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ネヴィル・チェンバレン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ネヴィル・チェンバレン
Neville Chamberlain
首相在任中のチェンバレン
生年月日 (1869-03-18) 1869年3月18日
出生地 イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドバーミンガム
サウスボーン
没年月日 (1940-11-09) 1940年11月9日(71歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドハンプシャー
ヘックフィールド
出身校 メイソン・サイエンス・スクール
前職 実業家
所属政党 保守党
配偶者 アン・チェンバレン
親族 ジョゼフ・チェンバレン(父)
オースティン・チェンバレン(兄)
サイン

イギリスの旗 第60代首相
内閣 第1次チェンバレン内閣
第2次チェンバレン内閣
在任期間 1937年5月28日 - 1940年5月10日
国王 ジョージ6世

在任期間 1923年8月17日 - 1924年1月22日
1931年11月5日 - 1937年5月28日

イギリスの旗 保健大臣
在任期間 1923年3月7日 - 8月27日
1924年11月6日 - 1929年6月4日
1931年8月25日 - 1931年11月5日

イギリスの旗 枢密院議長
在任期間 1940年5月10日 - 10月3日
国王 ジョージ6世
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アーサー・ネヴィル・チェンバレン英語: Arthur Neville Chamberlain, FRS, 1869年3月18日 - 1940年11月9日) は、イギリス政治家実業家首相(在任:1937年5月28日 - 1940年5月10日)。ナチス党傘下のドイツ国に対する宥和政策で知られる。

生涯

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生い立ち

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バーミンガム市長や植民地大臣などを歴任したジョゼフ・チェンバレンを父としてバーミンガムのサウスボーンで生まれる。外相時代にロカルノ条約を締結し、ノーベル平和賞を受賞したオースティン・チェンバレンは異母兄にあたる。6歳の時に母親が死去した。

ラグビー校で教育を受け、さらにメイソン・サイエンス・スクール(バーミンガム大学の前身)でも学び、科学冶金学金属工学)の学位を得て、卒業後は監査法人に就職した。一方で父ジョゼフが経営していたイギリスの植民地バハマ農園へ派遣され、そこで長く農園経営も行った。

政治経歴

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その後実業界で成功を収め、この時に得た名声を後ろ盾として1911年に生まれ育ったバーミンガムの市議に立候補し当選した。そのわずか4年後の1915年には、父同様バーミンガム市長となる。

国会議員

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1923年のチェンバレン

第一次世界大戦終結間際の1918年に行われた選挙で保守党より立候補し下院議員となり、1923年からボールドウィン内閣の蔵相、その後の内閣では保健相を務めた。1930年、ボールドウィンの後を受けて保守党の幹事長に就任。1931年世界恐慌に突入する中、労働党マクドナルド挙国一致内閣を組閣するとチェンバレンは再び蔵相を務めた。この間、財政の立て直しに手腕を発揮したことが評価され、マクドナルド後にボールウィンが再び登板して組閣した際も蔵相を続投した[1]

首相職

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就任

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1937年5月28日に、スタンリー・ボールドウィンの後を受けて保守党党首およびイギリス首相の座に就く。なお直前の5月12日には、新国王のジョージ6世が戴冠式を行ったばかりであった。

内政

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資本家寄り」とされる保守党党首にもかかわらず、就任後すぐに、これまで制限が設けられていなかった女性子供労働時間に制限を掛ける法律を通過させたほか、有給休暇関連法や家賃統制など、労働者の権利を優先させる法律の制定に尽力した。

外交

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ミュンヘン会談においてベニート・ムッソリーニアドルフ・ヒトラーとともに
ミュンヘン会談からの帰国後に会見するチェンバレン
フランスを訪れたチェンバレン(1939年12月)

当時イギリスやフランスと軍事増強と領土の拡大を進めるドイツイタリアなどとの間で政治的緊張が増す中、チェンバレンがフランスのエドゥアール・ダラディエとともにドイツのアドルフ・ヒトラーや、イタリアのベニート・ムッソリーニに対して取った宥和政策は、1938年9月29日ミュンヘン会談において締結された「ミュンヘン協定」で頂点に達した。

イギリスの一部やアメリカなどのその後の連合国から称賛されたこの宥和政策により、結果的には第二次世界大戦の勃発が1年引き延ばされることになる。これは、ドイツの関心をソビエト連邦に向けさせる意味と、イギリスの防備の時間稼ぎをする意味があったとされるが、ウィンストン・チャーチルはこれを「この期間にイギリスが軍備の近代化を進めたのは事実だが、同時にドイツも軍備の強化を行いより強力な軍備を作り上げた」と批判している。

なお当時の保守勢力の主流にとって、ソ連を頂点とする社会主義陣営や、彼らによる共産主義革命の誘発への警戒心は強かった。そこで、ヒトラー政権を抑えてソ連に付け入る隙を与えるよりは、対ソの抑止力となることを期待したのである。イギリスが、世界をにぎわせたスペイン内戦に不介入で通したのも、介入すればそれが世界大戦の引き金になり、ソ連を喜ばせるだけであるという判断があったからであるとされている。

なおミュンヘン会談から帰国したチェンバレンを迎えたジョージ6世は、チェンバレンにバッキンガム宮殿のバルコニーで国王夫妻とともに、国民からの歓迎を受ける特権を与えた。国王と政治家の友好関係を大衆の前で見せるのは極めて例外的であり、王宮のバルコニーからの謁見も伝統的に王族のみに許される行為だった。

しかし一連のチェンバレンによる宥和政策は、チャーチルが指摘したように「ドイツに軍事力を増大させる時間的猶予を与えた」と同時に「英仏が実力行使に出るという危惧を拭えていなかったヒトラーに賭けに勝ったという自信を与え、侵攻を容認したという誤ったメッセージを送った」として、現在では歴史研究家や軍事研究家から強く非難されている。

特に1938年9月29日付けで署名されたミュンヘン協定は、後年になり「第二次世界大戦勃発前の宥和政策の典型」とされ、近代における外交的判断の失敗の代表例として扱われている。

第二次世界大戦

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1939年9月1日ドイツ軍ポーランド侵攻と、同日に駐独イギリス特命全権大使を通じてポーランドからの撤退を勧告した最後通告への返答がなかったことを受けて、2日後の9月3日にチェンバレンもフランスのダラディエとともに対独宣戦布告を行った。

同日に、ダウニング街10番地の首相官邸からのラジオ演説を通じて、イギリスと帝国の国民に対してドイツとの交渉決裂と戦争状態への突入を発表し、ここに第二次世界大戦が勃発した。

開戦からしばらくは西部戦線の動きがほとんど無かったものの(いわゆる「まやかし戦争」)、チェンバレンは最前線のフランスに展開するイギリス海外派遣軍を視察するなどして英仏最高戦争評議会英語版でフランスと軍事作戦を調整していた[2][3][4][5]

しかし、1940年4月にドイツ軍のノルウェー作戦の阻止に失敗、同年5月10日に、これまで大きな動きを見せなかったドイツ軍がベネルクス3国に侵攻の矛先を転じた。宥和政策を進めた首相チェンバレンに対して、与党保守党内からも造反者が相次ぎ、政権の危機に陥った。チェンバレンは野党労働党に協力を要請したが、反ファシズムを掲げていた労働党党首クレメント・アトリーはこれを拒絶し、チェンバレンは退陣に追い込まれた[6]。後継には軍人出身のウィンストン・チャーチルが就任して、保守党とともに労働党なども参加する挙国一致内閣が組織されることになった。

この挙国一致内閣の組閣においてチェンバレンは、チャーチルから下院院内総務枢相への就任を要請されたが、この人事に対して挙国一致内閣に参加した労働党のアトリーが難色を示したため、チェンバレンは枢相のみへの就任にとどまった[7]

死去

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その後、ドイツのオランダやフランス占領や「バトル・オブ・ブリテン」などにより、イギリスへの圧力が強まる中、体調が悪化したため1940年9月に閣僚から退いている。同年11月9日大腸癌により死去した。71歳没。チャーチルは「彼は政敵であり、批評家であり、支持者であった」と追悼演説を行った。

人物

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ドイツ外相と会談するチェンバレン(中央の雨傘を持った人物)。

チェンバレンはどこへでも雨傘を携行する癖があったのでアンブレラマンとあだ名されたが、彼のトレードマークの雨傘は宥和政策の象徴とみなされた。

私生活

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1911年にアニー・コール英語版と結婚した。アニーの父は陸軍少佐ウィリアム・ウッティング・コール、母は国会議員の準男爵ステファン・ド・ヴィアー英語版の姪でその相続人のメアリー・ド・ヴィアーであり[8]、兄は偽エチオピア皇帝事件などの様々な悪戯を仕掛けたことで知られるホレス・ド・ヴィアー・コールである。

脚注

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  1. ^ 対独宥和政策の前英首相、死去『朝日新聞』(昭和15年11月11日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p466 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  2. ^ Prazmowska, Anita J (2004). Britain, Poland and the Eastern Front, 1939. Cambridge: Cambridge University Press. pp. 239, p.184. ISBN 978-0-521-52938-9.
  3. ^ The Diaries of Sir Alexander Cadogan, 1938 – 1945, Edited by David Dilks. London: Cassell and Co Ltd. 1971. pp. 218–219. ISBN 0-304-93737-1.
  4. ^ Churchill, Winston (1966). The History of the Second World War, Book II The Gathering Storm: The Twilight War, September 3, 1939 – May 10, 1940. London: Cassell. p. 73.
  5. ^ "none". Le Petit Journal. 29 March 1940.
  6. ^ 河合 2020, p. 184.
  7. ^ ウィンストン・チャーチル著、佐藤亮一訳『第二次世界大戦2(新装版)』河出文庫、2001年7月、16頁
  8. ^ Grumley-Grennan, Tony (2010). Tales of English Eccentrics. pp. 119–121. ISBN 978-0-9538922-4-2. https://books.google.com/books?id=TXs3AgAAQBAJ&pg=PA119 

参考文献

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関連項目

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公職
先代
スタンリー・ボールドウィン
イギリスの旗 イギリス首相
第60代:1937年 - 1940年
次代
ウィンストン・チャーチル
先代
スタンリー・ボールドウィン
フィリップ・スノーデン英語版
イギリスの旗 イギリス財務大臣
1923年 - 1924年
1931年 - 1937年
次代
フィリップ・スノーデン英語版
ジョン・サイモン (初代サイモン子爵)
先代
アーサー・グリフィス=ボスカウェン英語版
ジョン・ウィートリー英語版
アーサー・グリーンウッド英語版
イギリスの旗 イギリス保健大臣
1923
1924年 - 1929年
1931年
次代
ウィリアム・ジョイソン=ヒックス英語版
アーサー・グリーンウッド英語版
エドワード・ヒルトン・ヤング英語版
先代
ジェームス・スタンホープ英語版
イギリスの旗 枢密院議長
1940年
次代
ジョン・アンダーソン英語版
党職
先代
スタンリー・ボールドウィン
イギリス保守党党首
第3代:1937年 - 1940年
次代
ウィンストン・チャーチル