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*[[オペル・ザフィーラ]](1994~96頃)- オペル社の車名。ユニフォーム表記は「オペル社のロゴの下にZAFIRA」 |
*[[オペル・ザフィーラ]](1994~96頃)- オペル社の車名。ユニフォーム表記は「オペル社のロゴの下にZAFIRA」 |
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*Bwin (2000年頃~09-10シーズン)- オーストリアのオンラインサービス提供企業。ミランのユニフォームの代名詞でもあった。 |
*Bwin (2000年頃~09-10シーズン)- オーストリアのオンラインサービス提供企業。ミランのユニフォームの代名詞でもあった。 |
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*[[エミレーツ航空]](10-11シーズン~)- [[UAEアラブ首長国連邦]]の航空会社。契約金は5年総額約6000ユーロ<ref>[http://sport-management.jp/blog/sport_news/2010/02/ac.html</ref> 「エミレーツ航空、来期からACミランの胸スポンサーに」 - スポーツマネジメント]。ユニフォーム表記は「FIy Emirates」 |
*[[エミレーツ航空]](10-11シーズン~)- [[UAEアラブ首長国連邦]]の航空会社。契約金は5年総額約6000ユーロ<ref>[http://sport-management.jp/blog/sport_news/2010/02/ac.html</ref> 「エミレーツ航空、来期からACミランの胸スポンサーに」 - スポーツマネジメント]]。ユニフォーム表記は「FIy Emirates」 |
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== タイトル == |
== タイトル == |
2011年2月6日 (日) 11:06時点における版
ACミラン | ||||
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原語表記 | Associazione Calcio Milan s.p.a | |||
愛称 | Rossoneri | |||
クラブカラー | 赤と黒 | |||
創設年 | 1899年 | |||
所属リーグ | レガ・カルチョ | |||
所属ディビジョン | セリエA | |||
ホームタウン | ミラノ | |||
ホームスタジアム | サン・シーロ | |||
収容人数 | 85,847 | |||
代表者 | (空位)[1] | |||
監督 | マッシミリアーノ・アッレグリ | |||
公式サイト | 公式サイト | |||
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■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
ACミラン(Associazione Calcio Milan s.p.a)は、イタリア・ミラノを本拠地とするサッカークラブチーム。
概要
クラブカラーからロッソ・ネロ(イタリア語で「赤と黒」、複数形でロッソ・ネリとも)またはディアボロ(イタリア語で「悪魔」)の愛称で呼ばれる。サポーターのことをミラニスタという。
同じ街の同じスタジアムを本拠地とするインテルとは永遠のライバル関係にあり、ミラノダービーと呼ばれる対戦は街を二分する盛り上がりを見せる。インテルのファンがブルジョワ階級と呼ばれる富裕層であるのと比較して、ACミランのファン層は労働者階級を中心であるとされていたが、現在では特別に隔たった支持層は無く、お互いに広い層から支持を集めている。
UEFAチャンピオンズリーグでは過去7度の優勝を果たしており、これはレアル・マドリードの9度に次ぐ歴代2位の記録である。また、この記録はイタリア国内でUEFAチャンピオンズリーグを制覇した経験のある他の2チームの記録(インテルは3度、ユヴェントスは2度)を大きく引き離している。なお、チャンピオンズリーグで5度の優勝、或いは3連覇を達成したクラブにはビッグイヤー(優勝杯)の永久保持が認められているが、同時にビッグイヤーのロゴと優勝回数が書かれたワッペンがユニフォーム左袖につけられることが許される。このワッペンをつけているのはACミランの他に、レアル・マドリード、リヴァプールFC、アヤックス・アムステルダム、バイエルン・ミュンヘンの4クラブのみである。
歴史
1899年12月16日にミラノ在住のイギリス人アルフレッド・エドワーズが中心となって、「ミラン・クリケット・アンド・フットボール・クラブ」(Milan Cricket and Football Club)を創設し、その後上記の通り「ミラン・アッソチアツィオーネ・カルチョ」と名称は変更されたがMilanだけは英語のまま残った。(イタリア語ではMilanoである)。クラブ名のうちアッソチアツィオーネAssociazioneは英語のAssociationつまり協会ではなく、法人という意味で、Associazione Calcioはサッカー法人となる。つまり全体では「ミランサッカー法人」が正しい訳語となる。Milanが英語であるため、ACの部分がAthletic Clubだと誤解される場合が多い。
低迷期
1979-80シーズンのホームでのラツィオ戦が八百長の疑いで調査が行われ、セリエBへ降格処分となった。当時クラブ会長であったフェリーチェ・コロンボは永久追放となった。この処分により1980-81シーズンはセリエBでのシーズンとなったが、優勝して1年でセリエAに復帰した。しかし、セリエAに復帰した翌1981-82シーズンはわずか7勝という成績で再びセリエBへ降格となった。 再びセリエBでプレーすることとなったが、1982-83シーズンは優勝してまたも1年でセリエAに復帰した。
ベルルスコーニの登場
その後、後にイタリア首相を務めるシルヴィオ・ベルルスコーニが1986年にクラブを買収して会長に就任した。ベルルスコーニは有力選手を大補強し、クラブを立て直した。当時はほぼ無名だったが、後にこのチームでサッカーに革命を起こすことになるアリゴ・サッキをパルマから監督として招き入れた。そして、ベルルスコーニが会長に就任して2シーズン目、サッキが指揮を執って1シーズン目の1987-88シーズンには2敗という成績でスクデットを獲得した。また、ベルルスコーニは1987年には当時の史上最高額移籍金でルート・フリットをPSVから獲得、マルコ・ファン・バステンをアヤックスから獲得し、1988年にはフランク・ライカールトをサラゴサから獲得した。
黄金期
サッキが採用した高い位置でプレッシャーをかけてボールを奪うというプレッシングサッカー戦術とキャプテンのフランコ・バレージや、ルート・フリット、マルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールトのオランダトリオなどの選手の活躍もあり、1988-1989シーズン、1989-1990シーズンにかけてUEFAチャンピオンズカップを2連覇した。1990-1991年のUEFAチャンピオンズカップ準々決勝のオリンピック・マルセイユ戦で、マルセイユが1-0でリードしていた88分にスタジアムの照明が消灯し、照明復帰後もACミランが試合の続行を拒否したため没収試合となった。この結果ACミランは1年間ヨーロッパの大会から締め出されることとなった。
1990年代になると、バレージの他にもパオロ・マルディーニ、アレッサンドロ・コスタクルタ、デメトリオ・アルベルティーニの3人が中心になり、1991年から監督となったファビオ・カペッロのもとで、無敗優勝を含む1991-1992シーズンから1993-1994シーズンにかけてのセリエA3連覇や1992-1993シーズンから1994-1995シーズンにかけてのUEFAチャンピオンズリーグ3季連続決勝進出(1993-1994シーズンは優勝)などの成績を残し、「グランデ・ミラン」(偉大なミラン)や「リ・インヴィンチービリ」(無敵のミラン)と呼ばれる黄金期を築いた。バレージを含めたこの4人は、ミラン栄光のバンディエラ(イタリア語で「旗印」の意。そのクラブで長くキャリアを送ったシンボル的なプレーヤーを指す)ともいわれる。
最強神話崩壊と過渡期
ファビオ・カペッロがレアル・マドリードへ去ると、1996-1997シーズンは優勝争いから脱落し、その責任を取るかたちでオスカル・ワシントン・タバレスが解任され、かつて栄光を築いたアリゴ・サッキが監督に復帰したものの低迷から抜け出せなかった。1997-1998シーズンには1年でレアル・マドリードの監督を解任されたカペッロを連れ戻すが、大きな効果は得られなかった。1998-1999シーズンは、監督にウディネーゼで旋風を起こしたアルベルト・ザッケローニを招聘し、1997-1998シーズンのセリエA得点王であるオリバー・ビアホフとトーマス・ヘルヴェグを獲得。序盤こそ苦戦していたが、終盤に勝ち点でSSラツィオを逆転して悲願のスクデットを獲得した。しかし、その後は1999年夏の移籍市場でアンドリー・シェフチェンコの獲得に成功した以外は目立った出来事はなく、2000-2001シーズン途中でザッケローニは解任された。
アンチェロッティ監督時代
2001-2002シーズンも中位に低迷していたが、シーズン途中でカルロ・アンチェロッティが監督に就任し、セリエAを4位で終えてUEFAチャンピオンズリーグ出場権獲得(予備予選からの出場)に成功すると、ここから、アンドレア・ピルロをレジスタへとコンバートしてボールポゼッションを高めるフットボールを展開し、90年代前半の「グランデ・ミラン」(偉大なミラン)を彷彿とさせる強さを発揮する。2002-2003シーズンには、UEFAチャンピオンズリーグ優勝とコッパ・イタリア優勝の2冠を達成。2003年夏の移籍市場ではカカ、カフーらを獲得し、シーズン開幕前にはUEFAスーパーカップを制覇。2003年12月のインターコンチネンタルカップでは南米代表のボカ・ジュニアーズにPK戦の末敗れたものの、最終的に2003-2004シーズンはセリエAで2位のASローマに勝ち点11の大差をつけてスクデットを獲得した。
しかし、2004-2005シーズンは開幕前にスーペルコッパ・イタリアーナを制したものの、シーズンはユヴェントスに国内の覇権を握られ、UEFAチャンピオンズリーグでは決勝戦でリヴァプールFCと対戦し、前半終了時点で3-0の大差をつけていたものの後半追いつかれ、最終的にPK戦の末敗れた(イスタンブールの悲劇)。2005-2006シーズンはUEFAチャンピオンズリーグでベスト4まで勝ち進むも準決勝で同大会の優勝を果たしたFCバルセロナに敗れ、4季ぶりの無冠に終わっている。
2005-2006シーズン終了後に発覚したカルチョ・スキャンダルによって、「2005-2006シーズンのリーグ戦での勝ち点-44(事実上の2006-2007シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ出場権剥奪)」、「2006-2007シーズンのセリエAを勝ち点-15からの開始」という処分がイタリアサッカー協会のスポーツ裁判所によって下された。ミランは控訴し、控訴審では処分が軽減された。最終的に2005-2006シーズンの勝ち点は58となり、3位扱いとしてUEFAチャンピオンズリーグ出場が決まったほか、2006-2007シーズンのセリエAは勝ち点-8からの開始となった。
2006-2007シーズンでは、勝ち点-8というハンディキャップ以上に、チェルシーFCへ移籍したアンドリー・シェフチェンコの穴を埋めることが出来ずに苦しんだ。彼の穴を埋めるべく2007年1月、レアル・マドリードで出場機会を失っていたロナウドを完全移籍で獲得。ロナウド加入後チームのコンディションは徐々に上昇し、最終的にセリエAでは順位を4位にまで上げた。UEFAチャンピオンズリーグでは決勝戦でリヴァプールFCと対戦。試合はフィリッポ・インザーギが2ゴールを挙げる活躍によって勝利し、2年前のイスタンブールの悲劇の雪辱を果たして4年ぶり7度目となる優勝を勝ち取った。
2007-2008シーズンはシーズン開幕前にUEFAスーパーカップを制覇し、2007年12月にはFIFAクラブワールドカップ2007に出場。決勝戦で南米代表のボカ・ジュニアーズを破り欧州代表としては初の同大会優勝を成し遂げた。しかし、主力選手の高齢化、相次ぐ負傷に加えて、ここ数年の補強失敗のツケが重なり、UEFAチャンピオンズリーグでは決勝トーナメント一回戦でアーセナルFCに敗れてベスト16敗退。セリエAでも早々と優勝戦線から遠ざかり、後半戦は新加入のアレシャンドレ・パトの台頭もあって追い上げるも7年振りにUEFAチャンピオンズリーグ出場権をも逃し、UEFAカップ出場権を得るにとどまった。
この失敗を踏まえて、2008-2009シーズン開幕前にはアーセナルFCからマチュー・フラミニを、FCバルセロナからジャンルカ・ザンブロッタとロナウジーニョを獲得し、また、チェルシーFCからシェフチェンコをレンタルで再び獲得。更に、2009年1月よりメジャーリーグサッカーのロサンゼルス・ギャラクシーに所属するデビッド・ベッカムをシーズン終了(当初は同年3月9日)までの期限付き移籍で獲得した。だが、チーム全体(特にDF陣)の高齢化や大型のCFの不在といった問題は解消されず、そのうえ負傷者の続出にも悩まされセリエAではユヴェントスと同勝ち点の3位に終わり、優勝候補の大本命に挙げられたUEFAカップもヴェルダー・ブレーメンに敗れラウンド32で敗退した。シーズン終了後、主将のパオロ・マルディーニが現役を引退。また、2009年6月1日にアンチェロッティは監督を辞任した。
レオナルド監督時代
カルロ・アンチェロッティの退任後、後任監督にはかつてミランで活躍し、現役引退後はミランの副会長補佐を務めたレオナルドが就任。しかし、2009年6月9日、クラブは財政難からカカをレアル・マドリードに放出した。これまでのチームを支えた立役者であったアンチェロッティ、パオロ・マルディーニ、カカが去ったことに加え、レオナルドの経験不足やチームの高齢化、また選手補強が上手くいかないこともあって2009年夏のプレシーズンマッチはことごとく敗北を喫し、2009-2010シーズン開幕後もしばらくは低迷が続くが、「4-2-ファンタジー」とも称される攻撃的な4-3-3の布陣に活路を見出すとこれまで低迷していたロナウジーニョ、アレシャンドレ・パト、マルコ・ボリエッロらFW陣が調子を上げ始め、また引退とも囁かれたアレッサンドロ・ネスタが新加入のチアゴ・シウバとのCBコンビでその全盛期を彷彿させる活躍を果たしたことでセリエAでは優勝争いを演じる。しかし、終盤には負傷者の続出に悩まされ調子を落とし、最終的な順位は3位に終わり、ベルルスコーニとの確執によってシーズン終了と共にレオナルドは監督を退任した。
アッレグリ監督時代
2010年6月にマッシミリアーノ・アッレグリが監督に就任、しかし緊縮財政の状況は変わらず補強はキエーヴォ・ヴェローナからマリオ・ジェペス、ジェノアCFCからソクラティス・パパスタソプーロス、ケヴィン=プリンス・ボアテング、マルコ・アメリアを獲得するに留まる地味なものだったが、移籍市場が閉まる直前にFCバルセロナからズラタン・イブラヒモビッチ、マンチェスター・シティFCからはロビーニョを立て続けに獲得し、インテルとのスクデット争い候補に急浮上した。
ユニフォーム
ホームユニフォームは赤黒の縦じま。ただしUEFAチャンピオンズリーグ、インターコンチネンタルカップ等の決勝では上下白のセカンドを希望して着用することが多い。チャンピオンズリーグ7回の優勝のうち6回を白のセカンドユニフォームで勝ち取っている。また、選手支給スーツはドルチェ・ガッバーナから提供される。
胸スポンサー
- オペル (1990年代)- ドイツの自動車メーカー。ユニフォーム表記は「OPEL」
- オペル・ザフィーラ(1994~96頃)- オペル社の車名。ユニフォーム表記は「オペル社のロゴの下にZAFIRA」
- Bwin (2000年頃~09-10シーズン)- オーストリアのオンラインサービス提供企業。ミランのユニフォームの代名詞でもあった。
- エミレーツ航空(10-11シーズン~)- UAEアラブ首長国連邦の航空会社。契約金は5年総額約6000ユーロ[2] 「エミレーツ航空、来期からACミランの胸スポンサーに」 - スポーツマネジメント]]。ユニフォーム表記は「FIy Emirates」
タイトル
国内タイトル
- スクデット - 17回
- 1901, 1906, 1907, 1950-51, 1954-55, 1956-57, 1958-59, 1961-62, 1967-68, 1978-79, 1987-88, 1991-92, 1992-93, 1993-94, 1995-96, 1998-99, 2003-04,
- セリエB - 2回
- 1980-81, 1982-83
- コッパ・イタリア - 5回
- 1966-67, 1971-72, 1972-73, 1976-77, 2002-03
- スーペルコッパ・イタリアーナ - 5回
- 1988, 1992, 1993, 1994, 2004
国際タイトル
- 2007
- インターコンチネンタルカップ(トヨタカップを含む) - 3回 ファイル:Coppaintercontinentale.pngファイル:Coppaintercontinentale.pngファイル:Coppaintercontinentale.png
- 1969, 1989, 1990
- UEFAチャンピオンズリーグ(旧UEFAチャンピオンズカップを含む) - 7回
- 1962-63, 1968-69, 1988-89, 1989-90, 1993-94, 2002-03, 2006-07
- UEFAカップウィナーズカップ - 2回
- 1967-68, 1972-73
- UEFAスーパーカップ - 5回
- 1989, 1990, 1994, 2003, 2007
- ラテン・カップ - 2回
- 1951, 1956
- ミトローパ・カップ - 1回
- 1982
過去の成績
シーズン | セリエA | 試 | 勝 | 分 | 負 | 得 | 失 | コッパ | UEFACL | EL (旧UEFAカップ) |
CWC (旧トヨタカップ) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2009-2010 | 3位 | 38 | 20 | 10 | 8 | 60 | 39 | ベスト8 | ベスト16 | ||
2008-2009 | 3位 | 38 | 22 | 8 | 8 | 70 | 35 | ベスト16 | ベスト32 | ||
2007-2008 | 5位 | 38 | 18 | 10 | 10 | 66 | 38 | ベスト16 | ベスト16 | 優勝 | |
2006-2007 | 4位 | 38 | 19 | 12 | 7 | 57 | 36 | ベスト4 | 優勝 | ||
2005-2006 | 2位→3位[3] | 38 | 28 | 4 | 6 | 81 | 31 | ベスト8 | ベスト4 | ||
2004-2005 | 2位 | 38 | 23 | 10 | 5 | 63 | 28 | ベスト8 | 準優勝 | ||
2003-2004 | 1位 | 34 | 25 | 7 | 2 | 65 | 24 | ベスト4 | ベスト8 | 準優勝 | |
2002-2003 | 3位 | 34 | 18 | 7 | 9 | 55 | 30 | 優勝 | 優勝 | ||
2001-2002 | 4位 | 34 | 14 | 13 | 7 | 47 | 33 | ベスト4 | ベスト4 | ||
2000-2001 | 6位 | 34 | 12 | 13 | 9 | 56 | 46 | ベスト4 | 2次リーグ | ||
1999-2000 | 3位 | 34 | 16 | 13 | 5 | 65 | 40 | ベスト8 | 1次リーグ | ||
1998-1999 | 1位 | 34 | 20 | 10 | 4 | 59 | 34 | ベスト16 | |||
1997-1998 | 10位 | 34 | 11 | 11 | 12 | 37 | 43 | 準優勝 | |||
1996-1997 | 11位 | 34 | 11 | 10 | 13 | 43 | 45 | ベスト8 | グループリーグ | ||
1995-1996 | 1位 | 34 | 21 | 10 | 3 | 60 | 24 | ベスト8 | ベスト8 | ||
1994-1995 | 4位 | 34 | 17 | 9 | 8 | 53 | 32 | ベスト16 | 準優勝 | 準優勝 | |
1993-1994 | 1位 | 34 | 19 | 12 | 3 | 36 | 15 | ベスト32 | 優勝 | 準優勝 | |
1992-1993 | 1位 | 34 | 18 | 14 | 2 | 65 | 32 | ベスト4 | 準優勝 | ||
1991-1992 | 1位 | 34 | 22 | 12 | 0 | 74 | 21 | ベスト4 | |||
1990-1991 | 2位 | 34 | 18 | 10 | 6 | 46 | 19 | ベスト8 | ベスト8 | 優勝 | |
1989-1990 | 2位 | 34 | 22 | 5 | 7 | 56 | 27 | 準優勝 | 優勝 | 優勝 | |
1988-1989 | 3位 | 34 | 16 | 14 | 4 | 61 | 25 | ベスト16 | 優勝 | ||
1987-1988 | 1位 | 30 | 17 | 11 | 2 | 43 | 14 | ベスト16 | 2回戦 |
現所属メンバー
- 2011年2月2日現在
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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ローン移籍選手
- in
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
|
- out
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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10/11移籍
プリマヴェーラ
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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- ※1 トリエスティーナと共同保有
歴代監督
永久欠番
- 6-フランコ・バレージ
- 3-パオロ・マルディーニ
歴代所属選手
太字は現所属選手
GK
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DF
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MF
|
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FW
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関連項目
脚注
- ^ 組織図 | AC Milan
- ^ [http://sport-management.jp/blog/sport_news/2010/02/ac.html
- ^ 審判指名操作の不正行為により勝点を30減点されたため、最終順位が変更されている。カルチョ・スキャンダルを参照。
外部リンク
- 公式
- ユニフォーム (2008-09シーズン)
- その他
セリエA 2024-25 | |
---|---|
セリエA - セリエB - セリエC - セリエD |
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