デリー (巡洋艦)
デリー | |
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前身のニュージーランド海軍軽巡洋艦「アキリーズ」 | |
基本情報 | |
建造所 | キャメルレアード社バーケンヘッド造船所[1] |
運用者 | 王立インド海軍→インド海軍 |
艦種 | 巡洋艦[1] |
級名 | 英リアンダー級[1] |
艦歴 | |
起工 | 1931年6月11日[1] |
進水 | 1932年9月1日[1] |
竣工 | 1933年10月5日[1] |
就役 | 1948年7月5日(デリーとして)[2] |
退役 | 1978年7月5日(デリーとして)[2] |
最期 | スクラップとして売却。砲塔など一部部品は保存[3] |
要目 | |
基準排水量 | 7,114t[1] |
満載排水量 | 9,740t[1] |
全長 | 166m(544.5フィート)[1] |
水線長 | 159.1m(522フィート)[1] |
最大幅 | 16.8m(55.17フィート)[1] |
吃水 | 最大6.1m(20フィート)[1] |
主缶 | アドミラリティ式三胴缶 4基[1] |
主機 | パーソンズ式ギヤード・タービン 4軸[1] |
出力 | 72,000hp[1] |
速力 | 32kt[1] |
燃料 | 1,800t[1] |
乗員 | 800名[1] |
兵装 |
6インチ連装速射砲 3基 4インチ連装対空砲 4基 40mm対空機関砲 14門(砲架数不詳) 3ポンド砲 4門(砲架数不詳) 53.3 cm四連装魚雷発射管 2基(1958年撤去)[1] |
装甲 |
舷側 4-2インチ 砲室 1インチ 艦橋 1インチ 甲板 2インチ[1] |
デリー(Delhi)は、インド海軍 (旧・王立インド海軍) の巡洋艦である。元々はイギリスで1933年に建造されたリアンダー級軽巡洋艦「アキリーズ」であり、1948年7月にインドに売却され「デリー」として再就役した[1]。艦番号はC74[1]。
王立インド海軍初の主力艦であり、1948年9月にイギリスからインドへ到着した際には、ジャワハルラール・ネルー初代首相がムンバイの桟橋で艦を出迎えた[2]。1957年8月に巡洋艦「マイソール」が就役するまでは、インド海軍の旗艦であった[1][2]。
1961年のゴア併合に参加したほか、多数の親善航海を行った[2]。インド海軍の外洋海軍化に当たり、大きな役割を果たしたと評されている[2]。
艦歴
[編集]第二次世界大戦前にニュージーランド海軍に貸与され、ドイツ海軍装甲艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」との戦闘(ラプラタ沖海戦)などに参加、大戦後イギリスに返還された[1][4]。再就役以前の詳細な艦歴は「アキリーズ (軽巡洋艦)」を参照。
1948年7月5日にイギリスから王立インド海軍に売却され、王立インド海軍巡洋艦「デリー」 として再就役した[1][2]。
1948年9月にインドに到着[2]。
1950年1月26日にインドが共和制に移行したことに伴い、王立インド海軍(Royal Indian Navy)はインド海軍(Indian Navy)に移行した[5]。
1951年5月、「アキリーズ」時代のニュージーランドへの貢献とインドへの親善の証として、ニュージーランド政府からデリーのS.G.Karmarkar艦長に盾が贈呈された[6]。
1955年に改装を行った[1]。
1958年、21インチ4連装魚雷発射管2基が撤去され、艦首甲板がボート格納庫を挟んで配置された40mm連装機関砲の位置まで延長された[1]。
1961年12月17日から18日の夜、インドはポルトガル領インドへの侵攻作戦を開始した(ゴア併合)[7]。インド海軍には海上の制圧と地上への支援砲撃任務が与えられ、デリーはポルトガルが要塞化していたディーウ島での任務に割り当てられた[7]。インド海軍によると、デリーはポルトガル艦船二隻を発見して砲撃を行い、一隻を撃沈し、もう一隻は乗組員によって自沈した[7]。また、インド陸軍によるディーウ島への侵攻を支援し、砲撃によって要塞と空港の管制塔を無力化したという[7]。
1976年、モルディブのマレ沖で座礁したインド海軍練習艦「ゴーダーヴァリ」(元・英ハント級駆逐艦「ビデイル」)のサルベージ作業に参加した[2]。
就役後期には練習艦として運用された[2]。
1978年7月5日に退役[2]。艦体のほとんどは翌年にスクラップとして売却された[3]。3基の主砲塔は保管されることになり、1基はニュージーランド政府に引き取られて記念物となり、もう1基はインド陸軍の砲兵学校に設置された。残る1基はインド海軍が保管していたが、保管中に海軍造船所から行方不明になった[3]。「シロアリに食べられた」ともいわれている[3]。
その他
[編集]1950年代の短期間、デリーは映画「戦艦シュペー号の最後(原題:The Battle of the River Plate)」の撮影のために「アキリーズ」役を演じた[2]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa Raymond V. B. Blackman, ed (1966). Jane's Fighting Ships 1966-1967. Sampson Low. p. 127
- ^ a b c d e f g h i j k l Cmde Srikant B Kesnur (2020年7月6日). “How Delhi and Mysore pioneered Indian Navy’s blue water odyssey”. thedailyguardian.com. 2024年11月13日閲覧。
- ^ a b c d J G Nadkarni. “Why Vikrant should become a national monument”. rediff.com. 2024年11月13日閲覧。
- ^ 海軍有終會編輯部同人 共譯『1936年版 ブラッセー海軍年鑑(譯書)』海軍有終會、1936年7月、28頁。
- ^ “Genesis of Indian Navy”. インド海軍. 2017年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年11月14日閲覧。
- ^ “NEW ZEALAND'S PRESENTATION TO INS DELHI”. archive.pib.gov.in (1951年5月15日). 2024年11月13日閲覧。
- ^ a b c d “Goa Operation - 1961...”. インド海軍. 2012年4月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年11月13日閲覧。