流れを踏まえられているか、先行研究や史実での見落としがないかなど具体的な内容面を扱うものであり、現状はとても査読になっておりません。査読と称して結局のところ通常ノートと同じ議論をするなら、それは特別なルールを設ける必要を感じません。そもそもウィキペディアには現状十分に機能しているかは別として、「Wikipedia:査読依頼」という立派な査読の場があるのですから、そもそもノートでそれをやっている現状が場所を間違えているという本質的な問題をなぜ見逃すのでしょう?査読と称して、とても「査読」になっているとは思えない議論を場所違いも無視して現状やっているわけですが、単純にノートの使い方を間違えている気がします。それもお互いにコメント禁止と不必要な独自ルールを一方的に押しつけるのですから、困ったものです。が、一方でこの査読という名の不可思議な議論が現状のウィキペディアの質というものをよく教えてくれており、個人的には単純に面白くはあります。実際私はこれまでずっとニヤニヤして笑いが止まらない。出鱈目で学問的な裏付けがないことをいかにもストーリーとして面白く仕立て、事実として存在するかのように粉飾し、それを必死に熱弁する、そういう姿を見ていると単純に面白くてしかたがないですね。とてもウィキペディアンとしての本節を全うしているとは思えませんが。これではいけないとウィキペディアの利用者は思わないのでしょうか。思わないんでしょうねぇ。この査読なる部分の議論を追うだけでも明白なのですが、実際面で検証可能性や中立的な観点がかくも容易に踏みにじられているということにコミュニティは問題意識を持っていないように思います。こういうのがアマチュアリズムなんでしょうかね。私は違うと思いますが。--硯箱会話2017年7月6日 (木) 08:27 (UTC)[返信]
査読という単語についてはともかくとして、売り言葉に買い言葉で反論をして、議論を停滞させるのはやめませんかということだと思います。反感を買う物言いをしているのは硯箱さんも同じです。方針文書の熟読をお願い致します。具体的には「wikipedia:礼儀を忘れない」や「wikipedia:善意にとる」となります。個人攻撃、相手をあざけったり馬鹿にしたりすることは「深刻な例」として紹介されていますのでご確認ください。240F:60:DDAB:1:8853:57CD:2BF0:4847 2017年7月6日 (木) 09:53 (UTC)[返信]
私個人としては実に議論が活発化しているように見えます。とくに直近議題になっているヴォルムス勅令前後の政治状況について、記事に盛り込むか盛り込まないかは別にして、認識を深めることは悪いことではないでしょう。また「反感を買う物言いをしているのは硯箱さんも同じです」「売り言葉に買い言葉」とおっしゃっているということは、つまり私の論争相手にも「売り言葉」なり問題発言が認められるということでしょうか。その点私も認識は一緒ですが、それはいいでしょう。私自身はとくにこの場で好感を求めているつもりもなく(人気集めをしているわけではありませんから)、事実そのものを多少相手を非難する形で述べているのみです。これは実際問題としてこの記事のノートではほとんど検証可能な文献を示すことが行われておらず、それはGreenland4さんさえ本来最も検証可能性が求められるべき「査読」をすると大上段なことを言いつつ、文献を一つも示さずに単なる感想論を展開しているので、根本的に正常な議論になってない、ということを申しているのです。これがウィキペディアの現状だとすれば、嘆かわしいとは思いませんか。まじめにやるだけ馬鹿を見る議論であることは確かでしょう。私は反応が面白いから一応続けてますが、アマチュアリズムというのは本来ボランタリズムに近い、動機や目的の非商業主義、純粋性、高潔性を言うのであって、一種の専門意識でもあり、Greenland4さんが言うような素人目線を言うのではありません。で、その動機や目的の高潔性という面で考えれば、少なくとも学術的な研究成果に完全に後ろ向きな時点で、ここでの議論はとてもそのような誠実性に基づいているとは思えない、ということです。--硯箱会話2017年7月6日 (木) 10:14 (UTC)[返信]
私が言葉足らずだったようです。改まったような形になりますが、補足します。既にGreenland4さんの発言で、「コメントを書きあうのは了承しよう」といった旨の表明をされています。しかし、コメントの中で「他人を批判する」というのは違うだろうと思って指摘した次第であります。「コメントをしないようにしてください」は撤回しますが、(ぽてからさんも含め)お互い批判的なコメントは避けていただきたいと思います。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月6日 (木) 11:14 (UTC)[返信]
私はね、査読には賛成だったんですよ。査読って言うからには内容検討に入るってことですから、適切に査読されるなら、明らかに考えなしで貼られている要出典箇所が検討されるでしょうし、議論が前進すると思ったんです。ところが、実際Greenland4さんがやり始めたのは査読とは全く違う、ただの感想でしょう?それもまだ歴史的事実なり何らかの文献に即して話をしているならわかりますが、文献も何も見ないで、明らかに高校教科書でもそんな書き方せんでしょっていう記述をぶち上げて、「こう書こうぜ」みたいなのをごり押しする議論を始めちゃった。あーなんかウィキペディアでよくある、いつもの出てきたーと私は思いましたよ。曰く「素人目線」。正直ここまでずっとこんな議論ばっかりやってるんですけど、そろそろ記事の要出典箇所とかまじめに出典確認して修正しようと思わないんですかね?これこそ議論の停滞ですよ。私には半ばどうでもいいんですけど。はっきり言ってこの査読なる節の議論は結局のところ、これまで延々と繰り返されてきた「ボクの考える政教分離の歴史」みたいな話に戻っちゃってて、とても生産的とは思えない。ここまでずっとそれで平行線だったんだから、内容の適切性を吟味し、不足を加筆するという方向での本来求められている査読をしなきゃあかんでしょ。--硯箱会話2017年7月6日 (木) 11:30 (UTC)[返信]
つまり、査読するって言うなら、「○○の文献にはこう書いてあるんだけど、なんか記事のここの箇所は違うぞ。なんでこうなってんのかな?」みたいなちゃんと文献に基づいた査読をしないと意味がないでしょ。私は前からここでの議論には必要だと提案してますが、とくに査読に当たっては必ず文献を示して行う程度の縛りがないと、まず前進するとは思えません。いつまでも「ボクの考えた~」が続くのは不毛です。水掛論にならないためには相互コメント禁止なんか実際はどうでもよくて、検証可能性をまず第一にするというほどがよっぽど効果がある。少なくともこれまでの議論で繰り返されてきた文献の裏付けもなく根拠薄弱で感想だけしか言わないような煽り目的としか思われない愚にもつかない応酬は確実に減るでしょうし、生産性は格段に向上するはずです。--硯箱会話2017年7月6日 (木) 12:14 (UTC)[返信]

コメント 暴言はお控えください。事実とは言えない暴言については除去しました。--ぽてから会話2017年7月7日 (金) 05:24 (UTC)[返信]

他者の発言の改竄(それも明確な論争相手に対する)は明確なマナー違反です。ぽてからさんのこうした節操のないところ、我慢のきかないところ、自制のない独りよがりな発言をする傾向が完全に議論攪乱になっていることをご理解ください。これまでの議論から明らかなように、たぶんどんなに個人攻撃的な表現だったとしても、ぽてから氏の発言の一部を私が暴言として除去したら、この御仁は私に対してそれを他者の発言改竄だと特筆大書して騒ぎ立てるはずです。しかし自分がやるのは構わない、そういう人です。どちらにせよ他者の発言の改竄はこうした不毛なやりあいにつながるので、やらないほうがよろしい。文献に基づいたフェアな議論だけをすればよいので、ぽてから氏は知識も、ましてや基本的な文献さえも踏まえるつもりはないようですし、文献に基づかずに記事に貢献するとも思えない特定個人ばかりに向けられた発言を繰り返したり、手前味噌で勝手にタグ貼りしている時点で、記事に向き合う誠実性において根本的な問題があることには変わりないのです。正常に文献に基づいて成立すべきはずの記事に対して、端的に言えばこうした行為はその破壊を目的としているわけですから、定義としては明確な荒らしです。--硯箱会話2017年7月7日 (金) 05:59 (UTC)[返信]

コメント 見てて呆れます。批判はやめてください。批判的なコメントからは建設的な議論は生まれませんし、その上このままでは議論が進みません。相手の行動に問題があると思うのならお互いに対しての、コメント依頼を提出してみてはいかがでしょうか。このままではこちらからコメント依頼を提出せざるを得なくなります。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月7日 (金) 08:53 (UTC)[返信]

コメント 出典の明記タグを貼ることを「報復」などと受け取るとは恐れ入ります。「完璧な記事」であればタグを貼ることができないのです。未完成だから、完成してほしいといっていただけなのですが。論争が起こった場合、速やかに出典を明記することはウィキペディアでの常識ではないでしょうか。加筆にあたって編集者が素人かどうかなんてどうでもいいことですし、硯箱さんはプロを自認されていますが、お互いに匿名なのですからそれを証明することもできないし、必要もないのです(ビザンツ専門の方であろうとは推定しますが)。他人の知識不足を馬鹿にして悦に入るような態度は、啓蒙思想として間違っていませんか。啓蒙なんていらないと主張されるのなら、そういってください。硯箱さんが何のためにウィキペディアに参加されているのか分からないと、何人からも指摘されているではありませんか。単に「知識のない素人」を嘲りたいなら、匿名掲示板のご利用をおすすめします。私はこれらの記事初稿を書いた者でもないですし、出典を明記して改善させる義務もないのですが、ゆっくり加筆していきます。返答はもういいです。余談ですが、一般大衆の啓蒙を目的とした新書や選書などを硯箱さんが執筆する考えを持たれるといいですね、と思いましたが、出版社の編集担当の方の苦労が目に浮かびます。--121.107.209.16 2017年7月7日 (金) 15:34 (UTC)[返信]

提案 一度この査読はクローズし、改名後の内容についての議論をすすめるのはいかがでしょうか。査読がもめたのは、既存の内容への批判から入ったためかもしれません。既存内容は全体のなかの一節としてはあってもいいとは思います。理想では宗教改革への移動がいいとは考えますが、宗教改革以降の加筆をすすめる方が建設的ですし、必要でしょう。  さて、「政教分離の歴史(仮)」記事内容についてですが、たたき台というと大げさですが、政教分離原則#歴史を転記して、さらにそれへ加筆をしていくというのはいかがでしょうか。というのも、これまでも議題になったように「政教分離とは何か」について学者、思想家でも様々な見解が存在します。それらの政教分離の定義または現在での議論については政教分離原則で加筆し、そしてその子記事として「政教分離の歴史」があるということでいいのではないでしょうか。--121.107.209.16 2017年7月7日 (金) 15:56 (UTC)[返信]

すみません、ちょっと趣旨を理解しかねています。基本的に現状の記事の内容(というか骨格)は維持して加筆整理される感じだと思っていたのですが、内容を入れ替えるということでしょうか?--TEN会話2017年7月8日 (土) 15:37 (UTC)[返信]
返信 (TENさん宛) 私への質問ですか?私は既存記事に加筆という考えです。入れ替えるということではありません。後に加筆された分量とのバランスを考慮して、宗教改革部分が分量過剰であるならば、そのときに分割転記を検討することはありえます。正直、なぜGreenland4さんがあらためて厳密に構成を練ろうとしてこの査読議論を開始したのかはよくわかっていません(加筆していけばよかったので)。無益であったと批判しているのでもなく、査読議論の理由を聞いているのでもありません。--121.107.209.16 2017年7月8日 (土) 15:55 (UTC)[返信]
返信 (121.107.209.16さん宛) 入れ替えるわけではないという件、了解しました。個人的には「政教分離原則」と「政教分離の歴史(この記事の現状)」は関連するテーマを扱ってはいるものの、原則的には違う種類の記事だと思っています。なので子記事ということにはならないかなと思うので、頭の中でうまく繋がっていない感じです。この査読については、私は意味はあるとは思いますが、改名の件と合わせて議論が拡散気味ですので一旦クローズには異議はないです。--TEN会話2017年7月8日 (土) 23:40 (UTC)[返信]
  • 査読対象に対する論証ができず適切に編集方針がまとめられないので、他の編集検討者に暴言を述べることで議論を攪乱するような編集検討者はコミュニティを疲弊させるだけでしょう。なぜいつのまに編集に参加するようになったのですか。自分の決意表明くらい誠実に守りなさい。--大和屋敷会話) 2017年7月8日 (土) 03:19 (UTC)「査読クローズ」の提案は賛成です。記事の編集方針を確定するほうが重要でしょう。wikipediaは信頼できる情報源から検証可能性をもって加筆してありさえすれば、その記述内容が互いに矛盾していても許容されます(wikipedia外部の学説に対立があってもwikipediaに両論併記してもかまわない)。そもそもここで議論されているような主旨での査読など必要ないのです。ちゃんと引用されているかどうか、捏造や誤引用がないかどうかさえ確認すればよいのです。--大和屋敷会話2017年7月8日 (土) 03:23 (UTC)[返信]

雅ハルカ(1)

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この記事に、「政教分離」の簡便な語句説明を置いたほうが望ましいのではございませんでしょうか。教科書では、「政教分離原則」を指して「政教分離」という語句を初めて目にすると思いますので、「政教分離」は、狭義の意味では政教分離原則を指して用いられることを、念のため書いておく場所としては、この記事がよろしいのではないかと存じます。その上で、この記事では「政教分離」をどのような意味で扱い、どこからどこまでを記すのかという概要を簡単に述べてあると親切ではないかと思われます。どこからどこまでがまだまとまっていないのかもしれませんけれども、冒頭でこの記事の範囲や意味づけを明らかにしておきさえすれば、記事名でここまで二転三転しなかったかもしれません。--雅ハルカ会話2017年7月4日 (火) 01:07 (UTC)[返信]

ルターの項目について述べますと、ルターの罪責意識や神への「憎悪」などの苦悩を経て聖書研究に没頭していく宗教改革的体験や、異端尋問でルターが自説の撤回を断固として拒否、贖宥状問題、波紋宣告など、教皇との対立やルターの同調者の増加などに触れたほうがよろしいのではないでしょうか。ルターはアウグスティヌスに従ってという面が強調されておりますが、自身の葛藤や経験がまるで省かれております。ルターの思想がなぜ、宗教改革運動に影響を与えたのかという点について、書かれるべき事が書かれておらず、その先にあるごく一部の最終的な結論のみと申しますか、過程が省かれていると言いますが、百科事典としては非常に不親切な内容となってしまっていると感じます。ひと言で申しますと、ルターの存在が、なぜ、宗教改革へ繋がっていくのかが、ふつうの学力を持つ人が呼んでも理解できない内容になってしまっていると考えております。--雅ハルカ会話2017年7月6日 (木) 06:03 (UTC)[返信]

TEN(1)

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ちょっと書き込み辛い流れなのですが・・・。もう少し穏やかな雰囲気を維持できないものでしょうか。硯箱さんの出典に基づいての議論という話には基本的に同意できるのですが、もう少し表現を考えるだけで、こんな言い争いを招く事なくその流れに移行できるはずなのです。私としてはGreenland4さんの提案がなければ、そもそも分割や改名の問題がここまで進むことはなかった(私は提案にのっかっていただけなので)と思いますし、Greenland4さんの知識に特に疑問を持つものではありません。仮に至らない点があったとしても(私がこういう表現をするのは正直身の程知らずですが・・)共通の道に最終的には行けると思っています。この話の流れでは実際の考えはどうあれこう言い返したくなってしまうでしょう・・・。 で、苦言だけでは不毛なので、一応今日までの編集での現状の記事の所感について書いてみます。長文になりますが、流し読みいただけると嬉しく思います。本当はもう少しいろいろ調べてからにしたかったですが・・・。なお、この記事の記述まで全然到達できないので中世ヨーロッパにおける教会と国家についてでだけです(この記事のノートでやるのは不適切かもしれませんが、まあ皆ここを見ていると思いますので。)

  • 要出典について。冒頭部分の記述を手に入れた本と見比べてみましたが、概ね関連しそうな書籍を漁れば本文をいじらず出典はつけていけそうな印象です。つまり、空想で書かれてはいないです。問題なのは出典元の本とページ番号が明記されていない箇所がある上に、元になった参考文献が膨大なのでそれを全部確認していくというのはおよそ現実的でない点です。実際に書くのに使われたのと別の書籍を使って出典をつけていくのが適切かというとあまり自信がないですけれども。
  • 独自研究について。上と一緒ですが、独自研究のタグが張られていた「ペテロの後継者」節の記述を『中世教皇史』(ジェフリー・バラクロウ)の記述と対照してみましたが、元々の出典にこの本がないのが疑問なレベルで一致しており(原著が20世紀半ばなので、元々の参考文献がバラクロウの記述を参照してるのではないかと思ってますが)、一般論としては独自研究タグは不要と判断して消しました。
  • 以上二点から考えてのまとめ。(上記だけの情報から全体を語ることになるので今後変わるかもしれませんが)全体としてもともとの分割前の記事にはそもそも独自性は乏しいのではないかと思ってます。その意味で独自研究タグが特定の記述にぼこぼこついているのはあまり適切ではないと思います。

報告本節で行っていた中世ヨーロッパにおける教会と国家の記事内容修正についての議論をノート:中世ヨーロッパにおける教会と国家に移動しました。--TEN会話2017年7月8日 (土) 23:43 (UTC)[返信]

コメント「査読」と銘打ったのは失敗だったと思います。そもそも、出典が明記されていなければ「査読」は不可能であり、未完の記事は査読対象にはなりません。地道な作業、お疲れ様です。とくにむかし他人が書かれたものを検証可能な状態にまでもっていく作業は並大抵の手間ではないと思います。本文=「本に書かれていることを書く」、ノート=「頭のなかにあることを書く」という前提で全員話しているのに、硯箱さんは、まるっきり逆に考えていることがわかりました。騒動の要因はこれだったのか?という感じ。上でもクローズ提案が出ていますので、そろそろクローズしたいと思います。申し訳ありませんでした。--Greenland4会話2017年7月8日 (土) 20:58 (UTC)[返信]

報告上記提案にもとづき本コーナーをクローズし、以下に「本記事の問題点とその改善/改名後の編集方針」という節を設けることにします。活発で有意義な話し合いになることを期待します。--Greenland4会話2017年7月9日 (日) 17:41 (UTC)[返信]

本記事の問題点とその改善/改名後の編集方針について

[編集]

改名提案がなされてから1週間が経ち、候補を「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」に絞り込んでからも1週間近くが経とうとしているので、このままでいけば少なくとも改名問題に関しては一応の決着がなされる見込みとなりました。みなさま、ありがとうございました。ただ、そうであってもいくつかの問題点は残るわけで、とくに本記事が、(1)未完状態(書きかけ状態)であること、(2)要出典箇所が多いことの2点は早急な改善を要するところで、(3)因果関係の強化、(4)説明的文章ではなく論文風になっていること、(5)専門用語と関連記事をどうするか、(6)概要節における要約や節末尾の「目次へ移動する」などが本当に必要か、(7)節や小見出しの構成、(8)盛り込む内容、(9)その他、も話し合われなければならない問題だと思います。「査読のコーナー」を設けたのは、こういう一切を話し合おうと思ったからで、硯箱さんが以前そういうことをおっしゃっていたので真っ先に駆けつけていろいろと御意見をお寄せくださるだろうと思っていました。自分としては、(1)を一番心配していて、これは改名されても加筆がここでとまってしまうと、内容と記事名のミスマッチの問題は解消されないのですから、私が来てから改名に向けて今まで話し合ってきたことは全部ムダになってしまう、これを何とかしたいという思いがありました。プロがみても未完のレポートに「優」はあげられないだろう、そういう話になるだろうことを期待しました。それでまた、私のなかではやはり、(0)記事名=「政教分離の歴史」がベストなのではないかという思いもありました。なのに、なぜか(3)の話をしてしまった。これは、みなさまにたいへん不愉快な思いをさせてしまう結果となりました。申し訳ありませんでした。しかし、ケガの功名というか、本記事の問題点があらためて浮き彫りになり、その原因が何であるか、このうちの何を優先させて取り組まなければならないかについてはだいぶみえてきたと思います。

以下に所論を述べます。(6)については、可読性をかえって損なっているのでむしろ削除した方がよいと思います。(5)については、すでに取り組まれている方もいらっしゃいます。百科事典は基本的に「わからない人がわかりたくてひもとく」もののはずですから、そのなかにバンバン専門用語が登場するのは好ましくないと考えます。「読んだらかえってわからなくなった」というのでは困るわけです。専門用語や難解な用語は抑える方向、そういう用語を用いる場合は新記事を別に立てるという方向で合意がとれると思います。そこにおける新記事立項は、責任の所在という面でも効率の面からも難しい用語を使った人がやるべきで、そういう面倒なことはやりたくないという人はなるべく平易な文章にしましょうということでよいと思います。(3)(4)(7)は、総じて可読性にかかわってくることですが、今後の加筆者に委ねられるでしょう。(0)に関しては、「政教分離の歴史」としても「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」としても、実のところあまりかわらない気がします。「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」としてしまったら、「日本における政教分離の歴史」を別に立てなくてはならなくなるという程度の話です。しかし、「政教分離の歴史」としたうえで枝記事として「日本における政教分離の歴史」を立ててもよいわけで、どちらにしても大した論点ではない。本記事が最低限フランス革命まで書き上げなくてはならないことは変わらないわけです。ただ、以前「政教分離の歴史は、裏返せば国民国家形成の歴史である」というようなことをTENさんがおっしゃっていて、このフレーズをフランス革命の記述「こうして政教分離原則が確立し、国民国家が形成された。19世紀は国民主義の時代になった」と書いた後にさしはさむことで、それまでヨーロッパの話だったのを「国民国家の形成をめざす国々にとっては政教分離原則をどう採用していくのかが課題になったのだ」という話に転換させると、曲がりなりにも国民国家の形成が図られて植民地化をまぬがれた日本やトルコ、あるいはアメリカについても言及できるのではないかという着想が私にはあったので、そのほんのちょっとしたことで「政教分離の歴史」にもっていけるのではないかと思ったのです。これについてはしかし、あまりこだわる必要もなく、ひとまず「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」が完成してからやってもよい話です。

で、残るは(1)(2)(8)ですが、(1)については、このままの状態で放置されると、現状記事は「宗教改革と宗教戦争」あるいは「近世ヨーロッパにおける教会と国家」とでも名付けるよりほかない内容になっていて、このまま放置されると中世部分や宗教改革部分だけがまた肥大化して10年後も同じことが繰り返される恐れがあると思います。それだと、議論に今まで参加されてきた方々の徒労感はハンパないわけです。そこで、フランス革命前後の話は私が今後加筆していこうと思います。みなさま迷惑でなかったら、の話ですが。そしておいおい、啓蒙主義・絶対王政というふうに逆から書いていきたい。これについてはみなさまの御協力をおおいにお願いするところです。そして、啓蒙主義について書いていくならば、ルネサンスについても若干ふれざるをえないと思います。これは(8)にかかわることですが、ルネサンスからこってり書いてしまうと「竜頭蛇尾」状態はむしろ昂進してしまうので、それは避けたいと考えます。いずれにせよ、後回しの話です。(2)に関しては、私がフランス革命について書いている間に、やれる人がやれる範囲でやってくださるとありがたいです。ウィキペディアにおいて、「Wikipedia:出典を明記する」ということは非常に重要なルールとなっており、これがないものは「独自研究」として排除されても仕方のないものです。アマチュアリズムは何も私が勝手に言っていることではなく、ウィキペディアの基本精神・基本方針であり、「プロの真似して自分の見解を述べる」「プロの仕事を剽窃する」ということを排除するために、記事本文は「本に書いてあることだけを(自分のことばになおして)(どの本の何ページに書いてあるのかを必ず明示しながら)書く」態度が必須なのです。言い換えれば、これがプロの仕事を奪わない知恵でもあるし、プロと共存する知恵でもあるわけです。その過程で著作権違反が見つかったらその都度対処していけばよいだけの話です。出典を付けることに関しては、あくまでも「お願い」です。これは、やりたくないのならやらなくても結構なんですが、その場合は「要出典タグ」等の貼られている文は削除して書き直していきます。そういう方向性でいいでしょうか? 各論についても、御意見をお寄せください。--Greenland4会話2017年7月9日 (日) 20:01 (UTC)[返信]

いろいろなことをいっぺんに言い過ぎたので、論点(問題点)を再掲します。

  • (0)記事名
  • (1)未完状態(書きかけ状態)であること
  • (2)要出典箇所が多いこと
  • (3)因果関係の強化
  • (4)説明的文章ではなく論文風になっていること
  • (5)専門用語と関連記事をどうするか
  • (6)概要節における要約や節末尾の「目次へ移動する」などが本当に必要か
  • (7)節や小見出しの構成
  • (8)盛り込む内容
  • (9)その他

(以上、追記)--Greenland4会話2017年7月10日 (月) 20:33 (UTC)[返信]

返信 まとめと進行、ありがとうございます。区分けしていただいた点について、長くなりますが現状自分で意見を出せるところだけ返信させていただきます。
(1)(8)個人的には仮にその節がサブスタブの状態であっても末尾部分まで骨組みになる節があったほうがいいとは思います。教会と国家の分離史としての記事であるという点に合意できればですが、仮に「ヨーロッパにおける」となるのであればこの点については問題は大きくないと予想します。加筆についてはそもそも許可が必要な類の話ではないはずですし「迷惑でなければ」などという気遣いは不要と考えます。学説的におかしいという指摘があれば順次確認と修正をすればいい話ですし、その確認と修正をする人間が最初の執筆者と同じである必要もないと思うので。。
(2)中世ヨーロッパにおける教会と国家の出典をいくつか確認する限り、全体として元々の記事は非常に参考文献に忠実に書かれているように思います。ので、隣接分野の書籍に当たれば概ね後付けできそうです。神学や思想史に絡む分野は私の手持ちでは今のところ弾が足りないので予測でしかないですが、恐らくこれも出典をつけること自体は手間さえかければ可能な気がしてます。とりあえず、確認可能な範囲について少しずつやっていけば、それだけで細かい議論なしに記事の品質は向上しそうなので有益と思います。
(3)私としては、実はこの点に関しては硯箱さんの見解に賛成で、一般的な学説(通説)でどう書かれてるかは抑えてから記述を強化したほうが望ましいと考えています。ただ実際にどのように加筆するかについての案が出せる知識がないので、今のところは意見なしです。
(4)(6)とりあえず「概要」のつくりが完全に論文のそれなので、概要節を治すだけでも大分良くなりそうな気がしています。基本的には各節の要約や目次へ移動などはいらないと思います。(各節の内容と合致させねばならず、加筆しづらい原因になっている気がします)
(5)可能な限り平易になるようにとは思いますが、具体案がないので今のところ意見なしです。
(7)現状意見なしです。記事自体の主題について合意できたら何となく決まる気はします。
無出典箇所については、無いところを機械的に削除するよりは、文脈上必要なところは要出典のまま残す方がいいと思いますが、加筆者の裁量でいいのではないかと思います。
出典の追加はできる範囲でやりたいと思います。なお、何点か出典を追加したことについて、Greenland4さんと硯箱さんから「頭が下がる」的な言葉をいただいてますが、以前も書いた通り私のこの記事への関与は徹頭徹尾興味本位というか趣味の部類なので、特にお気遣い無用であります(出典確認を通じてヨーロッパ史について次に何を読めばいいのかが何となくわかるのが良いところです)。私としては楽しい作業としてやっているつもりです。
最後に記事全体を通しての所感ですが、初期キリスト教中世ヨーロッパにおける教会と国家、そしてこの記事と、個人的には記事内容にそって本を探していくと、中世史の枠組みや「教会と国家」というテーマ史についての輪郭が何となく見えてくる感じです。その意味でこの記事は、内容的には西欧史分野の記事として「書きかけ」ではあるもののちゃんと作ろうとしていたことがはっきり感じ取れる記事だと思います。できれば既存記事は活かせたらいいなぁと思います。--TEN会話2017年7月10日 (月) 14:07 (UTC)[返信]
(7)に関していうと、あまりに細分化されすぎじゃないかという印象があります。そのうえで「ユグノーとフランス経済史」という小見出しが付けられているので唐突感がある(ようにみえる)。「ユグノーと近世フランス経済」または「ナントの勅令の経済への影響」あたりがよいと思いますが、もっと言えば「ナントの勅令」という大枠のなかで扱ってよいと思います。この記事が、空想で書いているわけではなく、むしろ文献に忠実に書かれているというのはおそらくそうなのだろうと思います。脚注を使って記述が文献によって参照できるスタイルで書かれていれば、むしろ良記事なのだろうと思います。それさえなされれば、実は独自研究呼ばわりされる要素はほとんどないものと思います。問題は、それをやれる人が少なく、やろうとする人もほとんどいないということだろうと思います。これについては、むかしは相当甘かったのです。参考文献をひらいてみると出典まる写しだったり、実はそんなこと書いていないということが多かったので、それではあかんということになった。いまの新着記事とか見ていただければすぐわかる話だろうと思います。スイスに関しては盟約団はじめ非常に詳細かつよくまとまっており、出典さえつけば、これだけで単独記事に仕上げられるレベルだと思います。ただ、歴史というからには事象を時系列に並べて因果関係を書かないとダメなのだと思います。その意味でシュマルカルデン戦争やアウクスブルク平和令がルターの思想の前に置かれているのはよろしくないと思います。「定説」に関しては、別に私はわかりやすい嘘をかけということを主張しているのではなく、史実についてはどんな学者が書いてもそれほど大きく食い違うことはないということを前提としています。細かい節を一度取り払って時系列に並べ替えてみる作業が必要かもしれません。--Greenland4会話2017年7月11日 (火) 01:46 (UTC)[返信]

コメント 改名お疲れ様でした。記事が整うまであとすこしですね。 (1)は一番優先すべきことですね。Greenland4さんがフランス革命について書いてくださったので、見通しがたちました。私はひとまず、イギリスとアメリカについての要約を作成します。可能な限り短くするつもりですが、省略しすぎると経緯がわからなくなりそうなので、必要最小限のものをつくります。 (2) 出典明記作業も継続します。 (3) 出典の明記と加筆が進めば因果関係も強化されていくと思います。 (4) 文章は私も固い方なのですが、できる限り平易にしていく方がいいと思います。 (5) 専門用語、あるいは単独記事として意義のある用語や概念については、こちらでは要約にして単独記事にした方が見通しがよくなるのは間違いありません。領邦教会制度スイス盟約者団コンフェッショナリズム、モナルコマキなど。ただ、現在の分量バランスからいって重大とは感じられませんので、加筆が進んで「政教分離の歴史」がある程度まとまった時点で見直すのでもいいのかもしれません。 (6) 編集作業のために必要だったのでしょうか。どうしても避けられない分量でそれが肥大した場合には必要かもしれませんが、私は削除していいと思います。 (7) 「ユグノーとナントの勅令」でまとめるといいのではないでしょうか。 (8)(9) について、TENさんの 2017年7月8日 (土) 23:40 (UTC)での政教分離原則とこの記事との関係についての回答を関連するものとしてこちらでいたします。多くの事典では「政教分離」として立項されており、また政教分離原則と政教分離は同義のように書かれています。ブリタニカ、知恵蔵、大辞泉、大辞林、ニッポニカ、また、政教分離を憲法に取り入れたアメリカ合衆国という経緯について歴史学事典、宗教の事典、OXford Reseach Encyclopediasでは言及されています[2]。なお、CiNiiで政教分離原則を検索すると137件[3]、政教分離で検索すると735件[4]であり、論文タイトルを一見しても政教分離原則と政教分離を異なる意味で用いているようには思われません。また、以前硯箱さんが近代憲法については政教分離原則へ書き、「政教分離の歴史」ではヨーロッパの古代中世から近代までの歴史を書くと発言されました。ただし、硯箱さんも親記事(メイン記事)を政教分離原則、その歴史記事(すなわち子記事(サブ記事))としての「政教分離の歴史」という案については反対されなかったとおもいます。以前も発言したことですが、政教分離原則は政教分離へと改名提案してもいいのかもしれません。同じ意味なので改名もあまり意味はないかもしれませんが、「政教分離原則は政教分離とは異なる」という誤解をもし持たれる方がいるならば、改名した方が適切であるかもしれません。


それと、政教分離原則では20世紀以降の現代についてが主で、19世紀についてはかなり省略されています。19世紀についてどちらで書いてもいいのですが、フランス革命以後ということでライシテとここで書くか迷うところではありますが、これは後回しですね。--121.107.209.16 2017年7月12日 (水) 14:07 (UTC)[返信]

返信 人の長文を咎めつつ長文になってしまいましたが、、、政教分離原則との関連について、思う所を述べておきたいと思います。以前、政教分離原則と(ヨーロッパにおける)政教分離の歴史が原則的に違う種類の記事だと書いたのは、一つには前もちらっと書きましたが、ヨーロッパの政教分離が単に政教分離原則(≒現代社会の政教分離)の成立史に留まらないものであるからです。それは国民国家の形成過程の一部であり、中世から近代における世俗権力と教会権力の関係史でもあります。
(適切な例えか自信がないですが、政教分離原則が「アメリカ合衆国」だとしたら政教分離の歴史は「アメリカ大陸の歴史」のようなもので、単純な一線上の関係にない、というべきでしょうか)
本記事は基本的に西欧史の枠組みで記述されており、分野的には『西洋中世史研究入門』pp106-108が書くところの「教会と国家」と呼ばれる分野の記事であると私は把握しています。なので「政教分離原則」の子記事として本記事を構成するのはちょっと違和感を感じるところです。関係記事の一つであるのは間違いないと思いますけども。
なお、「政教分離」という用語については以前硯箱さんとのやり取りで言及しましたが、研究者自身が「政と教は分離されるべきであるとする考え方。この時の政と教はなんであるのかから始まり、信教の自由との関連まで、論者によってさまざまに用いられる厄介な言葉。」と述べるように、極めて広範な意味に使われ、また論者によって独自の観点から使用されることの多い用語であることから、この単語に「正しい定義」を与えて誰もが納得する記事内容を決めることが可能であるとは正直思えないです。提示頂いたCiniiの論文をいくつか読んでみましたが、「政教分離」と「政教分離原則」が同一であるかどうかは人によって統一的ではなく、しかも使い分けている人もいない人も、ある程度無意識的にそれをしているように見えます。
例えば伊藤潔志「教育基本法における「教育の宗教的中立性」と和解(1) 」[5]は、本記事と関連の深い内容を含んでいますが、「政教分離の本質は, 政教関係の有様ではなく, 信教の自由が保障されていることにあるのである。 したがって, 政教分離は信教の自由を保障している国家における政教関係である, と言って差し支えないだろう。」と結論しています。であるとすれば、この論文の結論での政教分離は、政教分離原則という単語とは置き換え不可能に思えます。
一方で青砥清一 「リェイダ市のブルカ禁止条例を無効とした事例 : スペイン最高裁2013年2月14日判決 」[6]では、本文中の「政教分離」と「政教分離原則」の多くは、(全部ではないですが)機械的に置換してもほぼ意味が通じそうです。
さらに松村昌廣 「文化相対主義を超えて-リベラル民主制国家の不倶戴天の敵としてのイスラム・テロリズム 」[7]では、政教分離と「政教分離の原則」という言い方ですが、両者は使い分けられています。
上記のような用法の多様性から考えて、現状では「政教分離原則は政教分離と同じもの」かどうかも論者によってある程度ぶれるもののように思われます。
従って「政教分離」という名前が付けられているから「この記事はこう言う記事なんだ」という設定自体が困難なように思います。なので以前の査読節で雅ハルカさんが「この記事では「政教分離」をどのような意味で扱い、どこからどこまでを記すのかという概要を簡単に述べてあると親切ではないかと思われます。」と仰っていましたが、この案には大賛成であります。
ちなみに、本記事の扱う時代範囲ですが、19世紀初頭以降、明確にここという切れ目を設定するのが難しいのでフランス革命・アメリカ独立革命あたりで筆をおくのが一番オーソドックスではないかと今のところは思っています。--TEN会話2017年7月12日 (水) 17:04 (UTC)[返信]
返信 切れ目の設定の難しさについてはTENさんのおっしゃる通りで、みなさま御承知の通り、王政復古後のフランス政体は目まぐるしく変化し、それにともなって政教関係も転変いちじるしいので単純に「分離の歴史」といえなくなる感じです。感覚的には、本文をナポレオンで終わらせて、ライシテにつながる部分は脚注に逃がしてやるような感じがいいのかなという気がしています。国民国家の形成過程というのを中央ヨーロッパにあてはめると神聖ローマ帝国の解体過程とだいぶ重なるわけですから、その点からもナポレオンで終わらせるのがわかりやすいでしょう。その点、本記事がスイスの宗教改革に着目しているのは伏線として優れていると思います。三十年戦争とヴェストファーレン条約の部分の加筆が望まれます。三十年戦争では旧教国フランスが新教側・反ハプスブルク側についたりして、そこでは戦争そのものの世俗化(脱宗教化)も指摘できるでしょう。ナポレオンに話をもどすと、ナポレオン政権自体が国民国家をつくる営み、革命の成果を国民国家づくりに反映させる営みに尽力し、それには成功したが、国民国家の枠を超えて世界帝国へ向かおうとして失敗し、国民国家に引き戻されたというふうに押さえられるのでその点からも一つの区切りとしてわかりやすいでしょう。いずれにせよ、従来、三十年戦争とフランス革命という2つの大きなヤマがなかったのは非常によろしくなかったと思います。そして、それぞれの歴史事象について「大テーマに即した歴史的意義」あるいは「画期性」というものを常に書いてやる必要がやはりあるだろうと思います。たとえば、アウクスブルクの宗教和議ではルター派教会は認められたけれどもカルヴァン派は異端として排除されたし、個人がカトリックかルター派かを選ぶ権利もなかった、しかし、宗教的多元性という意味では大きな一歩だったんだというようなこと、ナントの勅令やヴェストファーレン条約でも同様ですが、そこが弱いと雑多な史実の寄せ集めのようにみえてしまう(「独自研究」のそしりを受けてしまう)というのがあると思うので、そこはもっと踏み込んだ言及がなされるべきと考えます。とりあえずいまは、空白を埋めることと画期性の言及を同時にやっていくことが大切だと思います。--Greenland4会話2017年7月12日 (水) 21:26 (UTC)[返信]
返信 (Greenland4さん宛) まとめ、ありがとうございます。私の範囲でコメントさせていただきます。(1)(8)と、もしかしたら(3)(5)(7)についてはは素人意見を述べます。例え本文が未完であれ、(簡単ではないでしょうが)政教分離の全体的な流れをまとめることができるはずです。年表形式としてまとめれば、そこから各節への加筆が進んでいくように思います。
  • ○○年 - △△により■■がはじめられる
「△△による■■」を参照
可読性については要考ですが、このほかに図を挿入するなどすると具体的な流れをつかみやすいように思います。
(2) 気が向いたので図書館へ行って、参考となる文献を借りたりして調べているのですが、元から「本とページ名がつけられていないところ」に出典を後付けするのは難しいなと感じます。このままではいつ記述が除去されても文句は言えません。それらか除去されてしまうと「全面書き換え」となるのかもしれないなと思います。以上です。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月15日 (土) 01:56 (UTC)[返信]
コメントYuukin0248さんのアイディアはたいへんよいと思います。ちょうどいま自分も全体構成を考えていて気になったことがあります。現状では、宗教改革・宗教戦争のところがドイツ、スイス、フランス、オランダ…というふうに国ごとに分けて記述されていますが、どうもこのままでいくとまとまりにくいように思うのです。もしかしたら、未完状態が長くつづいたのもそのせいなのかな?と思うほどです。1500年あたりから1800年あたりを扱うということでいくと、1650年はちょうど真ん中なわけですけど、「政教分離」というテーマにとっても折り返し地点のような意味をもっていて、1648年のヴェストファーレン条約というのはよくいわれるように主権国家体制の確立という画期的な意味をもっています。少なくとも今まではそういわれてきた。「帝国の死亡証明書」という表現もあったし、ドイツの領邦君主は外交主権を含むほとんど独立主権を獲得し、ドイツでもようやくカルヴァン派も認められたとか、いろんな意味があります。最近では過大評価されすぎとの指摘もあるようですが、従来説も無視できないのではないかと思っています。最新の研究動向や論点もそのうえで紹介した方がよいと考えます。カルヴァン派の影響の強いスイス・オランダという2つの連邦共和国が正式に独立を承認されたのもこの条約で、これはやはり宗教改革・宗教戦争のひとつの帰結として重要であろうと思います。そしてイギリスでは1649年にチャールズ1世が処刑され、清教徒(カルヴァン派)主導の議会による共和政が始まっていますから、その意味からも1648年・49年というのは分水嶺になりうるように思います。各国史をやるにしても、そのあたりでいったん切って1650年以後はあらためて別節でやった方が話がみえやすいのではないか。とくに三十年戦争は最初はボヘミア・ドイツの話だったのが、後半はヨーロッパ大戦の様相を呈するのですから各国史叙述がむつかしくなります。「小折り返し地点」というのも年表作成作業のなかから、もしかしたら見つかるかもしれない。フランス革命が一段落したら取りかかってみようと思います。なお、定義文・概要節をちょっと加筆改変してみました。不十分な点も多いと思うので、ぜひ加筆・修正をみなさまにお願いしたいです。どうかよろしくお願いします。--Greenland4会話2017年7月15日 (土) 08:30 (UTC)[返信]
コメント やっぱり歴史には年表が必要なんですよね。受け入れてもらえそうで良かったです。『「概要」を読む→「年表」から本文への案内を踏む→「本文」を読む』の形態をとることになるのかなと思います。私もその形態であれば支持できます。現状の記事は、まとまりに欠けているんです。どちらかといえば「時」よりも「土地」で分けられているんですよね。現状のメリットは、スイスにおける歴史は掴みやすいが、全体的な「時」での歴史がまとまっておらず掴みづらいというデメリットがあるんですよね(国語力が、すいません)。物事に大きく影響を与えた「折り返し地点」を分け目に再編していくというのはよいテーマに思います。年表一行の詳細をサブ節(あるいはサブサブ節)一つ分ぐらいとって分けていく、というのがいいかなと思います。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月15日 (土) 09:04 (UTC)[返信]
情報 年表はあったのですが[8]、硯箱さんに削除されちゃったんです[9]。この年表は不完全なものですが、もし活用いただけるならば復旧してください。新しく年表を作成してくださるのであれば、それはさらにありがたいことです。私は引き続き出典の明記作業をしてまいります。--121.107.209.16 2017年7月15日 (土) 15:22 (UTC)[返信]
返信 121.107.209.16さん、情報ありがとうございます。お示しいただいた年表をみると、ウェストファリア条約以前はだいたい3期に分けられるように思うのです。I期は16世紀初頭からアウクスブルク和議(1555年)までで、ドイツ・スイスでの宗教改革とそれを契機とした宗教戦争の話題が中心となるのではないかと思います。ただ、国王の離婚というまったくの「私事」を原因としてローマから独立した新しい教会=イギリス国教会が成立することにはやはり言及すべきであり、これは「宗教改革」という点では本筋ではないかもしれませんが、「旧教からの離脱」ないし「教会分裂」という点では軽視できないものをもっていると思います。1500年段階ではローマの教会しかなかったものが、1555年段階ではカトリック、ルター派、国教会に分裂している。これが次の展開を準備するでしょう。II期は1555年から三十年戦争の始まる1618年までで、ここではドイツの話題はあまり出てこない。アウクスブルク和議でひとまず、ある程度落ち着いたとみるべきです。しかし、オランダ独立戦争(1568年-1609年)とユグノー戦争(1562年-1598年)がほぼ並行して起こっている。ここで活躍するのはカルヴァン派で「教会分裂」という点では第二局面、「宗教戦争」という点ではドイツ・スイスからオランダ・フランスへと場所を変えての展開というふうになっています。イギリスではエリザベスが姉のメアリに閉じ込められたリ、スコットランドのメアリを閉じ込めたりして国教会vsカトリックの抗争が激しい。世界全体でみていくとスペイン全盛なんですが、1588年にアルマダ海戦、1596年に英仏蘭の対スペイン同盟結成などでスペイン没落のはじまりが予兆される時期でもあります。III期は三十年戦争(1618年-1648年)とイギリス清教徒革命(1640年-1660年)の時期で、再びドイツが主戦場になるのですが、これがI期とは違って列国の干渉を招くことから悲惨なことになります。イギリスでは抗争が国教会vs清教徒にシフトしていく。結果的にカルヴァン派が認められて「教会分裂」としては最終局面をむかえる一方、ハプスブルク家(スペイン王&神聖ローマ皇帝)の一人負けのようなかたちとなり、次のフランス絶対王政を準備する。そういう感じじゃないかと思います。現状では、フランスはいきなりナントの勅令廃止(1685年のフォンテーヌブロー勅令)まで行っちゃってるんですね。いくら何でも先走りすぎでしょう。これは、時期の面でも内容の面でもブルボン朝絶対王政のなかで語られるべき事象ではないかと思います。また、三十年戦争以降に出てくる思想というのは、ロックの政教分離思想にしても、ヴォルテールの反教権主義やルソーの市民宗教などにしても、宗教改革のころとは全然違うものとなっており、絶対王政と対抗しつつ、市民革命を準備するものとなっているので、やはり、その面の充実も図られるべきでしょう。いずれにせよ、時期区分を取り入れて編集しないとまとまらない感じはしています。--Greenland4会話2017年7月15日 (土) 18:49 (UTC)[返信]

2017-07-16から

[編集]

節編集が軽快になるよう、見た目上での節を新設しました。これを不適切と思われる方はどなたでも戻してもらってかまいません。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月16日 (日) 10:52 (UTC)[返信]


(インデント戻す) 報告政教分離に関する歴史年表」の記事を新規に立てました。--Greenland4会話2017年7月16日 (日) 05:28 (UTC)[返信]

返信 (Greenland4さん宛) 現在の記事内に新たに年表を作られても、記述が肥大化していく一方になることを危惧していましたので、別記事の立項ありがとうございます。年表の一段落に書かれていることは、こちらの記事(あるいは中世ヨーロッパにおける教会と国家初期キリスト教)でのサブ節(或いはサブサブ節)一つ分とるべきだと言いましたが、その提案に問題はないのかなと思います。コレに関しては年表記事との合同での合意事項ですので、あちらとのバランスが必要かなとは思うのですが。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月16日 (日) 10:52 (UTC)[返信]
返信 悩ましいところですが、こちらの記事と年表との節構成は別に完全に一致していなくてもよいのではないのかなと思います。年表は詳細になるか否かは別にして、順番(時系列)や絶対年代(年号)などは誰がやっても同じになるはずだし、そうであれば逆に、ノートを参照していない人、本記事編集にたずさわっていない人でも参加しやすいように、世紀ごとなど客観的な分類の方がよいと思います。そして、加筆のされ方も年表の場合だったら、たとえば宗教思想史の本を読んだら、それぞれの教会史について調べたら…というふうに、時代をまたいでまとまって加筆するみたいになっていくと思うので、一々本文を参照するものたいへんです。機械的にやれる方がよい。上のI、II、IIIという私の時期区分もあくまで便宜的なものですし、じっくり検討したら微調整が必要とかというふうになったら後々面倒です。ただ、記事を書いていく際には、年表があった方がずっと書きやすく、調べやすいことは確かです。それぞれが年表をみて時期区分や因果関係、画期性について各自考える材料とする。それは本文執筆やその後の記事改善に資すると思います。なので、年表の方は世紀ごとでよいのではないかというのが今の私の意見です。--Greenland4会話2017年7月16日 (日) 12:20 (UTC)[返信]
返信 (Greenland4さん宛) 「年表は世紀ごとでいい」というのはその通りです。さて、年表の1行が、重要(政教分離の説明に必要不可欠)ではないものは、年表の1行に載せるに値しない。つまり、「記事の方で節を1つを取れるぐらいのことを、年表の箇条書きに書く」ということです。わかりやすく言うと「年表で目次を作る」といったことでしょうか。これに関してはまあ、完全に一致させるのは厳しいのは分かっています。しかし、「節1つ作られるくらいのことを年表に書かない」のはおかしいし、「こちらの記事では一段落程度の記述しかない」のもおかしいんです。そのあたりの兼ね合い(箇条書き1行≒節1つ)が難しいのではないかと思います。
(ここからは蛇足ですが。)Wikipediaに完成はありませんので、あまりにも将来の編集者に負担がかかるようなこともできないのかなと思いますが、ある程度決めておかないと年表が肥大化してしまう恐れがあるのです。年表が肥大化し、詳細な情報まで書かれてしまうとそれは年表ではなくなり、ただの記事と化してしまいます。こんなことを恐れるのもどうかと思います。けれど、年表から記事へのの案内は{{Main}}系を使うつもりなので、箇条書き1行≒節1つのお話を始めました。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月17日 (月) 00:24 (UTC)[返信]
返信 (Yuukin0248さん宛) 現時点(7月17日)では「中世ヨーロッパにおける教会と国家」が30万8,041バイト、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」が16万5,312バイトであるのに対し、「政教分離に関する歴史年表」は1万4,572バイトなので、年表の肥大化はあまり心配しなくてもよいのではないかなと思います。年表の書き方としては箇条書きが基本ですから、現状より3倍増えたとしても4万5,000バイトですから、たとえば17世紀を前半と後半で分けるとか、そういう程度でよいと思います。重要なことはだいたいすでに網羅されているので、たとえば10倍に増えるなんてことはないでしょう。せいぜい3倍、それでもすごいという感じじゃないかと思います。ただ、1531年のカッペル和平のように、本記事「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」でも詳細に扱われていなくて、かといって単独記事も立てられていないような事項については、「どうして、この年表に載せるのか」というようなことを付記してやる必要はあろうかと思います。それは、単独記事ができたら除去してしまってもよい性格の「付記」です。ある意味、年表は編集者が座右にするものであり、「年表にあるのに本文に記載がない」→「じゃ、本文に盛り込もう」ということになると思いますし、逆も然りだと思います。年表で目次を作る案ですが、それは、本当に重要なものだけをピックアップするというのでいいんじゃないかなと思います。具体的には、「Template:政教分離の歴史」に年号入りで載っているレベル、あるいは本記事内で節前にmainタグが貼られるくらいのレベルのごく重要な事象に限定してよいと思います。そこはゴチック体にしてやって、「本記事を参照するならここですよ」くらいの案内を付けてやってもよいと思います。一節の主テーマにならないような細々なことに関しては不要だと思いますし、あまり緻密にやっちゃうとかえって身動きがとれなくなってしまうと思います。本記事の概要節内にあった「要約」がそういう感じだったんじゃないでしょうか。年表内にゴチック体があまり多くなるのも見た目がうるさくなってしまいます。年表は「眺めるもの」ですが、本文は「読むもの」なので、そうやってメリハリ付けていくしかないんじゃないかなと思います。いかがでしょうか。--Greenland4会話2017年7月17日 (月) 12:53 (UTC)[返信]
返信 (Greenland4さん宛) 肥大化についてですが、少々認識が違うようですので補足します。バイト数はどうであれ、仰られた「眺める」年表に「読む」本文が、少しずつ加わっていくことを危惧しているのです。
1618 - 1648年: 三十年戦争 — 政教分離に関する歴史年表
であったものが
1618 - 1648年: 神聖ローマ帝国で三十年戦争。宗教改革によるプロテスタントカトリックとの対立であったが、ヴェストファーレン条約の締結により終結した。 — 自作
となるとかなりの肥大化(というよりかは「冗長化」)です。目次化する案については、重要なもの(それを題材に独立記事ができているもの)を目立たせて案内することは可能かと思いますが、それによりまた「記事」「年表」それぞれのバランスが難しくなってきますね。意見が相違していても動きはありませんので、ノート:政教分離に関する歴史年表で提起してみます。--Yuukin0248[会話/履歴] 2017年7月19日 (水) 09:19 (UTC)[返信]

返信 (TENさん宛) 研究者で見解が異なるのは狭義においてであり、広義においては大きくは一致しているとみなせませんでしょうか。政教分離の思想については硯箱さんがあげたようなマーク・リラのような現代思想家も展開させており、現代における政教分離に関する議論や研究についてもどこかで説明しなくてはなりません。その説明する場所は、やはり政教分離原則ではないでしょうか。政教分離の歴史の各ページの冒頭や注釈などで書くのも手ですが、この点はGreenland4さんと同じで、空白を埋めていくことが優先のように思います。お示しいただいた伊藤潔志論文で重要な指摘がなされていましたので、政教分離原則#政教分離と信教の自由と寛容に加筆しました。--121.107.209.16 2017年7月16日 (日) 13:38 (UTC)[返信]

返信 (121.107.209.16さん宛) 「政教分離と信教の自由と寛容」の分部、読みましたが、これは大切な指摘ですね。本記事でも啓蒙主義の説明のところに使えそうな感じですね。加筆、御紹介、両方ありがとうございました。--Greenland4会話2017年7月17日 (月) 13:26 (UTC)[返信]
返信 (121.107.209.16さん宛) 現代における政教分離について政教分離原則で記述することに特に異論はありません。私の知りうる範囲では、政教分離という用語について(政教分離原則と)広義において一致しているとみなせるかどうかは、残念ながらそう言う観点で書いている本を見つけられないのでわかりません(すみません)。確認できる用例としては多様であり一概に言えないということがわかるのみです。変わり種の用例としてはこんなものも見つけました。

このように「人生」が来世に及び、しかも現世がたかだか数十年しか続かないのに対し、来世が永遠に続くとなると、来世にかける思いは私たちの想像を絶するほど強くなり、来世の「人生」を決める神への忠誠心も極めて高くなる。5世紀の神学者アウグスティヌスは、この忠誠心が権力者に利用されることを懸念し「神の国」はこの世では決して実現しない天上の理想郷で、人が造ったはかない「地上の国」とは峻別すべきものと説いた。ところがこのような来世と現世の「政教分離」は古代ギリシア哲学を前提にした理論で、そうした教養を持たない中世の一般人には理解できない。

『ヨーロッパの歴史Ⅰ ヨーロッパ史の視点と方法』 草光俊雄 甚野尚志 p. 104

私の意見は「政教分離」という用語がどのような意味で使われているか、本記事中に説明が入った方が良いのではないか(政教分離という用語の定義が実情として一定していないので議論を招きやすい)と言うこと、本記事が単に「政教分離原則」の歴史節を拡張したもの、という位置づけではないということの2点であり、政教分離原則の記事で政教分離が概ね同義語として使用されるということには特に異論ありません。--TEN会話2017年7月17日 (月) 16:26 (UTC)[返信]

コメント文献について3点ほど。一点目。本記事の「文献案内」節は、詳細で後学の人の調査研究に資するところは大きいと思いますが、ちょっとボリューム的に肥大化しすぎているので、普段は隠すような仕様にできないかなと思います。もし、御存知の方がいたらぜひ御紹介お願いします。二点目。「文献案内」節に掲載されている古代・中世史関連の文献の扱いですが、本記事は分割してしまったので本記事が現状で扱っている時代とは直接関係がなくなってしまいました。これを移転したり削除したりしていいか。そのお伺い。三点目。これは、お願いですが、本文加筆執筆で参照した文献は、なるべく「参考文献」節の方に(「文献案内」節じゃなく)書誌情報を掲載していただきたいということ。以上、3点よろしくお願いします。--Greenland4会話2017年7月17日 (月) 13:26 (UTC)[返信]

文献案内は補助的なものですが、あっても悪いものではないと思います。見たい場合は見れるように隠してもいいと思いますし、分量肥大についてはご指摘の通りで、中世についてはあちらへ移動していいと思います。削除の必要はないと思います。書誌情報の明記は意識するようにします。明日以降、時間をみつけて中世への移動はします。--121.107.209.16 2017年7月17日 (月) 14:47 (UTC)[返信]
返信 Moon.riseです。Greenland4さんへ。文献案内の節に折り畳み(二段階折り畳み)を追加してみました。--Moon.rise会話2017年7月17日 (月) 17:58 (UTC)[返信]
返信 Moon.riceさんのおかげでだいぶスッキリしました。ありがとうございました。これくらいスッキリしちゃうと、中世への移動は必要ないかもしれませんね。--Greenland4会話2017年7月18日 (火) 02:22 (UTC)[返信]

「ピエール=ジョセフ・セレスティン・フランソワ」

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「ピエール=ジョセフ・セレスティン・フランソワ」(Pierre Joseph Célestin François)についてですが、セレスタン・ナントゥイユ Célestin Nanteuilという表記があるのを見ると、「セレスティン」より「セレスタン」が適切ではないでしょうか。これ以上の知識はないので、コメントに留めますが。 --163.49.215.38 2017年12月16日 (土) 09:14 (UTC)[返信]