柄谷行人
生誕 | 1941年8月6日 |
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地域 | 日本の哲学者 |
研究分野 | 文芸評論 |
主な概念 | 構造主義・ポスト構造主義・価値形態論の再吟味 |
文学 |
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ポータル |
各国の文学 記事総覧 出版社・文芸雑誌 文学賞 |
作家 |
詩人・小説家 その他作家 |
柄谷 行人(からたに こうじん、1941年8月6日 - )は、日本の文芸評論家、思想家。本名は、柄谷 善男(よしお)。兵庫県尼崎市出身。
筆名は夏目漱石の小説『行人』にちなむ、と一般に言われるが、本人は、否定。トイレで「kojin」という語感と響きから偶然に思いついたという。[1]
「国家」「資本」「ネーション」とは区別されるものとして、「アソシエーション」という言葉を、近年では強調している。それにもとづき、2000年6月にはNAM(New Associationist Movement)を立ち上げる(2003年1月解散)。
2003年にMIT出版から『Transcritique on Kant and Marx』[9]を刊行。
2004年に岩波書店から定本柄谷行人集(全5巻)[10]を刊行。英語やその他の言語に翻訳された著作・論文のみを選定し、今までの仕事を「定本」としてまとめた。
2006年に岩波新書から『世界共和国へ』[11]を出版。なお「世界共和国」という言葉はカントの『永遠平和のために』(1795)からとられている。
2007年10月アメリカスタンフォード大学での講演をYouTube[12]で見ることができる。
経歴
1960 - 70年代
1969年、夏目漱石を主題とした「意識と自然」で第12回群像新人文学賞評論部門を受賞。[2]。文芸批評家としてのキャリアをスタートさせる。当時20歳で無名のすが秀実はデビュー前から柄谷のことを知っており(60年安保全学連のアクティビスト〔当時最年少〕としてであろう・柄谷は西部邁とよく全共闘を見物に行ったという)、文芸評論家としてデビューするなんて、変な人だな、と思ったという。20代の柄谷は、吉本隆明の影響を強く受け[3]、学生のころはわざわざ吉本の家の近くにすんでいたこともある。また、評論に夏目漱石を選んだのは、『漱石とその時代』等の漱石論・保守派的な論客で知られる江藤淳に読んでもらいたかったからだという。柄谷は若い頃には江藤淳の文章を筆写して文章の練習をしていた。1975年にアメリカ・イェール大学で日本文学の講義を受け持ったのは江藤淳の推挙である。
文芸批評家としては「内向の世代」(古井由吉・後藤明生)を擁護。また中上健次とは、デビュー前から友人であり、その作品の終生における同伴者となる。中上の死の時には弔辞も読んでいる[4]。また、デビュー以来の漱石論は断続的に執筆し続け、作品論としては『草枕』『門』『三四郎』『明暗』『道草』『それから』『虞美人草』を新潮文庫版のそれぞれの解説に執筆している[5]。
1973年新左翼運動衰退のメルクマールとなる連合赤軍事件を暗に主題とした「マクベス論」を発表。以降「内面への道が外界への道である」[6]として、文芸批評の枠を超え、理論的(再)吟味を中心とした仕事を数多く行うこととなる。その中心にすえられたのが、価値形態論を中心としたマルクス『資本論』の読み直し・再解釈である。それは目論見的には、いままでのマルクス・レーニン主義の視点からでないマルクスを発見する、そして新たな連帯・コミュニケーションの形を見つけ出す、ということであった。
1973年「マルクスその可能性の中心」連載を『群像』で開始(1978年出版)。また1975年には、アメリカ・イェール大学で、ポール・ド・マンと出会う。1980年代に有名となった、文芸理論としてのディコンストラクション、イェール学派のド・マンを通して、1978年には哲学の脱構築のジャック・デリダにも出会った。
その理論的仕事は、メディアとしては三浦雅士編集長下の『現代思想』(1973 - )(青土社)に発表されることも多く[7]、蓮實重彦とともに1983年浅田彰『構造と力』で始まる「現代思想ブーム」「ニューアカデミズム」の一端を70年代において準備した。三浦は柄谷の『心理を越えたものの影ー小林秀雄と吉本隆明』[8]で、「同時代人を発見した」と思ったという。『現代思想』では70年代、柄谷が、その当時注目の言論人と、対談を多く務め[9]、三浦は柄谷を雑誌の方向性の中心に据えたという[10]。
1980 - 90年代
80年代、立て続けに『隠喩としての建築』『言語・数・貨幣』『探究Ⅰ』『探究Ⅱ』と発表。いわゆる「構造主義」「ポスト構造主義」の理論的再吟味とマルクス『資本論』の価値形態論の再吟味を同時に行う仕事を行った。その仕事は1995年『Architecture as Metaphor』としてまとめられ、英語版が出版された(2003年の岩波版『隠喩としての建築』はその和訳である)。日本における80年代消費社会とポストモダニズムの安易な結合を批判した『批評とポストモダン』(1984)と合わせ、その仕事は80年代、一世を風靡した。例えばこの時期、大岡昇平は、『批評とポストモダン』に小林秀雄のデビュー作「様々なる意匠」の再来を見出し[11]、東浩紀は、これを柄谷の作品で最も優れたものと、2000年代になって評した[12]。
また、1980年の『日本近代文学の起源』での、「『文学』という概念は歴史的にもともとあったものではなく、近代になって『源氏物語』や井原西鶴などが、『文学史』として再発見され、作りだされた」という近代批判の考え方は、大きな影響を与え(あるいは、安易に流行し)、その後、「○○は近代になって、人工的に産み出された概念である」というように、様々な論者によって流用された。アリエス『こどもの誕生』の剽窃だと揶揄する向きもあるが、本人は読んだことがない、と否定している[13]。
1986年にはフランスポンピドゥー・センターで「前衛の日本」という大展覧会に付随したシンポジウムに、蓮實重彦・浅田彰とともに出席した。
『探求Ⅱ』連載終了後の1988年から、数回の中断をはさみながらも、雑誌『思潮』『批評空間』を浅田彰とともに主宰(2002年まで)。スラヴォイ・ジジェクを日本ではじめて本格的に紹介し特集をくむなど、浅田彰の国際的な編集能力に助けられて、88年-91年の冷戦構造の崩壊という歴史的事件に耐えうる、高度な理論誌を実現した 。この雑誌でしか読めない貴重な論文・インタビューも多い([13]で全目次を閲覧できる)。アドバイザリー・ボードには、エドワード・サイード、岩井克人、鈴木忠志らが名を連ねた。また若手批評家として東浩紀を生み出した。柄谷本人は、この雑誌を中心に、これまでの、構造と実存、あるいは個別性と単独性、一般性と普遍性の区別、についての議論を、カント再吟味という形に移行させて、90年代は継続させた。
また1990年代は、ポストモダン建築・脱構築主義建築の代表的作家である、磯崎新、ピーター・アイゼンマン、イグナシ・デ・ソラ・モラレスが主宰した、建築と多領域の対話の場としての国際会議Any conference[14](1991 - 2000)に参加。デザインや建築といった分野でも、脱領域的に読まれることとなる。ロサンジェルスで行われたANYの第1回目の会議の最初のパネルでは、デリダと一緒に壇上に並んだ。
1995年には、カリフォルニア大学アーヴァイン校で、「エクリチュールとナショナリズム」[14]という論文を「人文科学の言説に関する国際会議」で発表。デリダがコメンテーターを務めた[15]。
1991年には、日本の湾岸戦争関与に反対してアピールする文学者たち[15]の中心人物として、運動を主導した。
1994年、法政大学の国際文化学部新設の取り下げに反対して、教員によるロックアウトを行う。なお、法政大学では第一教養部に所属し、英語を担当しており、文学部の所属ではなかった。
2000 - 04年
2001年、『トランスクリティーク カントとマルクス』を、その前年に自らも関わって立ち上げた生産者協同組合である、批評空間社[16][17]から出版、その内容をもとに、2000年6月、アソシエーション=「国家と資本への対抗運動」の活動、NAM(New Associationist Movement)[18][19]を立ち上げる。『NAM原理』(2000・太田出版)は、WEB上で、その内容が公開されながらも、当時1万7千部以上売れた。著名な複数のエコロジー活動家など、多数のものが参加し、最大700人の会員数を数えた[20]。2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件発生した際、NAMのサイトに「テロにも報復戦争にも反対する」という旨の声明が出た。なお、『批評空間』のWEBサイト上で、9.11同時多発テロに対する柄谷行人のコメントとして「これは予言ではない」と題する文章が掲載された[16]。
2001年12月にはWEB上でのヴァーチャルな取引を、制度設計として組み込んだことを目玉とする地域通貨Q[21]を、NAMとは独立した任意団体として、西部忠を中心に立ち上げた。当初の予定では、批評空間社も、このQに参入し、そのproductsを部分的にQ支払い可能にさせ、出版・メディア、そして最終的には流通一般そのもの、の既成の成り立ちを、徐々に変革していくことが目指されていた。第3期批評空間創刊記念シンポジウムでは、建築や芸術のジャンルから磯崎新や岡崎乾二郎らがパネリストとして並び、地域通貨Qによる流通の変革への期待が述べられた。しかし、人間関係の軋轢、未知の問題点の噴出、ネット上でのコミュニケーションからおこる通信上の混乱などで、NAMは2003年1月に早々と解散。あるいは柄谷が「身も蓋もなく潰」した[17]。批評空間社も社長兼『批評空間』の編集者の内藤祐治の死(2002年春)を契機に解散した[22]。
『トランスクリティーク』自体は2003年NAM解散後、MIT(マサチューセッツ工科大学出版)から英語版が出版された。ジジェクはこれを、「必読の書」と評した[18]。ジジェクは、その中で、しかしながら、柄谷のカント読解がヘーゲルによるカント批判を軽視しているのではないか?商人資本の強調が労働価値説の位置を不確かなものにしているのではないか?地域通貨という解決策にも疑念が残るのではないか?と最後に、羅列的かつ疑問符の形ではあるが指摘している[19]。また日本語版としては、岩波書店から柄谷行人集第三巻『トランスクリティーク』(2004)と言う形で第2版が出された。なお柄谷のカント読解は、初版出版時、岩波新カント全集監訳者の坂部恵から高い評価を受けている[20]。
また、柄谷は自身の「トランスクリティーク」という言葉を、ガヤトリ・C・スピヴァクの「プラネタリー」という言葉と親和性が高い、としている[21]。プラネタリー(惑星的)とはスピヴァクによると グローバリゼーション(地球全域化)という言葉への「重ね書き」」[22]として提案された。実際、短い期間であった近大人文研所長時代の、研究所のキャッチフレーズは「プラネタリー(惑星的)な思考と実践」「芸術とは何かを発見する術であり、認識を新たにする術であり、社会の生産のあり方をも変革する力、すでに存在する事物の再生産ではなく、まだ認識もされなかった事物を新たに見出し生み出す力、さらにその新たな事物を交換、流通させていくメディアの創設、社会関係の構築」であった。
2004年5月には近畿大学人文研での講義をもとにした『近代文学の終わり』[23]を早稲田文学[24]に発表。「若い人は「文学」をもうやらなくて結構です。かつての「近代文学」と持っている意義は同じだけど、何か、違うことを実現してください」という意のことを述べた。柄谷は、事実上この前後から、文芸批評を行っておらず、このジャンルから撤退同然である。別の場所では「これまでのスタンスのままで「文学」をいうことはできない。文学を続けたかったら、むしろそれを否定しなければならない」[25]とも述べている。
2004年11月には、京都大学で、この年の10月9日に亡くなったデリダの追悼シンポジウムに参加[26]。その中で「トランスクリティークとはディコンストラクションの否定ではなくその徹底化であると考えてもらってもいい」と述べた。
また同じく2004年に岩波書店から定本柄谷行人集(全5巻)[23]を刊行。英語やその他の言語に翻訳された著作・論文のみを選定し、今までの仕事を「定本」としてまとめた。
2005年 -
2006年3月に[近畿大学国際人文科学研究所][25]所長を、副所長で、坂口安吾研究者の関井光男(柄谷とともに新坂口安吾全集を編集)とともに辞任。2006年1月19日の公開最終講義以降、外国を含め、大学においてゼミは行っていない。現在は自宅近くで、半年に一度、長池講義[26]という無料の公開講義を行っている(2007年11月より)。
2006年4月には「21世紀の教養新書」として再出発[27]することになった岩波新書赤版から刊行数1001点目・装丁リニューアル第1弾として『世界共和国へ』を出版。なお「世界共和国」という言葉はカントの『永遠平和のために』(1795)からとられている。
近年は佐藤優(『獄中記』)[27]や宮崎学(『法と掟と』)[28]への評価が高い[28]。柄谷のアソシエーション=「国家への対抗」が必然的に国家の法・実定法と緊張関係に入る、あるいは、それとは一定程度独立した自治的空間の創出を目指すことになる、ことから、さまざまな具体的な模索をしていることの一環(宮崎学「掟」への高評価・中間団体(丸山真男)の評価)[29]だと思われる[29]。またヴィトゲンシュタインやオースティン、ハーバート・ハートの流れを汲む英米法哲学の主流派の一人、ジョン・ロールズ(『正義論』『万民の法』)をカント的理念を法に持ち込むものとして、高く評価している。
なお、ネグリ=ハートのマルチチュード(有象無象)論に関しては、「二元性(帝国(グローバルな資本主義)対マルチチュード)は、諸国家の自立性を捨象する時にのみ想定される」[30]、つまり国家を軽視している、と懐疑的である。とはいえ、90年代終わり「『トランスクリティーク』を書いた時点では、(…)ネグリらの観点と似たものを持っていた」「グローバルな資本主義の深化が、ネーション=ステートというものを希薄にすると考え」ていた、とも認めている[30]。
新自由主義・リバタリアニズムに関しても、その思潮は、リベラルな外観のもとに、実質的に、国家と資本、政治と経済の結合を強め、国家的統治を強化することにしかならず、しかもそのことを隠蔽する、と批判的である[31]。
現在はフェアトレード事業を行っているオルタートレード[32]の機関誌・季刊『at[33]』(太田出版)において『「世界共和国へ」に関するノート』を連載中。国家論や互酬制・相互扶助論についての原理的な論究を行っている。
2008年1月には『新現実』Vol.5[34](太田出版)で、大塚英志と対談。その中で柄谷は「批評空間の立ち上げはもう無理」「NAMも同じで、違う形ではやるかもしれないが、俺がもう二度とやるとは思うなよ」と述べている。
地球温暖化などの環境問題に関しては、物理学者槌田敦の地球温暖化二酸化炭素原因説=原子力発電奨励批判[31]に注目している[32]。同様な趣旨で、2008年4月7日朝日新聞紙上に「科学者の課題は何ですか」という分子生物学者福岡伸一氏とのクロストークが掲載された。
早稲田大学2008年4月1日入学式での不当逮捕抗議声明[35](すが秀実の項を参照)に賛同署名している[33]。
人物
- Wikipediaを評価している[36]。
- 1960年の安保闘争[37]のときには全学連主流派かつ安保ブント[34]の学生活動家であった経歴もあり、一貫して日本共産党とは違った立場の「左翼」を自認している。アナーキストとも自認する。
- が、同時に、国家を直接に否定することで、結局、強い国家を呼び起こす、国家やネーションは簡単に超えられない、としてアナーキズムに関して批判的でもある。「実際的には漸進主義」で「現実的には、妥協の人」[35]とも自分を規定する。「資本=ネーション=国家を揚棄するという理念がありさえすれば、実際の立場や方法にはこだわらない」[36]とも自分では述べる。
- 作家、翻訳家の冥王まさ子は元妻で、彼女の小説にモデルとして登場している[37]。柄谷は彼女の死後、再婚している。
- 筒井康隆、中上健次とともに日本文芸家協会を1990年に退会しているが、その際「入会してから一度も会費を払ったことがない自分に退会の資格はあるのか」と最初は退会を逡巡していた。しかし中上に「名簿に名前が載っている以上、退会は可能である」と促され、最終的には二人に同調することとなった。[38]
- 阪神タイガースのファン。
- 野球をプレイするのも好きで、80年代、蓮實重彦、中上健次らと「カレキナダ」という草野球チームを作っていたことがある[39]。
略歴
- 1960年 - 甲陽学院高等学校卒業。
- 1965年 - 東京大学経済学部卒業。
- 1965年 - 東京大学大学院英文科の同級生だった原真佐子(後の作家・冥王まさ子)と結婚。
- 1967年 - 東京大学大学院人文科学研究科英文学専攻修士課程修了。
- 1968年 - 日本医科大学専任講師。
- 1970年 - 法政大学第一教養部専任講師。
- 1971年 - 法政大学助教授。
- 1975年 - 法政大学教授( - 1994年)。イェール大学東アジア学科客員教授 ( - 1977年)。ポール・ド・マンと知り合う。また、やはりイェール大学にいた、岩井克人、水村美苗夫妻とも知合う。
- 1980年 - イェール大学比較文学科客員研究員( - 1981年)。
- 1983年 - コロンビア大学東アジア言語文化学科客員研究員( - 1984年)。
- 1990年 - カリフォルニア大学アーバイン校客員教授。コロンビア大学比較文学科客員教授。永山則夫の入会申請を日本文芸家協会が拒否したため、これを批判して、筒井康隆、中上健次とともに協会を脱退。
- 1991年 - コーネル大学客員教授( - 1992年)。日本の「湾岸戦争関与」に反対して、中上健次・川村湊・田中康夫・高橋源一郎・いとうせいこうらと、「『「文学者」の討論集会』アッピール」を発表。
- 1994年 - 近畿大学文芸学部教授( - 2006年)。
- 1995年4月21日 - 元妻の冥王がカリフォルニア州サクラメントの病院で動脈瘤破裂のため急逝。
- 2000年 - NAMを創設。
- 2002年 - 近畿大学国際人文科学研究所所長( - 2006年)。カリフォルニア大学ロサンゼルス校客員教授。
- 2003年 - NAMを解散。
- 2006年 - 近畿大学国際人文科学研究所所長辞任。
受賞歴
- 1969年 - 「〈意識〉と〈自然〉 漱石試論」で第12回群像新人文学賞。
- 1978年 - 「マルクスその可能性の中心」で第10回亀井勝一郎賞。
- 1996年 - 「坂口安吾と中上健次」で第7回伊藤整文学賞。
著書
文学
- 『畏怖する人間』(トレヴィル、1972年 / 講談社[講談社文芸文庫]、1990年)
- 『意味という病』(河出書房新社、1975年 / 講談社[講談社文芸文庫]、1989年)
- 『マルクスその可能性の中心』(講談社、1978年 / 講談社学術文庫、1990年)
- 『隠喩としての建築』(冬樹社、1979年 / 講談社[講談社学術文庫]、1989年)
- 表題の理論的仕事の他に、 サイバネティックスや、中上健次らを論じる。
- 『日本近代文学の起源』(講談社、1980年 / 講談社文芸文庫、1988年 / 岩波現代文庫、2008年)
- 国木田独歩の作品を通じて、明治20年代におこった、言文一致運動を「風景の発見」として論じる。
- 『批評とポストモダン』(福武書店、1985年 / 福武文庫、1989年)
- 『終焉をめぐって』(福武書店、1990年 / 講談社[講談社学術文庫]、1995年)
- 『反文学論』(講談社[講談社学術文庫]、1991年)
- 1977年から78年にかけて『東京新聞』夕刊に連載された、唯一の文芸時評をまとめたもの。
- 『漱石論集成』(第三文明社、1992年 / 平凡社[平凡社ライブラリー]、2001年)
- 断続的に書き続けた夏目漱石に関する論考を一冊にまとめる。
- Origins of Modern Japanese Literature, trans. and ed. by Brett de Bary, Duke University Press, 1993
- 『坂口安吾と中上健次』(太田出版、1996年 / 講談社文芸文庫、2006年)
- 『差異としての場所』(講談社[講談社学術文庫]、1996年)
- 『日本精神分析』(文藝春秋、2002年 / 講談社学術文庫、2007年)
- 『近代文学の終わり・柄谷行人の現在』(インスクリプト 2005年)
- 「近代文学の終わり」に関する講演のほか、二葉亭四迷の翻訳の問題について論じる。
哲学
- 『ダイアローグ』Ⅰ〜Ⅳ(冬樹社、1979年 / 第三文明社、1987年 - 1991年)
- 『内省と遡行』(講談社、1985年 / 講談社学術文庫、1988年)
- 『探究I』(講談社、1986年 / 講談社学術文庫、1992年)
- 『探究II』(講談社、1989年 / 講談社学術文庫、1992年)
- 『言葉と悲劇』(講談社[講談社学術文庫]、1993年) 講演集。
- 『ヒューモアとしての唯物論』(筑摩書房、1993年 / 講談社[講談社学術文庫]、1999年)
- 『〈戦前〉の思考』(文藝春秋、1994年 / 講談社[講談社学術文庫]、2001年)
- Architecture as Metaphor, The MIT Press, 1995
- 日本語版の『隠喩としての建築』『内省と遡行』『探究Ⅰ、Ⅱ』を一冊にまとめる。定本柄谷行人集の『隠喩としての建築』はこれの翻訳。
- 『倫理21』(平凡社、2000年 / 平凡社ライブラリー、2003年)
- 『トランスクリティーク――カントとマルクス』(批評空間、2001年)
- 『柄谷行人初期論文集』(批評空間、2002年インスクリプトから2005年に再版)
- 文芸批評家としてデビュー以前に、発表された論考を収める。
- Transcritique : On Kant and Marx, The MIT Press, 2003
- 『世界共和国へ――資本=ネーション=国家を超えて』(岩波書店[岩波新書]、2006年)
- 『柄谷行人 政治を語る』聞き手 小嵐九八郎(図書新聞、2009年)
共著
- (中上健次)『小林秀雄をこえて』(河出書房新社、1979年)
- (笠井潔)『<現在>との対話(1)ポスト・モダニズム批判――拠点から虚点へ』(作品社、1985年)
- (蓮實重彦)『闘争のエチカ』(河出書房新社、1988年)
- (岩井克人)『終わりなき世界――90年代の論理』(太田出版、1990年)
- (小池清治・小森陽一・芳賀徹・亀井俊介)『漱石をよむ』(岩波書店、1994年)
- (絓秀実・福田和也・富岡幸一郎・大杉重男・清水良典)『皆殺し文芸批評――かくも厳かな文壇バトル・ロイヤル』(四谷ラウンド、1998年)
- (浅田彰・市田良彦・小倉利丸・崎山正毅)『マルクスの現在』(とっても便利出版部、1999年)
- (浅田彰・岡崎乾二郎・奥泉光・島田雅彦・絓秀実・渡部直己)『必読書150』(太田出版、2002年)
編著
- 『シンポジウム』(思潮社、1989年 / 太田出版、1994年)
- 『近代日本の批評』(福武書店、1990年 / 講談社[講談社文芸文庫]、1997年)
- 『可能なるコミュニズム』(太田出版、2000年)
共編著
選集
- 『定本柄谷行人集』(岩波書店、2004年)
- 「日本近代文学の起源」
- 「隠喩としての建築」
- 「トランスクリティーク――カントとマルクス」
- 「ネーションと美学」
- 「歴史と反復」
脚注
- ^ 「文学と運動-2000年と1960年の間で」(インタビュー)2001年『文学界』1月号
- ^ 選考者は江藤淳・大江健三郎・野間宏・安岡章太郎
- ^ 吉本隆明は、1980年代〜90年代、自分を批判した浅田彰、柄谷行人や蓮實重彦に対して、他者や外部としての「大衆」をもたず、知の頂を登りっぱなしで降りてこられない(親鸞でいうところの「還相」の過程がない)「知の密教主義者」として、「知的スノッブの三バカ」「知的スターリニスト」と激烈に応答した(『情況への発言全集成3(洋泉社2008)』p200p278p338)柄谷行人に関しては、1989年時点で、「せっかくブント体験をもってるのに」「最低のブント崩れ」とも評している(『情況への発言全集成3(洋泉社2008)』p226参照)。ただし2005年になって、吉本は「今は、どう動くかを考える段階、考えて具体的なものをだすべき段階」「いつまでもつまらない世代論を論じている場合じゃない。そんなことにはあまり意味がない」として、まだ「若くて政治運動家としての素質もやる気がある」人間として、柄谷行人を唯一、例として名前を出し、「やってほしいこと、やるべきこと」の注文をつけている(『時代病』( ウェイツ, 2005)あとがきp204参照。なお親鸞の「還相」を、吉本隆明は2002年『超戦争論』においては、「視線の問題」である、としている。吉本は、「親鸞が還相ということでいっているのは、物事を現実の側、現在の側から見る視線に加えて、反対の方向からー未来の側からといいましょう、向こうのほうから、こちらを見る視線を併せ持つってことだというふうに僕は考えています。こちらからの視線と、向うからの視線、その両方の視線を行使して初めて、物事が全面的に見えてくるというわけです。」と述べている(『超・戦争論』(2002アスキーコミュニケーションズ)下巻pp230参照)
- ^ 「朋輩中上健次」『文学界』1992年10月
- ^ これら漱石に関する論考は、2001年平凡社ライブラリー版『漱石論集成』に ほぼ全て収められている)
- ^ 「内面への道と外界への道」:『畏怖する人間』収録
- ^ 『内省と遡行』(1980連載)『形式化の諸問題』(1981)等。三浦雅士が『現代思想』編集から離れたときには『「現代思想」と私』(1981.12)という短いエッセイを捧げている
- ^ 1973『畏怖する人間』収録
- ^ 多くは『ダイアローグ』のⅠ・Ⅱに収録されている
- ^ 「意識と自然」からの思考― 三浦雅士との対談『ダイアローグⅣ』
- ^ 「政治化した私」をめぐって― 大岡昇平との対談『ダイアローグⅢ』
- ^ 「誤状況論」『文学環境論集 東浩紀コレクションL』2007
- ^ 『ダイアローグ』参照
- ^ 『ヒューモアとしての唯物論』収録
- ^ 署名したものにはいとうせいこう、川村湊、島田雅彦、高橋源一郎、田中康夫、津島佑子、中上健次、吉田司らがいる。
- ^ 「どうか、皆さん、国家と資本が煽動する愚かな興奮の中に呑み込まれたり、右顧左眄・右往左往することはやめてもらいたい。そうすれば、三、四年後に確実に後悔するだろうから。その逆に、「戦後」に向けて、着々と準備をすることを勧めたい」(出典:批評空間WEBサイト)。なおこれには、大塚英志による批判がある。大塚は『小説トリッパー』2001年冬季号に掲載された「それはただの予言ではないか──「戦時下」の「文学」について──」(のちに角川文庫・『サブカルチャー反戦論』に再録)という文章において、柄谷の「今は右往左往せず、戦後に備えた方がいい」という主旨の呼びかけに対し、「戦時下の今こそ、言葉を発するのが文学者としての責務ではないか」と述べている(角川書店の『同時多発テロ以後のガイドブック』でも大塚は同様の発言をしている)。
- ^ 「「努力目標」としての近代を語る」『新現実05』2008での大塚英志の表現。p39参照。なお大塚は、柄谷のNAM解散断行を肯定している。一方、批評空間社の共同出資者であり、『批評空間』の執筆者であった、鎌田哲哉らが、NAM・柄谷行人に批判的・総括的な視点・運動の再生という視点(鎌田は2003年4月発行の『重力02』において、「運動が崩壊したときに本当は運動が始まる。「重力」出版会議が始動して、年に何冊か本が出て、Qで流通するようになったらかっこいい」と述べている(P41)。)から『重力03 Q-NAM問題』を出版しようと2003年秋から試みるが、2009年現在、実現されていない。鎌田のNAM・柄谷批判としては、WEB上で『京都オフライン議事録・西部柄谷論争の公開[1]』(2003.11)を、結論が未完と言う形ではあるが、読むことができる。そのなかで議事録が一部公開されている。なお、解散直前のNAMに関しての柄谷の詳細な言及は、2002年11月韓国嶺南(ヨンナン)大学での講演記録[2]雑誌『緑色評論』のwebで読むことができる。
- ^ 『『The Parallax View』(MIT)2006 『思想』2004年8月号に『視差的視点』として翻訳あり
- ^ トルコ人批評家アフメット・オズによる柄谷行人インタビュー(『at プラス02』(2009、p101)に詳しくこのジジェクの指摘に関する実情が掲載されている。
- ^ 柄谷・板部の対談「カントとマルクス―『トランスクリティーク』以後へ」『群像』2001.12
- ^ 2004年10月27日朝日新聞『プラネタリーな抵抗』
- ^ 『ある学問の死-惑星思考の比較文学へ』みすず書房2004
- ^ 『近代文学の終わり・柄谷行人の現在』2005インスクリプト収録
- ^ 「早稲田文学」(第9次)は柄谷論文の掲載号(2004.5)から2005年5月の第9次休刊まで、「近代文学の終わり」という特集のもとに、刊行を続けた。
- ^ 「Re-membering Jacques Derrida」2005年2月『新潮』
- ^ 他に鵜飼哲・浅田彰がシンポジウム出席者/ 京都大学現代思想自主ゼミ主催:2005年2月『新潮』に「Re-membering Jacques Derrida」として採録
- ^ そのキャッチコピーは「変わりますが変わりません」だった
- ^ 2006・2007年度書評委員「お勧めの三点」[3][4]:朝日新聞
- ^ 『丸山真男とアソシエーショニズム』「思想」2006.8
- ^ 座談会「『世界共和国へ』をめぐって」『at』4号[5]:2006
- ^ 『エコロジー神話の功罪』ほたる出版、「エントロピー論から見た農業」『at』6号[6]「温暖化の脅威を語る気象学者のこじつけ論理」『at』11号2008[7]
- ^ 『at』6号2006「『世界共和国へ』に関するノート」(2)p137脚注の部分に柄谷による槌田敦の提言の詳しい要約がある
- ^ 2008年8月、現行の大学改革に関して、書評に絡み、「アメリカでは、大学教育をより効率的にするために、ムダと見える学問、特に、人文学を切り捨ててきた。日本でもその真似(まね)をしている。(…) 本書の原題は「暗黒時代が近づいている」という意味であるが、暗黒時代とは、ローマ帝国が滅んだあとのゲルマン社会で、ローマの文化がすぐに忘却されてしまったことを指している。そのような事態が現在おこりつつある、という著者の予感に、私は同意する。それをひきおこしているのは、いうまでもなく、グローバルな資本主義である。」[8]と述べている。
- ^ 全学連主流派を牽引していたのが安保ブント・世界初の共産党からの独立左翼と言われる。
- ^ 山口二郎、中島岳志との対談「現状に切り込むための「足場」を再構築せよ」p30参照『論座』2008.10
- ^ 山口二郎、中島岳志との対談「現状に切り込むための「足場」を再構築せよ」p29参照『論座』2008.10
- ^ 『天馬空を行く』(新潮社1985、河出文庫1996)は1976年夏アメリカ・ニューヘイブン(エール大学所在地)出発のヨーロッパ旅行を小説化したものである。ポール・ド・マンも実名で登場している。文庫版は柄谷が解説を書いている。
- ^ 筒井康隆『笑犬樓よりの眺望』(新潮社1994)「中上健次が死んだ」
- ^ ちなみに過去在籍メンバーは、渡部直己、絓秀実、松本健一、立松和平、高橋源一郎、平石貴樹、尾辻克彦、赤瀬川隼、ねじめ正一、島田雅彦、など)。東京堂書店セミナーで顔を合わせた時に結成。
外部リンク
- 公式サイト
- 関連サイト
- 研究サイト