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ストロング小林

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ストロング金剛から転送)
ストロング小林
プロフィール
リングネーム ストロング小林
コリアン・アサシン
覆面 太郎(初代)
小林 省三
本名 小林 省三
ニックネーム 怒濤の怪力
怪力無双
身長 187cm
体重 125kg(全盛時)
誕生日 (1940-12-25) 1940年12月25日
死亡日 (2021-12-31) 2021年12月31日(81歳没)
出身地 東京都文京区本郷
スポーツ歴 ボディビル
トレーナー 吉原功
マティ鈴木
デビュー 1967年7月27日
引退 1984年8月26日
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ストロング小林(ストロングこばやし / Strong Kobayashi1940年12月25日 - 2021年12月31日)は、日本プロレスラータレント。本名および旧リングネームは小林 省三(こばやし しょうぞう)。

現役選手時代はパワーファイターとして活躍し、1970年代前半の国際プロレスではエースを務め、新日本プロレス移籍後もメインイベンターの一角を担った。アメリカのマット界においても、AWAWWWF(現:WWE)などのメジャーテリトリーにおいて実績を残している[1][2]

セミリタイア後は俳優タレントに転身。1982年の映画『伊賀忍法帖』出演をきっかけに、ストロング金剛(ストロングこんごう)の芸名で活動[3]。2003年からは再びストロング小林の芸名で活動していた。

来歴

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国際プロレス時代

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東京都文京区本郷で生まれ[4]、同青梅市に疎開し、終戦後もそのまま同地で育った。中学時代に相撲部屋からスカウトが来たが断り[5]東京都立農林高等学校卒業後、国鉄に就職し、稲城長沼駅に勤務。父も国鉄に勤務していた[6]。勤務の傍ら、プロレスラー力道山の逆三角形の肉体に憧れてボディビルに打ち込む[5]1966年10月、友人が出場したボディビル大会の会場で、国際プロレス社長・吉原功と出会い、その場で吉原とマティ鈴木にスカウトされ[7]、団体旗揚げ間近の同年11月1日に入門。そのボディビル大会には、後に新日本プロレスのレフェリーを務めることになるミスター高橋も出場していた[8]。プロレスラー転向に関しては、家族からプロレスラーになるために国鉄を退職するのを反対され、最終的に親戚まで呼んで説得したという[9]ヒロ・マツダの付き人として全国巡業に同行。翌1967年7月27日、マスクマンの「覆面太郎」として大磯武を相手にデビュー。日本人でデビューした覆面レスラー第1号となるが[10]1968年1月3日、TBSによる国際プロレスのテレビ放映開始と同時に素顔になった[11]

当時のブッカーだったグレート東郷が国際プロレスと決別して帰国する際、東郷からアメリカ行きを打診されたが、その誘いを断り[7]、1968年10月にヨーロッパへの初の海外修行へ出発。その後、帰国と遠征を繰り返す中で実力を上げ、パリでのIWA世界タッグ王座奪取(1969年5月18日、豊登と組んでモンスター・ロシモフ&イワン・ストロゴフに勝利)[12]、東京でのUSAヘビー級王座獲得(1969年10月14日、バディ・コルトから奪取)[13]アメリカ合衆国ミネソタ州ダルースでのIWA世界ヘビー級王座戴冠(1971年6月19日、前王者はビル・ミラー[14]1972年の第4回IWAワールド・シリーズ優勝(決勝の相手はロシモフ)などの実績を築き、国際プロレスのエースに君臨する。当時の国際プロレスの提携団体だったAWAの総帥バーン・ガニアAWA世界ヘビー級王座にも、1970年2月に大阪と東京で連続挑戦[15]。1971年のアメリカ遠征においても、ミネアポリスシカゴデンバーウィニペグミルウォーキーなど各地で再三挑戦した[16]。IWA世界ヘビー級王者として凱旋帰国する際も、ガニアからはアメリカに残るよう慰留されたという[17]

IWA世界ヘビー級王座は1971年6月の獲得からワフー・マクダニエルに敗れる1973年11月9日まで2年6か月間保持、ブラックジャック・ランザレッド・バスチェンバロン・フォン・ラシクジェリー・ブラウンダスティ・ローデスダン・ミラーカーティス・イヤウケアホースト・ホフマンマッドドッグ・バションエドワード・カーペンティアビル・ロビンソンクラッシャー・リソワスキーザ・プロフェッショナルイワン・コロフディック・マードック、前王者ミラー、そして同門のラッシャー木村などの強豪を挑戦者に、25回の防衛を記録している[18]。この記録は、ジャイアント馬場インターナショナル・ヘビー級王座21回連続防衛を破る当時の日本人新記録であった。しかし、後に馬場がPWFヘビー級王座の38回連続防衛を達成し抜き返した[19]

その間の1972年7月7日には、木村の返上で空位となっていたIWA世界タッグ王座決定戦において、グレート草津との新コンビでミラー&バロン・シクルナを破り、同王座への2度目の戴冠を果たす。以後、シングルとタッグのIWA2冠王として、1973年4月18日にバション&コロフに敗れるまで、バディ・オースチン&ビル・ドロモディック・ザ・ブルーザー&クラッシャーなどのチームを相手に6回の防衛戦を行った[20]

国際プロレスの象徴でもあった金網デスマッチには、1971年10月26日のダニー・リンチ戦で初挑戦(国際所属選手では木村とサンダー杉山に次いで3人目)[21]。以降、IWA世界ヘビー級王座の防衛戦では1972年1月27日のイヤウケア戦、同年11月28日のクラッシャー戦、1973年1月16日のプロフェッショナル戦、同年3月16日のバション戦の4試合は金網デスマッチで行われた。ノンタイトル戦でもオースチン、ドロモ、ベンジー・ラミレス、バスチェン、ターザン・タイラーラーズ・アンダーソン、ローデス、スカンドル・アクバ、マードック、ブラックジャック・マリガンなどと金網デスマッチで対戦した。

新日本プロレス時代

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1973年11月30日にマクダニエルからIWA世界ヘビー級王座を奪還し、1974年1月14日と1月19日にカウボーイ・ビル・ワットを相手に2度の防衛に成功[18]。団体の屋台骨として順調に活躍していた矢先、『'74パイオニア・シリーズ』最終戦当日である1974年2月1日に国際プロレスへ辞表を提出[22]。同年2月13日、小林はフリー宣言してジャイアント馬場アントニオ猪木への挑戦を表明し、両者に内容証明郵便で挑戦状を送り付け、IWA王座を返上して国際プロレスを退団した[23][24]。この事件は小林の引き抜きを画策していた新日本プロレスが仕組んだシナリオであったと目されているが[24]、離脱の背景にはマッチメーカーのグレート草津との確執があり[25]、小林自身も「誰かの横槍で吉原社長に冷遇されるようになり、以前から離脱を考えていた」などと語っている[26]。また、2016年に行われた大位山勝三鶴見五郎の対談でも、草津と小林との関係が良くなかったことが明かされており、鶴見によると草津は、自身が団体のエースになれなかった嫉妬心から小林のことを随分と虐めていたようであり、八戸から苫小牧へのフェリーの船中で、酒に酔って「おい小林、お前は誰のおかげで上を取れてると思ってんだ!」と絡み出し、活字に出来ないような罵詈雑言を浴びせたという[27]。小林の国際プロレス退団直後に新日本プロレスはすぐさま動き、新間寿が小林との極秘交渉を開始した一方で、全日本プロレスも『月刊プロレス』編集長であった藤澤久雄に依頼して、新日本参戦を阻止するよう依頼した[28]。これを受けて、同年3月8日には吉原社長が会見上で小林の契約違反を主張し[23]、国際プロレスは小林に対し移籍金を要求するという事態に発展したが、当時の新日本プロレスは、テレビ中継開始後も旗揚げ時からの借金を未だに抱えており、違約金を支払える余裕はなかった[24]。最終的に東京スポーツ新聞社が仲介に入り、東京スポーツが1000万円を国際プロレスに支払うことで和解、一時的に小林は東京スポーツ所属のレスラーとなる[28][29]。馬場と猪木の日本プロレス離脱後は発行部数が落ちていた東京スポーツにとっても、猪木とのシングルマッチの開催は発行部数回復の起爆剤として期待された[24]。小林の国際プロレス退団後、TBSTWWAプロレス中継』における小林出場試合の中継は問題なく同年2月16日・3月9日・3月16日にそれぞれ放送された[30]

同年3月19日、蔵前国技館において猪木とのシングルマッチが行われ、猪木の保持するNWF世界ヘビー級王座に挑戦。日本人選手同士・団体エース同士のタイトルマッチとして、大きな話題を呼んだ(同門対決のタイトルマッチとしては、小林は1973年7月9日に大阪府立体育館においてラッシャー木村を相手にIWA世界ヘビー級王座の防衛戦を行っている)。結果は猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドに敗れる[31]。なおこのときのジャーマンは猪木がブリッジの際に首だけで二人分の体重を支え、猪木のレスラー人生の中で最も危険かつ美しい角度で決まったといわれている。試合当日は、新間同伴の上で会場入りしたという[28]。その後、WWWFなどへの海外遠征を経て、同年12月12日に同じく蔵前国技館で再戦が行われたがまたもや敗退、1975年5月、敗戦後の公約どおり新日本へ正式入団した。

なお、WWWFではフレッド・ブラッシーマネージャーヒールとして活動し、1974年9月21日にフィラデルフィアにてブルーノ・サンマルチノWWWFヘビー級王座に挑戦[32]ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにおける定期戦では、10月7日にキラー・コワルスキーと組んでアンドレ・ザ・ジャイアント&ビクター・リベラと対戦、11月18日にはペドロ・モラレスとのシングルマッチも組まれた[1][33]。WWWF入りする前の1974年5月から7月にかけてはNWAフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)を短期間サーキットし、韓国人選手パク・ソンのタッグパートナーとして覆面レスラーの「コリアン・アサシンThe Korean Assassin)」に変身、覆面太郎以来となるマスクマンに扮した(マネージャーはゲーリー・ハート[26]。同時期、フロリダに遠征してきた馬場とも邂逅しており、その際に全日本プロレス入りを打診されたという[26]。しかし、前述の経緯から小林は東京スポーツに恩義を感じており、新日本プロレスのリングに上がることにした。

新日本プロレス入団後は坂口征二とタッグを組み、1976年2月5日にNWA北米タッグ王座を獲得[34]。以後3年2か月に渡り、モラレス&リベラ、コロフ&スーパースター・ビリー・グラハムパット・パターソン&ラリー・ヘニングスタン・ハンセン&ザ・ハングマンブルート・バーナード&キラー・カール・クラップピーター・メイビア&ヘイスタック・カルホーンボブ・ループ&クルト・フォン・ヘスなどの強豪チームを相手に防衛。タイガー・ジェット・シン&上田馬之助とも同王座を巡り抗争を繰り広げ、新日本プロレスにおいて猪木と坂口に次ぐ主力レスラーとして人気を博した。当時のキャッチフレーズは「怒濤の怪力」。しかし、腰痛の悪化もあって1979年には坂口のパートナーの座を長州力に譲るなど、徐々にトップグループから退いていった。なお、1978年以降の新日本プロレスと国際プロレスの対抗戦に際しては新日本の一員として国際勢と戦っており、1979年8月26日のプロレス夢のオールスター戦では、当時の国際のエースだった木村との久々の対戦が実現。1980年6月29日には、アニマル浜口が返上して空位となっていたIWA世界タッグ王座の新王者チーム決定戦に永源遙と組んで出場、ジプシー・ジョーら外国人選手の乱入でマイティ井上&寺西勇を下し8年ぶりに同王座に返り咲いたが、半月後の7月15日に井上&浜口に奪還された。

新日本プロレスでは役員にも就任するが[5]1981年10月16日の大分県立総合体育館での試合(星野勘太郎と組んでのアブドーラ・ザ・ブッチャー&バッドニュース・アレン戦)を最後に[26]、腰痛を理由に長期欠場し、レスラー活動はセミリタイア状態となる。同時に俳優・タレントとしての活動を始め、1982年に映画『伊賀忍法帖』に出演した際、役名が「金剛坊」であったことから「ストロング金剛」に改名し、スキンヘッドとなる[35]。以降、試合に出場することはなかったが、同年9月21日、大阪府立体育館における猪木vs木村の髪切りデスマッチにおいて観客席から国際軍団に加勢し、場外乱闘の際にセコンドの浜口にハサミを渡して観客のヒートを買った。その後も復帰が期待されたものの、参戦は果たされぬまま1984年8月26日、福生大会にて引退興行が行なわれ、正式に引退した。

引退後

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引退後は芸能界に転身し、『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』や『超電子バイオマン』で怪人役を演じるなどした。愛嬌のあるキャラクターでお茶の間、子供に親しまれる。スキンヘッドの怪人で「ストロング○○」という名を持つパロディキャラクターも多数誕生した。

国際プロレス社長であった吉原功が死去する直前に、小林は吉原の元へ見舞いに訪れ3時間会話した。その際、吉原から「私が育てたレスラーの中で小林君が一番だった」と言われた際には、小林は感謝の気持ちで一杯だったという[7]

1992年3月1日、横浜アリーナにて開催された、新日本プロレス設立20周年記念大会の企画として、坂口征二とタッグを組みエキシビション・マッチに出場、タイガー・ジェット・シン&上田馬之助と対戦した。なお、現役時代に使用したガウンやタイツ、リングシューズなどのコスチュームは、ファンや知人にプレゼントしてしまい残っていなかったため、作務衣をガウン代わりに、唯一手元に残っていたWWWFに遠征した際に着用した田子作タイツを着用し、裸足で試合に出場している。

門馬忠雄によれば、小林と面会した際、国際プロレス時代の思い出話は話してくれたものの、新日本プロレス時代の思い出に関しては一切語ろうとしなかったという[24]

バラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』で、沖縄の海岸で島崎俊郎と走っている時に落とし穴へ落とされるという企画で穴に落ちるが、2メートルの深さだったことから右足を悪くした。プロレス時代に腰痛とともに左足も悪くしており、これで小林は走ることが出来なくなったという[5][36]。この時に、制作会社との補償の仲介をすると俳優協会から持ち掛けられたが、小林は「大ごとになるから、もういいんだよ」と断っている[36]

1995年4月に母親が突然死したことをきっかけに、自分の自由な時間を大事にして健康で長生きしようと以降は芸能活動を縮小し、表舞台に姿を見せる機会は減っていった[5][36]

2003年に芸名をストロング金剛からストロング小林に戻した[5]。芸能活動を縮小後も、首と脚のトレーニングを毎日1時間行い、体重も100キロ以上を保っており、痛めた腰の影響で歩行に杖が必要である以外はいたって健康であった[26]

2021年11月6日のスポーツ報知の記事によると、芸能活動は26年前に引退しており、また芸能活動を引退後に脊髄損傷の重傷を負い、その影響から下半身麻痺になり、3年前の2018年から寝たきりの生活であることが明かされている。ストロング小林本人は取材を断っていたが、介護している親族より「プロレス界にストロング小林がいたっていうことを残してもらいたい」という希望で仲介役となり、インタビューを受けている[37]

2021年12月31日7時21分、膿肺のため、東京都青梅市内の病院で死去[38]。81歳没。2021年夏頃から特別養護老人ホームに入居し生活していたが、同年11月9日に吐血して入院。一時危篤に陥り、4日目に意識を取り戻したものの、寝たきりの状態が続いていたことから肺の状態を悪化させ、痰が左肺に入り込んだうえ、右肺には水が溜まる状態となっていた。その後12月末に症状が悪化し、家族に見守られながら息を引き取ったという[4][38]。葬儀・告別式は年が明けた2022年1月9日に青梅市民斎場で行われ、新間寿らが参列した。法名は「金剛院釋誓省」[39][40]

死後

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2023年12月には青梅市内の西友・河辺店内の市民ホールにて、「ストロング小林展実行委員会」により[41]「ストロング小林展」が開催され、新日本プロレス設立20周年記念大会のエキシビション・マッチにて着用した、唯一手元に残っていたWWWFに遠征した際に着用していた田子作タイツや、覆面太郎時代のマスク等貴重な品々が展示された[42]

得意技

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外国人選手に力負けしないパワーファイターとして知られていた。バックブリーカー系の技を多用したため、後年は腰痛に悩まされるようになった。

獲得タイトル

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マネージャー

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追記

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  • 国際プロレス離脱→新日本プロレス参戦という事件は、その後の日本プロレス史に大きな影響を及ぼした。1974年3月のアントニオ猪木対ストロング小林戦は力道山対木村政彦戦以来の日本人トップレスラー同士の対戦となり、東京スポーツ認定プロレス大賞「ベストバウト賞」の第1回受賞試合ともなった。また、日本人と外国人の戦いが主流だった当時の日本のプロレス界において、日本人同士の試合が興行の目玉になり得ることを示した。16,500人の超満員札止めだったため[28]、入場が出来なかった観客からは「せっかく地方から来たんだ。立見でいいから1、2万円払うんで入れてくれよ」と入口で押し問答した観客もいたといい[43]、新間寿の証言によると、当日券を求める客に対してスタッフは辺りにあったポスターを破いて「1000円」と書いてチケット代わりにして対処したという[29]。試合当日は、蔵前駅から蔵前国技館までの行列が途絶える事がなかった他、収容人数を上回る観客が入った事から、蔵前国技館の水道管が破裂したり、蔵前警察署から厳重注意されたという[24][44]。この一戦を実現するために新間は3週間に渡って小林の自宅に通い詰め、そのうちに小林がたくさん飼っていたマルチーズのうちの1頭が懐いたという逸話もある[29]
  • 大塚直樹によれば、新日本プロレスが旗揚げ間もない頃に興行ポスターを貼っていた際、小林が猪木に似ていた事から地元のファンに「小林が来る!」と言われた事があったという。1972年当時のTBS系列局は24局であったため、TBS系列局が所在する地域でいかに小林の人気が高かっかが窺い知れる[8]
  • 一方、国際プロレスは小林の国際プロレス退団に同調する形でTBSから1974年3月いっぱいでの放映打ち切りを通達されており[45][46]、小林離脱後は地方系列局を持たない東京12チャンネルへ放送局を移行。さらに、翌1975年からはAWAとの提携を解消、大剛鉄之助をブッカーに外国人招聘ルートをカナダの独立系プロモーションに変更したが、これにより外国人選手のネームバリューがスケールダウンすることとなり、団体のマイナー化に拍車がかかった。また小林が2度にわたって猪木に敗れたことや、永源とのコンビでIWA世界タッグ王座を奪取したことも、国際プロレスのイメージダウンや『国際プロレスアワー』の更なる視聴率の低下に繋がった。
  • WWE(WWWF / WWF)には、ブルーノ・サンマルチノWWWFヘビー級王座に挑戦した1974年以降にも1978年4月と1981年6月に遠征しており、それぞれ北東部地区を短期間サーキットしている。1978年の遠征時には当時の新王者ボブ・バックランドに挑戦し、ミル・マスカラスとも6人タッグマッチで対戦[47]。1981年の遠征時にはドン・ムラコWWFインターコンチネンタル・ヘビー級王座キラー・カーンと組んでトニー・ガレア&リック・マーテルWWFタッグ王座に挑戦した[48]
  • 生年月日について一部資料には「1944年1月15日生まれ」とされる場合があるが、これは覆面太郎としての仮のプロフィールであり、実際の出生日は冒頭表記の通りである[36]
  • ある日、熊本県在住の知人から電話が掛かって来た際に知人から「小林さん、ちょっと珍しい人と代わります」と言い、知人はその人物と電話を代わることにした。その人物とはグレート草津であり、小林に対して「オイ、お前何やってんだ、いま」と話し掛けられたが、黙って電話を切ったという[8]。小林は「業界から離れて長いのに、いまさらお前呼ばわりされる事はないと思ってね」と語っている。
  • 2001年7月27日に青梅市で姉妹バラバラ殺人事件が発生・報道された際、小林夫妻は事件のあったマンションの近所に住んでいたため、夫妻は寝間着とネグリジェのままレポーターのインタビューに答えていた。また、小林の妻は犯人が死体をバラバラにするチェーンソーの音を聞いたという[49]

出演

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映画

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テレビドラマ

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バラエティ

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CM

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音楽

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シングル

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発売日 規格 規格品番 タイトル 作詞 作曲 編曲
クラウンレコード
1986年 EP CWA-384 A それゆけ金剛 荒木とよひさ 泉八沙 西崎進
B まじめのみじめはくらめのとどめ
キングレコード
1988年 EP K07D-80034 A 花の追網 翠まさひろ 泉八沙 西崎進
B 俺は闘犬 広田文男

脚注

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出典

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  1. ^ a b Strong Kobayashi dead at 81” (英語). Slam Wrestling (2022年1月6日). 2022年3月11日閲覧。
  2. ^ Strong Kobayashi” (英語). Wrestlingdata.com. 2014年2月8日閲覧。
  3. ^ 元プロレスラー、ストロング小林さん死去”. 産経ニュース (2022年1月6日). 2022年2月9日閲覧。
  4. ^ a b ストロング小林さんが残した最後の伝説…危篤からの脱出と病との闘い”. スポーツ報知. 報知新聞社 (2022年1月9日). 2022年1月16日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 吉田豪掟ポルシェ「ストロング小林インタビュー」『電池以下』アスペクト、2012年、104-110頁。ISBN 978-4-7572-2125-3 初出は2004年『CONTINUE』誌Vol.16。
  6. ^ 実録・国際プロレス, pp. 18–19.
  7. ^ a b c 忘れじの国際プロレス, p. 87.
  8. ^ a b c 欠端大林 (2022年1月7日). “「使い捨てにされたなと思ったこともある」“猪木のライバル”ストロング小林さん死去 昭和プロレス史の巨星が語っていた「新日」「猪木」「国際プロレス」のこと”. 文春オンライン. 文藝春秋社. 2023年10月8日閲覧。
  9. ^ 実録・国際プロレス, pp. 20–21.
  10. ^ 「昭和の名レスラー」ストロング小林さん、偉業をたたえる展覧会がふるさとの青梅市で開催…「感謝を伝えたい」…12月15日から西友河辺店”. スポーツ報知 (2023年10月13日). 2024年4月10日閲覧。
  11. ^ 「三熊宏治「ストロング小林が語った国際プロレス離脱の真相とアントニオ猪木戦の舞台裏」」『プロレススキャンダル事件史 いま明かされる真相』宝島社〈別冊宝島〉、2003年、56-58頁。ISBN 4-7966-3742-7 
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  43. ^ 日本プロレス事件史 Vol.10, p. 4.
  44. ^ ストロング小林vs猪木に日本中が熱狂。仕掛け人・新間寿、生前の小林の言葉で振り返る「昭和の巌流島」”. Web Sportiva. 集英社 (2022年1月14日). 2023年7月17日閲覧。
  45. ^ TBSにおける録画中継も小林の国際時代最後のシリーズとなった「'74パイオニア・シリーズ」が最後となった。
  46. ^ 忘れじの国際プロレス, p. 8.
  47. ^ The WWE matches fought by Strong Kobayashi in 1978” (英語). Wrestlingdata.com. 2019年4月1日閲覧。
  48. ^ The WWE matches fought by Strong Kobayashi in 1981” (英語). Wrestlingdata.com. 2019年4月1日閲覧。
  49. ^ 「新潮45」編集部 編「姉を電動ノコギリで刻んだ妹が「選んだ女」 - 青梅「姉妹」バラバラ殺人事件」『その時殺しの手が動く 引き寄せた災、必然の9事件』新潮社新潮文庫〉、2003年6月1日、278頁。ISBN 978-4-10-123915-6 

参考文献

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  • 『忘れじの国際プロレス 国際プロレス解散から33年。語り継がれる魂の物語』ベースボール・マガジン社〈B.B.mook 1018〉、2014年2月3日。ISBN 978-4-583-62080-0 
  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.8 移籍・引き抜き・興行戦争』ベースボール・マガジン社〈B.B.mook 1178 週刊プロレススペシャル〉、2015年4月17日、4頁。ISBN 978-4-583-62269-9 
  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.10 暴動・騒乱』ベースボール・マガジン社〈B.B.mook 1199 週刊プロレススペシャル〉、2015年6月17日、4頁。ISBN 978-4-583-62299-6 
  • Gスピリッツ編集部 編『実録・国際プロレス』辰巳出版〈G SPIRITS BOOK〉、2017年11月29日。ISBN 978-4-777-81977-5 

外部リンク

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