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オソルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

オソルクあるいはオサルク(ロシア語: Осолук、生没年不明)はポロヴェツ族長の一人である。ブルチェヴィチ族(ドニエプル川左岸を本拠地とする一派[1])に属した。オソルクという名は、テュルク系言語のosuluq(遠慮がちな、思慮深い、の意)によるとする説がある[2]

1183年、他の族長らと共にオレリ川の戦いに参加し、キエフ・ルーシ諸公国軍と戦うが、敗北し捕虜となった[1]

1193年、キエフ大公スヴャトスラフと、共同統治者のオーヴルチ公リューリクが、前年から戦闘状態にあったポロヴェツ族と協議するための使者を発した。リューリクの呼び寄せたトグリイ、アクーシ(ru)カネフキエフの南、ドニエプル川右岸)まで来たが、スヴャトスラフの使者を受けたオソルク、イザイ(ru)キエフの対岸(ドニエプル川左岸)でとどまり、要件があるならばそちらが渡河してくるよう要求した[3]。スヴャトスラフはこれに応じなかったため、オソルク、イザイらはその場から立ち去った。このため、トグリイ、アクーシらルコモリエのポロヴェツ族、またリューリクは休戦を望んでいたが、和議は成立しなかった[3]

以降のオソルクの動向については不明である。

出典

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  1. ^ a b 中澤ほか 2018, p. 197.
  2. ^ Баскаков Н. А. Тюркская лексика в «Слове о полку Игореве». — М.: Наука, 1985. — С. 76.
  3. ^ a b 中澤ほか 2018, p. 258.

参考文献

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  • 中澤敦夫, 吉田俊則, 藤田英実香「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(8) : 『キエフ年代記集成』(1181〜1195年)」『富山大学人文学部紀要』第68巻、富山大学人文学部、2018年2月、181-279頁、CRID 1390572174764448768doi:10.15099/00018264hdl:10110/00018264ISSN 03865975