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西村徳文

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西村 徳文
千葉ロッテマリーンズ 監督 #78
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮崎県串間市
生年月日 (1960-01-09) 1960年1月9日(64歳)
身長
体重
177 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 二塁手三塁手外野手
プロ入り 1981年 ドラフト5位
初出場 1982年9月14日
最終出場 1997年10月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

  • 千葉ロッテマリーンズ (1998 - )

西村 徳文(にしむら のりふみ、1960年1月9日 - )は、宮崎県串間市出身の元プロ野球選手内野手外野手)。愛称は「走る将軍」。

現在は千葉ロッテマリーンズの監督を務める。

経歴

プロ入り前

幼少期は、地元の方言で「おちゃかろ」と言われるいたずら好きな子供だった[1]。通っていた串間市立有明小学校には野球部がなかったが兄とキャッチボールをして遊び、串間市立福島中学校に進学してから本格的に野球を始めている。中学まではそれほど俊足ではなかったが、走り幅跳びでは裸足で6m以上跳ぶほどだった[2]

中学3年時には県大会で優勝し、宮崎県立福島高等学校に進むと1年時からベンチ入りして走力などを高く評価されていた[3]。しかし練習の厳しさやオートバイへの憧れから、1年生の秋には一時退部もしている。1976年の夏には全国高校選手権に2年生で1番遊撃手として出場したが、初戦で高田商に敗れ、自身も無安打だった。

高校卒業後は安定した就職先として国鉄に入社し[3]鹿児島鉄道管理局野球部で野球を続けた。業務と野球の両立に悩んでいたが、入社3年目の1980年スカウトが視察に来たのを契機にプロ入りを目指すようになった。1981年ドラフト会議ロッテヤクルト南海の3球団から5位指名を受け、ロッテに入団した。なお、串間市出身のプロ野球選手は水谷実雄に続き2人目だった[2]

プロ入り後

入団1年目の9月には代走での出場を果たしたが、その秋に山本一義監督や飯塚佳寛コーチから、俊足をさらに活かすため右打者からスイッチヒッターへの転向を勧められた[4]秋季キャンプから川崎球場そばのホテルに高畠康真打撃コーチと泊まり込み、早朝や深夜もマンツーマンで猛練習に取り組んだ結果、翌年4月には左打席でプロ入り初安打を記録し、5月には初スタメンと急成長を遂げた[5]

3年目の1984年には規定打席に到達し、以降は俊足巧打のプレーヤーとして一軍に定着した。1985年には初タイトルのベストナインゴールデングラブ賞二塁手)を獲得し、オフには結婚している。また社会人時代は数試合に1回程度だった[6]盗塁が激増して、1986年から1989年にかけては4年連続で盗塁王を獲得。福本豊の9年、広瀬叔功の5年連続に次ぐ第3位。

一方でこの頃はケガなどにも苦しみ、1987年から1988年にかけては二塁手の他に三塁手も経験した[6]。右手首骨折で開幕から32試合を欠場した1989年には、水上善雄上川誠二森田芳彦ら内野陣が好調だったため中堅手にコンバートされ[6]、以後は外野手を本職とした。

1990年には3月21日オープン戦右太もも肉離れ5月17日の公式戦では左足首捻挫など負傷が続いて盗塁が減ったが、秋山幸二に盗塁数を大きく引き離されて開き直った事や打撃フォーム改造などにより[7]打撃は好調を維持し、打率.338で首位打者に輝いた。この年には中堅手としてベストナインとゴールデングラブ賞を獲得しており、スイッチヒッターとしての首位打者と内外野両方でのゴールデングラブ賞はパリーグ唯一の記録である[8]

1994年以降は出場機会が減少して行き、1997年に引退した。

現役引退後

引退後はロッテの一軍外野守備走塁コーチに就任、三塁コーチを務めた。前任の監督だったボビー・バレンタインが最も信頼するコーチで、選手とのパイプ役として貢献しており、帰国の際は代理監督を任されていた。人望に優れ選手の信頼も厚く、2009年10月8日、同年シーズン限りで退任するバレンタインの後任として2010年シーズンより監督に就任決定。生え抜き選手の監督就任は八木沢荘六以来16年ぶりとなる。背番号はコーチ時代と同じ78を引き続き着用する。

プレイスタイル

打撃

プロ入り後のスイッチヒッター転向の際には、朝起きると指が痛くて開かないほど素振りやティーバッティングを重ねて左打ちを習得した[4]。利き腕である右の方が腕力が強いため、左打ちで下からバットが出てポップフライが出やすく、後にこれを防ぐために右手と左手を約2cm離してバットを押し出すなどの工夫を重ねている[7]。こうした努力もあって左打席に入る事で内野安打を増やし、プロで通用する打撃を確立した[8]

なお右と左では好不調に差があり、どちらも好調を維持したのは1985年1990年の2年ぐらいだったという[8]。また毎年キャンプ入り直後は左打ちがスムーズに行なえなくなっており、スイッチ維持のためには人一倍の練習が要求された[8]

走塁

4年連続の盗塁王や通算363盗塁を記録するなど、特に盗塁に関してプロ野球史上有数の記録を残した。本人が盗塁で最重要視したのはスタートで、平行にした右足を少し後に下げてつま先をやや開いた状態から、低重心で左足を右足に交錯させて一気にトップスピードに上げていた[9]。この際に交錯が大きすぎるとバランスが崩れ、小さすぎると加速が不十分だったという。

技術に関しては球団から渡されたビデオテープを基に独学し、盗塁王を獲得してからは盗塁の判断を基本的に任されていた[6]投手牽制球の他、捕手の配球についてもクセを研究し、リードを広げて変化球の時に走る事を目指した[4]。なお、スタートを失敗した際でも帰塁できるようになった事で盗塁数が大きく増加している[9]

スパイクについては1988年頃まで「こだわりがない」とコメントしていたが[6]、チーム契約と異なる用具メーカーの製品を使い、1986年から改良を重ねてきた。そして1989年からは当時の平均である260gよりもかなり軽い200gのものを使用し、刃は16mmのものに加えて軟らかいグラウンド用に19mmの長い刃も用意していた[4]

その他

自身のレギュラーを奪取した諸積兼司や、同郷の黒木知宏には特に慕われている。

現役時代は数々のタイトルを獲得しており、当時を代表する名選手であったが、当時のパ・リーグは人気低迷期であり、チーム成績も芳しくなかったため知名度が低く、その影の薄さが漫画のネタにもなった。木梨憲武に似てる事や自身の名前と相まって、当時流行していたノリダーという愛称がついていた。

2010年オープン戦よりロッテが勝利すると現役時代の応援歌に合わせてファンが外野席で西村ダンスと呼ばれるダンスをしている。千葉マリンスタジアムの場合はスピーカーから音が流れる。開幕以降は新しく歌詞が付いた。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1982 ロッテ 6 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1983 95 211 195 26 47 4 2 2 61 12 12 8 9 0 4 0 3 26 4 .241 .267 .313 .580
1984 124 406 368 46 105 17 3 5 143 29 25 13 19 1 11 0 7 23 5 .285 .318 .389 .707
1985 127 569 512 83 159 17 9 6 212 46 33 15 14 5 30 1 8 46 4 .311 .355 .414 .769
1986 105 445 387 71 110 10 1 4 134 29 36 9 18 2 32 1 6 45 1 .284 .347 .346 .693
1987 114 491 440 55 116 11 4 2 141 27 41 14 18 2 29 0 2 49 4 .264 .311 .320 .631
1988 130 593 532 68 136 15 0 3 160 38 55 7 16 2 40 0 3 55 5 .256 .310 .301 .611
1989 96 443 392 61 110 10 5 2 136 17 42 12 8 0 37 1 6 34 2 .281 .352 .347 .699
1990 117 520 438 78 148 27 5 3 194 38 35 8 18 2 59 1 3 40 7 .338 .418 .443 .861
1991 118 503 443 57 122 14 2 2 146 17 23 6 13 1 43 6 3 31 2 .275 .343 .330 .673
1992 97 394 348 34 75 11 6 1 101 27 14 2 11 1 34 0 0 36 3 .216 .285 .290 .575
1993 103 404 352 43 88 10 6 1 113 28 21 7 12 3 37 1 0 43 4 .250 .319 .321 .640
1994 75 215 194 27 48 7 0 2 61 11 15 3 4 1 14 0 2 20 0 .247 .303 .314 .617
1995 91 191 150 31 32 4 0 0 36 7 7 3 14 0 27 0 0 21 2 .213 .333 .240 .573
1996 34 31 25 9 2 0 0 0 2 0 4 0 0 0 6 0 0 2 0 .080 .258 .080 .338
1997 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
通算:16年 1433 5417 4777 691 1298 157 43 33 1640 326 363 107 174 20 403 11 43 471 43 .272 .333 .343 .676
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

  • 32 (1982年 - 1986年)
  • 3 (1987年 - 1997年)
  • 78 (1998年 - )

タイトル・表彰

関連項目

参考文献

  1. ^ 週刊ベースボール、1990年6月11日号、P.30
  2. ^ a b 週刊ベースボール、1990年6月11日号、P.31
  3. ^ a b 週刊ベースボール、1990年6月11日号、P.32
  4. ^ a b c d 週刊ベースボール、1990年6月11日号、P.33
  5. ^ 週刊ベースボール、1999年7月19日号、P.26
  6. ^ a b c d e 週刊ベースボール、1989年10月2日号、P.140
  7. ^ a b 週刊ベースボール、1990年8月27日号、P.32
  8. ^ a b c d 週刊ベースボール、1999年7月19日号、P.27
  9. ^ a b 週刊ベースボール、1988年12月26日号、P.36

外部リンク

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