オットカール2世 (シュタイアーマルク辺境伯)
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オットカール2世 Ottokar II. | |
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シュタイアーマルク辺境伯 | |
オットカール2世の墓(ガルシュテン参事会教会) | |
在位 | 1082年 - 1122年 |
死去 |
1122年11月28日 |
配偶者 | エリーザベト・フォン・エスターライヒ |
子女 |
レオポルト クニグンデ ヴィリビルク |
家名 | オタカール家(トラウンガウ家) |
父親 | シュタイアーマルク辺境伯オットカール1世 |
母親 | ヴィリビルク・フォン・エッペンシュタイン |
オットカール2世(ドイツ語:Ottokar II., ? - 1122年11月28日)またはオタカール2世(Otakar II.)は、トラウンガウおよびキームガウ伯、シュタイアーマルク辺境伯(在位:1082年 - 1122年)。
生涯
[編集]オットカール2世はシュタイアーマルク辺境伯オットカール1世とヴィリビルク・フォン・エッペンシュタインの息子である。オーストリア辺境伯レオポルト2世の娘エリーザベトと結婚した。叙任権闘争において教皇派であったオットカール2世は、1182年に皇帝派であった兄アダルベロに勝利した後、シュタイアーマルク辺境伯位を継承した。
1080年にオットカール2世はガルシュテン修道院を創建した。
1122年にケルンテン公であったエッペンシュタイン家が断絶し、同家が保持していたシュタイアーマルクの領地は姻戚関係にあったオタカール家が継承し、これにより辺境伯領内におけるオタカール家の立場は強化された。1122年にシュタイアー辺境伯領はケルンテン公領から切り離され、帝国直下に置かれた。
子女
[編集]オーストリア辺境伯レオポルト2世の娘エリーザベトとの間に以下の子女をもうけた。
- レオポルト(1129年没) - シュタイアーマルク辺境伯(1122年 - 1129年)
- クニグンデ(1161年没) - トリクセン伯ベルンハルト・フォン・シュポンハイム(ケルンテン公ハインリヒ4世の弟、1147年没)と結婚
- ヴィリビルク(1145年没) - フォルムバッハ=ピッテン伯エクベルト2世(1144年没)と結婚
参考文献
[編集]- Heinz Dopsch, Karl Brunner, Maximilian Weltin: 1122–1278. Die Länder und das Reich. Der Ostalpenraum im Hochmittelalter (= Herwig Wolfram (ed.): Österreichische Geschichte). Ueberreuter, Wien 2003, ISBN 3-8000-3973-7.
- Karl Brunner: 907–1156. Herzogtümer und Marken. Vom Ungarnsturm bis ins 12. Jahrhundert (= Herwig Wolfram (ed.): Österreichische Geschichte.). Ueberreuter, Wien 1994, ISBN 3-8000-3521-9.
- Hans Pirchegger: Geschichte der Steiermark. Band 1: Bis 1283. (= Allgemeine Staatengeschichte. Abt. 3: Deutsche Landesgeschichten. Werk 12, 1). Pertes, Gotha 1920.
- Franz Xaver Pritz: Geschichte der steirischen Ottokare und ihrer Vorfahren, bis zum Aussterben dieses Stammes im Jahre 1192. In: Beiträge zur Landeskunde von Oesterreich ob der Enns. 5, 1846, ZDB-ID 133400-1, S. 121–365, hier S. 261 ff.
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