コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

オレリ川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オレリ川の戦い
1184年
場所オレリ川
結果 ルーシの勝利
衝突した勢力
キエフ公国ペレヤスラヴリ公国 ポロヴェツ族
指揮官
スヴャトスラフ
リューリク
ウラジーミル
コビャーク

オレリ川の戦いロシア語: Битва на реке Орели)は、1184年7月30日に[1]オレリ川(現ウクライナ・オリリ川(ru))において、ルーシ諸公国軍とポロヴェツ族軍との間で行われた戦いである。キエフ大公スヴャトスラフの指揮するルーシ連合軍が、コビャーク率いるポロヴェツ連合軍に勝利した。

日時

[編集]

キエフ年代記は戦いを6691年(西暦1183年)、ラヴレンチー年代記は6693年(1185年)の出来事と記している。ただし、帝政ロシアからソ連にかけての歴史学者ニコライ・ベレジコフ(ru)の分析によれば[2]、オレリ川の戦いは1184年の出来事であるとされている。すなわち、キエフ年代記では、オレリ川の戦い前のコンチャークによるルーシ侵攻を6691年の2月、またコンチャークが敗れたホロル川の戦い(ru)を6692年の3月1日としていることから、オレリ川の戦いは6693年(1184年)の出来事であるとしている。

経緯

[編集]

キエフ大公スヴャトスラフとその同盟者であるリューリクは、キエフ公国軍、ペレヤスラヴリ公国軍、ヴォルィーニ公国軍(ルーツク公が参戦)、トゥーロフ公国軍(ピンスク公ドゥブロヴィツァ公ペレソプニツァ公が参戦)、ガーリチ公国軍(ガーリチ公ヤロスラフが軍を派遣)、チョールヌィ・クロブキ軍等からなる軍勢を率いて出撃した。ドニエプル川下流域を目指すスヴャトスラフに対し、スヴャトスラフの属するチェルニゴフ・オレグ家(ru)の諸公(チェルニゴフ公ヤロスラフ:スヴャトスラフ弟、ノヴゴロド・セヴェルスキー公イーゴリトルブチェフスク公フセヴォロド[3])は自領防衛を名目に出兵せず、ペレヤスラヴリ近郊(ドニエプル川中流域)であれば、スーラ川まで兵を出すと提案した。スヴャトスラフはこの提案を受けず、ドニエプル川を南下した。スヴャトスラフはオレリ川河口付近(場所は推定)で渡河し、陣を張った[4]。前衛にはペレヤスラヴリ公ウラジーミル、スヴャトスラフの子グレプムスチスラフ兄弟、リューリクの甥ムスチスラフらが配された[5]。ルーシ軍の進軍をみたポロヴェツ軍は一時撤退し、ルーシ軍とコビャーク率いるポロヴェツ軍はオレリ川をはさんでしばらく射撃戦を行った[6]。しかしスヴャトスラフ、リューリクが援軍を向かわせるとポロヴェツ軍は撤退した。ルーシ軍はこれを追撃し、大きな戦果を挙げた。コビャークをはじめポロヴェツの長の多くが捕縛され、あるいは殺害された[4]

参戦した人物

[編集]

イパーチー年代記には、以下の人物が参戦したことが記されている。

出典

[編集]
  1. ^ 中澤.吉田.藤田 2018, p. 198.
  2. ^ Бережков(1963)p87
  3. ^ 中澤.吉田.藤田 2018, p. 194.
  4. ^ a b c Плетнёва(1990)
  5. ^ 中澤.吉田.藤田 2018, p. 195.
  6. ^ 中澤.吉田.藤田 2018, p. 196.
  7. ^ 中澤.吉田.藤田 2018, p. 257.
  8. ^ 木村 1983, p. 60.

参考文献

[編集]
  • Бережков Н. Г. Хронология русского летописания. М. 1963.
  • Плетнёва С.А. Половцы М. 1990.
  • 中澤敦夫, 吉田俊則, 藤田英実香「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(8) : 『キエフ年代記集成』(1181〜1195年)」『富山大学人文学部紀要』第68巻、富山大学人文学部、2018年2月、181-279頁、CRID 1390572174764448768doi:10.15099/00018264hdl:10110/00018264ISSN 03865975 
  • 木村彰一『イーゴリ遠征物語』岩波書店〈岩波文庫〉、1983年。ISBN 4003260112NCID BN00402247