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ジャン=マリー・バレストル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャン=マリー・バレストル
Jean-Marie Balestre
1981 Argentine Grand Prix, Fangio Balestre.jpg
バレストル(1981年)
国際自動車連盟(FIA)会長
任期
1985年 – 1993年10月23日
前任者パウル・アルフォンス・フォン・メッテルニヒ=ヴィンネブルク
後任者マックス・モズレー
FIA国際スポーツ委員会(CSI) / 国際自動車スポーツ連盟フランス語版(FISA)会長
任期
1978年 – 1991年
前任者ピエール・ウジュー英語版
後任者マックス・モズレー
フランス自動車スポーツ連盟英語版(FFSA)会長
任期
1972年 – 1996年
前任者Claude Bourillot
後任者Jacques Regis
個人情報
生誕 (1921-04-09) 1921年4月9日[1]
フランスの旗 フランス
ブーシュ=デュ=ローヌ県サン=レミ=ド=プロヴァンス
死没2008年3月27日(2008-03-27)(86歳没)
フランスの旗 フランス
オー=ド=セーヌ県サン=クルー
国籍フランスの旗 フランス

ジャン=マリー・バレストルJean-Marie Balestre, 1921年4月9日[1] - 2008年3月27日)は、フランス出身の実業家で、国際自動車連盟(FIA)の第7代会長。FIAの下部組織である国際自動車スポーツ連盟フランス語版(FISA)が存在していたほとんどの期間で会長職を務めており、そのことで広く知られている。

1978年から1991年にかけてFISA会長を務め、その間に、フォーミュラ1(F1)におけるウィングカーの禁止、クラッシュテストの義務化、ターボエンジンの禁止、世界ラリー選手権(WRC)におけるグループBの廃止、サーキットにおける安全性向上のための規則変更、といった数々の施策を1980年代の内に行った。そうした改革のほぼ全ては強権を振るって強行したものだったため、いずれの規則も導入するに当たって反発があったが、それらのほとんどはバレストル死後の今日では自動車レースの安全性向上に大きな貢献を果たしたと評価されている[2]。(→#安全性向上への取り組み#評価

F1では、1970年代半ばからバーニー・エクレストンが商業的な権益を掌握して商業イベント化を推し進めていた。バレストルが率いて自動車レースのスポーツ面を統括していたFISAは、エクレストンが率いていたF1車両製造者協会(FOCA)と対立を来し、1980年代初めにはレースへのボイコットやシリーズ分裂の動きなどを伴うFISA-FOCA戦争英語版と呼ばれる政治抗争(権力闘争)に発展した[W 1]。1981年にコンコルド協定によって一応の和解を見たことで、商業面の役割はエクレストンのFOCAに譲りつつ、バレストルはスポーツ統治機関としてのFISAの地位を確立した。(→#FISA-FOCA戦争#商業主義との均衡

傲岸不遜な立ち居振る舞いと言動の人物で、予測不可能な激情家としても知られ、モータースポーツ関係者からの反感を買うことが多かった[3]。FISAの運営においても独断かつ急な決定を行うことが多く、あらゆる自動車メーカーと衝突し[W 2]、各選手権に恣意的な介入を行うことにより、競技参加者ともしばしば対立した[W 3]。特にFISA会長としての最後の任期(1987年 - 1991年)には独裁的な傾向が強まり、その期間に生じたアイルトン・セナとの確執はよく知られている[W 3]。(→#人物

経歴

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1921年、ブーシュ=デュ=ローヌ県サン=レミ=ド=プロヴァンスで生まれた[4]。父親はジャーナリストで、後にパリで社会党の書記となる人物である[4]。サン=レミ=ド=プロヴァンスはフランス南部のマルセイユ近郊の町で、比較的裕福な家庭で育った[4]

16歳の時にスペイン内戦(1936年 - 1939年)に従軍したと本人は主張している[W 2]。青年期に、パリで法律を学んだ後、1937年に自動車雑誌『ル・オートフランス語版』で自動車ジャーナリストとして働き始めた[W 4][注釈 1]

第二次世界大戦

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第二次世界大戦ナチス・ドイツによる占領下(1940年 - 1944年)におけるバレストルの活動には不明瞭な部分がある[W 3]

バレストルは戦時中はフランスSS(ナチス親衛隊)に所属していたと考えられている[W 5]。1943年にフランスSSに参加し[W 4]フランスが解放された後の1945年に投獄されたとされ、この際、バレストルは「私は二重スパイだった」のだと言って当局を説得したと言われている[W 5]

バレストル本人は、戦時中は反ドイツのレジスタンス活動フランス語版英語版に参加していたと述べている[W 2]。バレストルの話に拠れば、19歳の時(1940年頃)にフランス陸軍に志願兵として入隊し[W 6]、1942年4月1日から対ドイツのレジスタンスとして戦い、1944年5月24日に逮捕され、ドイツの軍事法廷に立たされ、死刑判決を受けた[4]。拷問を受け、強制収容所に入れられたが、1945年5月4日に連合軍によって解放された、と、バレストルはしている[4]

戦後の1970年代後半に、ドイツ軍の軍服を着たバレストルの写真が世に出回った際、それを差し止める訴訟の中でも、自分は二重スパイだったのだと弁明している[W 2]。バレストルがナチスの協力者だったと疑う者は多く、バレストルは彼の過去についての疑惑を公にした者たちに訴訟を起こし、そのいずれにおいても勝訴した[W 3]。この疑惑は、真偽を証明できる人物がすでに全員死亡しているという理由で、いつしか立ち消えとなった[2]

出版事業

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ジャーナリズムの何たるかは、私が良く知っている。ル・マンもそうだ。25年間もフォローしてきた。'50年のル・マンで、夜中の3時にプレス席にたった一人残っていたジャーナリスト、それがバレストルなんだ![1]

—バレストル(1988年)

戦時中にロベール・エルサン英語版と親交を結んだバレストルは、戦後の1949年にエルサンと共同でパリを拠点とする出版社を設立した[5][W 2][W 7][注釈 2]

エルサンや編集者のアンドレ・パリノフランス語版とともに自動車雑誌ル・オート・ジュルナル英語版』を1950年に創刊し、この雑誌がヒットしたことにより、エルサンとバレストルの出版事業は軌道に乗った[5][W 2][W 7][注釈 3]。その後、エルサンは主に規模の小さな新聞社を買収していくという手法で事業を拡大していき、1975年にはフランスで最も長い歴史を持つ新聞で当時も大手紙だった『フィガロ』を買収するまでとなり[5]、バレストルもその事業の中で有力者としての地位を占め[W 7]、巨額の資産を築いた[2][4]

モータースポーツ

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バレストルはモータースポーツの熱心な愛好者で、出版事業と並行して、1950年にフランス国内のモータースポーツクラブの設立を提唱し、1952年にフランス自動車スポーツ連盟英語版(FFSA)の設立に携わり、1973年にはその会長に就任した[W 2][W 7]

1960年には自らレーシングカートを作るとともにフランス国内でカートクラブを作り、その普及活動を始め[注釈 4]、1962年には国際自動車連盟(FIA)の国際カート委員会英語版(CIK)の初代会長に就任した[W 7]。(→#カートの振興

バレストルの業績でよく知られているのは、FISA会長となった1978年以降の事柄である。

FISA設立 (1978年)

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FFSAの会長となったのと同時期に、FIA内の下部組織で、モータースポーツ全般を長年統括していた国際スポーツ委員会(CSI)でも副会長に選出された[W 8]。バレストルは、フランス国内だけでなく世界中でモータースポーツを開催することに意欲を持っていたが、当時のCSIは形骸化が著しく、そのプロ意識の低さに愕然としたバレストルは、1976年に同職を辞任した[W 8]

当時のCSI会長職は他に本業を持っている者が片手間に行う程度のものだったが、出版事業で資産を築いていたバレストルはその職に専念することを決意した[W 8][注釈 5]

1978年4月に開かれたFIA総会で、バレストルはCSIをFIAからもっと独立した組織へと改革することを提案し、CSI会長選挙へと立候補して当選し、同年10月に就任した[6][W 8][W 7]。そして、同年中には同委員会を改組し[W 8]国際自動車スポーツ連盟フランス語版(FISA)を設立し、その会長となった[W 7][W 3]

FISA-FOCA戦争 (1980年 - 1981年)

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バーニー・エクレストン(1975年)。1974年にFOCAを設立し、独立系チームを糾合するとともにF1の商業権を掌握するようになっていった[2]。
バーニー・エクレストン(1975年)。1974年にFOCAを設立し、独立系チームを糾合するとともにF1の商業権を掌握するようになっていった[2]

発端については諸説あるが、1970年代後半にくすぶっていたメーカー系チーム(フェラーリアルファロメオルノー[W 1])と、その他の独立系チームの対立は、バレストルがFISA会長に就任した後に顕在化し、1980年代初めに「FISA-FOCA戦争英語版」と呼ばれるF1分裂騒動へと発展した[W 1]

最初の大きな対立は1980年シーズンスペインGP英語版(6月)において生じた[W 1]。この時の対立は、バレストルが当時のF1で主流だったグラウンド・エフェクト・カー(ウィングカー)のサイドスカートへの規制などを盛り込んだレギュレーション改正を強引に進めようとしたことに端を発したもので、バレストルが率いるFISAは、バーニー・エクレストンが率いるFOCAと緊張関係となった末、同年末にはエクレストンらFOCA陣営がF1世界選手権に代わる新シリーズの設立を宣言する事態に至った。シリーズの分裂は双方いずれにとっても益のないものであることから融和が図られ、両者は1981年3月に最初の「コンコルド協定」を締結して一応の和解を見た[7]

両組織の対立はその後もしばらく続くことになるが、1981年に結ばれたこのコンコルド協定により、以降は、FOCAの会長であるエクレストンがF1の商業上の権益を独占し、FISAはF1の競技面を統括するという権限の分担が行われるようになった[7][2][W 2][W 7]

彼(バレストル)はとてもフランス人らしく、とても友好的でもあったが、自分の思いどおりに事が進まないと猛烈に怒る人でもあった。しかし彼が僕と握手するということは“取引は成立した”ということであり、契約書などは一切不要だった。
1980年の後半F1をどう運営していくか、利益をどう配分するかなどについて議論をしている時に我々はかなり激しくやりあった。しかし関係者全員にとって満足のいくような解決策が見つかり、彼が自分の言ったことを守り、営利的なことをすべてFOCAに委ねたということ(コンコルド協定の締結)は彼の功績であると認めなくてはならない。[8] — エクレストン(2008年、バレストルの訃報に接した際のコメント)

安全性向上への取り組み

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バレストルは、F1車両の車体底面を画像のようなウィング形状とすることを禁止し、底面は平面(フラットボトム)にするよう定めた(1983年から施行)[9]

1970年代以前、自動車レースは毎年多数の死者を出しており、「死と隣り合わせ」のスポーツだとみなされていた。バレストルはそうした状況を改善させることを目論見、モータースポーツ統括団体としてのFISAの権限を行使することで、安全性向上のための数々の施策を打ち出していった。FOCAとの間で結んだコンコルド協定によって、競技の安全面についての改善であればFISAが短期間の告知で規定を変更することが許可されていたことを根拠として、バレストルはこの分野において強い権限を行使することが可能となった[10][注釈 6]

まず、FOCAと対立する原因になったウィングカーへの規制について、1982年シーズンに死亡事故が多発したことを理由として、フラットボトム規制を導入することで、1983年からウィングカーそのものを禁止した[9][注釈 7]

1980年代初めのこの時期まで競技車両の安全性の確保は各チームの自主性に任されていたが、バレストルの主導により、F1では1985年にクラッシュテスト(衝突試験)を導入し、FISAが統一の安全基準に基づいた事前検査を行うようになった[W 9][W 10][W 11][注釈 8]。また、時を同じくしてカーボンファイバー製のモノコックが普及し始めたことで、1985年にはモノコックを規則の上で「サバイバルセル」(ドライバーの生命・安全を確保するための構造体)と定義し、コクピット周辺の安全性を強化する規則改正を行った[W 12]。一例として、事故でドライバーが足に重傷を負うことを防ぐため、コクピットのフットスペースについてドライバーの足の位置をフロントアクスルより後方にすることを各カテゴリーで義務付けた[W 9][W 10]グループCでは1985年、F1では1988年から適用)。

1985年末にバレストルはFIA会長に選出され、FISA会長と兼務するようになり、その権限は更に拡大された[1][6]。翌1986年は死亡事故が多発した年であり、前年以前から安全面での懸念が示されていた点にメスを入れ、世界ラリー選手権(WRC)におけるグループBの廃止(後述)や、F1とグループCにおけるターボエンジンの禁止[11](F1では1989年から、グループCでは1991年から適用[注釈 10])を同年中に矢継ぎ早に打ち出した。

1986年5月にエリオ・デ・アンジェリスがF1の公式合同テスト中に死亡するという事故が発生した後、ターボエンジンの禁止と移行期間中の規制強化を柱としたレギュレーション改正を推し進めると同時に、レーシングサーキットにおける安全対策や救助体制の強化を図った[13][注釈 11]。バレストルの命令により、テスト期間中のサーキットでも迅速な救助体制が敷かれるようになり[13][注釈 12]、レース時に医療用ヘリコプターを待機させること(1986年)であるとか、ピットウォールの高さを1.35メートル以上とする(1989年)といった規則が新たに定められた[W 9][W 10]。加えて、ニュルブルクリンクの北コースやサルト・サーキットにあるような長大なストレートに短縮を要求し[注釈 13]、多くのサーキットについて、ストレート区間の長さを1,500メートル以下とした[14][注釈 14]

WRC・グループBの廃止 (1986年)

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1986年5月、同年の世界ラリー選手権第5戦で起きたヘンリ・トイヴォネンの死亡事故を契機として、FISAはグループBを廃止する方針を即座に決めた[W 4]。この際、バレストルはグループBを1986年中に強制的に排除することもできたが、この時は、参戦している各マニュファクチャラーを説得した上で移行させることとした[8]。結果として、各メーカーのワークスチームのグループAへの移行はスムーズに進み、1986年とほぼ同数のチームが翌1987年のWRCに参戦した[8]

F1 (1989年 - 1991年)

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アイルトン・セナ(画像・右の人物)とアラン・プロスト1988年カナダGP

1986年暮れ、バレストルは心臓の冠状動脈疾患により入院した[15]。その疾患のためFISA会長職について辞意を示していたが、手術が成功したことから、1987年10月のFISA会長選挙に立候補し、再選された[15]。これがバレストルにとっての最後の任期となる。

1988年、バレストルはパリコンコルド広場に所在するFIA本部ではなく、南フランスのオビエの自邸にオフィスを構えて、そこから指示を下すようになった[1]

1989年の日本GPで、FISAはアラン・プロストと接触したアイルトン・セナを「シケイン不通過」のかどで失格処分とした。バレストルはセナを「危険なドライバー」とみなしスーパーライセンス剥奪を示唆。セナ側が折れる形で一旦は収束したが、このことによりバレストルの横暴さが広く知れ渡るとともに、翌年の日本GPでセナとプロストが再度接触する事件の伏線ともなった。(→#アイルトン・セナとの確執

1989年のシーズンオフから1990年初めにかけて、セナとの確執と、ル・マン24時間レースへの対応をめぐる問題が起きたことから、1990年3月に開かれた特別総会で、バレストルは信任投票にかけられた[W 14]。結果、FIA総会では全会一致、FISAの総会では90%の多数の信任を得て、会長職を続投することになった[W 14]

スポーツカー世界選手権 (1991年)

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1991年シーズンから、前年までの世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)をスポーツカー世界選手権(SWC)としてリニューアルし、それに伴いエンジン規定をF1と同じ3.5リッター・自然吸気エンジンに共通化するなどレギュレーションを大幅に改訂した。(WRCのグループB廃止の時と異なり[8])これは大きな失敗に終わり、参加チームの大幅減少、果てはカテゴリーそのものの消滅を招く結果となった。

失脚 (1991年 - 1993年)

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これまでジャン=マリー・バレストルに対抗する者がいなかったのは、皆が彼に賛成していたからというわけではなく、自分ならば彼よりもより良い運営をできると考えた者がいなかったからだ。(自分と異なり)うまくいかないことを恐れているのだ。[W 15]

—モズレー(1991年、FISA会長選挙への立候補にあたってのコメント)

バレストルは、1978年にCSI会長に就任し、同年末にFISAを設立して以来、3回行われたFISAの会長選挙の内、1985年と1987年の2回は対立候補不在で無投票によって再選を勝ち取っていた[6][W 2][注釈 15]

バレストルは元々が傲岸不遜で剛腕を振るう人物ではあったが、1987年からの4期目(最後の任期)において、セナとの確執に見られたような越権行為を公然と行うその横暴なやり方が目に余るようになり、モータースポーツ関係者の多くは彼を忌避するようになった[W 3]

そして、1991年10月に行われたFISA会長選挙ではマックス・モズレーが立候補した。バレストルに勝算はないと考えられており、周囲の人々もバレストル本人にそのことを忠告したが、バレストルは充分な支持が得られると確信して再選に挑み、敗れた[W 3][W 2]。それまでの支持者たちの多くが彼のことを見放していたことに、この時点でバレストルはようやく気付いた[W 3]

1993年のFIA会長選挙でもモズレーに敗れ、会長職を退いた[W 7]。モズレーは、FIA会長選挙に立候補するにあたって公約していた通り、FIA会長に就任した直後の1993年末にFISAを解体し、モータースポーツ統括団体としての機能をFIAに(再)統合した。

FIA会長を退任した後、バレストルは1996年までFFSAの会長職を務めた[W 7]

死去

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2008年3月27日に死去[8]。86歳没[8][W 16]

かつてFISA会長職を争ったマックス・モズレーはこの時点でもFIA会長職を務めていたが、バレストルの死去と同じ週にセックススキャンダルが浮上するという不名誉な事態に見舞われた[8]。そのため、「バレストルとモズレーは同じ日に死んだ」とも評された[8][注釈 16]

評価

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バレストルは、FISA会長に就任する以前から、レースの安全性を重視した考え方をしており[16]、同時に、1970年代にバーニー・エクレストンが推し進めつつあったF1の商業主義化にも警戒と忌避の感情を抱いていた[16]

バレストルは人格面で問題を指摘されることの多い人物で[3](→#人物)、バレストルに反感を持つモータースポーツ関係者は多かったが[3]、そうした者たちからも、バレストルがFISA会長として行った施策のいくつかは高く評価されている。

安全性向上への貢献

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FISA会長として、モータースポーツの安全性の向上について何よりも優先して取り組み、グラウンド・エフェクト・カー(ウイングカー)の禁止、ターボエンジンの禁止などによって、レーシングカーの安全性を高める基礎を築いた[3]

ウイングカーの禁止(1983年)やクラッシュテストの義務付け(1985年以降)など、関係する当事者の合意もないまま導入した施策は多く、振り回される形となったコンストラクター(車体製造者)を中心として、その強引な手法には非難の嵐が都度巻き起こった[2]。他方、ウィングカーの禁止についてはF1ドライバーたちが以前から要望していたものだったため、発表当初からドライバーたちからは好評で[9]、関係者の間でも評価は分かれていた。2008年にバレストルが死去した際の評では、それらの施策によって安全性が実際に向上したことや、後任のモズレーも引き継いで継続的な取り組みとなった[注釈 17]ことへの道筋をつけたものとして、多くの関係者から高く評価されている[2]

結果として、バレストルがFISA会長職に就任して以降最初の5年間で、F1における死亡事故は、1978年ロニー・ピーターソン1980年パトリック・デパイユ1982年ジル・ヴィルヌーヴリカルド・パレッティの計4件に留まった[8]。さらに、ウィングカーの禁止を強行した1983年以降では、1986年エリオ・デ・アンジェリス(テスト中に事故死)がバレストルの会長在任中のF1において最後の死亡事故となった[8]

世界ラリー選手権(WRC)では1989年シーズンに3件の死亡事故が発生し、ドライバーとコドライバーを5名失うという悲劇に見舞われているものの、自動車レース界全体でこの時期に安全性は大きく向上した。

統括団体の確立と、商業主義との均衡

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バレストルが会長となったことで、FISAが統括団体として然るべき権威を確立したことは、前記した安全性向上への貢献と同等かそれ以上に、高く評価されている[2]。前身であるCSIは1970年代の時点では有名無実な組織となっており、仮にバレストルが権限の強化を図っていなければ、FIA傘下の自動車レースのスポーツ性は、バーニー・エクレストンの商業主義によって(実際よりも早く)蹂躙されていたと考えられるためである[2]

FISA-FOCA戦争を経て、FOCAと折り合いをつけてF1を運営する上で、FISA側にバレストルというエクレストンに匹敵する個性が存在したことで、互いに抑止力として機能したことはF1が商業主義とスポーツの均衡を保って発展する上で重要な要素となった[3]。この均衡はバレストルの後任が旧FOCA陣営のマックス・モズレーとなったことで崩れ、エクレストンを掣肘する者がいなくなったことで、F1の商業主義が加速することになったと指摘されている[3]

だれも今ではコンストラクター(FOCA)に頭が上がらない。このままいけばオイル・ダラーで成金にのしあがった連中が、このコンストラクターを相手どってクウェート・グランプリやイラン・グランプリをおっぱじめるでしょう。そうなればフランス・グランプリはFIAのカレンダーから永久に姿を消すことになるのです。(エクレストンが日本でのF1開催に100万ドルの開催権料を要求して交渉していることについて)それはあきらかに高すぎる金額です。ジュネーブ協定では45万ドルをミニマム・ギャランティとしていますが、その倍以上とはちょっと納得しかねる。これはおそらく連中が、経済大国ニッポンならば多分支払うだろうという見込みをもっているからとしか思えません。[16] — バレストル(1975年、F1における商業主義の台頭についてのコメント[注釈 18]

カートの振興

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1961年、国際カート委員会英語版(CIK)を設立し、そのことを通じてレーシングカートの基盤整備を行った[2]。後のプロドライバーの多くはレーシングカートを入り口として少年期に腕を磨き、四輪の自動車レースへとステップアップするようになり、バレストルがその基盤を築いたことは、その後のレーシングドライバーの人材育成という点で大きな貢献となったとみなされている[2]

モズレーによる批判

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1991年のFISA会長選挙において、マックス・モズレーはバレストルによる組織運営について4つの欠点を指摘している[6]

  • FIA、FISA、FFSAという複数の組織の会長を兼任し、他の事業も行っていること[6]。これにより、モズレーのような立場の人間でもバレストルに面会することが難しくなってしまっており、かといってバレストルは他の者が独自に物事に決定を下すことを好まないため、FISA傘下の選手権の運営などに支障を来している[6]
  • 世界選手権(特に世界スポーツカー選手権)の日程について、参加メーカーなどへの相談を経ずに、独断で決めてしまうこと[6]。これにより、メーカーやFISA(エクレストン)によるシリーズの適切なプロモーションを行うことが不可能に近くなっている[6][注釈 19]
  • 世界選手権(特に世界ラリー選手権)の各開催地への扱いが公平ではなく、地中海北側の(ヨーロッパの)国々を優遇し、アジア、アフリカ、中東の国々のことは冷遇している[6]
  • 小国のASN(国内モータースポーツ統括機関)を軽視している[6]。FISAはそうした地域への振興を行うことで将来への配慮・投資をする役割も持っているが、バレストル体制下では、その機能を果たすことができていない[6]。また、世界評議会などで、各国ASNの委員が集まる中、議長であるバレストルが、F1の状況など、誰でも知っているような話を長々と演説し、委員が見解を述べる機会がなくなっている[6]。そもそもバレストルの意向に沿わない意見を述べることは歓迎されておらず、各国代表の知恵が有効活用されていない[6]

人物

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激情的で、予測不可能なところのある人物として知られた[8][4][W 2]。FISA会長時代は、しばしば大言壮語を弄した[W 2]

自動車レースについて、機械的な要素によって差がつくことを嫌っていた。その一方で、モータースポーツの統括団体(規則の策定を行う)の長という公平さが求められる立場でありながら、一見すると恣意的に見える決定をしばしば下した[W 2]。そうした自身の意向を躊躇なく反映した運営を行ったことから、世界中の自動車メーカーと衝突した[W 2][注釈 20]

頑迷といわれたが良くも悪くも豪放磊落な一面があり、ジャーナリストの今宮純は食事の席で突然シャツのボタンを外して胸をはだけ、心臓手術の傷跡を自慢げに見せられた体験を綴っている。地元のフランスGPでは、若くグラマラスなガールフレンドを侍らせて観戦に訪れたこともある。FIA会長退任後もしばしばフランスGPの表彰台にプレゼンターとして現れ、シャンパンのボトルを握ってドライバーたちとシャンパンファイトに興じる姿がテレビ中継を通して見られた。

2008年に死去した際、関係者は以下のコメントを寄せている。

ジャン=マリーは、私が会った人のなかで最も予測できない人物だった。魅力的であるかと思えば冷酷であったりもした。こちらの意見を聞き入れてくれることもあったが、完全に不合理な意見を頑固に押しとおすこともあった。[8] — フランク・ウィリアムズウィリアムズ チーム代表)
バレストルが何をするかということを予測するのは難しかった。最愛の親友であるかのごとく挨拶してくれたと思えば、理由もなしにあたかも相手が彼の母親を殺したかのごとく侮辱することもあった。彼は私が出席した記者会見のなかで可笑しくもあり、被害妄想的な発言もした。明らかに世界中のメディアの注目を楽しんでいたし、自分の敵を攻撃する機会を決して見逃さなかった。[8] — ルイス・バスコンセロス(モータースポーツジャーナリスト)
如才なさを絵に描いたようなのがマックス(・モズレー)だとすると、ジャン=マリーは対照的に立ち居振る舞いや言葉遣いなどすべてが尊大で、胆汁質英語版の形質によく見られるように一触即発の癇癪を内に秘めていた。記者会見で厳しい質問に直面した時など、モズレーなら声色にわずかに苛立ちを滲ませ、さもくだらない問題であるかのように論ずる場面だが、パレストルは違った。満面に朱を注ぎ、烈火の如く怒り狂う。
大抵の場合は、訊かれたことに対する回答どころか反論でさえなく「私にそのような質問をするとは何事か」という筋のとおらない恫喝だ。凄まじい剣幕で脅し文句を並べ立てるのだが、あそこまで極端だと、本人には気の毒だが、まるで生身のカリカチュアを見ているようで面白かった。(中略)
(バレストルの会長時代に)私が彼を批判したのは、(元ナチス疑惑のようなスキャンダラスな部分ではなく)専らFISA会長としての資質や能力に関することで、とりわけその甚だしい専横が、まだ青かった私の義憤をかきたてたのだ。我こそは法と正義の守護神でござい、と居丈高に啖呵を切ったその舌の根も乾かぬうちに、自ら発布した法を平気でねじ曲げ、時に無視する、その破廉恥な独善が許せなかった。[2] — ナイジェル・ルーバック(モータースポーツジャーナリスト)
我々ドライバーは彼をとても愛していた。彼は我々のために多くのことをしてくれた。我々は彼に多大な恩義がある。[W 16] — ジャック・ラフィット(ドライバー)

「F1にイエローはいらない」

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「F1はイエローのためにやっているのではない。イエローがいなくなっても問題はないんだ」
瞬間、沈黙が流れた。バレストル会長は己の口をついた言葉に、 呆然とした表情をしていた。[17]

「F1にイエロー(黄色人種)はいらない」というこの発言は、1986年9月初めの第13戦イタリアGPに際して、バレストルが当時のホンダF1の総監督である桜井淑敏に対して放った発言とされる(桜井が著書で記している[17][18])。

この年は各カテゴリーで重大事故が相次ぎ、F1でも5月に行われた合同テストでブラバムエリオ・デ・アンジェリスが事故死した。それを機に、以前から話し合われていたターボ規制について、エンジンサプライヤーとFISAが会議を開いて熱心に議論が交わされた[19][17]。6月までに数度行われた会議では、どういった規制とするのが良いのか結論が出ず、扱いがしばらく保留されていた[19][17]。しかし、9月初め(イタリアGPの会期直前)にFISAが突如ターボ規制の内容を決定し、フェラーリをはじめとする他のサプライヤーの間ではすでに合意ができている事として、ホンダに対して一方的に通知を行った[19][17][18][注釈 21]。寝耳に水の決定であったことに加えて、メーカー間の競争の要素を失わせる内容であったことから、激怒した桜井がバレストルに説明を求めた、というのがこの発言に至る前段の経緯となる[17][18]

この会話は二人だけで行われ[注釈 22]、バレストルは最初は桜井の怒りをなだめる姿勢だったが[18]、次第に感情的になり、双方が机を叩き合う口論となった末、バレストルが「F1はイエローのためにやっているのではない」と発言したと桜井は著書で記述している[17][18]。このやり取りは第三者による引用では発言のみを切り取って、バレストルが冷たい人種差別主義者で桜井を冷淡にあしらったかのように記述されるケースが多いが、桜井本人による描写は異なっている。バレストルは、自身が思わず発してしまった「イエロー」という言葉を失言と悟って呆然とし、力なく交渉を取りやめた後、額に手を当て、深い後悔にさいなまれた様子だった[17]、と、桜井は記している[注釈 23]

バレストルが自分自身が口にした暴言によって消沈してしまったことにより、交渉は打ち切られ[23][18]、桜井はこのターボ規制見直しの相談をバーニー・エクレストン(FISA副会長)に持ち込み、バレストルから引き出したかった譲歩をFISAから引き出した[23][注釈 24]。桜井は、激したかと思えば自身の発言で落ち込むバレストルのことを良くも悪くも人間味のある人物として描写している一方、直後に面会したエクレストンのことは(人当たりは良い)現実主義者の商売人として描写し[23]、両者を対照している。

ホンダF1の広報を務めていた小倉茂徳は、バレストルは非公式な場でF1におけるホンダを「黄色い禍」と呼んでいたと述べている[24][W 20]

アイルトン・セナとの確執

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ブラジル人のセナと彼(バレストル)との確執は、根本的問題がフランス人のバレストル側だけにあったとは言い切れない。セナが自分で決めた個人的な行動に関する自分自身のルールは、その他全員と著しく異なっていたため、セナ自身を「普通の人」として扱うバレストルとの衝突は避けられない結果だったと言えよう。[8]

—ルイス・バスコンセロス(モータースポーツジャーナリスト)

バレストルは、1980年代のF1で活躍していたフランス人ドライバーであるアラン・プロストのこと気に入っており、日頃から贔屓をしていたと言われている[25][W 2]。それが影響したためか、バレストルは、1988年から1990年にかけてプロストの最大のライバルとなったアイルトン・セナとの間で数々の確執を起こした[W 2][注釈 25]

1988年シーズン後半には、プロストとセナのチャンピオン争いが白熱する中、ふたりが所属するマクラーレンが使用するエンジンを供給していた本田技研工業(ホンダ)の社長久米是志に宛てて「セナとプロストに同等のエンジンを供給するように」と要望する異例の書簡を送っている[26][27][28]

1989年シーズン(第11戦ベルギーGP)のセナ(#1)とプロスト(#2)
1989年シーズン(第11戦ベルギーGP)のセナ(#1)とプロスト(#2)

1989年もまた両者の間でタイトル争いが繰り広げられたが、シーズン後半の第12戦イタリアGPに前後して、バレストルはプロストに露骨に肩入れした発言を繰り返した[14]。レース後にも「今後4戦において、セナの優位が明らかになった場合、それは世界選手権の価値をおとしめる行為と見なさざるを得ない」と発言し、これに対して、マクラーレンとホンダは不快感を示す共同声明を出している[29]

第15戦日本GPで、プロストとセナが接触した際は、その件について介入する権限がないにもかかわらず、サーキットに居合わせたバレストルはスチュワードの裁定に介入した。このレースでセナはトップチェッカーを受けたが、失格処分となり、それによりプロストの3度目の世界タイトルが決定した。この時のバレストルの介入は不当な越権行為とみなされ[30][W 8]、非難を浴びた。

この一件について、セナの所属チームであるマクラーレンはFIAの国際控訴法廷に提訴したが、最終戦(第16戦)オーストラリアGPの5日前[31]、FIAは控訴を却下したことに加えて、審理とは全く関係のない「それまでの危険な走行」についての話を持ち出し、セナに6カ月の出場停止処分(6カ月の執行猶予付き)と10万ドルの罰金を科すという厳しい処分を追加した[32][33][34][注釈 26]。このことは当事者であるセナやマクラーレンを動揺させた。また、日本GPの失格の一件についてセナ側の主張に必ずしも賛成していなかったドライバーや関係者たちですら、それと無関係のことまで持ち出したこの厳しい処罰には一様に驚いたという[34]

シーズン終了後もバレストルは攻撃の手を緩めず、セナが10万ドルの罰金を支払い、かつ公式に謝罪することを強く要求し、それらを実行しない場合は1990年シーズンスーパーライセンスを発給しないことも表明した[35][注釈 27]。実際、1990年2月16日15時10分に発表した暫定エントリーリストでは、セナの名は記載されなかった[37]。マクラーレンやホンダによる説得で、セナは謝罪を表明し、1時間半後(16時29分)に発行された暫定エントリーリストでセナの名が掲載された[37]。この時の屈辱をセナが忘れることはなかった[37]

こうしたことが続いたことから、ホンダとセナを中心としたF1ブームが過熱していた日本では、「フランス至上主義者のバレストルがプロストを贔屓している」という類の報道もなされた。1989年の事件後、ブラジルGPにおいて、ブラジルの観客たちはバレストルに向けてナチス式敬礼で「ジーク・ハイル!」と叫んで抗議の意思表示を行った[W 3]

セナとの対立は翌年も続き、1990年日本GPでは、ポールポジションの位置の変更を願い出たセナの要求について、レースディレクターの判断に介入して却下したほか[38]、セナとプロストの接触の際も、「セナを処罰すべきだ」と裁定に介入したとされる[30]。バレストルの後任となるマックス・モズレーは、この接触についてセナを処罰すべきだったということには同意を示しつつ、レーススチュワード(審判員)の裁定に介入したことは不当な越権行為だと以下のように批判している。

ふたりがシケインで絡んだ1989年鈴鹿の一件、あれは完全にバレストルのでっち上げさ。プロストにタイトルを獲らせるためにセナを失格にしたのだ。(中略)翌1990年の鈴鹿でもバレストルは、プロストにぶつかったセナを処分すべきだ、とえらい剣幕だった。気の毒に、レースディレクターが怒鳴り散らされていたが、生憎とそれはバレストルの仕事ではない[注釈 28]。彼はいわば立法府(規則を策定する機関)の長で、司法(規則に基づいて裁定を行う機関)に関与する権限はないのだ。仮に彼の言い分が正しかったとしてもね。(1990年日本GPのセナの行為を処罰するということは)現に正しかったわけだが……[注釈 29]。ともあれ、そういう基本的なことさえ理解していなかったバレストルは、愚かとしか言いようがない。[30] — モズレー(2011年)

セナと親しかったモズレーは1989年の一件についてセナからの相談に乗っており[30]、この時のセナへの不当な対応は、モズレーに1991年末のFISA会長選挙への立候補を決断させるきっかけとなった[W 8][W 21]

当事者であるセナは、1990年の接触について翌年に以下のように告白し、バレストルによる介入と不公正な扱いへの報復だったと述べている。

あれ(1990年の接触)は『1989年の出来事』によって生じたことだ。あれは不可避だったんだ。なぜ私はアクシデントを引き起こしたか? それは、自分の仕事を公正に、適切に行おうとするたびに、いつも“体制”から邪魔されたらどうするかということだ。あれは、バレストルの影響を受けた、誤った判断が招いた結果だった。[38] — セナ(1991年日本GP中の記者会見でのコメント)

フランスの関係者との関係

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バレストルはプロストびいきではあったが、単純に地元フランス贔屓だったわけではなく、同国の関係者でも意にそぐわぬ相手には強硬な態度をとった。

F1において、フランス国籍のコンストラクター(車両製造者)として参戦していたラルースについて、コンストラクターとして認めないという決定を1991年シーズンの開幕直前に表明し、前年のコンストラクターズポイントを剝奪した[41](所属ドライバーたちの獲得ポイントはそのまま)。バレストルはこの件について、「コンストラクター」の定義を厳格化したためで、自製ではなくローラ製の車体を使っていたラルースを除外したのはやむを得なかったと弁明している[41]

フランスの自動車メーカーであるプジョーとは不仲なことで知られ[42]、ラリーでは、プジョー・スポールの監督だったジャン・トッドと対立し[W 4]ラリー・モンテカルロ開催を巡ってやり合い、グループBのレギュレーション改正でプジョーが締め出された時には訴訟沙汰になった[W 3][注釈 30]1988年のパリ-ダカール・ラリー英語版アリ・バタネンプジョー・405が盗難に遭い、FISAによる失格裁定が下された時にも裁定を巡って両者は対立している[注釈 31]

スポーツカーレースにおいては、ル・マン24時間レースのテレビ放映権をめぐり主催者のフランス西部自動車クラブ(ACO)と対立し[44]、伝統のイベントがFIAの世界選手権から数年間に渡って外れることになった。

役職

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※年は就任年。

栄典

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関連項目

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2010年公開。アイルトン・セナのドキュメンタリー映画。
当時のアーカイブ映像を中心に構成されており、FISA会長だった当時のバレストルが登場し、傲岸不遜さを露わにする様子が取り上げられているほか、セナとの確執にも焦点が当てられる。

脚注

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注釈

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  1. ^ 左翼系出版物のジャーナリストとして数年間働いていたとも言われている[W 2]
  2. ^ エルサンは、1940年にフランスがナチス・ドイツに占拠された後、傀儡政権であるヴィシー政権の支持者となり、1942年3月にナチス・ドイツの宣伝機関からの許可を得て親ナチスの新聞「若き力(Jeune front)」の発行を始めたという前歴を持つ人物[5]。「戦時中はレジスタンスだった」というバレストルの話が事実であれば、エルサンとのこの紐帯は皮肉だと指摘されている[W 3](ただし、『ル・オート・ジュルナル』を共に立ち上げることになるパリノも{エルサンと異なり}レジスタンス出身という前歴を持つ)。
  3. ^ 似た名前だが、バレストルが戦前に働いていた『ル・オートフランス語版』(1944年で廃刊)とは異なる。エルサンの事業はソクプレス英語版に発展。
  4. ^ レーシングカートは1950年代後半に米国で発明されたもので、当時は発明されてからまだ間もない。
  5. ^ 当時のCSIの会長で、バレストルの前任者であるピエール・ウグー英語版の本業は実業家で、その経営で多忙だったこともあり、CSIに専念できる立場ではなかった[W 8]
  6. ^ これはFOCAとの主導権争いという側面もあり[10]、コンストラクターの中でも、この時点でフェラーリエンツォ・フェラーリ)はバレストルによる強権発動にたびたび不満を表明した。
  7. ^ 具体的には、車体の底面を平面とすることを義務化し、車体側面のスカート(上掲画像の紫色の突出部分)を禁止した[9]。1980年の例からFOCAとの再度の対立が懸念されたが[9]、エクレストンとの間で手打ちが行われていたため、問題にはならなかった。
  8. ^ 1985年の導入当初は車体前方のみに実施し、後に燃料タンクであるとか、他の部分へと拡大していった。
  9. ^ AS461_52
  10. ^ F1におけるターボ禁止は、1986年10月の新レギュレーション発表時に確定事項として発表[注釈 9]1989年日本GPにおいて、両方のカテゴリーで今後10年間は3.5リッター自然吸気エンジンで行うと宣言[12]
  11. ^ なお、デ・アンジェリスの事故そのものは高速コーナー走行時にリアウィングが脱落したことと、救助が遅れたことによるもので[13]、ターボエンジンとは関係ない。
  12. ^ テスト時の救護体制をレース時と同じにするという目標が掲げられたが、この点は2000年代に入ってもレースの時と比べて不十分だと言われている[W 13]
  13. ^ サルト・サーキットのミュルサンヌストレート(ユノディエール)には、長さ約6 kmの直線区間を短縮するため、1990年に2つのシケインが設置された[8]。この時も大きな論議を呼び、バレストルは反対派と衝突を繰り広げた[8]。国際レースで使われることがなくなっているニュルブルクリンク・北コースについては、長さ約2 kmのドッティンガー・フーエが2020年代の現在も残っている。
  14. ^ デ・アンジェリスの事故は、ポール・リカール・サーキットの長さ1.8 kmだった当時のミストラルストレートのストレートエンドで起きたものだったため。この事故以降、2002年にテストサーキット(HTTT)としてレイアウトが改修されるまでの期間、同サーキットでのレースはミストラルストレートの長さを約1 kmにまで短縮したショートコースで開催されるようになった。
  15. ^ FISAとなってから最初の会長選挙は1981年に行われ、この時は他の候補もいた。4年任期で、1985年の次に1987年に会長選挙が行われたのは、前年からの心臓疾患により、バレストルが一度辞任の意向を示したことによる(回復したため自ら出馬して再選した)。
  16. ^ 厳密には、モズレーが問題となる会を開いたのは3月28日で、それが明るみに出たのは3月30日で、バレストルの命日とは異なる。
  17. ^ ただし、モズレーがFIA会長に就任した当初にF1で打ち出した「ハイテク禁止」(電子制御された装置類の多くを使用禁止にした)により、1994年シーズンは開幕前から重大事故が相次ぎ、1994年サンマリノグランプリではローランド・ラッツェンバーガーアイルトン・セナの死亡事故が起きるに至っている。モズレーが打ち出した安全対策として知られる施策(クラッシュテスト要件の厳格化、コクピット周辺の安全対策の強化、HANSの義務化、など)は、その事故以降に行われたものとなる。
  18. ^ 前段で憂慮していた中東での開催拡大やフランスGPの消滅は、バレストル死後の2009年以降に現実のものとなっていった。
  19. ^ F1以外の選手権についても、FISAによるプロモーションはエクレストンが担当していた[6]
  20. ^ 日本ではホンダF1との対立が知られているが、バレストルが最も怒らせた相手はフェラーリだと言われている[W 4]。自国のプジョージャン・トッド)とも険悪な関係になっている(→#フランスの関係者との関係)。
  21. ^ この時のレギュレーション改正(10月3日に発表)について、8月以前に話し合いは何度も行われていたものの、コンストラクター(チーム)やサプライヤーが各個の利害に基づいた主張を展開したため、全会一致を見ることはなく、FISAが強権的に最終案をまとめている[11]。10月3日にこの新規則(桜井が要望した燃料タンクの容量規制を含む)を発表した際にも、バレストルは「一切の批判を封じる」という強硬な発言を全関係者に向けてしている[11]
  22. ^ イタリアGPで、レギュレーションについての「会合」[W 17]、「コンストラクター会議」[20][W 18]が行われた際の出来事として説明されることがあるが、他のメーカーを交えた会議などが行われたわけではなく、モンツァ・サーキットに着いた桜井がFISAの事務総局へ赴き、バレストルと直談判している[17]
  23. ^ このやり取りについて、第三者の引用では「黄色い猿の自由にはさせないと怒鳴られた」[W 19]であるとか、意図して「屈辱的な言葉を浴びせた」[W 17]といった形で記述されることがある。当事者である桜井は、競争性を奪うレギュレーション変更にはその後も怒りが収まらなかったと記しているが[21]、「イエロー」という発言そのものには、「差別的発言をして僕を屈服させようとした」としつつ[22]、その発言を起点として、そう発言したバレストルの心理と背景や、F1文化についての考察を複数の著書で行っている。
  24. ^ 桜井はエクレストンが出した「エンジン供給先を増やす」という条件を飲むことと引き換えに、燃料タンクの容量規制は残させ、燃費性能で競争する余地を残させた[23](このことは1988年のマクラーレン・ホンダの圧勝につながることになる)。エクレストンが出した条件について、桜井はホンダエンジンの供給チームを増やすことはしなかったが、ホンダと関係が深かったエンジンビルダーのジョン・ジャッドジャッド)をF1に引き込む腹案があったため、独断で即決し、エクレストンとの交渉をまとめた[23]
  25. ^ この点は、バレストルが人種差別主義者、ヨーロッパ至上主義者であることからの差別だとする見解もある[W 20]
  26. ^ この年、ポルトガルGPで黒旗無視(本人は見えなかったと主張)をした挙句にセナと接触してリタイアに追いやったナイジェル・マンセルに罰金5万ドル(とスペインGPの出場停止)が科された例があるが、セナへの罰金は1ドライバーに対する罰金としてはこの時点でモータースポーツ史上最高額だったと考えられている[32]
  27. ^ バレストルがスーパーライセンスの発給権を盾にしてドライバーを脅迫するのはこの時が初めてではなく、1980年代からF1ドライバーたちと対立した時にこの権限の行使をほのめかすことがあった[36]
  28. ^ 1989年と異なり、1990年の日本GPでバレストルは現地には行っておらず、パリのFIA本部にいた[39][40](そのためモズレーのこの話は現地で起きた出来事ではないことになる)。バレストルは1990年の日本GP後に声明を出しており、その中で、レースディレクターから「セナを失格にできる要素は何もない」という報告を電話で受けたことを述べている(そのことへの感想は述べていない)[40]
  29. ^ この時はセナにペナルティは科されていない。翌年に本人の告白によって判明するまで、故意に起こした事故なのかはわからなかったため。
  30. ^ この裁判で、裁判所はFISAがレギュレーションを変更する強い権限を有しているということを認め、プジョーの訴えを退けた[W 3]。結果として、スポーツ統括機関としてのFISAの権威はさらに強化された[W 3]
  31. ^ バタネンはこの時点で1位だったが、車が盗難にあったことで「スタートに30分遅れたら失格」という規定に抵触して、失格処分となった[43]。車は予定のスタート時刻から3時間以上経ってから発見され、プジョーチームは盗難という「不可抗力」による遅れであると主張し、再出走させようとしたが、FISAは改めて失格の裁定を下した[43]。この件について、バレストルは「盗難であっても例外にはならない」とコメントしている[43]
  32. ^ 1976年に辞任[W 8]

出典

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出版物
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参考資料

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書籍
  • 海老沢泰久『F1地上の夢』朝日新聞社、1987年2月。ASIN 4022556552ISBN 4-02-255655-2NCID BN01615152NDLJP:12441307 
  • 桜井淑敏『ゼロからの挑戦 ──私は、いかにしてF1で世界を制したか』祥伝社〈先見サラリーマン・シリーズ(8)〉、1989年11月10日。ASIN 4396610238ISBN 4-396-61023-8NCID BN05609060 
  • Lionel Froissart (1990). Ayrton Senna : Trajectoire d'un enfant gâté. Editions Glénat. ASIN 2723413020. ISBN 978-2723413022 
  • 桜井淑敏(著者)、福田和也(文・構成)『世界との対決 ──F1の頂点で見たもの』PHP研究所、1995年2月10日。ASIN 4569541593ISBN 4-569-54159-3NCID BN12537516 
  • 桜井淑敏『本田宗一郎、セナと私の闘うことと愛すること』青春出版社、1995年5月1日。ASIN 4413016351ISBN 4-413-01635-1 
  • Terry Lovell (2008). Bernie Ecclestone - King of Sport. John Blake. ASIN B00AHGEY7C. ISBN 978-1844546237 
  • Malcolm Folley (2009-05-07). Senna Versus Prost. Century. ASIN 1846055407. ISBN 978-1846055409 
    • マルコム・フォーリー(著)、五十嵐哲(翻訳)『セナvsプロスト 史上最速の“悪魔”は誰を愛したのか!?』三栄書房、2010年7月3日。ASIN 4779609798ISBN 978-4-7796-0979-4NCID BB03122504 
  • 野口義修『F1ビジネス戦記 ホンダ「最強」時代の真実』集英社、2015年6月20日。ASIN 408720779XISBN 4-08-720779-XNCID BB18274594 
雑誌 / ムック

外部リンク

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