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トグス・テムル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
トグス・テムル
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モンゴル帝国第17代皇帝(ハーン
在位 宣光8年4月16日 - 天元10年10月3日
1378年5月13日 - 1388年11月1日
戴冠式 1378年5月
別号 ウスハル・ハーン

出生 至正2年2月1日
1342年3月7日)または
至正9年
1349年[1]
死去 天元10年10月3日
1388年11月1日
トール川河畔
埋葬 起輦谷/クレルグ山モンゴル高原
子女 テンボド(天保奴)ディボド(地保奴)
家名 クビライ家
父親 トゴン・テムル
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末主 脱古思帖木児
北元
第3代皇帝
王朝 北元
都城 カラコルム
陵墓 起輦谷(モンゴル高原
年号 天元 : 1379年 - 1388年

トグス・テムルモンゴル語ᠲᠡᠭᠦᠰ
ᠲᠡᠮᠦᠷ
, ラテン文字転写: Tögüs Temür)は、モンゴル帝国の第17代ハーン北元としては第3代皇帝)。明朝の官選史料『明実録』では脱古思帖木児と記され、『新元史』『明史』といった後世の編纂物もこの表記を用いる。尊号はウスハル・ハーンモンゴル語ᠤᠰᠬᠠᠯ
ᠬᠠᠭᠠᠨ
, ラテン文字転写: Uskhal Khan)。治世の元号から天元帝と呼ばれることもある。

明周辺の親モンゴル勢力が征服される中で明と対決したがブイル・ノールの戦いで大敗、退却中に皇族イェスデルの襲撃を受けて暗殺された。世祖クビライ以来続いてきたの皇統から出た最後のハーンとなった。

概要

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生い立ち

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トグス・テムルの出自については史料ごとに記述が錯綜しており、大きく分けて「順帝トゴン・テムルの息子で昭宗アユルシリダラの弟」説と、「アユルシリダラの息子」説の二つが知られている。

前者の説は『明史』などの史料に見られるものである。『明史』の原史料となった『明実録』には1370年(至正30年/洪武3年)に「元主嫡孫」のマイダリ・バラなる人物が明軍の捕虜となり、洪武帝によって崇礼侯に封ぜられた後、1374年(宣光4年/洪武7年)にモンゴル高原に送り返されたと記されている。また、洪武帝の後を継いだ永楽帝は「妥古思帖木児(トグス・テムル)の如きは[モンゴル高原]に帰らせ、後に可汗(ハーン)となって配下を統べ、祭祀を受け継いだことは南北の人が共に知るところである」と述べたと記録されており[2]、これらの記述を総合して『明史』は明軍の捕虜となり、後にモンゴル高原に送り返された「元主嫡孫(=順帝トゴン・テムルの孫)」マイダリ・バラこそが後にウスハル・ハーンとして即位したトグス・テムルであるという見解を取っている。この説を指示する研究者には薄音湖らがおり、薄音湖はトゴン・テムルの息子はアユルシリダラただ一人であるとし、トグス・テムルはアユルシリダラの息子マイダリ・バラと同一人物と解するのが最も妥当であるとした。

一方、後者の説は『蒙古源流』『シラ・トージ』といったモンゴル年代記の記述、王世貞の『北虜始末志』といった史料を根拠とする。『北虜始末志』には「[アユルシリダラは]即位しておよそ11年で亡くなり、諡を昭宗と言った。次男の益王トグス・テムルが即位した(立凡十一年而殂、諡曰昭宗、次子益王脱古思帖木児立)」とあり、ウスハル・ハーン(トグス・テムル)はビリクト・ハーン(アユルシリダラ)の弟であるとする『蒙古源流』などの記述と合致する。この説を最初に主張したのは和田清で、和田はトグス・テムルが1388年(天元10年/洪武21年)に死去した時に次男のディボド(地保奴)が既に幼児ではなかったと考えられることから、1370年時点で幼児であったマイダリ・バラとトグス・テムルが同一人物であるとは考えにくく、『北虜始末志』『蒙古源流』などの記述に従うのが正しいと論じた。和田の議論を更に進めたのが宝音徳力根で、宝音徳力根は『高麗史』にアユルシリダラ以外のトゴン・テムルの息子が記録されていることを紹介し、薄音湖の議論は成り立たないと指摘した。その上で、マイダリ・バラはトグス・テムル=ウスハル・ハーンでなく、その後に即位したエルベク・ハーンと同一人物と考える方が合理的であると述べ、「トグス・テムルはアユルシリダラの弟説」を主張した。

以上の議論から、現在の所トグス・テムルはトゴン・テムルの息子でアユルシリダラの弟とする説が有力である。

即位

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『明実録』によると、宣光8年4月1378年5月)にビリクト・ハーンが亡くなった時に後継者候補の親王は3名おり、北元の大臣たちは誰を選ぶか迷っていたという[3]。ビリクト・ハーンの後継者候補とされた3人は明記されていないが、ビリクト・ハーンの弟のトグス・テムルと『高麗史』などに名前が見えるシクトゥル、そして崇礼侯マイダリ・バラのことであったと考えられる。結局、この中で最年長と見られるトグス・テムルが選ばれ、ウスハル・ハーンとして即位した。なお、同年末にシクトゥルは明に投降しているが、これはトグス・テムルとの帝位争いに敗れたことが関係しているのではないかと考えられている。

ビリクト・ハーンの死の翌年、1379年6月に即位したウスハル・ハーンは天元と改元した。トグス・テムルが即位したとき、元を北に追いやった江南に加えて華北モンゴル高原の南辺を押さえたのみで、依然として精強な勢力を誇る元は明と充分に戦える状況にあった。当時の元の支配領域は東北部満洲)からモンゴル人の本土であるモンゴル高原にかけてのほぼ全土を保持しており、しかも甘粛雲南には元の皇族や貴族が明と対峙していた。

しかし、天元3年12月22日1382年1月6日)に雲南を治めていた梁王バツァラワルミが明軍に敗れて自殺し、翌天元4年2月23日(1382年4月7日)には明の藍玉沐英の攻撃を受けて大理総管の段世中国語版が明に降ったことで雲南は明の手に落ちた。

晩年

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天元10年(1388年)、東北方面に勢力を持つジャライル部の国王ナガチュが明の馮勝傅友徳・藍玉の攻撃を受けて窮地に陥ったことを受け、東方に向かって遠征を行った。しかしナガチュは明に降伏してしまい、トグス・テムルも翌年にホロンボイル地方のブイル・ノールで明の藍玉と戦って大敗した(ブイル・ノールの戦い)。この戦いで元軍はトグス・テムルの皇后や次男のディボド(地保奴)をはじめ、8万と言われる多数の軍民を捕虜とされて大半が壊滅した[4]。ディボド(地保奴)は洪武帝によって琉球に流された[5][6]

トグス・テムルは都カラコルムを目指して落ち延びたが、途中で高原西部に勢力を持つアリクブケ系統の皇族イェスデルの襲撃を受け、その残軍もほとんど壊滅した。トグス・テムルは長男のテンボド(天保奴)、知院のネケレイ、丞相のシレムンらわずか16騎とともに辛くも逃げ延びたものの、大雪に阻まれてカラコルムにたどり着けないでいるうちにトール川でイェスデルの軍に追いつかれて捕らえられ、テンボドと共に殺害された[7]。ここにクビライの皇統は一旦断絶した。

トグス・テムルを殺害したイェスデルはジョリクト・ハーンとして即位するが、その王統は長続きせず、モンゴルは長い混乱期に入ることになる[8]。この混乱期が収束し、モンゴル再興が果たされるのはトグス・テムルの兄アユルシリダラの仍孫(玄孫の曾孫)と考えられているダヤン・ハーンの時代である16世紀初めのこととなる。

出典

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  1. ^ 蒙古源流』では壬午の年(1342年)とし、『黄史(古代蒙古汗統大黄史)』では30歳でハーンに即位したと記録されており、逆算すると己丑の年(1349年)となる。
  2. ^ 『明太宗実録』永楽六年三月辛酉「遣使齎書諭本雅失里曰……我皇考太祖高皇帝、於元氏子孫、存恤保全、尤所加厚、有来帰者、皆令北還。如遣妥古思帖木児還、後為可汗、統率其衆、承其宗祀、此南北之人所共知也」
  3. ^ 『明太祖実録』洪武十一年十二月戊辰「是月……詔諭故元丞相哈剌章・蛮子・驢児・納哈出等曰……或聞欲立新君、其親王有三、卿等正在猶豫之間、此三人皆元之嫡泒、卿等若欲堅忠貞之意、毋抑尊而扶卑、理応自長而至幼、無乃人倫正、天道順也……」
  4. ^ 『明太祖実録』洪武二十一年四月丙辰「黎明至捕魚児海南飲馬、偵知虜主営在海東北八十餘里。玉以弼為前鋒、直薄其営。虜始謂我軍乏水草、必不能深入、不設備。又大風揚沙、晝晦軍行、虜皆不知。虜主方欲北行、整車馬皆北向、忽大軍至、其太尉蛮子率衆拒戦、敗之、殺蛮子及其軍士数千人、其衆遂降。虜主脱古思帖木児与其太子天保奴・知院捏怯来・丞相失烈門等数十騎遁去。玉率精騎追之、出千餘里、不及而還。獲其次子地保奴妃子等六十四人及故太子必里禿妃並公主等五十九人。其詹事院同知脱因帖木児将逃、失馬、竄伏深草間、擒之。又追獲呉王朶児只・代王達里麻・平章八蘭等二千九百九十四人、軍士男女七万七千三十七人、得宝璽図書牌面一百四十九、宣勅照会三千三百九十道、金印一、銀印三、馬四万七千匹、駝四千八百四頭、牛羊一十万二千四百五十二頭、車三千餘輌。聚虜兵甲焚之。遣人入奏、遂班師」
  5. ^ ウィキソース出典 張廷玉等 (中国語), 明史/卷327, ウィキソースより閲覧。 
  6. ^ ウィキソース出典 蔡溫、尚文思、鄭秉哲等 (中国語), 球陽記事/卷之一, ウィキソースより閲覧。 
  7. ^ 『明太祖実録』洪武二十一年十月丙午「初虜主脱古思帖木児在捕魚児海、為我師所敗、率其餘衆、欲還和林、依丞相咬住。行至土剌河、為也速迭児所襲撃、其衆潰散独与捏怯来等十六騎遁去。適遇丞相咬住・太尉馬児哈咱領三千人来迎、又以闊闊帖木児人馬衆多、欲往依之、会天大雪、三日不得発。也速迭児遣大王火児忽答孫・王府官孛羅追襲之、獲脱古思帖木児、以弓絃縊殺之、並殺其太子天保奴。故捏怯来等恥事之、遂率其衆来降」
  8. ^ 岡田2010,365-366頁

参考文献

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