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ノート:おおかみこどもの雨と雪/過去ログ1

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個人のブログを基にした批評の記述について

現在、個人のブログを出典とした、主題への批評の事実が本文中に記載されていますが、この記述の不掲載を提案します。理由は大きなもので言うと2つです。まず、公表者が「関連分野において著名」(Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源)でなく、このブログがウィキペディア日本語版で出典として使える情報源でないと判断するためです。もう1つは、この批評を取り上げている情報源として確認できるのが自主公表によるものだけであることや、この個人の批評家としての著名性が高いものでないことから、百科事典としての特記性に乏しいと判断するためです。--彼方陣会話) 2012年7月31日 (火) 11:54 (UTC)取り消し部分に取り消し線、追加部分に下線を付記。--彼方陣会話2012年7月31日 (火) 12:49 (UTC)

同意します。富野さんの意見は第三者が査読していますからいいと思います。前田さんの意見は自分の意見を自分のブログに載せただけであり、百科事典に載せる批評としては不適切だと思います。--ツーリン会話2012年7月31日 (火) 23:47 (UTC)

賛成 特定の観点からしか評価していない批評家の意見を長々と転載している現状は明らかに中立的な観点に反しています。そんなに評価を載せたいならもっと多くの(世間的に認知の高い)批評家の意見を一言二言厳選して掲載すべきなのに、です。あと、この記述にこだわる利用者:三十五時間会話 / 投稿記録 / 記録氏は、アカウント取得後本記事にしか投稿していません。三大方針の理解不足も見て取れますが、これはまた別の話になるのでここまでにしておきます。--Avanzare会話2012年8月1日 (水) 12:38 (UTC)
特定の観点から、というのは富野さんのコメントも記述したわけで、中立的ではあったと思うのだが。中立というのは偏った意見という意味ではなく、いろんな観点があることを承知しろという意味だと思うのだけど。あとアカウント取得後何を編集したかとか関係ないでしょうに。前田さんは映画評論家としてメディアで仕事をしているし、著名性が高くないとは言えないのでは。結局削除依頼のほうでコメントに対する回答が得られないまま、審議も進ませずにそのまま削除となってしまったが、これでよかったんだろうか。--亀田会話2012年8月4日 (土) 15:02 (UTC)
評価を記述する上では色んな意見を掲載するというのはいいと思います。しかし、個人ブログの情報はWikipediaの「信頼できる情報源」の「自己公表された情報源」にあたり、掲載するのにはふさわしくありません。前田さんの感想が個人ブログに掲載されたものである限り、wikipediaの掲載条件は満たしません。おおかみこどもの感想を書いたブログなんて山ほどあるわけで。前田さんの感想が、第三者によって雑誌などに掲載されれるまでは、Wikipediaに掲載されるべきではないでしょう。--ツーリン会話2012年8月6日 (月) 12:22 (UTC)
議論の対象となっている部分について提案内容と異なる編集が行われましたが、このような行為が継続された場合は合意形成において不適な状態だと考えますので、編集者の皆様におかれましては議論終了までは実施しないことをお願いいたします。
本題ですが、上記の編集の要約として述べられている「出典として用いるべきかどうか」については、私としては既に問題点としては撤回していますので、この解決をもって掲載に賛同することはできません。例えば、公開日のような情報であれば他の情報源と併せて特記性を確認できるものであるので、このブログを専門家の公表物として出典として使うことに反対はしません。今回問題視すべきと考えているのは、この批評に百科事典に載せるほどの特記性があるのかどうかです。この批評を取り上げる価値のあるものと判断した媒体として確認できているのは自主公表物のみです。また、批評家本人についても、信頼できる情報源における活動は多いと言えず、いくらか著名性はあるとしても特記性の判断材料として望ましい何らかの二次資料の代わりを務められるだけの高さであるとは思いません。これらのことから、この批評は百科事典が載せるべき情報ではないと判断しています。--彼方陣会話2012年8月24日 (金) 05:38 (UTC)
その批評を「特記性がない」とする程度の映画評論家だとすれば、「前田有一」の削除を真面目に考えるべきではないでしょうか。個人的には、件の批評をそれほど評価するものではありませんが、「ただ個人ブログで批評ゴッコをやっているだけの自称評論家」という訳でもなく、この記事で取り上げる程度の特筆性は普通にあると判断します。--氷鷺会話2012年8月24日 (金) 12:11 (UTC)
申し訳ございません。荒らし認定されたものです。ウィキペディアの編集がどういうルールか理解してないもので、個人のブログの感想を基にした批評対して「中立ではないのではないか?」という文章を書いてました。批評を消すという編集も考えたんですけど「そんな事やっていいのかな??」とよく分からなかったものでして。でもあの文章では余計にダメでしたね。当然自分の書いた文章は消された訳ですが(当然なのですけど)、あの批評自体が以前に消された方向だと思ってたもので・・「むむ。荒らし的な感じで批評の復活?」と思って、文章を頑張って書き足してたわけですが・・・完全に私が荒らしでした。とんでもなく恥ずかしい限りです。申し訳ございません。
ただあの批評だけが、あのような形でウィキに乗ることに関しては、「映画もまだ上映段階なので、映画に対して営業妨害的な作用が出てこないだろうか?」という事を不安視しています。(署名というのがよく分からないので、ちょっとできないんですけど。)--以上の署名のないコメントは、114.153.131.225会話/Whois)さんが 2012年8月24日 (金) 12:27 (UTC) に投稿したものです(彼方陣会話)による付記)。
主に、氷鷺氏による意見に対して。ある人物に特筆性があることを示したい場合に有効に働くであろう出典の数は、その人物が話題となっている全ての情報源の数と比べると、少なからず限られてくるものと思います。つまり、専門家として特筆に値する人物が行ったその専門分野内での活動であっても、その情報源によっては特記性が認められないことがあることは不自然なことではないと考えます。今回出典として用いられているブログの中の批評が、この批評家が特筆に値する根拠となる情報源の中の批評に相当する価値があるものかどうかは、今のところ明らかなものではないと思います。--彼方陣会話2012年8月26日 (日) 06:42 (UTC)
しばらく意見が出されていないので追記いたします。現在、特記性の裏付けとして意見が出ているのは今回の批評そのものでなく、それを著した批評家を価値判断の根拠としているものが専らであると見受けました。このため、その批評がどういう内容であるかということを記載する理由は乏しい状態であると考えます。したがって、先行してその部分を除去するのはどうでしょうか?--彼方陣会話2012年9月23日 (日) 16:08 (UTC)
無理でしょう。現在のところ「特筆性がない批評家」という根拠も、「特筆性がない批評」という根拠も、彼方陣さんの頭の中にしかありません。--氷鷺会話2012年9月26日 (水) 14:39 (UTC)
文言こそ不掲載を提案する形となっていますが、特記性の確認の不備の疑いに端を発している議論ですので、掲載を希望する理由こそ資料により裏付けられている範囲を吟味することで、合意に至ることができるものだと考えます。--彼方陣会話2012年10月25日 (木) 11:03 (UTC)
追記します。この個人は場合によっては二次資料において専門家として他称されていることがあるようですが、自らのブログを発表場所に使って述べられている立場は全て「自称」の域を出ることはないため、本件の批評は他称時のような専門性を以てして作られた物だと認められる状態ではないものと考えます。--彼方陣会話2012年12月6日 (木) 13:56 (UTC)
シンプルな意見として。個人的には前田有一氏の批判に同意するものではありませんが、好意的な批評、批判的な批評を並記することはいいことだ思います。違和感があるのは、富野由悠季氏と前田有一氏の認知度、ネームヴァリューに大きな隔たりがあるなかで、両氏の批評を並記することで、読み手が自分が知らないだけで前田有一氏が富野由悠季氏と同等の認知度、ネームヴァリューを持っている=同等の重みを持つ意見だ、という誤謬を生む可能性がある点は指摘しておきたいと思います。そうした意味で、Avanzare様の「もっと多くの(世間的に認知の高い)批評家の意見を一言二言厳選して掲載すべき」という意見に賛成します。--madoka会話2012年12月17日 (月) 17:46 (UTC)

出典皆無の件

報告 2012年8月5日 (日) 18:03 (UTC)に編集させていただいた者です。これだけの長文にもかかわらず、このセクションにはひとつたりとも出典がなかったため、「出典の明記」を貼らせていただきました。これだけの長文なのですから、執筆に当たって書籍、雑誌、新聞など何らかの媒体を出典として記述したのでしょうが、それが明記されていません。きちんと明記していただければ、よりよい記事になると思います。まさか映画で観たままをそのまま書いているわけではないでしょうから(映画を観た執筆者が、個人的に理解した内容、あるいは個人的なレビューや個人的な感想みたいなものを、つらつらと書かれても困る)、ぜひ出典を提示できるところはしてください。

また、「極度なネタバレを差し戻し」と主張している人がいるようです。映画の広告や新作映画を扱った雑誌なら「ネタバレするな」と批判されることもあるでしょうが、百科事典で「ネタバレするな」と主張する根拠が不明です。あまりにも長大な分量で事細かに記述がされていた場合、「百科事典としてふさわしい粒度なのか」という疑問が残りますが、だからといってそれは「ネタバレだからだめだ」という理由ではありません。まして、この程度の分量なら百科事典としては許容範囲でしょうし、内容的にも細かすぎるというようなものでもないようです。ネタバレ自体を百科事典として忌避する必要はないと思いますし、「極度な」というほどの内容でもないと思います。

「映画を観る前に記事を読んだら、結末まで書いてあって憤慨した」という人もいるかもしれませんが、それは自己責任ではないでしょうか。ですので、単に出典さえつければ問題は解消すると思います。--111.188.53.113 2012年8月8日 (水) 21:40 (UTC)

まぁ、よくある誤解ですね。件の記述は、映画作品そのものが出典であり、決して『執筆に当たって書籍、雑誌、新聞など何らかの媒体を出典として記述』のような真似はしておりません。そもそもそんな手法は事実上不可能でしょうし、『個人的に理解した内容、あるいは個人的なレビューや個人的な感想みたいなもの』は排除してありますから問題ないかと。(万が一そういう部分があれば適宜削るなり指摘するなりしてください) 記事の主題からしてこの部分の出典は明らかですし、確認のため映画の途中だけ見に行くという奇特な行為を想定する必要もありませんから、何分何秒といった詳細な記述も不要です。
映画・小説・漫画などでは、観客・読者の想像によって補われる部分があるのは事実ですが、内容的に「観客・読者の想像」に大幅に依存する作品でもなければ、その「独自研究」を排除することは可能であり、……逆に言えば論文や数値ですら、その理解・解釈には「独自研究」じみた曲解・誤解の余地はあります。結局は「出典」の扱い方を注意すれば済む話です。「主人公に銃が突きつけられてから画面が暗転、銃声が響く」という描写であればそれを単純に「死んだ」「殺された」と解釈すべきではありませんし、『あしたのジョー』最終回のような場合はその生死について言及(断言)すべきではありません。そういう当然の注意をしていれば何の問題もありません。
Wikipedia:信頼できる情報源に一次資料・二次資料についての言及があるため、単純に二次資料至上主義のような主張をされる方もたまに見られますが、当然あるべき注意のもとでは一次資料もまた出典たりえるのです。法令や規格などについての記事では、その解釈や評価といった発展的な解説について主に二次資料に頼るのが当然ですが、原文や原典である記述については原文(一次資料)が出典になりえます。フィクションについてもそれと同じことだと考えてください。--氷鷺会話2012年8月9日 (木) 13:19 (UTC)
質問映画作品そのものが出典であり、決して『執筆に当たって書籍、雑誌、新聞など何らかの媒体を出典として記述』のような真似はしておりません。そもそもそんな手法は事実上不可能でしょう」とのご意見について。氷鷺さんはご存じないのかもしれませんが、日本の書店に行けば映画について紹介する書籍や雑誌や新聞などは腐るほどあります。それにくわえて、このように著名な映画であれば、容易に入手できると思いますが・・・・・・何を根拠に「そもそもそんな手法は事実上不可能でしょう」とおっしゃるのか、後学のためにぜひ詳しく教えていただきたいところです。
法令や規格などについての記事では、その解釈や評価といった発展的な解説について主に二次資料に頼るのが当然ですが、原文や原典である記述については原文(一次資料)が出典になりえます」というのは、法令の解説なんかは二次資料を参考にすべき(ひとによって見解はさまざまでしょうし解説者の立場や学派によっても変わるでしょうから)だが、条文の丸々抜書き(いわゆる引用)なら一次資料を出典にしてもよいということですよね。映像作品の「あらすじ」を執筆する場合、条文の丸々抜書きというより、解説に地が印じゃないでしょうか。結局、氷鷺さんの理解に基づいた個人的な主観によるストーリーなのですから。
いずれにせよ、執筆するとき、その傍らには当然二次資料を手許においているのでしょうから、参考にしたところを明記すればいいだけでしょう。特に手間がかかるわけでもないのに、なぜそれをしないのかがわかりません。それを提示するだけでよいのですが。まさか映画館で映画を観て、そのまままっすぐ自宅に帰り、自分自身の記憶だけを頼りに記事書いてるわけじゃないですよね。--114.48.34.4 2012年8月20日 (月) 06:14 (UTC)
映画雑誌をはじめ本作が紹介されている資料はいくつもありますが、さて、あらすじを書くのに役立つ資料はどこかにありましたでしょうか。パンフレット、文庫版、オフィシャルブック、あと雑誌を一通り入手済みですけれども。仰っているのは架空の日本という国の話かもしれませんが、まだ何年も経っていない映画についてまともにあらすじが書ける程度の二次資料というのは、そうそう実在しません。そしてあらすじを書くのに適当な「あらすじ」がどこかの二次資料にあったとして、その複製や要約とならないよう利用できるという条件をも考慮すると、事実上、映画作品そのもの以外で使える可能性があるのは脚本・台本くらいのものでしょう。ああ、それにしても結局、二次資料云々と主張できてしまうのですね。
あらすじが条文自体よりその解説に近いという主張は無理です。少なくとも、ウィキペディアの記事におけるあらすじの在るべき姿というのは議論の余地なく前者でしょう。『氷鷺さんの理解に基づいた個人的な主観によるストーリー』とのことですが、少なくとも、日本語を理解できてこの作品を普通に理解できる程度の頭があれば、これを主観と主張することなど不可能でしょう。本作中で描かれた森や人や建物を適切にそれと認識する、その程度のことが出来さえすれば問題ない、最低限の共通認識に過ぎません。
いずれにせよ、執筆するとき、その傍らには当然二次資料を手許においている』は既に指摘したとおり単なる誤解ですので再度説明することはしません。二次資料至上主義は早めに治したほうが良いですよ。なお、映画館で見た日は書店に寄って関連書籍を買ったくらいで、その後2週間ほど経ってから書いたものがあれになります。--氷鷺会話2012年8月22日 (水) 16:23 (UTC)
コメント なるほど、「あらすじを書くのに役立つ資料はどこかにありましたでしょうか」と仰っているところから推察するに、せっかく「パンフレット、文庫版、オフィシャルブック、あと雑誌を一通り入手済み」であるにもかかわらず、【その出典を読み取って理解してそれを記事執筆に役立てる】ということすらできなかったと言うわけですね。このような状態は、ご存じないかもしれませんが「宝の持ち腐れ」「豚に真珠」と表現することが多いです。また、「一通り入手済み」といいつつ、単に「パンフレット、文庫版、オフィシャルブック、あと雑誌」だけなのですか? 「雑誌」のジャンルも気になるところですが、日刊紙すら確認していないところから察するに、「一通り」とはおそらく程遠いことでしょう。単に「パンフレット、文庫版、オフィシャルブック」だけ確認し、あとは目に付いた「雑誌」だけということなんですね。同様にこの状態は、「大言壮語」と表現します。さて、「映画館で見た日は書店に寄って関連書籍を買ったくらいで、その後2週間ほど経ってから書いたものがあれになります」とのことですが…氷鷺さんも大人になればお分かりになるでしょうが、人の記憶は曖昧なもので、一度寝るだけで多くが失われます。映画を観た直後どころか2週間も経っていれば、その信用性は大幅に低下していることでしょう。文献にすらあたらず2週間前の記憶だけを頼りに書いたものには、何の信頼性も担保できないと思われます。ということで、氷鷺さんの編集については、あらすじであるか否かを問わず、一律全て差し戻すと言うことでよいかと思います。--114.48.43.174 2012年8月25日 (土) 17:24 (UTC)
断片的な情報から作品全体を概観した「あらすじ」を捏造することについて何の疑問も抱いていないレベルでは、何を言っても仕方がありませんよ。作品全体の姿を十分に(大きな省略もなく)記述した文献などそうそう無いということも理解できていないのでしょう。結局のところ、あなたの主張は「出来の悪い二次資料至上主義」のさらに劣化版に過ぎないのです。その不十分な理解力では机上の空論のみで、実際には問題点すら挙げられず、ただ繰り返し「文献がー」というのが精一杯というところでしょうか。具体的な記述について言及できていないところをみると、本作をまだご覧になっていないのかもしれませんね。どうやらあなたには、この議論も、ウィキペディアへの参加も、あるいはこの映画の対象年齢にも、まだちょっと早かったようです。--氷鷺会話2012年8月25日 (土) 18:05 (UTC)
コメント 単に「パンフレット、文庫版、オフィシャルブック」に加えてたまたま目に付いた「雑誌」のみ確認しただけで、「記述した文献などそうそう無い」と断言してしまうのは、いかがなものでしょうが。ご自分の目の届く範囲が世界の全てだと勘違いしてしまうのは誰もが一度は通る成長の過程ですから苦言は申しませんが、一度、保護者の方にご教示いただくのも手かと思いますよ。Wikipedia:児童・生徒の方々へあたりが参考になるかと思いますが、ウィキペディアは年齢制限自体はは設けられていないものの、あまりにもkiddyな言動は望ましくありません、さて、「断片的な情報から作品全体を概観した「あらすじ」を捏造することについて何の疑問も抱いていないレベル」とのことですが、「断片的な情報」だけを基にして「作品全体を概観した「あらすじ」を捏造」しろなどとは言ったつもりはありませんし、「作品全体を概観した「あらすじ」を捏造」する必要もありませんから、その指摘は杞憂に過ぎません。あらすじ全体を単一の出典で記述する必要はないでしょうし、文単位で出典をつけるほうほうもあるでしょう。いずれにせよ、「何らかの出典に基づく執筆」と「映画鑑賞後2週間経過したあやふやな記憶に基づいた氷鷺さんの個人的主観による分析の執筆」と、果たしてどちらが記事に書くべき内容でしょうか。もし百歩譲って、適切な出典が地球上にひとつもなかったと仮定して、「映画鑑賞後2週間経過したあやふやな記憶に基づいた、氷鷺さんの個人的主観による分析の執筆」と、「映画鑑賞直後のあたらしくて比較的ロスが少ないと思われる記憶に基づいた、氷鷺さん以外による執筆」と、果たしてどちらが記事に書くべき内容でしょうか。いずれにせよ、当人である氷鷺さん以外から異論がない限り、氷鷺さんの編集については、あらすじであるか否かを問わず、一律全て差し戻すということでよいかと思います。といっても、いきなり記事から除去は乱暴でしょうから、当人である氷鷺さん以外からここで異論がなければ、まずコメント依頼などを通じて提案し、そこで賛成多数なら実施、と言うことになるかと思います。なお「あなたには、この議論も、ウィキペディアへの参加も、あるいはこの映画の対象年齢にも、まだちょっと早かったようです」と、ずいぶん勇ましいことを仰っていますが、まぁその発言内容が妥当かどうかについては、氷鷺さんがもう少し大きくなったらおのずとお気づきになるでしょう。それまでは氷鷺さんの宿題にしておきましょうか。--114.48.43.174 2012年8月25日 (土) 19:37 (UTC)
背伸びをしたところで年齢を隠し通すのは難しいものですよ。少なくともあなたの場合、それは最初から失敗しているのですから、無理に大人のフリなどしなくて結構です。恥の上塗りはその辺でやめておきましょう。『あらすじ全体を単一の出典で記述する必要はない』などはなかなか面白い意見ですね。ああ、褒めてませんよ――上のやりとりから既に分かりきっていたことですが、ウィキペディアに参加する程度の知性が出来上がっていない相手にどう説明したらよいのか困っているのです。あなたの記憶力が十分でないのは分かりましたが、普通の人間はもうすこし頭の出来がよく、少なくとも個々の記憶の正確性くらいは自分で理解できているものですし、忘れないようにすることもできるのです。あなたは、これほど文字数をかけても未だ具体的な問題点を指摘することもできず、もはや敗者の捨て台詞のような文句を並べているような状態ですが、その認識もないのでしょうか。--氷鷺会話2012年8月26日 (日) 15:49 (UTC)
報告 先ほどこの議論へのコメント依頼を行いました[1]。--Henares会話2012年8月31日 (金) 12:28 (UTC)
Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクション関連)#一次情報に、物語の筋を書くための資料として「作品そのもの」が使用できることが明記されています。逆に一次資料で十分書きうるものに二次資料を求めても蛇足にしかならないでしょう。またWikipedia:あらすじの書き方#具体的な書き方には、むしろ二次資料を参考にして「あらすじ」を書くことに注意が必要であることが記されています。分析や評価などが混じらない「あらすじ」であれば二次資料は必要ありません。--頭痛会話2012年8月31日 (金) 15:36 (UTC)
頭痛さん。ご意見ありがとうございます。議論を開始なさった氷鷺さんとIP氏の議論はかなり横道にそれてしまっているように見えますのでご両人が具体的にどのようにお考えなのかお二人に直接うかがってみないことにはわかりませんが、個人的には「ストーリー」節の最大の問題は情報源が「一次であるか二次であるか」ではなく、「出典が明記されていないこと」だと思います。理想的には映画作品の場合DVDなどのかたちで販売されたものに該当するチャプター数などを併記して出典として明記することが望ましいとは思いますが、本作の場合残念ながら未だ販売されていませんのでそれは叶いません。しかしこの節が仮に「パンフレット、文庫版、オフィシャルブック、あと雑誌」をもとに書かれた記述であるならばDVDなどが発売されるまでの間だけでもそれを読者にも検証可能な形で本文中に明記しておいた方が、何も情報源が明記されていない現状よりはるかにましだと思います。少なくとも出典が何一つ存在しない現在の状態は{{要出典}}などを用いてできるだけ早く改善されるべきだと思います。--Henares会話2012年9月1日 (土) 01:59 (UTC)
それは結局のところ上のIPユーザの主張と同じで、単なる誤解です。あなたがコメント依頼からブロック依頼に進めたいのは分かりますが、そうであれば尚更こんな「方針無理解」相手の対応などではなく私の問題行為のみを取り上げて指摘すべきなのです。なんでもかんでも取捨選択せずにコメント依頼送りにしても、あなたの目的からは遠ざかるだけですよ。コメント依頼→ブロック依頼は、合理的・効率的に進めましょう。--氷鷺会話2012年9月1日 (土) 09:22 (UTC)
「あらすじ」が「作品そのもの」で検証可能であることは言わずとも明らかですので、一般的に「あらすじ」には出典は必要ありません。Wikipedia:あらすじの書き方#具体的な書き方には「「第一章では・・・」「第三話以降では・・・」というふうに参照をつけることによって、具体的な作品構成に触れることもできます」と書かれていますが、これは比較的複雑な作品の構成を説明する際にそのようなやり方もできるということであって検証可能性(出典)を問題にしているのではないことは文面から容易に読み取れると思います。Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクション関連)#物語の要約にも「現実世界の観点」という点に絡めて似た内容が書かれていますが、「単発の映画」などの短い作品には重きを置かなくて良いとはっきり書かれています。
現在良質な記事に選ばれているものでは神々の黄昏 (楽劇) ジークフリート_(楽劇) マクベス (ヴェルディ) イングロリアス・バスターズ ニュルンベルクのマイスタージンガー 黄金虫 ガリヴァー旅行記 カンタベリー物語 にあらすじに当たるものがありますが注釈的なものを除けばいずれも出典は全くつけられていません。「あらすじ」に他の節と同様に出典が必要なのだとすればこれらの記事が良質な記事に選ばれるはずはありませんから、「あらすじには出典不要」という認識はコミュニティとして認められているものと考えてよろしいと思います。秀逸な記事のディシディア ファイナルファンタジーのあらすじには出典がありますが、これは製作者の意図や他の作品との比較、特定の用語の引用や解釈の余地がある部分などに付けられているものですからどちらかといえば例外的なケースだと思います。--頭痛会話2012年9月1日 (土) 09:48 (UTC)
(氷鷺さんへ)あまりこの場で深く申し上げるつもりはありませんが、投稿ブロック依頼を提出してもコミュニティによってHenaresの依頼は否定されるであろう、と私自身が考えざるを得ないような氷鷺さんの賢明な行動を期待しています。すべて氷鷺さん次第です。
#主題への言及がない情報源を出典とする記述についてでも申し上げた通り、コメント依頼から来られる方々の大半が私の意見を否定しそれによってこれほどこじれてしまった議論を収拾できるならば、それでも私は構いません。もうしばらくコメント依頼からいらっしゃる皆さま方のご意見をお待ちしましょう。ただし今以上にIP氏を刺激しかねない行動はご遠慮願います。--Henares会話) 2012年9月1日 (土) 12:39 (UTC)訂正。--Henares会話2012年9月1日 (土) 13:01 (UTC)