ポルコステニの戦い
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ポルコステニの戦い | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
ペレヤスラヴリ公国 | ポロヴェツ族 | ||||||
指揮官 | |||||||
ヤロポルク | 不明 |
ポルコステニの戦い(ロシア語: Битва у Полкостеня)は、1125年6月に行われた、ポロヴェツ族軍とペレヤスラヴリ公国軍との戦いである。戦闘の結果、ペレヤスラヴリ公ヤロポルクのドルジーナ(近衛兵)隊が、ポロヴェヅ軍を打ち破った。
戦闘は、ペレヤスラヴリ公国領の都市ポルコステニ(ru)(現存せず。現ウクライナポルタヴァ州ポウスティン(ru)に遺構が残る。)付近で行われた。戦いの発端は、同年5月にキエフ大公ウラジーミル・モノマフが死亡しているが[1]、ポロヴェツ族がこの死を知り、軍を起こしたことによる[2]。ポロヴェツ軍は、まずバルーチ(現ウクライナキエフ州バルィシウカ(ru))を急襲した。報を受けたペレヤスラヴリ公ヤロポルクは、バルーチ等の諸都市に部下を派遣し、守備を固めさせた[3]。この動きを見たポロヴェツ軍はポスリエ(ru)(現スラー川沿岸)へと目標を変えた。ペレヤスラヴリ公ヤロポルクは、キエフ公国、チェルニゴフ公国等の近隣公国からの援軍をまたず、自身のペレヤスラヴリ公国軍のみを率いて追撃した[3]。キエフ年代記によれば(ラヴレンチー年代記には兵数に関する記述はない[4]。)、兵数で勝るポロヴェツ軍は隊列を整え迎え撃ったが、ヤロポルクとそのドルジーナ隊が果敢に戦い、勝利を収めた[4]。
この戦いは、ペレヤスラヴリ軍単独でポロヴェツ軍を打ち破った数少ない例の1つとなった。
出典
[編集]参考文献
[編集]- Літопис руський / Пер. з давньорус. Л. Є. Махновця; Відп. ред. О. В. Мишанич. — К.: Дніпро, 1989.
- 中澤敦夫, 藤田英実香「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(2) : 『キエフ年代記集成』(1118~1146年)」『富山大学人文学部紀要』第62巻、富山大学人文学部、2015年2月、287-353頁、CRID 1390290699783145728、doi:10.15099/00000305、hdl:10110/13459、ISSN 03865975。