オレグ・スヴャトスラヴィチ (ノヴゴロド・セヴェルスキー公)
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オレグ・スヴャトスラヴィチ Олег Святославич | |
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プチヴリ公 クルスク公 ノヴゴロド・セヴェルスキー公 | |
在位 |
プチヴリ公:1157年 - 1159年 クルスク公:1159年 - 1164年 ノヴゴロド・セヴェルスキー公:1164年 - 1180年 |
出生 |
1137年頃 |
死去 |
1180年1月18日 |
配偶者 | ユーリー・ドルゴルーキーの娘 |
アガフィヤ・ロスチスラヴナ | |
アンドレイ・ドブルィーの娘 | |
子女 | スヴャトスラフ |
家名 | リューリク家 |
父親 | スヴャトスラフ・オリゴヴィチ |
オレグ・スヴャトスラヴィチ(ロシア語: Олег Святославич、1137年頃 - 1180年1月18日)は、スヴャトスラフ・オリゴヴィチの子である。プチヴリ公:1157年 - 1159年、クルスク公:1159年 - 1164年、ノヴゴロド・セヴェルスキー公:1164年 - 1180年。
生涯
[編集]オレグの誕生は1137年頃と推定される[1]。1146年から1154年にかけてのルーシ内戦では、父と共にロストフ・スーズダリ公ユーリー(ユーリー・ドルゴルーキー)、ガーリチ公ウラジーミルらの陣営につき、スモレンスク公国・ヴォルィーニ公国・チェルニゴフ公国の諸公らと戦った。1164年に父のスヴャトスラフ(死亡時にはチェルニゴフ公)が没した後、オレグは当時の継承法(ru)に反して、従兄弟のヤロスラフの持つノヴゴロド・セヴェルスキー公位を奪い取った。ゆえにヤロスラフの兄弟のスヴャトスラフによって、チェルニゴフ公位を奪われた。オレグ自身が死亡する1180年までの間、このスヴャトスラフ、ヤロスラフらと所領をめぐって戦った。また、1169年には、キエフを攻め落としたウラジーミル大公アンドレイ(アンドレイ・ボゴリュブスキー)の軍にも参加している。
妻子
[編集]子にはスヴャトスラフ、妻には以下の人物がいる。
- 1人目の妻:ユーリー・ドルゴルーキーの娘。1150年結婚。
- 2人目の妻:ロスチスラフ・ムスチスラヴィチの娘のアガフィヤ。1166年結婚。
- 3人目の妻:アンドレイ・ドブルィーの娘[2]。
出典
[編集]- ^ Войтович Л. Ольговичі. Чернігівські і Сіверські князі // Князівські династії Східної Європи.
- ^ Пчелов Е.В., Рюриковичи. История династии. М.: ОЛМА-ПРЕСС, 2001. С. 152
参考文献
[編集]- Войтович Л. Ольговичі. Чернігівські і Сіверські князі // Князівські династії Східної Європи (кінець IX — початок XVI ст.): склад, суспільна і політична роль. Історико-генеалогічне дослідження. — Львів: Інститут українознавства ім. І.Крип’якевича, 2000.
- Раздорский А. И. Князья, наместники и воеводы Курского края XI-XVIII вв. — Курск: Регион-Пресс, 2004.