デヴィッド・オリスト
デヴィッド・オリスト(デイヴィ・オリスト) David O'List (Davy O'List) | |
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デヴィッド・オリスト(2009年) | |
基本情報 | |
別名 |
David John Davy O'List |
生誕 | 1948年12月13日(75歳) |
出身地 | イングランド 西ロンドン チジック |
ジャンル |
ロック グラム・ロック プログレッシブ・ロック |
職業 | ミュージシャン |
担当楽器 | ギター、ボーカル、トランペット |
活動期間 | 1960年代 - |
レーベル |
デッカ・レコード CBS |
共同作業者 |
ジ・アタック ザ・ナイス ロキシー・ミュージック ジェット |
デヴィッド・オリスト[注釈 1](David "Davy" O'List、1948年12月13日 - )は、イングランドのロック・ギタリスト、ボーカリスト、トランペッターである[1]。彼は、ジ・アタック、ザ・ナイス、ロキシー・ミュージック、ジェットに在籍し、ピンク・フロイドとジェスロ・タルに短期間、代理で参加した。
略歴
[編集]ロンドン西部のチジックの出身。両親は俳優で父親はギターを弾くという家庭環境で育ち、12歳で王立音楽大学の奨学金を得て、4年間、トランペットとピアノの演奏を学んだ。1964年にローリング・ストーンズのデビュー・アルバムを聴いてR&Bに魅せられ、ギターを弾くようになり、R&Bのバンドに加入。父親に諭されて、王立音楽大学に戻って最終試験を受けた後、リチャード・ヘンリーというソウル・シンガーのバック・グループに加入して、ミュージシャンとしての道を歩み始めた[2]。
ジ・アタック
[編集]週末にスーパーマーケットで働くようになった彼は、買い物に来たリチャード・シャーマンと知り合い、意気投合した。シャーマンは当時ソウル・システムというR&B・バンドのシンガーだった。やがてソウル・システムは、マネージャーになったドン・アーデンの指示でジ・アタックと改名した。1966年、オリストはシャーマンにジ・アタックのリハーサルにトランペッターとして招待され、結局ギタリストとして加入した。
オリスト[注釈 2]を迎えたジ・アタック[3]は1967年にデビュー・シングル'Try It'を発表した。しかし、この曲は既にアメリカのザ・スタンデルズによって録音されていた[注釈 3]。同年2月、2作目のシングルの為に'Hi Ho Silver Lining'を録音したが、ジェフ・ベックが同じ曲を1月に録音。ベック版は5月にシングルで発表され大ヒットとなり、ジ・アタック版は霞んでしまった、しかし裏面に収録されたオリジナル作品の'Any More Than I Do'が海賊放送局のジョン・ピールの番組に常用され、作者の一人だった彼のギター・ソロがメロディー・メーカー誌でクリス・ウェルチに取り上げられるなど注目を集めた[4]。
1967年2月、彼はジ・アタックを脱退した。'Any More Than I Do'での演奏が注目を集める中、ジョン・メイオールからピーター・グリーンの後釜としてジョン・メイオール・アンド・ザ・ブルースブレイカーズに誘われた。しかし、同時期にキーボーディストのキース・エマーソンから、アンドリュー・ルーグ・オールダムがマネージメントする女性シンガーのP.P.アーノルドのバック・グループに誘われた。エマーソンはメイオールより遥かに無名だったが、彼は「ブルースブレイカーズに加入したらメイオールの音楽を演奏しなければならないが、エマーソンと組めば自分の音楽ができる」と思ったので、メイオールの誘いを断った[5]。
ザ・ナイス
[編集]1967年5月、「パット・アーノルド・アンド・ザ・ナイス」のメンバーとして、アーノルド、エマーソン、リー・ジャクソン(ベース)、イアン・ヘイグ(ドラムス)と活動を開始した[3]。ザ・ナイスは同年のナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバルに単独出演した[6]のち、8月、新しいドラマーにブライアン・デヴィソンを迎え、9月にはアーノルドから独立した。
ザ・ナイスのデビュー・アルバム『ナイスの思想』は1968年3月に発表された。その年の7月、レナード・バーンスタインの「アメリカ」の改作が、イギリスのシングル・チャートで21位に達して[7][8]、彼等の唯一のヒットとなった。ザ・ナイスでの彼の演奏スタイルは、オールミュージックのBruce Ederに「ヘンドリックス風のギター、シャープな安心感」と評された[9]。しかし両雄並び立たず、彼はエマーソンという強力な演奏者と競い合った挙句[注釈 4]、セカンド・アルバムをレコーディング中の1968年10月にザ・ナイスを脱退した[6][10][11][注釈 5]。
彼はザ・ナイスに在籍していた1967年にピンク・フロイドのシド・バレットの代役を担当した[12][13]。「それはすごかった」と50年後に回想している。「それはジミ・ヘンドリックスとフロイドのパッケージ・ツアーだったので、夢のように感じました。私はフロイドの音楽を本当によく知っていたので、彼等が一緒に演奏するように頼んでくれた時、お安い御用でした」。フロイドが彼をバレットに代わる正式メンバーにしようと考えていたかどうか尋ねられると、彼はこう答えた。「どうやら彼等はそれを考えていたようです。彼等は私がライブで演奏するのを数回見てくれたのですが、私はまだ19歳でしたし、ビジネスにおいても初な若者でした。もっと自分を売り込むべきでした」[14]。
その後
[編集]オリストはミック・エイブラハムズ脱退後のジェスロ・タルでも短期間、演奏を行った[15]。
1970年初頭にザ・ミスアンダーストゥッドへ参加してギターとベースを担当[16]。
1971年10月、デビュー前のロキシー・ミュージックに加入[17][注釈 6]。1972年1月4日にBBCのスタジオでBBC Radio 1の音楽番組『ピール・セッションズ』の録音を行なった[18]。同月に脱退[19][注釈 7]。
1974年、ロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーの2作目のソロ・アルバム『アナザー・タイム、アナザー・プレイス (いつかどこかで)』の制作に参加。ドビー・グレイが1964年に発表した「ジ・イン・クラウド」のカバーでギター・ソロを担当した[20]。
同年、ジェットに加入。1975年に1枚のアルバムをリリースし、イアン・ハンター&ミック・ロンソンのサポートとしてツアーを行った。イアン・マクロードに交代した。
ソロ活動
[編集]1997年に初のソロ・アルバムFlight of the Eagle[21]を、2015年に2作目Second Thoughts[22]を発表した。
私生活
[編集]Satu Redmondという妻と、2008年5月18日に生まれたJames Remondという息子がいる。
ディスコグラフィ
[編集]ソロ
[編集]- アルバム
- Flight Of The Eagle (1997年、Jet)
- Second Thoughts (2015年、Made In Soho)
- シングル
- "Fallout Love" (1982年、Underground Music)
ジ・アタック
[編集]- シングル
- "Try It" / "We Don't Know" (1967年、Decca F 12550)
- "Hi Ho Silver Lining" / "Anymore Than I Do" (1967年、Decca F 12578)
ザ・ナイス
[編集]- アルバム
- 『ナイスの思想』 - The Thoughts of Emerlist Davjack (1968年、Immediate)
- The Swedish Radio Sessions (2001年、Sanctuary) ※1967年録音
- シングル
- "The Thoughts of Emerlist Davjack" / "Azrial (Angel of Death)" (1967年11月、Immediate IM 059)
- "America" / "The Diamond Hard Blue Apples of the Moon" (1968年6月21日、Immediate IM 068)[注釈 8]
ジェット
[編集]- 『JET』 - Jet (1975年、CBS)
その他
[編集]- ブライアン・フェリー 『アナザー・タイム、アナザー・プレイス (いつかどこかで)』 - Another Time, Another Place (1974年)
- ブライアン・フェリー 『レッツ・スティック・トゥゲザー』 - Let's Stick Together (1976年)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 「デイヴィ・オリスト」 (Davy O'List)の表記もある。
- ^ 当時はデヴィッド・ジョン。
- ^ 同年10月に発売された彼らの4作目の同名アルバムに収録された。
- ^ 後年、エマーソンは対立について、オリストが目立とうとピート・タウンゼントのようにギターの音量を上げたのでオルガンとギターの均衡が取れなくなった、と説明した。
- ^ 彼は同年2月のアメリカ公演の後、薬物依存症に陥ってコンサートに現れなかったり不可解な行動をとったりするようになったので、この対立をきっかけに解雇された。ウイスキー・ア・ゴー・ゴーで、居合わせたデヴィッド・クロスビーに薬を盛られたという。公式には、仕事のプレッシャーでグループを去ったとされた。
- ^ 初代ギタリストのロジャー・バン(Roger Bunn)の後任として迎えられた。
- ^ 後任はフィル・マンザネラ。
- ^ 全英21位。
出典
[編集]- ^ デヴィッド・オリスト - オールミュージック
- ^ Hanson (2014), p. 26.
- ^ a b The Attack - オールミュージック
- ^ Hanson (2014), pp. 27–28.
- ^ Hanson (2014), p. 28.
- ^ a b The Nice - オールミュージック
- ^ Rice, Tim; Paul Gambaccini; Jo Rice (1993). Guinness Book of British Hit Singles. London: Guinness Superlatives. p. 226. ISBN 0-85112-633-2
- ^ Hanson (2014), p. 78.
- ^ The Thoughts of Emerlist Davjack - オールミュージック
- ^ Hanson (2014), pp. 87–92.
- ^ Macan (2006), pp. 19, 26.
- ^ Mason, Nick (30 November 2004). Inside Out: A Personal History of Pink Floyd. Weidenfeld & Nicolson. p. 96. ISBN 0-297-84387-7
- ^ Hanson (2014), pp. 55–58.
- ^ Ling, Dave: "Davy O'List"; Classic Rock No. 219, February 2016, p115
- ^ “Jethro Tull – Biography”. The Marquee Club. 19 July 2011時点のオリジナルよりアーカイブ。6 July 2011閲覧。
- ^ “VdGG Profile: Misunderstood”. fuzzlogic.com. 2 April 2009閲覧。
- ^ Bracewell, Michael (2007). Re-make/Re-model Art,Pop,Fashion and the Making of Roxy Music, 1953–1972. London: Faber and Faber. p. 342. ISBN 978-0-571-22985-7
- ^ Buckley (2004), p. 58.
- ^ Buckley (2004), p. 61.
- ^ Buckley (2004), p. 169.
- ^ “Discogs”. 2024年11月13日閲覧。
- ^ “Discogs”. 2024年11月13日閲覧。
引用文献
[編集]- Hanson, Martyn (2014). Hang on to a Dream: The Story of the Nice. London: Foruli Classics. ISBN 978-1-905792-61-0
- Macan, Edward (2006). Endless Enigma: A Musical Biography of Emerson, Lake and Palmer. Chicago and La Salle: Open Court. ISBN 978-0-8126-9596-0
- Buckley, David (2004). The Thrill of It All: The Story of Bryan Ferry & Roxy Music. London: Andre Deutsch. ISBN 0-233-05113-9