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イェスデル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イェスデル
モンゴル帝国第18代皇帝(ハーン
在位 1388年 - 1391年
別号 ジョリグト・ハーン

出生 1359年?
死去 1391年
子女 エンケ
家名 アリクブケ家
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イェスデルモンゴル語: Есүдэр Yesüder1359年[1]-1391年)は、モンゴルの第18代皇帝(ハーン)。チンギス・カンの孫で、兄クビライと帝位を争ったアリク・ブケの後裔にあたる。第17代皇帝のウスハル・ハーン(天元帝トグス・テムル)を弑逆してクビライの王統を一時的に断絶させ、北元時代をもたらしたことで知られる。

モンゴル皇帝としての称号はジョリクト・ハーンЗоригт хаан J̌oriγtu qaγan)。ただし、「ジョリグト・ハーン」という称号はモンゴル語史料のみに記され、『明実録』などの漢文史料では也速迭児(yěsùdiéér)、『ザファル・ナーマ』などのペルシア語史料ではیسودار(yisūdār)とそれぞれ表記されている。

生涯

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生い立ち

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イェスデルの出自については不明な点が多いが、『華夷訳語』に「アリク・ブケの子孫の大王、イェスデル(Ariqbökö-yin uruγ-un kö'ün Yisüder)」とあることから、チンギス・カンの末子トゥルイの末子たるアリク・ブケの後裔であったことが確認される。アリク・ブケは第4代皇帝モンケの死後に帝位を巡って兄のクビライと争い敗れたものの、その一族はイェスデルに至るまでモンゴル高原の西部に勢力を有していた。

ハーンの弑逆、即位

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1388年天元10年/洪武21年)、高原東部のホロンボイル地方ブイル・ノールでウスハル・ハーン(天元帝トグス・テムル)がの将軍藍玉に大敗するという大事件が起こった(ブイル・ノールの戦い)。これを好機と見たイェスデルはハーンに対する反乱を起こし、西方のカラコルムを目指してわずか16騎で落ち延びていたトグス・テムルをトーラ川の河畔で突如襲撃した。ハーンはわずかな従者とともに逃げ延びたが、イェスデルは更にホルフダスン大王らを派遣してこれを捕らえた[2]。イェスデルはトグス・テムルを縊り殺すと、自らハーンに即位し、先祖アリク・ブケがトグス・テムルの先祖クビライとハーン位を争った内戦(モンゴル帝国帝位継承戦争)以来百数十年ぶりに、アリクブケ家にハーン位を取り戻した。なお、『華夷訳語』によるとこの時アリク・ブケを支援したのは帝位継承戦争の頃よりアリク・ブケと縁の深いオイラト部族であった[3]

治世

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イェスデルがハーンに即位した頃には、明との度重なる敗北と内紛のために北元は大幅に後退し、多くの王族や貴族が明に降ってしまっていた。1389年(洪武22年)4月にはかつてウスハル・ハーンの側近であったネケレイとシレムンは明朝に降ってそれぞれ全寧衛の長官とされ[4]、更に翌5月にはオッチギン家の末裔アジャシュリも明朝に降りその勢力はウリヤンハイ三衛の名を与えられた[5]。このような事態に対し、イェスデルは配下のアンダ・ナガチュを派遣することで自らの支配権を東方に拡大しようと試みた。アンダ・ナガチュはオノン河流域まで進出して明朝に降ったモンゴル人と密かに接触し、同年8月にはシレムンがともに明朝に降ったネケレイを殺して背き、アンダ・ナガチュの下に逃れた[6]。このような事態に対し、明朝の側では1392年(洪武25年)に周興を派遣して[7]オノン河〜ヒンガン山脈一帯のアンダ・ナガチュ及びイェスデルに従う勢力を討伐させている[8]

オイラト部族連合の結成

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イェスデルの治世において最も特筆すべき事件は、クビライ家の統治に不満を持つモンゴル高原西方の四部族、すなわちオイラト部族(後のホイト部)、ケレイトの末裔ケレヌート(後のトルグート部)、ナイマンの末裔チョロース(後のジューンガル)、バルグト諸部がイェスデルを戴いて後世「四オイラト(Dörben Oyirad)」と呼ばれる部族連合を結成したことであった。イェスデルがハーン位を簒奪してから間もない1391年に没するとその息子エンケがハーンとして即位したが、この頃には度重なる混乱によってハーンの権威は失墜しゴーハイ太尉オゲチ・ハシハといったオイラト部族連合の指導者に実権は奪われていった。エンケ・ハーン以後はこれらオイラト部族連合の指導者どうしの争いも多発し、更にこの隙をついて東方ではウスハル・ハーンの遺臣たちがオゴデイ家のオルク・テムルを戴いてモンゴルを復興したため、モンゴル高原の混乱は深まった[9]

一方、イェスデルによりクビライ家のハーンが断たれたことから明は大元ウルスが断絶したものと捉え、オイラト部族連合のことを「瓦剌(オイラト)」、東方の復興したモンゴル部族連合を韃靼(タタール)と呼び、決して「(大)元/韃靼」とは呼称しなかった。ただし、オイラト部族連合から出たエセン・ハーン、モンゴル部族連合から出たダヤン・ハーンはそれぞれ「大元のハーン」を自称しており、モンゴル人の自意識としてはイェスデル以後も大元大モンゴル・ウルスは存続していたと考えていた[10]

モンゴル年代記における記述

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イェスデルと、その後継者エンケの治世は17世紀以降に編纂されるようになった多くのモンゴル年代記の中で、最も情報が錯綜している箇所である。まず、モンゴル年代記の中で最も著名な『エルデニイン・トブチ(蒙古源流)』はウスハル・ハーンの没後に「エンケ・ジョリクト・ハーン」なる人物が1389年(己巳)から1392年(壬申)にかけて在位し、その後エルベク・ハーンが1393年(癸酉)から1399年(己卯)まで在位していたとする。一方、18世紀に入ってから編纂された『ガンガイン・ウルスハル(恒河の流れ)』では『蒙古源流』とは全く異なる記述をしており、「ジョリクト・ハーン」が1389年(己巳)〜1391年(辛未)、「エンケ・エルベク・ハーン」が1392年(壬申)〜丁丑(1397年)に在位していたとする。最後に、最も早期に編纂されたとみられる『アルタン・トブチ(黄金史綱)』は「ジョリクト・ハーン」、「エンケ・ハーン」、「エルベク・ハーン」という3人のハーンが立ったとし、それぞれの在位年代を1388年(辰年)〜1391年(未年)、1391年(未年)〜1394年(戌年)、1394年(戌年)〜1399年(卯年)とする[11]

このようなモンゴル年代記の情報の混乱を正しうるのが、同時代にティムール朝で編纂されたペルシア語史書である。ティムール朝で編纂された『ザファル・ナーマ(勝利の書)』などの史書は一致してウスハル・ハーンの後、یسودار(Yesüder>Yisudar>yīsūdār)、انکه(Engke>Änkä>anka)、・الیک(Elbeg>Älbäk>alyak)、という3人のハーンが立ったとする。yīsūdār、anka、alyakは明らかにイェスデル、エンケ、エルベクを指し、このようなペルシア語史書の記録はこれら3名を別人とする『アルタン・トブチ』の記述が最も正しいことを立証する[12]。また、明朝で編纂された漢文史料ではエンケ、エルベクの治世について全く言及しないが、『明実録』には「アユルシリダラからクン・テムルに至るまで[ハーンは]凡そ6代……(自順帝之後、伝愛由識里達臘至坤帖木児凡六輩……)」という記述がある。これも、アユルシリダラ(ビリクト・ハーン)/トグス・テムル(ウスハル・ハーン)/イェスデル(ジョリクト・ハーン)/エンケ・ハーン/エルベク・ハーン/クン・テムル・ハーンと数えると丁度6代となり、ジョリクト/エンケ/エルベクをそれぞれ別人とする『アルタン・トブチ』/『ザファル・ナーマ』の記述の正しさを裏付ける[13]

なお、『蒙古源流』のみは「エンケ・ジョリクト・ハーン」の血縁関係について言及しており、ウスハル・ハーンの息子で、エルベク・ハーンとハルグチュク・ドゥーレン・テムル・ホンタイジの兄であったとする。しかし、同時代に編纂された『華夷訳語』でアリク・ブケの末裔と明記されるジョリクト(イェスデル)がクビライ直系のウスハル・ハーンの息子であるわけがなく、この系図は甚だ疑わしいものである。また、ハルグチュクの後裔にあたるタイスン・ハーン、ダヤン・ハーンらはいずれもクビライ家の末裔を称しており、ハルグチュクとの兄弟関係も疑わしい[14]

イェスデル(ジョリクト・ハーン)とエンケ・ハーンの治世の記録
史料 イェスデル エンケ エルベク
『明実録』 也速迭児(yěsùdiéér) 記録なし
『蒙古源流』 Engke J̌oriγtu qaγan(1389年〜1392年) Elbeg qaγan(1393年〜1399年)
『恒河之流』 J̌oriγtu qaγan(1389年〜1391年) Engke Elbeg qaγan(1392年〜1397年)
『黄金史綱』 J̌oriγtu qaγan(1388年〜1391年) Engke qaγan(1391年〜1394年) Elbeg qaγan(1394年〜1399年)
アルタン・トプチ J̌oriγtu qaγan(1388年〜1391年) 記録なし Elbeg qaγan(1394年〜1399年)
『勝利の書』 یسودار(yīsūdār) انکه(anka) الیک(alyak)

アリク・ブケ王家

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出典

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  1. ^ 唯一北元時代のハーンの生年を記す『蒙古源流』において「エンケ・ジョリクト・ハーン」の生年を己亥(1359年)とすることに拠る。ただし、岡田英弘は『蒙古源流』に記される干支紀年を整理する過程で(1)ダヤン・ハーン以後の紀年は他の史料と大凡一致するがそれ以前の紀年は一致しないこと、(2)ただしダヤン・ハーン以前の紀年も十干を除いて十二支のみで数えればハーンの没年のみは他の史料と一致することを指摘し、「『蒙古源流』の元になった史料にはダヤン・ハーンの子孫の生没年を干支で記したものと、ダヤン・ハーン以前のハーンの在位年代と没年を十二支のみで記したものの2つがあり、作者のサガン・セチェンは編纂の過程で体裁を統一するためにダヤン・ハーン以前の紀年にも十干を加え生年も付け足したが、これらは後世の創作で信じるに値しない」と論じた(岡田2010,244-246頁)。従って、「己亥(1359年)生まれ」という記述も後世の創作である可能性が高い。
  2. ^ 『明太祖実録』洪武二十一年十月丙午「初虜主脱古思帖木児在捕魚児海、為我師所敗、率其餘衆、欲還和林、依丞相咬住。行至土剌河、為也速迭児所襲撃、其衆潰散独与捏怯来等十六騎遁去。適遇丞相咬住・太尉馬児哈咱領三千人来迎、又以闊闊帖木児人馬衆多、欲往依之、会天大雪、三日不得発。也速迭児遣大王火児忽答孫・王府官孛羅追襲之、獲脱古思帖木児、以弓絃縊殺之、並殺其太子天保奴。故捏怯来等恥事之、遂率其衆来降」
  3. ^ 岡田2010,362-365頁
  4. ^ 『明太祖実録』洪武二十二年四月己亥「詔置全寧衛。遣使齎印往命捏怯来為指揮使、失烈門以下俱授以武職有差」
  5. ^ 和田1959,30頁
  6. ^ 『明太祖実録』洪武二十二年八月「是月……故元丞相失烈門潜通塔失海牙等、率其部下襲刼捏怯来、至也速迭児僉院安達納哈出所殺之其部下潰散。詔令朶顔・福餘等衛招撫之、送大寧給与糧食、仍還全寧居住」
  7. ^ 『明太祖実録』洪武二十五年八月庚申「……先是、興率師至斡難河、転至兀古児札河、按視安達納哈出之地、見車馬跡、遂追至兀者河、得空車百餘輌、将還。適永平衛百戸汪広報言、哨遇胡兵、与戦敗之、追奔八十餘里、胡兵棄輜重潰去。……」
  8. ^ 和田1959,33-34頁
  9. ^ 井上2004,2-3頁
  10. ^ 森川2008、66-67頁
  11. ^ 岡田2010,229-236頁
  12. ^ 本田1991,601-603頁
  13. ^ 岡田2010,231頁
  14. ^ 岡田2010,251-253頁

参考文献

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  • 井上治『ホトクタイ=セチェン=ホンタイジの研究』風間書房、2002年
  • 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 本田實信『モンゴル時代史研究』東京大学出版会、1991年
  • 森川哲雄「大元の記憶」『九州大学大学院比較社会文化研究科紀要』14巻、2008年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年