ノート:エーリンナ
ここは記事「エーリンナ」の改善を目的とした議論用ノートページです。 |
受容セクションについて
[編集]この編集で利用者:Stella marisさんが日本語の漫画についての記述を削除されたのですが、受容セクションを作って以下の内容を記載することを提案します。既にノート:中島敦#ウィキペディアブンガク_中島敦などで議論になっていることですが、歴史上の文人がその後にどういう作品に登場しているかということは受容を知る上で重要な情報であり、きちんとした出典があれば書いてよいはずです。以下の内容を付加することを提案します。
- ページ上でも使われているシメオン・ソロモンの絵(これはテイトギャラリーに説明があります)
- マイケル・フィールドの詩 (これは出典にできそうな論文や紹介記事が複数あります。これやこれなど)
- 除去された日本語の漫画 --さえぼー(会話) 2020年7月24日 (金) 04:28 (UTC)
- ..
- Reply
- ご提案、有り難うございます。しかし、別の方がどこかで述べられていましたが、似たようなことを感じます。それは、どの記事でもそうですが、記事を執筆する人、編集する人は、基本的な知識や教養が必要になるということです。出典と言っても、それがどの程度信頼できるのか、また資料としてどう扱えばよいのか、こういう作業のためにも、基本的な教養は必須で、出典さえあれば何を書いてもよいということではないのです。どうもあなたは分かっておられないようです。失礼な言い方かも知れませんが、わたしの主観的に感じます処では、どうもあなたは古代ギリシアや西欧古典学などの分野では、基本的な教養がないように思えます。つまり、何かお話ししても無意味なように思えます。
- 前回のアニュテーのときのやりとりがすでにありますので、尚更に感じます。あそこでは、あなたは完全に間違った翻訳をされたので、わたしは取り消したのですが、何が間違いなのかは述べませんでした。これは、記事編集が何か分かっていないか、または専門分野、古代ギリシア文学での知識の欠落を意味するのだと思いました。今回、その両方であると感じました。それ故、ご自分がよく知らない分野には今後関与しないで頂きたく伏してお願い致します。--Stella maris(会話) 2020年7月24日 (金) 09:56 (UTC)
- 付記しますと、この記事の元記事は、英語版の「良質な記事」で、どういう意味で良質な記事なのか、わたしは実に納得が行くのです(審議過程があります)。エーリンナの記事は元々書ける内容が限られているのです(フランス語版、ドイツ語版等を参照)。つまり、この記事は、英語版の実質「秀逸な記事」に該当するのです。良質な記事、秀逸な記事の改善、質の向上というのは、実に難しいです。知識と力量が必要になります。わたし自身、本文にはほとんど手を触れていません。「注釈」として追加説明を入れたのみです。それは、記事が非常に高度に完成しているからで、このような記事に簡単に手を出すことはできない。また何かを付け加えるにしても、よほどに深く考えて判断しなければならない。と言うことで、はっきり言います。あなたがどうこうできる記事ではありません。従って、再度述べますが、関与しないで頂きたくお願いします。--Stella maris(会話) 2020年7月24日 (金) 09:56 (UTC)
- まず、ノート:アニュテーでのやりとりについて「完全に間違った翻訳」とおっしゃっておられるのは完全なStella marisさんの主観であり、私は正直申し上げて"female Homer"を「女性ホメーロス」と訳すことのどこに間違いがあるのか全く理解できておりません(訳語の選定について見解の相違があるというのはそうでしょうが、これを「完全に間違った翻訳」扱いするのは単なるStella marisさんの趣味の問題だと思います)。また、「あなたがどうこうできる記事ではありません。従って、再度述べますが、関与しないで頂きたくお願いします」という発言は完全な記事の私物化であり、またWikipedia:礼儀を忘れないやWikipedia:個人攻撃はしないにも抵触していて、誰でも加筆できるウィキペディアの精神に反するものであると考えます。私は記事の充実を目指してセクションを増やすことを提案しただけであり、それに対してなぜ記述を増やすことがダメなのかに答えもせず、これは良質な記事で完成しているからこれ以上記事をいじるなという答えを返すのはWikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと#記事ごとに筆者が存在すると考えることやWikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと#意味のある記述を除去してしまうことなどにも抵触しています。一度こうした決まりを熟読し、ウィキペディアの記事は私物化してよいものではないということを認識して頂きたいと思います。--さえぼー(会話) 2020年7月24日 (金) 10:16 (UTC)
- こんにちは、さえぼーさん。まず、決めつけるような言い方をしたことをお詫び致します。
- 完全な誤訳というのは、言葉が過ぎたと思いますが、これは、female Homer のことなどではありません。それは先のアニュテーのノートで言及していますので、違います。述べていない誤訳とは何か、というのは、これはいささか込み入った話なので、あえて述べていないのですが、こういうことが起こるとはわたしはまったく思っていなかった。
- わたしの翻訳が下手だとしても、明らかに知識がないと分かる人から、見当違いの添削など受けたことはまず記憶にありません。わたしの訳文や、文章はあるいは読みにくいかも知れませんが、それはわたしの文体というべきものです。何より、詩の翻訳をしていると思いますが、それを見れば、添削などする相手ではないと分かるように思うのですが。わたしは、何十年も翻訳を行っており、翻訳の初心者などではありません。
- それぞれの翻訳において、文体に特異性があるかも知れないが、それなりに完成した訳文を仕上げているつもりです。あなたから生徒や子供相手のような扱いを受けるいわれはない。他のウィキペディアンに対する「敬意」というものが、ここではガイドラインになっていますが、あなたのやりようからは、人を見下す傲慢な態度と不快感しか感じません。
- (他の人の訳文を、改善のため手を入れるのと、添削するというのは根本的に違うのです。この違いは微妙ですが、おそらく「敬意」が感じられるかどうかにあると思います)。
- なお、「関与しないでほしい」というのは明確な条件がついており、例えば、古代ギリシア文学について基本的な知識をお持ちでないなら、ということです。そうして、あなたはそういう基本知識を持っているようには見えないのです。(わたしは古代ギリシアの詩人の記事を、この一ヶ月で五件ほど翻訳で作成しましたが、基本的な知識というのは、こういう作業ができるかということです。これらの記事は、誰からも、意味不明とか、翻訳になっていないと言うような指摘は受けていません。あなた以外の人からは)。
- わたしは、翻訳で記事を作成して感謝されたことはあるが、こんなひどい侮辱を受けたことはありません。あなたの態度は、思い上がりで他人を見下しているとしか思えない。--Stella maris(会話) 2020年7月24日 (金) 16:21 (UTC)
- Wikipedia is neither a room for translation seminar nor a place for pragmatic English-Japanese translation lessons, and I am not a student whom receives the guidance and instructions from you.
- You just seem to be a non-purpose user.--Stella maris(会話) 2020年7月24日 (金) 16:21 (UTC)
- Stella marisさんはウィキペディアの記事の翻訳ということについて完全に勘違いをしておられるのではないかと思います。Wikipedia:記事の所有権にあるように、「何人も――どんなに熟練していて、コミュニティ内でどんなに高い地位にあろうと――ある記事を所有しているかのように振る舞う権利はありません」。専門家や初稿執筆者であっても記事を所有することはできませんし、他の人が改善のために加筆をしているのであれば許容しなければならない場合のほうが多いはずです。このガイドラインでは、「あなたには、この記事を編集するにふさわしい資質があるといえるのでしょうか?」とか「あなたは明らかに、このテーマについての実務経験が不足している」とか「この記事を見た限り、問題はまったくないと思います、この記事を変更する必要は全くありません」といった発言が記事の私物化の例としてあげられていますが、Stella marisさんはこの3つに該当する発言をこのノートでしておられます。Wikipedia:記事の所有権を再度、一読することをおすすめします。
- なお、私はStella marisさんが書いた文章が「意味不明とか、翻訳になっていない」などということは一切言っておりませんし、また思ってもおりません。アニュテーではごくわずかな編集しかしておらず、いずれもノート:アニュテーで説明したように、いきなり半角数字が出てくると読みづらいとか、多少読みやすくなるだろうと考えてやっただけのものです。私は新着記事に推薦されているような記事については多くのものについてこういうことをしております。ウィキペディアはみんなで記事を良くしていくプロジェクトなので、自分が書いた文章が人に読まれて直されるというのは全く当たり前のことでしょう。私は自分が翻訳した記事について他の方が冷静な目でチェックや修正をして下さるのは大変ありがたいことだと思っていますし(自分だけで文章を書いているとよくわからなくなることもありますので)、明らかな誤訳になるとかならともかく、そうでなければ感謝をしています。また、エーリンナではそもそもStella marisさんが書いた文章には一切手を付けておりません。書き足しただけです。
- また正直、翻訳や文章の表記をいじることと「古代ギリシア文学について基本的な知識」の関連がわかりかねます。そもそも数字の表記とか読みやすさのために文を数語程度変えたり、エーリンナに新しいセクションを作って後世の受容がわかる作品を3つくらい書き加えようという提案に「古代ギリシア文学について基本的な知識」はほぼ関係ありませんので、おっしゃることには筋が通っていないと思います。--さえぼー(会話) 2020年7月24日 (金) 16:58 (UTC)
コメント お二方ともこんにちは。議論に水を差す形で恐縮ですが、一点だけ、Stella marisさんに 質問させてください。結局のところ、Stella marisさんは、受容セクションの設置について許可なのでしょうか、それとも不許可なのでしょうか。お答えいただければ幸いです。許可していただけた場合、私のほうで本ノート冒頭のさえぼーさんの提案内容を加筆しておきます。
(この質問自体、Wikipedia:記事の所有権からしてナンセンスな質問なのですが、編集合戦になったら嫌なので一応確認させてください。)
また、Stella marisさんにおかれましては、以下の情報も参考材料としてご査収ください。当該の漫画の作者の方は、リュラの再現奏者としても著名な方で、2017年の日本西洋古典学会などにも登壇しています[1][2]。その際に、漫画の作者であることも明言されています[3]。つまり要するに、当該の漫画は、西洋古典学の専門家の方々も認知している著名な漫画ということです。ですので、記事内のコメントで心配されているような宣伝目的の問題に関しては、問題ないと思います。--Vetalapancavimsatika(会話) 2020年7月24日 (金) 19:03 (UTC)
- まず答えの前に、記事の私物化とか、何を言っているのかということになります。古代ギリシア文学について、知識を持ち、記事を精査して、どのように記事を発展させるのが良いか、相談できる人たち、つまりプロジェクトを立てるに必要な人がいるなら、プロジェクトを立てて、そこで様々に議論したり提案し合ったりして、方針を決めるのです。この場合、3,4人のプロジェクトで、記事あるいは記事群の発展についてプロジェクトを造って活動しているということで、記事の私物化などではない。ところが、現実に、そういう人員、人材がいないのが日本語版なのです。そのため、わたしが私物化しているかのように見えるだけです。ガイドラインは、英語版にあるガイドラインを日本語に翻訳して導入しているだけだと思いますが、英語版のガイドラインは英語版では、かなり有効に働くが、日本語版では有効に働かない。こういう現実があります。(何故、うまく働かないかというと、知識を持った編集者の層が、英語版ではかなり厚いが、日本語版では、薄いか、またはまったくないという現実があるのです)。
- そこで質問に対する答えですが、わたしは、はっきりと答えていますし、その理由も明確に述べています。答えは、もっと深い考察や、配慮が必要だと、そう述べた通りです。つまり、記事をどうするか、エーリンナの場合は、もっと寝かして日本語版で、なじませる必要がある。こういう過程で、どういう記事かということも、冷静に見ることができるようになる。つまり、何か編集を加えるにしても、急ぐことはない。むしろ、急ぐと、ネガティヴな結果になることが多いと思う。また、何故そんなに記事の新規編集をしたがるのか、理解できない。先にプロジェクトと述べましたが、これはプロジェクトの問題になっているのが本当の処である。つまり、数ヶ月、一年、二年というような時間スパンで考えることで、今日、明日、一週間以内とかに、どうこうする必要などどこにもない。この記事の場合は、慎重に対応する必要があるのは、これは本当に良質な記事で、実に見事にできています。下手に触ると、壊れてしまう。そして壊れると、日本語版では、元の水準に戻すのは難しい(どうして難しいのか理由があるのですが、これは考えてください)。この記事は、必要なことはすべて書かれており、記述のバランスも実に見事になっている。また簡潔明晰な表現になっていて、いささか簡潔すぎるのではないかとも思いますが、それは足りない簡潔さではなく、明晰さの簡潔さだと思います。わたしは、この記事に、別の画像を貼ってみたのですが、(プレビューで見て)、サイズとかキャプションとか色々と考えて試してみたが、英語版で、簡潔になっている理由が逆に分かったようにも思います。つまり、実際に貼ってみて、色々と吟味した結果、これは何もない方が、記事として完成していると思った。微妙な話なので、違う意見の人もいるかも知れないが、わたしの意見では、これは簡単にはさわれないということです。従って、記事は寝かして、この記事を編集しようと思う人がいたら、記事が何なのか、十分に理解できるまでなじんでいただくのが望ましい。すでに述べたように、何故編集を急ぐ必要があるのか分からないです。現在の記事でも、漫画でエーリンナを知った人が検索すると、記事がある。それを読むと、色々なことが分かる。当面は、それで十分ではないか。「注釈」で色々な背景説明をしているので、実は英語版よりも詳しい記事になっている。ただし、本文は英語版にほぼ忠実な形になっている。これだけ完全な記事だと、何を加えても余分なものにしか見えない。それが分かるには、記事になじまなければならない。いまの認識だと、何をしても記事は劣化する。「注釈」を増やすというのはあると思う。しかし、この記事は、非常にレヴェルが高い記事で、高校生が読んですぐ分かるようなものではない。大人でも分かりにくい。何度も読んでいると、分かってくるか、あるいは理解が進む。英語版の記事は、明らかに、西欧古典学の知識を持った人を読者として考えている。また、それぐらいの高いレベルでないと記事が成立しない。
- 英語版ではガイドラインがある程度うまく働くという理由を少し述べます。英語版で、幾つかの関心のある秀逸な記事をウォッチに入れていると、その編集状態が分かる。秀逸な記事でも編集する人はいるのです。ところで、誰かが編集すると、すぐにか、一日以内程度には、もし削除が行われる場合は、それが起こる。他方、削除されないで維持される編集もある。この削除される編集と、維持される編集で、どういう違いがあるのか差分で調べると、削除されない編集は、記事にとって有益な加筆か、記事のバランスを乱さないものである。他方、削除されるのは、荒らしか、または確かにそんな加筆は不要だとか、その削除は行ってはならないと、納得の行くものになっている。ここから考えると、英語版の秀逸な記事には、20人ぐらい、常時監視しているというか、編集をチェックしている人たちがいると考えざるを得ない。つまり「どしどし編集してください」とかガイドラインにあっても、有効な、あるいは有益な編集は残るが、そうでないものは、どしどし削除される。つまり、10人か20人かそれ以上か、かなりに高度な知識を持つ人たちが、こういう風に監視・チェックしているので、記事の劣化は起こらない。また大きな規模の編集は、それなりに認められた人、あるいは多くの人が納得の行くような編集でないと、受け入れられない。つまり、「大胆に編集」しても記事は劣化しない。「知識のない人」が編集しても、それが受け入れられものなら残るし、受け入れられなければ削除される。英語版に常駐していた頃があり、半年か八ヶ月か、こういう風にウォッチしていて、つくづく感じたのは、英語版は優れた人材が大勢いるという実感です。層が非常に厚い。また、良質な記事の場合、人数は少ないが、やはり、こういう風に記事をウォッチしていて劣化を防ぐグループがいる。
- 英語版では、多数のポータルがあり、すべてではないが、ほとんどの記事が、重要度評価や品質評価を受けている。日本語版では、これはできない。「プロジェクト:スポーツ」で、重要度と評価のシステムを持っていたが、機能しないので廃止となった。関連カテゴリすべてが、いま削除依頼に出されているか、削除されたかも知れない。「良質な記事」カテゴリやテンプレートがあるプロジェクトは、日本語版では、五つぐらいのプロジェクトしかない。そのなかの一つは、最近、わたしが発足させた、「良質な記事クラスのギリシア神話記事」です。プロジェクトが低迷しているので、わたしがいるあいだに造っておこうと思って造った。ギリシア神話関係の全記事への品質評価など、まず無理でしょうし、評価した後、メンテナンスができない。
- というように書きましたが、英語版ではうまく行くことが、日本語版ではうまく行かない。評価システムは、フランス語版ではそれなりに機能していたと思う。民族の気質や性格の問題かも知れない。フランス語版も英語版も、新規記事は、必ずどれかのポータルの管轄のもとにおかれる(新規記事が作成されると、ポータルが貼られていない記事は誰かが貼りにやってくる)。ドイツ語版はどううなっていたのかはよく知らない。フランス語版は、そんなにユーザーがいないと思うが、コミュニティは機能している。日本語版は、コミュニティなど機能していない。これぐらいにしておきます(non revoir, farewell)。--Stella maris(会話) 2020年7月24日 (金) 23:02 (UTC)
- ご回答ありがとうございます。私としてはノーコメントということでお願いします。すみません。--Vetalapancavimsatika(会話) 2020年7月25日 (土) 00:24 (UTC)
- 条件付賛成 受容の節を設けた例として挙がっている中島敦の2019年 良質な記事選考にて投票参加した者です。今回のエーリンナについても受容の節を設け、現代社会でどのように解釈されて二次的著作物が創作されているのかを語るのは、百科事典として重要と思います。ただし賛成に条件をつけます。さえぼーさんが受容節を書き足した初回編集を拝見しましたが、これだと単なる箇条書きに過ぎず、主題であるエーリンナの解説につながっていないことから、ここだけ浮いていて違和感があります。このような記述を1件書き足すと、他ユーザは少しでもエーリンナの単語が使われていたら追加列記し始め、記事の質をどんどん落としていく懸念があります。したがって、以下のようなイメージでしっかり文脈を持たせて解説を加えて頂ければと思います。
エーリンナを主人公とした日本の漫画『うたえ! エーリンナ』(YYYY年ツイッター配信開始、YYYY年星海社よりウェブ単行本化) は、エーリンナが古代ギリシアの女学校に在学して詩人を目指す青春物語である。同校の教師には、実際にエンリーナに影響を与えたとするサッポーが登場するなど、史実を尊重した設定となっている。作者の佐藤二葉は漫画のプロットを考案するにあたり、エンリーナの生涯を解説した書『○○○』を参考にしたと語っている。また、主人公のキャラクター作りにあたってはエーリンナの『糸巻棒』を参考にしている。『糸巻棒』は悲嘆詠唱の作品とされるが、これを佐藤は「少女時代の私的体験の結果」と仮定し、漫画の中では女学校で数々の悲嘆に遭遇するエピソードを盛り込んでいる。
- まぁ、これは完全に空想で書いているイメージです。この漫画家はエーリンナについてある程度の造詣の深さがあるようなので、佐藤二葉がどうやってキャラ作りやプロット作りをしたのか、そしてそれは実在のエーリンナのどの部分を解釈したのかなどが語られたインタビュー記事などが出典で見つかれば、きちんと書いてほしいなと思います。でなければ、主題である実在のエーリンナの理解を深めるための百科事典記事から遠ざかってしまいますので。
- 佐藤の漫画よりも、マイケル・フィールドの詩の方が出典が見つかりやすいようでしたら、先にフィールド分だけ下書きしてみてイメージの擦り合わせをしていく方が効率的かもしれませんね。--ProfessorPine(会話) 2020年7月25日 (土) 01:26 (UTC)
- ProfessorPineさんのおっしゃるとおり、1行程度では不足だというのはそのとおりです。今だと漫画から検索で来る人のほうが多いだろうと思いましたのでとりあえず付け加えて(「エーリンナ」でグーグル検索すると「エーリンナ 実在」というのが関連ワードで出ます)、後でソロモンの絵などについてもぼちぼち加筆して増やそうと思っていたのですが、その前にセクションが削除されました。『うたえ!エーリンナ』についてはBlogos(及びそのもとになった「スゴ本」)と歴史の呼び声にレビューがありますが、スゴ本も歴史の呼び声もよく読まれている書評ブログと歴史ニュースサイトではあるものの、このあたりを信頼できる情報源として使用出来るかというと疑問です。--さえぼー(会話) 2020年7月25日 (土) 02:20 (UTC)
- 人気のある漫画だけに、逆に中途半端に「エーリンナ#受容」で漫画のことを言及してしまうと、Wikipedia編集方法を知らない読者ファンがネット検索経由でやってきて、「エーリンナはギリシャ人なのに漫画では日本のおにぎり食べてる」「エーリンナはドジっ子」みたいな、どうでもいいトリビアを書き足す人が出てきそうな気がします...。なので「受容」の意義がしっかり伝わるよう、まずはフィールドの詩など別ネタで書き方の雛型を整えた方が良いのではないでしょうか。その上で、『うたえ! エーリンナ』関連の有意な出典を探した方が手間がかからないと思います。
- 『うたえ! エーリンナ』に関してWP:RSに合致する第三者言及を探すのが難しければ、佐藤二葉氏のブログなど一次資料を使うのも今回のケースであれば問題ないかなと思います。というのも、今回は『うたえ! エーリンナ』という作品そのものの評価を大々的に解説する必要はなく、『うたえ! エーリンナ』という作品と実在人物の関係性を作者がどう解釈・表現したのかに重きが置かれるからです。仮に今のブログに上述イメージのような創作背景や着想について書かれていなくても、Twitter @baccheuo にコンタクトして、こういう創作秘話をブログに書いてくれとリクエストする裏の手も使えるかもしれません。あくまで加筆作業の進め方の一案ですので、どうぞご参考程度に。--ProfessorPine(会話) 2020年7月25日 (土) 03:50 (UTC)
- とりあえずサンドボックスで受容セクションの下書きを書き始めましたが、調べてみるとドイツなどでもエーリンナを扱った作品があるようで、もう少し19世紀頃の受容について包括的に書く方向性でいきたいと思うようになりました。このため、資料探しにもう少し時間がかかると思います。--さえぼー(会話) 2020年7月29日 (水) 04:38 (UTC)
- 返信 (さえぼーさん宛) 7月26日版サンドボックスを拝見しました。出典に使っているのが沓掛良彦氏の書籍ですし、WP:RS上も全く問題ないですし、場合によっては受容節以外にも加筆できる要素が拾えるのではないでしょうか? また、フランスだけでなくドイツ作品も文献が見つかりそうとのこと。加筆を首を長くしてお待ちしています。--ProfessorPine(会話) 2020年7月29日 (水) 23:35 (UTC)
- 返信 (Stella marisさん宛) 「エーリンナの現行版全体構成から浮いた1文加筆編集だった」という点においては、Stella marisさんと私の評価は一致しています。ですが当ノート上でのアプローチは全く異なります。Stella marisさんはノート上の論点である受容節を設けることの要否を論ぜず、過去の別案件を蒸し返しただけになっていて、総計1万5千バイト超も使って記事の発展には何らつながっていません。何が私のアプローチとの違いを生んだかというと、さえぼーさんが当ノート冒頭で提示した「ノート:中島敦#ウィキペディアブンガク 中島敦」そして、「中島敦」がGA通過する様をStella marisさんが読んで、過去から学ぼうとしなかった姿勢にあると思います。もしこれらに目を通していれば、「記事が非常に高度に完成している」なんて言葉は出てこなかったはずです。英語版の「Good」Articleは比較的審査基準が緩いので、日本語版の「良質」な記事の水準だと通過しないものが多いのです。しかも残念ながら、現行版のエーリンナでは訳語のかたい箇所が多くて読みづらさを感じます。誰もが自分は完璧でないと認識し、他者からアイディアや情報を引き出そうとする前向きな姿勢がないと、Wikipediaでの共同執筆作業は難しいと思います。
- なお、記事のコメントアウトで除去理由を書き込む行為も不適切利用でしょう。私でしたら、さえぼーさんの初期編集は残したままで{{疑問点}}テンプレートを挿入し、詳細議論はノートで行ったと思います。今後同じようなケースがありましたら、トラブル回避の手段としてご一考下さい。--ProfessorPine(会話) 2020年7月29日 (水) 23:35 (UTC)
- 利用者:さえぼー/sandbox2に受容セクションの下書きを作りました。1週間ほど置いておきますので、コメントがありましたらなんでもこちらに書いていただけますと幸いです。あまりないようでしたら1週間後にこちらの記事に追加いたします。--さえぼー(会話) 2020年7月30日 (木) 05:38 (UTC)
- さえぼーさん、大変お疲れ様でした。受容の下書きは執筆の完成度が高いので大して言うことないです。先に細かいことだけ。(1) 時系列で並んでいるようなので、第1段落のメーリケは「ドイツロマン主義の詩人...」の手前に「19世紀中期に活躍した」みたいに時間軸が分かるようにすると良いと思います。(2) 最終段落は「2017年の8月より...」の手前に「日本においては」を入れると、時空情報が全ての段落で揃うのでバランス良いかと。(3) 出典に使った筆者のうち、沓掛良彦はページがあるので内部リンクを (これは現行版でも沓掛 (1994) が使われているのですが、他著者は{{Sfn}}を使っているのに、なぜか沓掛だけベタ打ちで参考文献節に飛ばないエラーになっていますので、ついでに直して貰えると大変助かります)。
- ここからが本題なのですが、約1万バイトの加筆となると、全体的に少しいじった方が良いでしょう。とりあえず気づいたのが、2点。(4) まず、導入節でも軽く受容について触れておいては? (5) あと「#評価」節では第2文で「現代にあっては、エーリンナはほとんど知られていないが」(West 1977, p. 95.) となっていますが、これは受容節と矛盾するので要調整でしょうか (そもそも1977年の書籍を使って「現代」という書き方がWikipedia:すぐに古くなる表現は使わないに適合しませんし)。--ProfessorPine(会話) 2020年7月30日 (木) 08:56 (UTC)
- 上の指摘箇所を直して加筆部分を追加しました。なお、沓掛 (1994)についてなのですが、私はふだん{{Sfn}}を使ったことがなく(ビジュアルエディタで編集するとSfnは非常に不便なので使っておりません)、現状でそんなに問題があるとも思えなかったため、沓掛 (1994)についてはいじっておりません。どなたがか修正されるのであればとくに反対はしません。--さえぼー(会話) 2020年8月10日 (月) 05:44 (UTC)
- 上で行った加筆箇所について、こちらの編集で一切、ノートでの議論を行わずに利用者:Stella marisさんが除去を行いました。一週間以上議論の期間をおき、ProfessorPineさんのコメントを受けた修正も行って合意期間をもうけたにもかかわらず、これは完全に合意形成を無視した行為です。こちらのノートでご返答がなければ明日にも記述を復帰させますので、ご了承ください。--さえぼー(会話) 2020年8月10日 (月) 07:39 (UTC)
英語版からの履歴継承不備
[編集]今更気づいたのですが、英語版からの履歴継承に一部不備があります。Stella marisさん新規立項時の要約欄に translation: [[en:Erinna]] 22:43, 27 April 2020
と書かれているのですが、タイムゾーン (デフォルト設定ならUTC) が抜けています。「Wikipedia:翻訳のガイドライン#翻訳記事の投稿の手続き」で示されているように、タイムゾーンまで指定しないと、どの版なのか一意にならないため日時指定の場合はタイムゾーンも必須です。
ただし今回のエーリンナに関しては、英語版の編集履歴一覧を見ると4月27日の前後24時間に編集したのは「22:43, 27 April 2020 (UTC), oldid=953573667」の版しかないため、UTC抜けでも「たまたま」一意になります。よって、版指定削除依頼までは不要と私は判断します。が、この判断が正しいか念のため「Wikipedia:利用案内」で確認とっておきます。
@Stella marisさんにおかれましては、他にも英語版からの翻訳を手掛けておられるようなので、以下の対応をお願いします。
- まず、エーリンナについては、念のため要約欄で履歴継承の補遺をしておいた方が良いでしょう。「Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入忘れ・誤記入」をご参照下さい。
- 同様にタイムゾーン抜け漏れを起こした翻訳案件がないか、ご確認の上、履歴補遺をお願いします。
- 一意にならない場合は、「Wikipedia:削除の方針#ケース_B-1:著作権問題に関して」に該当しますので、削除の方針をお読み頂いた上で、ご自身でケースB-1事由で「Wikipedia:削除依頼」をご提出下さい。削除依頼の書き方は複雑なので、最初は分かりづらいかもしれませんが、翻訳を手掛ける人は少なからず履歴継承ミスでケースB-1の依頼を出すこともあるでしょうから、覚えておいて損はありません。--ProfessorPine(会話) 2020年7月31日 (金) 02:24 (UTC)
UTC抜けはやりがちなので、私はいつも [[:en: Special:Permalink/953573667|en: Erinna]] (22:43, 27 April 2020 UTC, oldid=953573667) から翻訳
のように記入しています。「en: Erinna (22:43, 27 April 2020 UTC, oldid=953573667) から翻訳」と表示され、リンククリックすると特定版が表示されます。便利ですので今後ご活用下さい。--ProfessorPine(会話) 2020年7月31日 (金) 02:24 (UTC)
- 本件に関して、Wikipedia:利用案内#タイムゾーン抜けの翻訳履歴継承でも版指定削除不要か?とm:Talk:Terms of use#Attribution requirement – What if time zone information is missed in the edit summaryにて議論が提起されていますが、利用案内のほうではProfessorPineさんの意見を支持する方がおらず、メタウィキのほうではウィキペディア日本語版で無期限ブロックされているGreen氏がProfessorPineさんの意見を支持しています。私は利用案内のほうでも述べたとおり、削除の方針のケースB-1に該当しないと考えます。--ネイ(会話) 2020年8月10日 (月) 16:03 (UTC)
合意形成などどこにも存在しない
[編集]まず、どこに合意形成があるのか、どこにもそのようものはないと云うべきしょう。ウィキペディアでは、「多数決」というような決定方法をむしろ否定的に受け取っているはずです。それは記事の内容について、そもそも多数決で決める問題ではないからです。わたしは、この記事は、記事として必要なことはすべて書かれている、高度に完成した記事だと幾度かも述べています。余計なことを書き加える余地がないと明確に述べています。つまり、ここに明瞭に方針がある訳です。わたしの意見を無視して二人の人間が自分たちの勝手な編集を行うことで意見が一致しても、そういうのは「合意形成」とは呼ばないし、記事の内容や構成にまで関係してくると、更に、合意形成とか、こういうことは無意味になります。
多数決で賛成が多ければ、何でも編集してよいのか、というとそれは当然異なるのです。
さえぼーさんがいかにナンセンスなことをしているか、ここで述べてみましょう。合意形成も何も、それ以前の問題です。
まずエーリンナというのは、本当にどういう人だったのか、いまだに分からないし、永久に分からないかも知れない(更に、古代のパピュリスなどが発見されて、新事実が分かれば、より詳しいことが分かる可能性はありますが)。
従って、エーリンナについて何か言及しようとしても、「スーダ」の記述などに頼るしかない。他方で、エーリンナに対する言及が何か意味あるものなのかどうか。言及があっても、それを記事に載せるべきかどうかは、判断する必要がある。エーリンナについての言及はそもそも少数しかない。言及するにも、史料がないからで、サッポーとの関わりで言及されているのが主たる言及です。
ところで、サッポーになると、著名度が遙かに高い。作品も断片がほとんどはいえ多数残っている。昔からサッポーについて言及する人は多数いたし、サッポーについて論じる人も多数いた。またサッポーの絵というものも、多数描かれていて、どういう意図でそのように描いたかという主張も色々とある。しかし、誰がサッポーにどこで言及したとか、誰がどういう意味を込めてサッポーの絵を描いたとか、サッポーに献げる詩やサッポーについてうたった詩が誰それにあるとか云えば、夥しいものがある。こういうことを一サッポーの記事に書くかというと、書かないのが記事を作成編集する者の心得というものでしょう。
サッポーよりもっと有名でよく知られている人、例えば、哲学者プラトーンなどだと、言及は、その思想や哲学だけではなく、人物についても、夥しい言及がある。肖像画も古代から中世、近世、近代と多数ある。プラトーンの肖像画を、一覧として並べるのは、そういう新しい記事を提案するならともかく、プラトーンの記事のなかに、何百という絵画のリストをあげれば、記事編集で排除されるのは確実でしょう。誰も、プラトーンの絵の数など知りたくて百科事典を参照するのではない。プラトーンの記事は、プラトーンについて、必要エッセンシャルなものを書くので、何でも関係があるからと云って書くわけではない。
これは、どの有名人でも、有名な事項でもそうで、何でも関係あるといって書いていると、いわゆる「ごみの山」にしかならない。こういうごみ的な書き足しは、出典を無論提示できるでしょう。しかし、出典があれば,何でも書いて良いわけではない。
歴史的にある程度、業績があり、名前が残っている人では、何か後世の人の言及があるのが当然であり、肖像画も描かれれば、人物像についても多様な意見があっても何の不思議もない。しかし、そういうことごとを記事に書き込むと、本来の記事の必須に書くべき内容がかすんでくるし、必須部分よりも、こういう脇道の話が主となりかねない。
プラトーンとかイマヌエル・カントとか、ヘーゲルの記事で、誰がカントという人物について、どういう意見があるか、どう述べているかなどを詳細に書いてみられればよいでしょう(一般に論じられる、典型的批判や議論は記事の一部として有意味でしょうが、そういうレベルではない言及は多数ある)。現在の本文の十倍、百倍の色々なことが書き足せる。しかし、そういうことが妥当なのか、妥当である訳がないでしょう。
エーリンナの場合、言及はある程度限られている。それは彼女がどういう人なのか、よく分からないためと、主要作品が知られていなかった。記事においては、20世紀になって、特にここ半世紀ぐらいの様々なエーリンナ研究の成果が、簡潔に要を得て記されている。それ故、この記事は実に完成度が高いとわたしは思った。研究者が色々と述べていることを,言葉を引用までして書けば、長大な記事にすることもできたと思うが、百科事典の機能を考えると、そんな詳細な議論を書く必要はないでしょう。書くべことは書かなければならないが、むしろ余分な話は書かない、これが記事の編集だと言える。
19世紀に、幾人かの人がエーリンナに興味を持って詩作品を書いた、サッポーと比較した、あるいはサッポーを論じて、エーリンナにも言及した。これは、内容が少ないエーリンナの記事に付け加える材料として思えるかも知れないが、分量が少ないので、書いてもよいように思えるだけで、同じようなレベルの論評や意見や、作品などを、もっと著名な人に対し行うと、上でプラトーンなどを例にあげたように、書く必要がないことになる。プラトーンに言及した古今東西の有名な人の言葉や論評などを引用しつつ書いていると、混沌状態になってくる。もしそう思わないなら、エーリンナで行ったような、見当外れの、内容レベルの異なる記述を、実際に行ってみるとよいと思う。
エーリンナの場合は、言及情報自体が少ないのが、9キロバイトも書き加えて、私見では、ほとんど屑である。しかし、19世紀にはサッポーと絡めて、そのような言及もあったことは事実なので、当面は、関係のないソロモンの絵の解説などは省いて、19世紀の言及として、これが果たして、うまく記事になじむかどうかを見るために、残す編集を行った。加筆者意図も配慮して、尊重して編集を行っているので、むしろ、合意形成の無視とかいって、荒らし行為を行っているのは、誰かということです。明瞭に根拠をあげて、この記事はこれ以上に触るのと完成度が劣化するというのはわたしの意見で、これを無視して「合意形成」など成立したというのは、詭弁の類いでしょう。どこが完成しているのか、分かるにはそれなりの知識や理解の努力が必要になる。また記事はある一定の水準になると、無知な人間が、勝手に編集するというのは実際にはおかしい。--Stella maris(会話) 2020年8月10日 (月) 10:28 (UTC)
(なお、今回さえぼー氏が加筆した部分は、本来はすべて不要な内容です。エーリンナの記事にとってエッセシャルなことは、古代におけるエーリンアの実像・作品等で、これはほとんど分からない。断片的な少数のエピグアrム詩に書かれていることが資料になる。しかし、それについて、記事は必要なことをすべて書いている。そして重要なことは、20世紀のはじめに、エーリンナな主作品と考えられる作品の断片がエジプトで発見された。この作品から色々なことが分かった。エーリンナについて、様々な議論(といっても、専門に研究し論じている人の数は10人もいないようにも思えるが。裾野はもう少し広いかも知れない)があった。記事は、こういう発見の経緯や、様々な研究者の意見を簡潔に、中立的に記している。これ以上には何も書いていない。日本語に翻訳するとき、わかりにくいと思える部分や、英語だと、外部リンクなどを辿ると見つかる情報も、英語やフランス語で書かれているので、日本語話者には距離があると思い、そういった本文には書かれていないが、外部リンクを読んで知ってくださいという内容を、日本語で、「注釈」の形で書き加えた。これはすべて注釈です。
(他方、さえぼーさんは、漫画を紹介などしたが、まことに安易としかいいようがない。漫画は、古代ギリシアの生活や風趣などを知るには適切な、分かりやすい資料かも知れないが、エーリンナに関しては、別に意味がない。作者の空想の物語を紹介してもらっても、記事にとって無意味である。漫画は、エーリンナをサッポーの同時代人としているが、これ自体が有害とも言える。今日、それは明瞭に否定されているからです。これが作者が良心ある人で、「うたえ、ヘレナー」とかいうタイトルにして、主人公の名をヘレナーにしれば、この漫画がエーリンナと何の関係もないことは明らかでしょう。名前がエーリンナだというので、漫画を載せる理由がない。漫画を見ても、エーリンナについて何も新しいことは分からない。むしろ、話になっているだけに、間違った印象やイメージができる可能性が高い。 (そして、再度の話になるが、19世紀の人がエーリンナに言及して、どう考えていたというようなことは、エーリンナの記事からすると、記載事項のレベルが異なる。どの言及もすべてサッポーと関連付け、スーダの記述を元にしてエーリンナ像を描いている。この種の論評というか言説は、ある程度知られた芸術家だと、通常多数あるのが自然だとも言える。詩人が近代の人なら、批評として取り上げることもあるが、その場合は、取り上げている論評がすでにあり、どれが適切かで、判断が求められる。いずれにしても、現代においても、人物がよく分からないエーリンナについて、19世紀の人間が何を妄想。空想したか、そういうことは、記事に不要である。ある程度有名な人が書いたので、残っているのであるが、だからと云って、そういうことを記事に記載するどういう必然性があるのか。記事の完成度を劣化させるものにしか過ぎない。つまり、サッポーなら作品が断片とはいえ多数残っており、サッポーについての批評史や、サッポーの人物についての研究史などがあり、それらの代表的意見を、簡潔明晰に採り上げて紹介することはできる。この場合も、大勢の人が言及しているので、いちいち誰がこう云っているなどと云う加筆を行うのは、ごみの集積になる。多数のなかでも代表的で、現在の研究でも取り上げれるような見解を厳選して記事に記載するので、何でも載せるわけではない。エーリンアにおいては、そういう19世紀の空想的な意見は、ほぼ無意味であるのだろう。意味があるなら、英語版を含め、各国語版にも、そういう記載があってもおかしくないが、実際にはない。わたし自身、記事の要素としてレベルが低すぎて不要であると考えるし、英語版の編集者たちも同じ考えではないかと思う。しかし、これは今後状況が変化するかも知れない。それ故、もっと深く考察や時間の配慮が必要で、編集を急ぐ必要はどこにもない、とわたしは述べたはずです。この意見は完全に無視されている。さえぼーという型はマナーに欠け、合意形成など成立していない段階で、勝手に成立したとして、勝手な編集を行った。アニュテーの記事ノートにおいても、わたしは誠実に答えたが、そういう言葉などは完全に無視されている)--Stella maris(会話) 2020年8月10日 (月) 10:28 (UTC)
- なお、わたしの文章は長くなる傾向があり、しかし、それは別に議論を混乱させるとかが目的ではまったくない。こういう風な書き方だと考えていただくしかない。また、わたしの述べている要点は、ある意味で一つで、このエーリンナの記事は、これで完成しているので、手を加えると劣化するので、わたしも本文には手を加えていない-このことになる。つまり、わたしが記事を私物化するためとかではなく、記事のありようから、これは記事品質向上はきわまて難しいと明確に述べている。つまり、完成度とは何かを理解した上で、この完成度には疑問がある等の主張の上で、記事改善を提案するのは理解できるが、それをどこにも示していない。ここで話が成立していないというか、何故、西欧古典学の教養を述べたかというのも、それがないと、そもそも記事の位置付けが分からないし、記事が高度な完成度を持っていると云っても、そのこと自体が理解できない。これでは話にもまったくならない。現に、わたしの意見は、当分記事には触らないで、なじませていただきたい。時間を急ぐ理由はどこにもない。これまで、15年以上、なかった記事を、古代ギリシアの詩人が日本語版には欠けているようなので、それを幾分かでも充実させようという個人のプロジェクトで、記事を作っていると、面白そうな記事(このエーリンナがそのようである)は、俺に編集させろ、というのが、さえぼー氏である。わたしには、理解できない、または理解困難な人です。--Stella maris(会話) 2020年8月10日 (月) 10:28 (UTC)
さえぼー氏には、コメント依頼が必要であると思うし、目的外利用者の疑いが極めて濃厚であると思います。--Stella maris(会話) 2020年8月10日 (月) 10:28 (UTC)
- 記事に関するコメント依頼を出します。--さえぼー(会話) 2020年8月10日 (月) 10:41 (UTC)
コメント依頼
[編集]コメント依頼のための経緯まとめ
[編集]コメント依頼を出しましたので、経緯をまとめます。
- エーリンナを利用者:Stella marisさんが立項
- さえぼーが漫画に関する記述を一行加筆。
- この編集で利用者:Stella marisさんが日本語の漫画についての記述を削除
- さえぼーがもっと受容セクションを充実させることをノートで提案
利用者:Vetalapancavimsatikaさんと利用者:ProfessorPineさんが議論に参加、利用者:Stella marisさんはこれぐらいにしておきます(non revoir, farewell)とおっしゃって議論から脱退- 1行だけではやはりまずいのでもう少し受容セクションを充実させてからという話になり、利用者:さえぼーが下書き案を提示し、ProfessorPineさんのコメントに沿って修正、1週間置いておいて反対がなければアップすると告知
- とくに反対がなかっため、10日ほどたってアップロード
- 利用者:Stella marisさんが「本質的に意味がない」記述だと本文中にコメントアウトでコメントして除去
以上のような経緯です。このような形で受容セクションを追加してよいかの合意形成のため、他の利用者の方のご意見をうかがいたいと思います。--さえぼー(会話) 2020年8月10日 (月) 10:57 (UTC)
- 事実とは異なるので、打ち消し線を入れます。なお、英語版の良質な記事だからどうだと云っているのではなく、翻訳のため精読して背景もしらべて、これは高度に完成している,何も加える必要がない、とわたしは判断したということです。これもすでに書いている。また「non revoir」とかは、これは、ガイドラインとかコミュニティの話を書いたので、その終わりに記していることで、「コミュニティの話などは、これぐらいにする、ではさようなら」というような意味で、丸括弧の位置を見れば、自明だと思う。
- (次のように使われています:「……日本語版は、コミュニティなど機能していない。これぐらいにしておきます(non revoir, farewell)。」"これぐらいにしておきます"とは、コミュニティの話などです。このときの投稿全体にかかっていない)。
- (また、付け加えれば、「……Stella marisさんはノート上の論点である受容節を設けることの要否を論ぜず、過去の別案件を蒸し返しただけになっていて、総計1万5千バイト超も使って」と、ProfessorPine さんが書いていますが、1万5千バイトは、前置き、ガイドライン、コミュニティについての説明を含めて、この長さで、「ノート上の論点である受容節を設けることの要否」は、現状の記事に何かを加えると、記事の劣化になると、明瞭に述べており、これは、「受容節」とかを加えることは不要であるという意味です。それ以外に、どう読めるのでしょうか? また改善に寄与しないと云っているが、改善はきわまて難しいので、時間をおいて寝かせるのがよい。このように明瞭に述べています)。--Stella maris(会話) 2020年8月19日 (水) 20:42 (UTC)
- 他者のコメント内に書き込んであるコメント[4]を下方、すなわちここのすぐ上に移動--Jgmo30(会話) 2020年8月27日 (木) 09:35 (UTC)
コメント依頼に対する応答
[編集]- この件、当初より経緯を読んできましたが、Stella marisさんの主張がもっともであると思います。
- 歴史に残る人物であれば後世にその人物を元にした数多くの作品が生まれるが、それを全てwikipediaに書くのが適切とは思いません。
- Stella marisさんが言われるように「何でも関係あるといって書いていると、いわゆる「ごみの山」にしかならない(中略)そういうことごとを記事に書き込むと、本来の記事の必須に書くべき内容がかすんでくるし、必須部分よりも、こういう脇道の話が主となりかねない。(中略)本文の十倍、百倍の色々なことが書き足せる。しかし、そういうことが妥当なのか、(中略)名前がエーリンナだというので、漫画を載せる理由がない。漫画を見ても、エーリンナについて何も新しいことは分からない。むしろ、話になっているだけに、間違った印象やイメージができる可能性が高い。 」という意見に完全に同意します。
- さえぼーさんは、どうしても漫画のことを載せたいようですが、大変失礼ながらStella marisさんが真摯に書いたエーリンナの記事に粘着しているように見えます。--Dormirbk(会話) 2020年8月10日 (月) 15:02 (UTC)
- コメント Wikipedia:関連作品#掲載される記事の例では「記事の対象を主なテーマとして扱っている作品」が「記事の質、また読者の理解を高める事に資する関連作品」として挙げられているので、『うたえ! エーリンナ』は記載できると考えます。しかも単に一言追加するのではなく、「受容」節に自然に組み込む形であればなおさらです。Stella marisさん、および同氏の意見を支持しているDormirbkさんは、『うたえ! エーリンナ』の除去がどの方針・ガイドラインに基づいているかご提示いただければ大変助かります。
- (余談)ここは利用者のコメント依頼の場ではないので、Stella marisさんとさえぼーさんの行動の是非についてはコメントを避けたいところですが、ガイドラインが正しくないと考える場合でもWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#考えは議論の場で—実地証明は無用に基づき、そのガイドラインのノートページにて議論を提起すべきではないかと思います。--ネイ(会話) 2020年8月10日 (月) 16:27 (UTC)
- 「どの方針・ガイドラインに基づいているか」という点では、 Wikipedia:関連作品#基本的な考え方に「その関連作品が、読者にとって記事の理解を助けるものであること」とあります。 漫画『うたえ!エーリンナ』の読者にとってはこのエーリンナのwikiは理解の助けになるかもしれませんが、エーリンナから着想したとはいえオリジナルの架空の話である『うたえ!エーリンナ』は、エーリンナ自体の理解の助けになるというよりもむしろ、あまり知られていないエーリンナ(よってこのwikiの記事が貴重である)について 誤った印象を与える可能性が高いでしょう。--Dormirbk(会話) 2020年8月11日 (火) 15:43 (UTC)
- ガイドラインで例として挙げられているザ・シークレット・サービスもストーリーと登場人物が架空のものですが、それを掲載することは特に問題とされません。したがって、DormirbkさんのコメントはWikipedia:関連作品#掲載される記事の例において「記事の対象を主なテーマとして扱っている作品」が「記事の質、また読者の理解を高める事に資する関連作品」として挙げられていることと矛盾していると考えます。--ネイ(会話) 2020年8月11日 (火) 16:41 (UTC)
- 1点補足しますが、Stella Marisさんが除去したのは『うたえ!エーリンナ』に関する箇所だけではなく、マイケル・フィールドの詩についての部分全体と、シメオン・ソロモンの絵画に関する記述の後半部分も除去しています。--さえぼー(会話) 2020年8月11日 (火) 23:59 (UTC)
- 例示されているアメリカ合衆国シークレットサービスは、人物ではなく警護機関です。その機関に相応しい設定の元、あり得そうな架空のストーリーと登場人物を描いた映画は、その機関の理解の助けになると言えるでしょう。いっぽうエーリンナは人物であり、唯一人のエーリンナを主人公に、史実に基づかない作者のオリジナルの状況・性格設定と物語を創作した『うたえ!エーリンナ』は、誤解を招きこそすれ、どのようにエーリンナの理解の助けになるのでしょうか?
- ガイドラインでは「記事の対象を主なテーマとして扱っている作品であれば何でも記載してよい」と言っているのではなく、あくまでも「基本的な考え方」で述べられているように「その関連作品が、読者にとって記事の理解を助けるものであること」を目的としたものであると理解すべきです。--Dormirbk(会話) 2020年8月12日 (水) 03:09 (UTC)
- 既に上で出ているノート:中島敦#ウィキペディアブンガク_中島敦で指摘したことですが(その後中島敦は良質な記事になっています)、どういう作品にある文学者が登場するかは「文学者の書いた作品じたいの価値などに関する記述ではなく、文学者をとりまく社会的状況に関する記述」なので、その文学者がどう社会的に受容されているか、その文学者がどのようなイメージをもって受け取られているのかについて明らかに理解の助けになります。また、Wikipedia:関連作品#基本的な考え方には「記事の対象が、重要な役割を持っている作品(例:「2012年人類滅亡説」の関連作品に「2012 (映画)」を入れる、「暗殺教団」の関連作品に「アサシン クリード」を入れる、など)」とありますが、アサシン クリードや2012 (映画)には「史実に基づかない(…)オリジナルの状況・性格設定と物語」がたくさん入っておりますが、非常に関係が深いので入れるべき例としてあげられています。このため、Dormirbkさんの反論はこのガイドラインに照らして成り立たないと思います。--さえぼー(会話) 2020年8月12日 (水) 06:12 (UTC)
- ガイドラインで例として挙げられているザ・シークレット・サービスもストーリーと登場人物が架空のものですが、それを掲載することは特に問題とされません。したがって、DormirbkさんのコメントはWikipedia:関連作品#掲載される記事の例において「記事の対象を主なテーマとして扱っている作品」が「記事の質、また読者の理解を高める事に資する関連作品」として挙げられていることと矛盾していると考えます。--ネイ(会話) 2020年8月11日 (火) 16:41 (UTC)
- 「どの方針・ガイドラインに基づいているか」という点では、 Wikipedia:関連作品#基本的な考え方に「その関連作品が、読者にとって記事の理解を助けるものであること」とあります。 漫画『うたえ!エーリンナ』の読者にとってはこのエーリンナのwikiは理解の助けになるかもしれませんが、エーリンナから着想したとはいえオリジナルの架空の話である『うたえ!エーリンナ』は、エーリンナ自体の理解の助けになるというよりもむしろ、あまり知られていないエーリンナ(よってこのwikiの記事が貴重である)について 誤った印象を与える可能性が高いでしょう。--Dormirbk(会話) 2020年8月11日 (火) 15:43 (UTC)
- さえぼーさんの8月12日午前9:01のツイッター投稿を読み驚いています。私のwikipediaアカウントへのリンクを掲載したうえで、『正直、このノート:エーリンナに出てきたアカウントの挙動はかなりあやしいと思う(2年間一切活動がなく、突然今まで全くいじったことのない分野のノートに「当初より経緯を読んできました」と言って現れた)。』と書かれていますが、こういう言い掛かりを公の場に書き、アカウントへの直リンクを貼るのは不適切です。
- 私は執筆は滅多にしませんが、wikipediaは毎日のように様々な分野の記事を閲覧しており、エーリンナについてはツイッターでリツイートされてきた投稿で興味を持ち経緯を読んでいたものです。さえぼーさんのツイッター投稿も時々リツイートされてくるので活動も存じていました。
- さえぼー さんご自身が「他の利用者の方のご意見をうかがいたい」としてコメント依頼を出しているにも関わらず、意見を述べた利用者について他所でこのような発言をするのは侮辱行為であり、開かれた場であるwikipediaで常連以外の人が 議論に参加するのを妨害するものです。こういうことを書かれてこれ以上やり取りをするのは難しいですので、私の投稿は終了させて頂きますが、今後このような形で新参者を排除することはなさらないようにお願いします。--Dormirbk(会話) 2020年8月12日 (水) 07:07 (UTC)
- 似たような議論で、「きしめん」を思い出しました。今回の件については、「うたえ!エーリンナ」が未読なためなんとも言えませんが、創造や創作があるのであれば、掲載の必要性はだいぶ薄いと思います。(Wikipedia:関連作品#掲載される記事の例から言えば、2番。「うたえ!エーリンナ」に「エーリンナ」を記載してもいいが、「エーリンナ」に「うたえ!エーリンナ」を記載する必要まではないということ。)源氏物語におけるあさきゆめみしクラスなら話が違うのでしょうけども。--Kodai99(会話) 2020年8月13日 (木) 18:11 (UTC)
- 既に上の議論でネイさんと私が指摘していることですが、Wikipedia:関連作品#掲載される記事の例で「記事の質、また読者の理解を高める事に資する関連作品の例」としてあがっている『ザ・シークレット・サービス』も、Kodai99さんが「Wikipedia:関連作品#掲載される記事の例から言えば、2番」としてあげておらえる『2012 (映画)』も『アサシン クリード』も相当に「創造や創作がある」作品です。創作があるかどうかはガイドラインで掲載の必要性の有無に関係あることがらとして出てきていませんし、また「創造や創作がある」から関連作品は載せないということでしたらほとんどの関連作品は掲載できなくなるでしょう(フィクションである以上、創造や創作があるのは当然ですので)。たとえばウィリアム・シェイクスピア#関連作品には『恋におちたシェイクスピア』や『もうひとりのシェイクスピア』が、リチャード3世 (イングランド王)には『リチャード三世 (シェイクスピア)』が、ヒュパティアには『アレクサンドリア (映画)』がのっていますが、『恋におちたシェイクスピア』、『もうひとりのシェイクスピア』、『リチャード三世 (シェイクスピア)』、『アレクサンドリア (映画)』はほぼ史実にもとづいていません。
- また、議論が『うたえ!エーリンナ』に偏りすぎていると思うのですが、Kodai99さんはメーリケ、バンヴィル、フィールドの詩やシメオン・ソロモンの絵についても「創造や創作があるのであれば、掲載の必要性はだいぶ薄い」というお考えでしょうか?『うたえ!エーリンナ』は上であがっているように日本西洋古典学会に呼ばれるリュラの演奏家が描いたものである程度時代考証に気を遣っていると考えられますが、他の詩やソロモンの絵などはとくにそういうものでもなく、ほぼ「創造や創作」です。
- なお、きしめんは『Nursery Rhyme -ナーサリィ☆ライム-』の俗称がきしめんであり、きしめんに曖昧さ回避を入れるかという話のようですが、曖昧さ回避をどうするかと、Wikipedia:関連作品#掲載される記事の例やノート:中島敦#ウィキペディアブンガク_中島敦で行われたような関連作品の受容に関する記述をどうするかという問題はそこまで関係がないと思います。--さえぼー(会話) 2020年8月14日 (金) 00:36 (UTC)
- 「きしめん」の話は「似たような」といっているので、ことさら言及する必要もありません。きちんと書いた文章と同じような判断をされるのが嫌だということなのかもしれませんが、ワタシには「似たような」話(関連した話題は記載してよいか)です。
- で、話を元に戻しますが、ワタシは「受容節」すべてに敷衍して「(創造・創作があるから)必要ない」と主張したつもりはありません。あくまで「うたえ!エーリンナ」についてのみそのように主張しました。すべてに敷衍したように見える意見を述べたことについては謝罪します。わかりにくい意見となってしまい申し訳ない。
- ワタシは、関連作品はそれぞれが評価されてから記載するかどうか判断すべきだと考えます。今回の「うたえ!エーリンナ」は特に最近の漫画で、失礼ながら評判になっている(日本の漫画賞にエントリーされているとか)作品とは聞こえてきませんし、『「エーリンナ」を知りたいなら「うたえ!エーリンナ」を読めばよい』といったような評価は現時点ではないのですから、なおさら記載する必要性はないと考えます。
- その他の「受容節」の内容については、人物を知るうえで必要な情報なのかという観点から見れば、あって良いものだと思いますが。--Kodai99(会話) 2020年8月20日 (木) 15:34 (UTC)
- 「受容」の記述に反対する側の理由が不透明ですが、端的に言えば、付属的な部分が肥大化して記事全体として見たときバランスを失うことが嫌われているのだと推察します。エーリンナは30kで利用者:さえぼー/sandbox2は10kでした(3対1)。これが20対1や、せめて10対1程度なら、反発も少ないのではないでしょうか。場合によっては「エーリンナの受容」という部分を別記事(子記事)として、本記事には短く圧縮した要約だけを残す、という方法もあると思います。 --2001:240:2405:5EE7:F898:FF83:460D:35B2 2020年8月17日 (月) 03:33 (UTC)
- コメント コメント依頼を見て来ました。『うたえ!エーリンナ』に関してのみ言えば、内容について第三者による言及にもとづいた出典がほとんどないため、本来社会的な受容を意味するはずの「受容」という節に含めることには違和感があります。コミックナタリーの記事で軽い言及があるようなので、日本であまり知られていないエーリンナを題材にしている点で特筆性があると見なして「エーリンナを題材にした作品」節を作って載せるくらいならよさそうに思うものの、第三者による言及が不十分である以上、除去するのもしかたないという印象です。さえぼーさんのsandbox(利用者:さえぼー/sandbox2)の「後世の受容」節のその他の部分については、(「近代における言及」とかぶる部分は調整が必要かもしれませんが)理解の助けになったので記事にあってよい内容だと思います。--Nano blocks(会話) 2020年8月17日 (月) 15:21 (UTC)
- コメント コメント依頼からです。「受容」節(現時点では「近代における言及」)は、「エーリンナがどのような人物だったのか明らかでないにもかかわらず、19世紀以降のヨーロッパにおいては文学や絵画での言及を通じて(勝手に)人物イメージが形成されていった」という内容であり、このこと自体は興味深く読ませていただきました。ただ、この流れの中に『うたえ! エーリンナ』が出てくることに唐突感があることは否めません。歴史的な人物に関する記事における関連作品の扱いについては、過去にも「Portal‐ノート:歴史#フィクション作品の情報を原則として人物記事に載せない旨の合意について提案」や「ノート:曹豹」のような議論があり判断が難しいところですが、今回の『うたえ!エーリンナ』については、当面は除去(コメントアウトを含む)しておき、作者である佐藤二葉か『うたえ! エーリンナ』の単独記事が立項された後に関連項目節でリンクするのが良いのではないかと考えます。どうしても本文で言及するのであれば、例えば「日本における扱い」のような節を立て、日本で初めてエーリンナが紹介されたことから『うたえ! エーリンナ』の登場までを丁寧に記述することができれば違和感はないかも知れません。なお、「受容」節については「エーリンナの研究が進んで正しい人物像が理解されるようになった」「作品の全容が明らかになり社会に広まった」というわけではないので「受容」という表現には違和感があります。また、ソロモンの絵画を掲載するのであれば記事の冒頭ではなく、「近代における言及」節が適切であると思います。--MTBM3(会話) 2020年8月19日 (水) 22:31 (UTC)
- コメント さえぼーさんは本記事にはもう関与しないとのことですが、現在の記事本文が中途半端になっているように感じるので意見を述べさせていただきます。私の意見は大枠ではStella marisさんのそれとあまり大差なく、当初§需要において加筆された内容はこの記事主題において本質的には必要なものではないと考えます。
- ですが、創作作品についての記述が重要だという意見があるならば、それを取り込めないか試みることは有意義なことと思います。
- シメオン・ソロモンの絵について:この絵画がどのようなものであるか、はStella marisさんの指摘通りシメオン・ソロモンかあるいは絵自体の記事に書くのが適切であろうと思います。ただ、この絵は本記事の冒頭に掲げられていますが、知識がない側の視点で見ると2人いる女性のどちらがエーリンナなのか理解できないので、「情熱的に求愛をしている」年上の女性がサッポーであるというさえぼーさんの加筆にある説明は絵のキャプションには追加した方が良いと思います。
- 19世紀における言及について:19世紀の文学芸術でエーリンナがどのように扱われていたかという命題は特筆性があり、この情報へのアクセスを提供することは必須ではないものの意味のあることだと考えます。現時点でも一部だけ残されており、Stella marisさんは加筆者意図も配慮して残したとのことですが、今の「§近代における言及」は情報の羅列感が強く、失礼ながらあまり良くないと思います。次のような形態ではどうでしょうか。
- 「§評価」を「§評価と芸術における描写」に改名し、「§近代における言及」は統合する
- 19世紀のヨーロッパにおいて主にサッポーとの関わり故に創作の中にエーリンナが登場するようになったことを一文で説明する。
- 注釈(本文でもいいですが)で「具体例としては~~がある」という形式でテオドール・ド・バンヴィルらの情報を入れる。さえぼーさんが確認された出典情報にもここから連結する。
- ソロモンの絵については上に書いたようにキャプションに移動する。「4世紀のギリシャを用いて19世紀イングランドでは禁じられていた~」という説明は正直エーリンナの記事においては脱線気味なので敢えて書かなくて良いと思います。
- 全体としては大幅に圧縮した上で19世紀にエーリンナがサッポーとの関わりにおいて興味を持たれ創作に使われてきたという一般化した情報を残し、作品の詳細は別記事なり出典なりに委託する形です。
- うたえ!エーリンナについて:方針上、言及することは必ずしも否定されないものの、はっきりいって極めて重要度の低い情報で、言及しない方が良いのではないでしょうか。何らかの学術的な出典で当作品がエーリンナの一般的イメージにおいて重要なものとして評価されるようなことがあったならば、その時点で加筆を考えればいいと思います。作品が存在することの出典があったとしてもそれ自体は加筆すべき理由とはならないですし、19世紀の情報からも孤立しています。--TEN(会話) 2020年8月22日 (土) 12:28 (UTC)
コメント依頼の終結(提案)
[編集](以下の記述は、提案とさせてください。イタリック表示に変えます)--Stella maris(会話) 2020年8月25日 (火) 15:05 (UTC)
- どなたか記事を元にもどしてください(リヴァート等を行ってください)。
わたしが終結を述べるのは、違和感がありますが、コメントの依頼者が、この件にはもう関与しないということなので、ここで、コメントを締め切りたく思います。コメントを全体的に眺めますと、「合意による投稿(さえぼーさんの主張)」を、そのまま復元するのがよい、という意見はないように思われます。加筆内容を圧縮し、より簡潔な形で掲載するのがよい、というような意見が一般的な意見に見えます。コメントのなかには、さえぼーさんが、Stella maris に粘着していたという意見もあり、さえぼーさんはそれに対し、ツイッター上で、不審なアカウントなどと記されたことは遺憾に思います。つまり、このような行為は、一種の圧力であり、利用者が、自分の意見をそのままに、コメントすることを躊躇させる原因にもなりえると思います。
TEN 氏の述べられている方針が、妥当なように思えますので、その意見に沿って編集を行いました。エーリンナの名を付けた詩を書いて、その詩において、自分の詩論を展開したというような場合は、エーリンナには関係がないことだと思いますので、そのような記述は省きました。エーリンナを題材として、詩や評論や絵が描かれた、ということを、簡潔に記しました。以上、ここに報告します。またコメント依頼は、これで終結とします。意見やコメントは、自由に提示できるので、これ以降も、意見などがありましら、末尾に、新しく区切り、節を作って、そこで述べて頂ければ幸いです。このような、終結に反対の方は、その旨述べて頂ければ幸いです。コメント依頼を継続する場合は、「継続」として、この提案・処理を、キャンセル宣言して頂いて結構です。--Stella maris(会話) 2020年8月23日 (日) 12:36 (UTC)
- コメント 私の意見に沿って編集いただいたということで無論私は特に内容について言うことはないのですが、他にも意見を述べている方は複数名おり、そういった方々の見解を確認する上でも、もう少し時間を置いた方が良いのではないでしょうか。基本的な編集方針についてStella marisさんに私は賛成ではあるのですが、私の意見について他の方がどう考えるかは未知数です。本記事に関わることについて万事性急に決めすぎており、それが無用な議論の紛糾を招いていると思います。同じ編集をかける場合でも一週間程度時間を置くだけでだいぶスムーズに話が進むと思いますのでご考慮いただければと思います。--TEN(会話) 2020年8月24日 (月) 12:40 (UTC)
- こんにちは。仰る通りです。一週間程度様子をみてからの方がよかったと思います。上の記述で、キャンセルして頂いて結構ですと、記していますので、いったん記事もキャンセルして、どなたか、記事を、元に戻して頂ければ幸いです。わたしで戻そう(リヴァート)と思いましたが、これ以上、わたしの編集ばかりが重なるのは、記事をひとりで編集しているようになりますので、どなたかリヴァートを行ってください。コメント依頼も、どなたかまとめて頂き、終了宣言を行ってください。コメント依頼開始後、十分な時間が経過したと個人的に思いましたが、拙速に過ぎたようです。各位に、お詫び致します。--Stella maris(会話) 2020年8月25日 (火) 15:05 (UTC)
- 追加の意見は出ていませんが、一応私の前回の提案時からは一週間経過しました。さしあたりStella marisさんの前回の編集を反映してはどうかと思いますがいかがでしょうか。こちらの編集自体はKodai99さん、IPさん、Nano blocksさんの意見ともそれほど齟齬の無く、創作活動におけるエーリンナの情報もある程度は網羅しているものと思います。--TEN(会話) 2020年8月31日 (月) 14:27 (UTC)
- 賛成 TENさんの上記の提案に賛同します。--MTBM3(会話) 2020年9月4日 (金) 10:47 (UTC)
- 賛成 残念ながらStella marisさんの復帰が見込めそうになく、私ではその代わりを務めることもできないため、TENさんのご判断にお任せしたいと思います。個人的には、最後の注釈については本文に組み入れて良いように感じますが。なお、これ以上の情報追加を求める方には、その情報が単に存在しているだけでなく本記事にとっての有用性が「信頼できる情報源」によって担保されていること、をお示しいただきたいと考えます。--みっち(会話) 2020年9月5日 (土) 04:56 (UTC)
- コメント コメントありがとうございます。最初の提案からほぼ2週間たち、特に反対意見も出なかったのでStella marisさんの前回の編集をベースに戻しました。とりあえず§需要に関する議論とコメント依頼としては一旦ここで区切るのが良いかと思います。--TEN(会話) 2020年9月5日 (土) 10:57 (UTC)
エーリンナの記事の特徴
[編集]- (長いので、独立節にします)
コメントをする人やすでにコメントをした人に、もう一度確認して頂きたいことがあります。記事には、必要なことは書かねばならないし、不必要なことは書かない。
詩人エーリンナについて、何が分かっているのかというと:
- 1]詩人は紀元前4世紀の人である。その生涯はほぼ不明。どこの人でどんな人生を生きた人かも不明。早世したと古代の詩人が言っているが、これも実は不明。
- 2]詩人の業績は、300行の詩であるが、この詩は断片的にしか内容が分かっていない。大体、詩の十分の一ぐらいしか内容が復元できない。250行ほどに何が書かれていたのか、ほぼ不明である。詩は20世紀初頭に発見された。
- 3]もう一つ、重要なことは、詩作品に出てくる人物が、詩人本人であるかどうか、疑問がある。幼なじみのバウキスと遊んだ記憶を語り、バウキスを追想しつつ、その死に出会い、悲嘆の詩をうたったというのは、作品の構造で、詩人の人生がそうだったのか、不明である。『オックスフォード古典事典』が簡潔にこの疑問を述べている。
「詩人の受容」とかを記すとか述べているのですが、そもそも「何を受容したのか」。19世紀の人たちは代表作『糸巻棒』をまったく知らなかった。今日学術研究で分かったエーリンナの分かりにくい姿の実態もまったく知らない。人物も生涯も、作品さえ分からない詩人について、一体どういう評価や受け取りがありえるのか。
様々に作品が残っており、人物や生涯についても資料が十分に存在する文学者なら、その作品評価や人物像の変化なども意味ある内容になりえるが、そうでない場合は、成り立たない。作品や資料が数多く残っている近世、近代、現代の文学者とは訳が違う。
つまり、19世紀の論者が何を述べたか、その論者の記事に書くことであり、ソロモンの絵については、ソロモンの記事に書くか、絵の記事を作ってそこに書くのが妥当である。詩人の詩も、その詩人の記事に書く内容である。いずれもエーリンナに書く必要がない。
エーリンナの場合、特に注意を要する問題がある。それは記事が百科事典の記事であるとすれば、具体的なイメージ輪郭を描くことができない。他方、漫画だと、空想的設定で、イメージ輪郭のきわめて明瞭なエーリンナ像が構成できるが、この像は独自研究の山で構築されている。輪郭の明瞭な人物像は分かりやすく、面白いとも言える。しかし、記事は本来、客観性や正確性が重要なので、面白さの追求は本末転倒である。
エーリンナの場合、多くの日本語話者は名前を聞いたことがない。ウィキペディアでは、資料がないエーリンナについて、漫画のイメージに対抗できるだけの強い輪郭を持った人物像を書くことができない。
リンク先については、信頼できる情報に基づくサイトが望ましい。独自研究の山である漫画へのリンクや、漫画を記事のなかで紹介する必要はない。そういう編集は悪質な荒らしだとも言える。織田信長や豊臣秀吉だと、歴史研究の方でも、強固な輪郭を持つ人物や生涯のイメージがあり、それを記事に記述できるので、漫画のイメージに対抗できる。
エーリンナは、研究者のあいだで、よく分からないというのが結論である。今後、写本が発見されるかも知れないし、別の方向で研究が進むかも知れない。その場合は、研究の進展に応じて記事を改善するのがよい。正確な情報を提供するのがウィキペディアの記事の使命で、独自研究や誤謬を宣伝流布するのはウィキペディアの記事の目指す処ではない。
漫画というメディアが持つイメージのインパクトの強さを認識していないなら、それは問題である。
エーリンナの記事は、高度な完成度を持っており、余計なものを加えると記事が劣化すると、明瞭に述べたはずである。何故そうなのか、自分で考えてみられたのか。
- (私は、シドンのアンティパトロス、ガダラのメレアグロスなどで、英語版は不十分と思い、色々と加筆や編集を行った。それは記事を見れば分かる。しかし、この記事は、完成度が高く手を入れる余地が皆無だった)。
最後に、繰り返しになりますが、重要なこと。
- 1]エーリンナは、これまで日本語世界でほとんど知られていなかった。そのため、ウィキペディアではとりわけ、正確な情報を提示しなければならない。漫画が正確な情報で構成されていれば問題ないが、そうでないので、漫画が流布する間違いや空想物語に対し、実証研究に基づく記述で、これを補正する役割がある。
- 2]正確さや客観性を重視するウィキペディアでは、分かりやすいエーリンナのイメージ提示が難しい。多くの人は物語を求めているので、生涯も作品も「よく分からない」というエーリンナの記事は、イメージ的にきわめて微妙で脆弱である(強い実証性や正確さがあるのだが、人々は分かりやすいイメージの方を選ぶ傾向がある)。
簡潔に言えば、英語版からの翻訳で十分である(必要なことはすべて書かれている)。誤訳等や硬い表現があれば、無論、訂正して頂くのが望ましいです。これは記事の私物化とかではなく、記事はそもそも英語版の編集者が書いたもので、わたしはそれを翻訳し、注釈を加えただけです。--Stella maris(会話) 2020年8月19日 (水) 20:42 (UTC)
(投稿者自身が除去した見出し)
[編集]--
- (以下の文章を削除させて頂きます。内容は消えていません。以下のコメントの各位にはお詫び致します)。--Stella maris(会話) 2020年8月20日 (木) 07:35 (UTC)
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- (以上の文章を削除させて頂きました。内容は過去版で見て頂ければ幸いです。わたしとしては、場所が不適切であったことはお詫び致します)。--Stella maris(会話) 2020年8月20日 (木) 07:35 (UTC)
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誹謗中傷です。 秋山夕子(会話) 2020年8月19日 (水) 23:50 (UTC)
コメント コメント依頼から来ました。記事については意見はありませんが、「誹謗中傷を書いているという方がおられましたら、」とありましたので、コメントします。Stella marisさんは早い段階から看過できない誹謗中傷を繰り返していらっしゃいます。これでは議論が円滑に進むはずがありません。以下に例を挙げます。
(ここにありました例示は自分で除去しました。--Xx kyousuke xx(会話) 2020年8月20日 (木) 08:06 (UTC))
ご自身の行動を棚に上げて相手への非難を繰り返すのはやめた方がいいです。編集自体に問題がないとしても、これではコミュニティの賛同を得るのは難しいと思います。--Xx kyousuke xx(会話) 2020年8月20日 (木) 00:05 (UTC)
- 会話ページでならばともかく、記事のノートでここまで悪質な個人攻撃を受けるとは思ってもみませんでした。教育目的でのウィキペディア編集プロジェクトがさまざまな言語版で行われていることなど、Stella marisさんは全くご存じないのかと思います(例:英語版)。はじめからStella marisさんは明らかにガイドラインに違反した個人攻撃によってこのページを私物化しようとしておられましたが、私はもう悪質な誹謗中傷にうんざりしましたので、この記事にはかかわりたくありません。Stella marisさんは明白にガイドライン違反のやり方を使ってでも他人が記事に手を入れるのを妨害できればよいとお考えのようなので、これでお望みがかなったということになるでしょう。--さえぼー(会話) 2020年8月20日 (木) 00:22 (UTC)
- 上にあった文書につきましては、不適切であったと思います。削除すると共に、さえぼーさんには、ここで謝罪させて頂きます。(コメント依頼で、書くべき内容でした。コメント依頼は現在出す予定はありません)。--Stella maris(会話) 2020年8月20日 (木) 07:35 (UTC)
- 記事のノートに個人名の節まで作って個人攻撃を行うのはあまりにも悪質であるので、管理者伝言板に報告しました[5]。--Xx kyousuke xx(会話) 2020年8月20日 (木) 00:54 (UTC)
コメント依頼以来、一連の議論を読ませていただいています。§受容の取り扱い・あり方についてはStella marisさんの見解は明瞭で、個人的には近い意見を持っているのですが、さえぼーさんの態度や教育活動に関する話は本記事と全く関係がなく、記事のノートで論難するのはさえぼーさんに事実問題があると仮定してさえ中傷としか言えないと思います。Wikipediaの目的外利用と言う観点で言えば、記事のノートはその記事について議論することを目的として設置されているもので、Stella Marisさん個人がさえぼーさんに感じた疑問を特定の記事のノートに記しておくことは目的外そのものです。さえぼーさん自体に関する記述はこのノートから削除し、きちんと謝った上で、本当に問題があると考えるならばあらためてコメント依頼等然るべき場所で問題提起されるべきと思います。--TEN(会話) 2020年8月20日 (木) 02:14 (UTC)
- こんにちは、TENさん。上に記したことは、以前にコメント依頼に提出して、事態や経緯をお聞きしたく思ったことでした。このノートに書くのは不適切であると言うこと、了解致しました。削除しますと共に、さえぼーさんには、このような場所に、文章を記したことは、失礼なことでもあったので、お詫び致します。(このノートでの話と関連があると思ったのですが、不適切なようです。あらためて、お詫び致します)。ご忠告、有り難うございます。--Stella maris(会話) 2020年8月20日 (木) 07:35 (UTC)
その他
[編集]- 報告 Wikipedia:投稿ブロック依頼/Stella marisを提出しました。--Daraku K.(Talk/Contributions) 2020年8月20日 (木) 03:16 (UTC)
- 報告 ブロックの対象者ですが、まだ admin によるクローズはないとはいえ、賛成票ゼロで、依頼者が「取り下げ」を明確に表明されましたので、このブロック依頼は、終了しました。なお、「取り下げ」なので、審議結果が「ブロックせず」ではなく、ブロック依頼自体が存在しなくなったので、「取り下げによる終了」です。--Stella maris(会話) 2020年8月23日 (日) 12:36 (UTC)
- 上記のStella maris氏の発言後、Wikipedia:投稿ブロック依頼/Stella marisにて賛成票が入りました。審議は現在も続いています。(取り下げが表明されたからといって、ブロック依頼自体が存在しなくなるということはないと思いますが…。)--雛鳥(Hinadori) 2020年8月27日 (木) 13:35 (UTC)
- 終了 2020年9月19日 (土) 11:22 (UTC) に管理者(admin)のYapparina氏により、ブロック依頼は見送りで終了となりました。--雛鳥(Hinadori) 2020年9月19日 (土) 14:00 (UTC)
- 上記のStella maris氏の発言後、Wikipedia:投稿ブロック依頼/Stella marisにて賛成票が入りました。審議は現在も続いています。(取り下げが表明されたからといって、ブロック依頼自体が存在しなくなるということはないと思いますが…。)--雛鳥(Hinadori) 2020年8月27日 (木) 13:35 (UTC)
2年後
[編集]上の件から2年経ちましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。この2年間、中途半端に加筆と除去が繰り返されており(たぶん2年前のログを読んでない方々による)、収まりが悪いので、私のほうで改めて加筆しました[6]。
加筆内容については、2年前のさえぼーさん、ネイさん、MTBM3さんの見解によりつつ、Stella marisさんの遺志を汲んで最小限の文量になるよう心がけ、私自身が探してきた『タ・ネア』のみを特筆性として添えました。少なくとも現状のOtheruseslistよりはマシだと思います。
正直こういう「火中の栗を拾う」役目はしたくなかったのですが、結局は「ギリシア詞華集」や「佐藤二葉」の立項者であり2年前の関係者でもある私が適任者と思い、腹をくくりました。(「基本的な教養」があるかは分かりませんが。) 当然ながら、今回の加筆の責は私一人が負うものであり、上に名前を挙げた方々に責はございません。--Vetalapancavimsatika(会話) 2022年7月23日 (土) 18:30 (UTC)
Otheruseslistを加筆した者です。ノートのログを拝見し、本文中に漫画のことを加筆するとまた削除される恐れを感じたため記事中ではなくOtheruseslistとしたのですが(私もそうですが、日本では件の漫画経由でエーリンナの存在を知る人が少なからずいるはずなので)、現在の形ならば最小限の記述で特筆性のある出典も添えられており、収まりの良い加筆であると感じました。感謝です。 --Kanade2020(会話) 2022年7月25日 (月) 22:49 (UTC)