ジョージ・スペンサー=チャーチル (第6代マールバラ公)
第6代マールバラ公爵 ジョージ・スペンサー=チャーチル George Spencer-Churchill, 6th Duke of Marlborough | |
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生年月日 | 1793年12月27日 |
出生地 | グレートブリテン王国 イングランド・バークシャー・ウォーキンガム |
没年月日 | 1857年7月1日(63歳没) |
死没地 | イギリス イングランド・オックスフォードシャー・ウッドストック・ブレナム宮殿 |
出身校 | オックスフォード大学クライスト・チャーチ |
所属政党 | 保守党 |
称号 | 第6代マールバラ公爵 |
庶民院議員 | |
選挙区 |
チッパンハム選挙区[1] ウッドストック選挙区[2] |
在任期間 |
1818年 - 1820年[1] 1826年[1] - 1835年1月6日[2] 1838年5月11日 - 1840年3月5日[2] |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1840年3月5日 - 1857年7月1日[2] |
第6代マールバラ公爵ジョージ・スペンサー=チャーチル(英: George Spencer-Churchill, 6th Duke of Marlborough, DCL、1793年12月27日 - 1857年7月1日)は、イギリスの貴族、政治家。
1817年まではサンダーランド伯爵(Earl of Sunderland)、1817年から1840年まではブランドフォード侯爵(Marquess of Blandford)の儀礼称号を使用した
経歴
[編集]1793年、ブランドフォード侯爵ジョージ・スペンサー=チャーチル(後の第5代マールバラ公爵)とその妻スーザン・ステュアート(第7代ギャロウェイ伯爵の娘)の間の長男として誕生[1]。マールバラ公爵家の嫡孫として生誕時よりサンダーランド伯爵の儀礼称号を有していた。
イートン校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学する。イートン校時代には鞭打ちを好む厳格な校長ジョン・キートに対する学生たちの反乱を主導したという[3]。
1817年に父がマールバラ公爵位を継承したのに伴い、マールバラ公爵家の法定推定相続人の儀礼称号ブランドフォード侯爵を継承する。ちょうどこの頃からスーザン・アデレイド・ロウという女性と「ロウソン大尉夫妻」という偽名で同棲生活を送るようになり、ついには偽装結婚式まで挙げるに至った。しかし1819年には母方の第8代ギャロウェイ伯爵の娘ジェーンと正式に結婚した。新聞はこれをブランドフォード侯爵の重婚容疑として報じた。裁判では重婚とは認定されず、慰謝料を出すことで解決したが、この騒ぎでマールバラ公爵家の家名に傷が付いた[4]。
1818年から1820年にかけてはチッパンハム選挙区から選出されてトーリー党(後の保守党)の庶民院議員を務めた。1826年から1835年、および1838年から1840年にかけてはウッドストック選挙区から選出される[1]。
1840年3月5日に父の死によりマールバラ公爵位を継承し、貴族院議員に列する。彼も彼の父も浪費癖が酷かったため、彼が当主をしていた時期にはマールバラ公爵家の家計はかなり逼迫していた。家計の立て直しを図ろうとしたものの、余り功を奏せず、死去時にはひどい家計状態だった。それを隠すために書類を全て焼き払っている[5]。
1857年に死去し、マールバラ公爵位は長男のジョン・スペンサー=チャーチルが継承した。自分の葬儀に100ポンド以上使わないよう遺言していたという[5]。
人物
[編集]スポーツマンであり、とりわけ釣り・射撃・ヨットを好んだ[5]。
栄典
[編集]爵位
[編集]- 1840年、第6代マールバラ公爵(1702年創設イングランド貴族爵位)[1]
- 1840年、第6代ブランドフォード侯爵(1702年創設イングランド貴族爵位)[1]
- 1840年、第8代サンダーランド伯爵(1643年創設イングランド貴族爵位)[1]
- 1840年、第6代マールバラ伯爵(1689年創設イングランド貴族爵位)[1]
- 1840年、第10代ウォームレイトンのスペンサー男爵(1603年創設イングランド貴族爵位)[1]
- 1840年、第6代サンドリッジのチャーチル男爵(1685年創設イングランド貴族爵位)[1]
その他
[編集]- 1841年、名誉民事法学博士号(DCL)(オックスフォード大学名誉学位)[1]
家族
[編集]1819年に従妹にあたるジェーン・ステュアート(叔父第8代ギャロウェイ伯爵の娘)と結婚し、彼女との間に以下の4子を儲けた[1]。
- 第1子(長女)ルイーザ嬢(Lady Louisa, 1820年 - 1882年)
- 第2子(長男)第7代マールバラ公爵ジョン(1822年 - 1883年)
- 第3子(次男)アルフレッド卿(Lord Alfred, 1824年 - 1893年)
- 第4子 (三男)アラン卿(Lord Alan, 1825年 - 1873年)
最初の妻との死別後の1846年にシャーロット・オーガスタ・フラワー(第4代アシュブルック子爵の娘)と再婚した。彼女との間に以下の2子を儲けた[1]。
- 第5子(四男)アルメリック・アゼルスタン卿(Lord Almeric Athelstan, 1847年 - 1856年)
- 第6子(次女)クレメンティーナ・オーガスタ嬢(Lady Clementina Augusta, 1848年 - 1886年):第3代キャムデン侯爵と結婚
2番目の妻とも死別し、1851年に自身と最初の妻の従妹にあたるジェーン・フランシス・クリントン・ステュアート(叔父エドワード・リチャード・ステュアートの娘)と再婚し、以下の1子を儲けた[1]。
出典
[編集]参考文献
[編集]- ロバート・ペイン 著、佐藤亮一 訳『チャーチル』法政大学出版局〈りぶらりあ選書〉、1993年。ISBN 978-4588021466。
- 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年。ISBN 978-4469240979。
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Marquess of Blandfordh
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
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先代 チャールズ・ブルック ジョン・メイトランド |
チッパンハム選挙区選出庶民院議員 1818年 - 1820年 同一選挙区同時当選者 サー・ウィリアム・マイルス准男爵(1818–1820) |
次代 ウィリアム・マドックス ジョン・グロセット |
先代 ジョン・グラッドストン ジェームズ・ラングストン |
ウッドストック選挙区選出庶民院議員 1826年 - 1831年 同一選挙区同時当選者 アシュレイ卿(1826–1830) チャールズ・スペンサー=チャーチル卿(1830-1831) |
次代 チャールズ・スペンサー=チャーチル卿 ストーモント子爵 |
先代 チャールズ・スペンサー=チャーチル卿 ストーモント子爵 |
ウッドストック選挙区選出庶民院議員 1832年 - 1835年 |
次代 チャールズ・スペンサー=チャーチル卿 |
先代 ヘンリー・ペイトン |
ウッドストック選挙区選出庶民院議員 1838年 - 1840年 |
次代 サー・フレデリック・セシジャー |
名誉職 | ||
先代 第4代マックルズフィールド伯爵 |
オックスフォードシャー総督 1842年 - 1857年 |
次代 第7代マールバラ公爵 |
イングランドの爵位 | ||
先代 ジョージ |
第6代マールバラ公爵 1840年 - 1857年 |
次代 ジョン |