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田母神は防衛の専門家として核武装は[[核抑止]]のための選択肢の一つとして述べているに過ぎず、NATOのような[[ニュークリア・シェアリング・システム]]を導入することも検討するべきだとしている。<ref>NATOの運用するニュークリアシェアリングとは「通常兵器」であるワルシャワ条約機構の機甲部隊が侵攻した際に、それを阻止するために「NATO加盟国領土」に「NATO加盟国自身」が[[戦術核]]を使用するという防衛構想の前提において、その投射手段を米軍だけではなくNATO共同で負担し、核の使用をNATOの総意とするものであって、戦略核兵器をNATOが共同運用するものではなく「NATOのような」方法を採る限り、そこに核抑止の概念は無い。NATO以上に密接な日米関係を強化するのか、NATOのように通常戦力の底上げとしての戦術核兵器の保有を目指すのか、戦術核兵器という限られた能力の中で核抑止力の構築を目指すのか、核武装の端緒としての方便なのか、田母神から具体的な説明はない。</ref> |
田母神は防衛の専門家として核武装は[[核抑止]]のための選択肢の一つとして述べているに過ぎず、NATOのような[[ニュークリア・シェアリング・システム]]を導入することも検討するべきだとしている。<ref>NATOの運用するニュークリアシェアリングとは「通常兵器」であるワルシャワ条約機構の機甲部隊が侵攻した際に、それを阻止するために「NATO加盟国領土」に「NATO加盟国自身」が[[戦術核]]を使用するという防衛構想の前提において、その投射手段を米軍だけではなくNATO共同で負担し、核の使用をNATOの総意とするものであって、戦略核兵器をNATOが共同運用するものではなく「NATOのような」方法を採る限り、そこに核抑止の概念は無い。NATO以上に密接な日米関係を強化するのか、NATOのように通常戦力の底上げとしての戦術核兵器の保有を目指すのか、戦術核兵器という限られた能力の中で核抑止力の構築を目指すのか、核武装の端緒としての方便なのか、田母神から具体的な説明はない。</ref> |
2009年9月11日 (金) 13:21時点における版
田母神 俊雄 | |
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生誕 |
1948年7月22日 福島県郡山市 |
所属組織 | 航空自衛隊 |
軍歴 | 1971 - 2008 |
最終階級 | 空将 |
指揮 |
航空総隊司令官 統合幕僚学校長 第6航空団司令 |
田母神 俊雄(たもがみ としお、1948年7月22日 - )は、日本の軍事評論家。元航空自衛官で第29代航空幕僚長。
来歴
1948年(昭和23年)福島県郡山市で生まれる。福島県立安積高等学校から防衛大学校に入学。卒業後航空自衛隊に入隊。職種は高射運用。
第6航空団司令、統合幕僚学校長、航空総隊司令官を経て、2007年(平成19年)3月28日、航空幕僚長に就任。
2008年(平成20年)10月31日、自身の論文にて集団的自衛権の行使を日本国憲法違反とする政府見解や1995年(平成7年)8月15日発表の村山談話と異なる主張を発表した(詳細は後述)ことなどが問題視されたことを受け、航空幕僚長の職を解かれ航空幕僚監部付に[1]。62歳定年の航空幕僚長たる空将(軍隊の大将相当)でなくなったことにより一般の将(同中将相当)と同様の60歳定年が適用され、11月3日を以て定年退官となった。同年11月11日、参議院外交防衛委員会に参考人として招致される。この委員会において論文内容を否定するつもりはないことを改めて強調した[2]。
年譜
- 1967年(昭和42年)3月:福島県立安積高等学校卒業
- 1971年(昭和46年)3月:防衛大学校卒業(15期、電気工学専攻)
- 1986年(昭和61年)1月:2等空佐昇任
- 1990年(平成2年)1月:1等空佐昇任
- 1991年(平成3年)8月:航空幕僚監部防衛課
- 1993年(平成5年)12月:第3航空団基地業務群司令
- 1995年(平成7年)6月:航空幕僚監部厚生課長
- 1996年(平成8年)7月:空将補昇任
- 1997年(平成9年)3月:南西航空混成団司令部幕僚長
- 1998年(平成10年)7月:第6航空団司令
- 1999年(平成11年)12月:航空幕僚監部装備部長
- 2002年(平成14年)12月:空将昇任、統合幕僚学校長
- 2004年(平成16年)8月:航空総隊司令官
- 2007年(平成19年)3月:第29代航空幕僚長
- 2008年(平成20年)
- 10月31日:民間の懸賞論文へ応募した作品が日本の過去の侵略行為を正当化する内容で、政府見解と対立するものであったことが問題視され幕僚長を更迭、航空幕僚監部付となる。同日付で「航空幕僚長たる空将」から空将となったことにより一般の将と同様の60歳定年が適用、6ヶ月の定年延長が発令される。
- 11月3日:定年延長が11月3日までとされ、同日付をもって定年退職。退官行事は行われなかった。
人物像
田母神のトークに関しては各所で『田母神節』と呼ばれるほどである。またユーモアが好きで、パーティなどのスピーチでも1、2回は必ず笑わせることを信条としていたという[3]。
2008年の『週刊文春』によれば幕僚長時代、自分の体格が小柄であることを題材(自著公称で身長162cm)に「自分は昔から歯に衣着せぬ発言で『慎重さが足りない』と言われてきました。しかし、私は言いたい。私に足りないのは慎重さではなく”身長”なんです!!」「各省庁のコンパクト化、スリム化が昨今言われていますが、防衛庁はまず幕僚長をコンパクト化しました」などのジョークを飛ばした。田母神は「私の自衛隊の同期、上官は親しみを込めて「タモちゃん」と呼んでくれた。酒の席となると部下までが同じようにそう呼んだ。自衛隊のような組織で部下にまでニックネームで呼ばれるのは珍しい。それだけ心を許してもらっていたのだと思う」と述べている[4]。
幕僚長解任後、「退職金を辞退するべきだ」との批判があったが最終的に受領した。受領後の質問で「やっと女房、子供から温かいものを食べさせてもらいました」と笑わせたという。
東スポのコラムでは、ニューミュージックのファンで浜田省吾と甲斐バンドのファン。(年齢柄)演歌も聞くが、ニューミュージックの方が好みだという。
。
在任中の主張・動向
安全保障など政治問題に対しても直接的な発言をすることで知られており、時には論議を呼ぶ発言をすることもある[5]。「航空自衛隊幹部学校幹部会の隊内誌『鵬友』でも「航空自衛隊を元気にする10の提言」(連載全4回 2003年7月号から04年9月号まで)、「日本人としての誇りを持とう」(07年5月号、幕僚長着任後)など、侵略の意図を否定し、“正しい歴史認識を”と繰り返し主張し続けている」としんぶん赤旗は報じている[6]。
名古屋高裁の傍論に対する発言
自衛隊のイラクでの活動に対する違憲の確認と派遣の差し止め、及び損害賠償を求める訴訟に対し、名古屋高等裁判所[7]は控訴人の請求はいずれも不適法であるとして棄却を言い渡したが、傍論として航空自衛隊の一部の活動を違憲[8]とする見解を示した[7] [8]。同判決について、原告側は判事の「傍論」を以って「実質勝訴」だったという見解を記者会見の場で示している[9]。
当時航空幕僚長を務めていた田母神は、2008年4月18日の定例会見で判決が現地で活動する隊員に与える影響を記者から問われると、「純真な隊員には心を傷つけられた人もいるかもしれないが、私が心境を代弁すれば大多数はそんなの関係ねえという状況だ」と発言した[10]。この発言が報道で取り上げられたことに対し、後日「表現が不適切であり、判決自体には異論を述べる趣旨ではなかった」と釈明している[11]。田母神によれば、この発言の意図は笑いを取るつもりであったが、一部のマスコミから「危険人物」と言われてしまったという[3]。
当時の防衛大臣石破茂が当時流行していたお笑い芸人小島よしおのギャグを意識して言ったのではないと本人から聞いたということや、会見録からも茶化して言ったという感じではないということを衆議院安全保障委員会で述べている[12]。ただし、一種の舌禍事件となったため本人の意図に関係なく「そんなの関係ねえ」との発言のフレーズだけが、その後も多くのマスコミで繰り返し引用され[13]報道された。
国会においてもこの発言に関する質問主意書が提出されたが、政府は、国側勝訴の判決と説明を加えた上で、憲法九条に違反するとの傍論の部分は「判決の結論を導くのに必要のない傍論にすぎず、政府としてこれに従う、従わないという問題は生じないと考え」ており、田母神の発言は「政府と同様のこのような認識に立った上で〔中略〕必ずしも正確な表現ではないが、自らの言葉でこのような発言をしたものと承知している。また、防衛行政については、シビリアン・コントロールの下、法令に基づき、適切に行われている。」と答弁している[14]。
もっとも、裁判所における傍論の法的拘束力は下級審について及ばないのであり、権力分立主義の下では行政府や立法府は司法の判断を傍論であっても尊重する必要があるとする意見があり、かかる発言・答弁は無知・無教養に起因するものであるとの批判がある[15]。
なお、田母神は退官後の12月21日に名古屋でおこなった記者会見の際にも高裁判決について「全く関係ねえです」と再度発言。更には直後の日本世論の会愛知県支部主催の講演で「あの時に『オッパッピー』までやっておけばよかった」、「侵略国家との誤った歴史観を改めなければならない」[16]と述べた。
クラスター爆弾について
使用後不発弾が大量に発生する事が問題視されていたクラスター爆弾に対し、田母神は2007年5月25日の記者会見で、日本の長い海岸線を防御するのに有効であると発言[17]したがそのなかで「クラスター爆弾で被害を受けるのは日本国民。国民が爆弾で被害を受けるか、敵国に日本が占領されるか、どちらかを考えた時、防御手段をもっておくべきだ」とした。
東京大学・五月祭にて
2008年5月24日、現職の自衛官として初めて、東京大学五月祭にて安田講堂で、「極東の軍事情勢と21世紀における我が国の針路」というテーマの講演を行い「将来リーダーとなる東大の学生の皆さんは高い志を持って燃えて欲しい。上が燃えないと組織は不燃物集積所になる」などの発言をした[18]。この講演に先立ち、講演がおこなわれることを知った石破は上記の「そんなの関係ねえ」発言を受け、「いいですか。あなたは一個人、田母神俊雄ではありません。私の幕僚です。政府見解や大臣見解と異なることを言ってはいけません。いいですね」と釘を刺した[19]。尚、当該講演においても、戦前日本の侵略国家性への疑問について、後述の懸賞論文に書かれていたような論拠を示しつつ、多くの時間を割いて主張した。
核武装発言
アパグループの元谷外志雄代表と親交があり、政界や言論人が集う「日本を語るワインの会」に参加していた。2004年9月15日、会合に出席した航空総隊司令官(当時)の田母神は「中国に対抗する勢力を作り、それを中国に認めさせるためには、日本が自立した国となり核武装を行うことが必要なのかもしれない」「最初から『日本は核武装を絶対しない』と宣言するのは馬鹿げたことだ」などと発言したことが明らかになっている。引用エラー: <ref>
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田母神は防衛の専門家として核武装は核抑止のための選択肢の一つとして述べているに過ぎず、NATOのようなニュークリア・シェアリング・システムを導入することも検討するべきだとしている。[20]
また、後述の2009年8月の講演でも「核兵器を廃絶しても平和が来るとは思っていないし、核廃絶自体も現実的には困難だと思う。」という認識を示し、「日本は核保有を議論する事すら許されないが、3度目の核被害に遭いたくないから核武装をするという論理はおかしくない。当然アメリカや中国は反対するだろうが、それに対し粘り強く交渉し勝ち取っていくのが外交である。」と述べているが、そもそも核拡散についてのリスク認識はきわめて甘く、分別のある発言ではない。[21]。
最優秀藤誠志賞受賞論文
趣旨
- 「日本は侵略国家であったのか」
受賞決定
田母神は、2008年10月31日、アパグループ主催の第1回『「真の近現代史観」懸賞論文』[22]に応募した「日本は侵略国家であったのか」[23]が最優秀藤誠志賞を受賞。「我が国はコミンテルンに動かされた蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者」「張作霖列車爆破事件も(中略)少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。コミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている」「日米戦争はルーズベルトによる策略であった」「諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。」「アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速し、日本の伝統文化が壊されていく」とする説を展開した。なお、週刊新潮や朝日新聞など一部マスコミから、主催者と懇意にしていたため出来レースで受賞したなどと報道されたため、「金のために論文を書いたわけではない」として、12月8日に開かれた表彰式においては賞金300万円の受け取りを辞退し、賞状のみを受領している。
公表後の波紋
田母神論文は「大東亜戦争は侵略戦争ではなく、中華民国やアメリカを操ったコミンテルンによる策謀が原因である」と主張するものであった。マスコミ等で、この論文の主旨が政府見解(村山談話、小泉談話)と異なる歴史認識とされ、それを外部に発表したこと、自衛隊最上層部への申請なく応募したとして、田母神は、浜田靖一防衛大臣から航空幕僚長の職を解かれて航空幕僚監部付となったうえで、60歳定年が適用され、11月3日を以て自衛隊を定年退官する事態となった。 浜田はこれについて、田母神が自ら辞職する意志もなく、また処分手続きに協力する見込みもないことから、田母神の空幕長としての定年である2009年1月21日までに懲戒手続きが終わる見込みがないため、早期に田母神を処分するためであったと説明している[24]。また、浜田靖一防衛大臣は、本件「懸賞論文は、先の大戦を巡る認識について、村山談話などに示されている政府見解と明らかに異なる認識が示されるとともに、憲法との関係でも不適切な部分がある」ことを理由として挙げている[24]。
日本テレビが行った電話によるRDD方式(乱数計算を基に電話番号を発生させて電話をかけ、応答した相手に質問を行なう)世論調査では政府の田母神に対する更迭措置に対し、「適切だと思う」が約60%、「適切だと思わない」が約22%と、更迭を肯定する数字が高かった[25]。
田母神論文は、近現代史の識者などから基本的な事実認識に誤りが多いと評され[26]、引用元である『盧溝橋事件の研究』の著者秦郁彦からは、「論文は事実誤認だらけだ。通常の懸賞論文コンテストなら、選外佳作にもならない内容だ」「事件の1発目の銃弾は(旧日本軍の)第29軍の兵士が撃ったという見解には触れもせず、『事件は中国共産党の謀略だ』などと書かれると誤解される。非常に不愉快だ」と批判されている[27]。防衛省関係者では、元防衛大臣の石破茂は田母神論文について「文民統制の無理解によるものであり、解任は当然。しかし、このような論文を書いたことは極めて残念」と自身のブログで見解を示している[28]他、防衛庁出身の評論家である太田述正は、「田母神氏の論文は、典拠の付け方や、典拠の選び方一つとってもシロウトの域を出ていません。しかも、内容的にも論理が首尾一貫していない箇所が散見されます。遺憾ながら、彼は、大将クラスの軍人のグローバルスタンダードに達していない無能な人物である、と申し上げざるをえないのです。」と批判している[29]。一方、懸賞審査委員長を勤めた渡部昇一や、西尾幹二などの田母神に近い歴史観を持つ保守系言論人が『WiLL』誌上などで弁護する論陣を張った。また与党の自民党の国防議員の集まりでは田母神を擁護する声が相次いだという。その中に村山談話に縛られたくない議員がおり、それに意を強くした田母神が今回の行動に出た可能性もあるとの指摘[30]もある。
インターネットのアンケート[31]やテレビ朝日の「朝まで生テレビ」での視聴者アンケートでは、田母神論文の内容についておよそ6割~8割弱が田母神論文を支持するという結果が出ている(ただし、一部のアンケート結果の信憑性については、週刊文春が「ヤフー・アンケート」で氏への支持が58%に上った事に関してヤラセであったと報道するなど、一部で疑問の声も上がっている[32])。
また田母神の支持者からは「『言論の自由』は隊員にはないのか」という批判も発生したが、自衛隊法六十一条によって[33]隊員の政治活動は制限されており、政治的表現を持つ言論には制限がある。また、防衛省改革会議に防衛省から提出された資料では「自衛隊員が、有する経験や専門的知識に基づき適切な形で意見を述べることは、我が国の安全保障にとって必要なことであると考えている。」としながらも「しかしながら、いかなる場合でも、自衛隊員、特に航空幕僚長のような幹部は、その社会的立場に留意し節度ある行動をとることは当然である。実力組織である自衛隊を運用し、任務を遂行するという重い責任を有している自衛隊員は、自らを格別に厳しく律する必要がある」とされており、自衛官、特に幕僚長という立場の重さを強調している[34]。田母神は。「政府見解による言論統制はおかしい」として「言論の自由」を繰り返し主張しているが、それに対し言論の自由は民主国家における基本的人権の一つであるが、もともとは弱者の言論を守るための権利であり、影響力の高い地位にいる人が、その力を後ろ盾に自説を吹聴するために持ち出す論理ではない、との指摘[35]もある。
田母神は2008年10月31日付で航空幕僚長を解任され、同年11月3日付で航空自衛隊を退職している。また田母神と同じように発言が原因で自衛隊要職を解任された高級幹部に統合幕僚会議議長の栗栖弘臣(当時)がいる。1978年7月に「週刊ポスト」誌上で、「現行の自衛隊法には穴があり、奇襲侵略を受けた場合、首相の防衛出動命令が出るまで動けない。第一線部隊指揮官が超法規的行動に出ることはありえる」と有事法制の早期整備を促す発言をしたが、これが“超法規発言”として当時の防衛庁長官・金丸信に事実上の解任(金丸が「困っている」と伝えると、栗栖が辞表を提出)をされた。この時は「自衛官の言論の自由」が議論されることはなかったが、栗栖の指摘により有事法制が議論されるようになり、のちに武力攻撃事態対処関連三法が制定される契機となった。
航空自衛隊幹部自衛官のサークル航空自衛隊幹部学校幹部会「鵬友」発行委員が発行する『鵬友』第29巻第6号(平成16年3月号)に寄稿した「航空自衛隊を元気にする10の提言」パートIIの内容で「身内の恥は隠すもの」と記している。
退職後の動向
2008年
2008年11月9日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』に出演予定であったが、田母神への参考人招致が11月11日午前に参議院外交防衛委員会でおこなわれるため、番組出演を見送った[36]。同番組には、元海上自衛隊幹部の惠隆之介が田母神の代わりに出演した。
11月24日深夜放送(11月14日収録)の『たかじんTV非常事態宣言』に電話出演をし、「表現の自由や言論の自由は認められているはずなのに、どうしてここまで大きな問題になったのか自分でも理解できない。村山談話を批判した発言だと言うが、論文では村山談話を批判しているわけではない。ただ、最近の日本は、昔の日本は悪かった、悪かったと言い過ぎなので、このままでは日本はダメになると思い、発言をさせていただいた」とコメントを述べた。
11月30日放送(11月28日収録)の『たかじんのそこまで言って委員会』に、松島悠佐(元陸将、現在は日本戦略研究フォーラム政策提言委員)、川村純彦(元海将補、現在は岡崎研究所の副所長・日本戦略研究フォーラム政策提言委員)とともに出演した。ここの話題でも、「自衛隊が、いつまでも日本が悪いという自虐史観を持っていては、自衛隊の精神が持たない」と述べた。また、核武装についても、「日本が唯一の被爆国であることから、きちんと核武装するかしないかの国会での議論はすべきだ」とコメント。本人は、「戦争、武力によって弾圧することはいけない。しかし、ただ、言論を述べただけなのに、こういう目に遭うのは困る」とコメントした。
表彰式が行われた12月8日、日本テレビ系列のニュース番組『リアルタイム』に拓殖大学大学院教授の森本敏(初代防衛大臣補佐官)とともに生出演し、約20分間にわたり討論を展開した。
12月23日、日本会議熊本が主催して熊本市内で行われた「村山談話の撤回を求める熊本県民集会」講演で「制服自衛官の99%が私を支持していると思う」と主張した[37]。
12月26日放送の日本テレビ系列の『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』のスペシャル番組『太田総理の証人喚問!2008年世間を騒がせた21人を徹底追及SP』に出演。登場時証人席でいきなり敬礼し「危険人物の田母神です」と発言し、その後「田母神論文問題」について証人喚問され、自身の歴史観など一連の真意について語った。
また、同日発行のフライデーで田母神は「2年前に防衛大学校長が、新聞紙上で自衛隊のイラク派遣反対の意見や小泉総理(当時)の靖国神社参拝反対の意見を公表しました。防大校長も自衛隊員ですが、その発言の責任を問われる事はありませんでした」と反発した[38]。防衛大学校校長は身分としては防衛省(当時は防衛庁)職員となるが、自衛官ではないという[39]。
西原正は校長在任期間中に小泉首相の私的懇談会「対外関係タスクフォース」に参加しており、当時の五百籏頭真校長も福田内閣の外交政策勉強会、防衛省改革会議に参加するなど政策提言者としての行動を行っている。なお、2004年3月の海上自衛隊幹部候補生学校の卒業式では石破茂防衛大臣は「自衛官は政治に関与してはならないが、政治に対して関心を持つべきだと私は思う。 (略) 専門的な立場で意見を申し述べることは諸官の権利であり、同時に民主主義国家における自衛官の義務だと思っております。」(「文藝春秋」2009年1月号)と述べている[40]。
2009年
2月19日、日本の前途と歴史教育を考える議員の会に招かれて自民党本部で行なった講演では、改めて自分の正当性を主張。石破から“空幕長ともあろう人があんな偏った歴史観では困る”と苦言を呈されたことに触れ「偏っているのはあなただと言いたい」と発言。更迭についても「辞表を書かなかったのは『ごめんなさい』と言いたくなかったからだ。一部調査では6~7割が私を支持しており、もう少し頑張った方が良かったかもしれない」と強調。出席者からは「そうだ」「興味深い話を聞いた」と賛同の声が上がったという[41]。
2月28日、名古屋の市民サークル若宮会講塾主催の講演会「拉致問題と国防」において、家族会事務局長増元照明、特定失踪者問題調査会代表荒木和博とともに北朝鮮による日本人拉致問題をテーマに名古屋市内で講演し「自衛隊を動かしてでも、ぶん殴るぞという姿勢を(北朝鮮に)見せなければ拉致問題は解決しない」と述べた。田母神は記者会見で「『ぶん殴る』とは具体的には何か」と質問されると「自衛隊を使って攻撃してでもやるぞという姿勢を出さないと、北朝鮮は動かない」と答え、軍事オプションを圧力の一環として威嚇することの重要性を訴えた[42]。
3月13日の朝鮮新報が、上記の田母神の発言に対して3月10日に朝鮮中央通信が非難したと報じた。同通信は、田母神を「日本軍国主義勢力の代弁人を自称し、内外の糾弾にさらされている極悪な右翼反動分子」だと指弾し、この発言を「反朝鮮対決と戦争の狂信者だけが吐くことのできる許しがたい暴言」「朝鮮半島をはじめアジアと世界を征服しようとする日本の反動層の再侵略野望が頂点に至っていることを示すもの」「朝鮮の自主権に対する挑戦、アジアの平和と安全に対する脅威」だと指摘していた[43][44]。
5月3日の憲法記念日にフジテレビ系列の「平成教育委員会2009!!春の最新中学入試SP」に出演。
「日本の侵略戦争説」を否定するという、自衛官にとっての「タブー」に挑戦したことで保守派に人気が高く、退官後は多くの講演に招かれている。2009年2月の講演回数は実に24回/月に及んでいる[45]。田母神は自身の人気について「日本が謝罪ばかりしていることに『何かおかしい』と感じていた多くの国民が、私の発言にストンと心に落ちるものがあるのでは」との考えを語っているほか、「日本には反日的な言論の自由はあるが、親日的な言論の自由はない」と述べている[46]。
この主張については自著の中でも言及しており、「日本には反日的言論の自由は無限にある。日本のことをいくらでも悪く言うことができるし、それによって国会が紛糾することもない。一方、親日的言論の自由は極めて制限されている。特に自衛隊に関することと歴史認識については、言論が封じられ、言っただけで問題を引き起こす。今回の私の論文がその典型である。問題になるのが分かっていて何故言うのかという疑問があるだろう。それは、問題にしないということは少しずつ反日に同調するということを意味するからだ。これまでの歴史の推移を見れば、それは明らかである。そのとき少し譲歩して収めたとしても、次回はもっとつらくなる。もっと言論が不自由になる。この繰り返しでは日本はやがて崩壊してしまう」と述べている[47]。田母神は、敵のミサイル基地を攻撃することや、核兵器について、自衛隊に所属していたあいだは議論すること自体が難しいとも感じていた。攻撃能力や核兵器保有を決定するのは政治であるが、議論することすらも許されないであれば日本は独裁国家と同じであると断じている。
退官後の生活について週刊誌のインタビュー[48]、に、講演や著書執筆などで多忙の日々を送っており、趣味のゴルフに出掛ける機会もめっきり減ったと語った。当記事では田母神の退官後の推定年収は現役時代の約4倍に達する勢いと言う。また、自著の『田母神塾』において、複数の政党や政治関係者などから出馬要請を受けたが、本人にその意思はないと断っているとの記述がある。
田母神は「私は心底国家国民の将来を思って、問題とされる論文を書いた。今の自虐史観が払拭されなければこの国は駄目になってしまうという危機感を感じている。しかし私の国家国民への熱い思いへの回答は、私の更迭というものであった。そして保守政党『自由民主党』は、またも保守政党から遠い政党になってしまった。また少し左に寄ってしまった。自民党は、今後さらに強力に村山談話を奉っていくことになるだろう。しかしそれでも私はこの国の将来に希望を捨てていない」と述べている[49]。
被爆地広島に関する発言
8月6日の被爆地で核武装主張講演
日本会議広島支部(会長・松浦雄一郎広島大学名誉教授)の主催で2009年8月6日の原爆忌当日に広島市中区のメルパルクホール広島で「ヒロシマの平和を疑う」との題目で講演を行うことが計画された。これに対し6月29日に秋葉忠利広島市長は「言論の自由という視点で考えれば、いつどこで何を発するかは自由」としたうえで、日本政府に核武装を主張している田母神が原爆の日(人類に対し核兵器が最初に実戦使用された)に被爆地で講演を行うことは「被爆者や肉親を(核兵器で)失った遺族の悲しみを、いやが上にも増す結果となりかねない」として、講演日程の変更を求め[50]、正式に田母神サイドに要請書を送付した。平和記念式典は毎年原爆が投下された8月6日には広島平和記念公園で原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念するため、広島市が主催する[51][52]式典であり[53]、核兵器廃絶を訴える市長アピールをすることが半世紀続いた恒例であるが、田母神の「核武装論」とは相容れないものであった。なお講演会場のメルパルク広島(広島中郵便局と同じ建物)は、原爆ドームから徒歩1分、広島平和公園からも徒歩5分の立地で、広島そごう、基町クレド、旧広島市民球場などの繁華街や広島バスセンターや広島電鉄本線の電停があるなど、広島市で最も人の集まる地域にある。
これに対し日本会議広島の理事らは、「とても過激な過剰な反応だと思う」「あたかも圧力をかけるようなやり方は理解できない」((日本会議広島常任理事石橋良三県議)[54]「話を聞く前から拒否反応をするのは間違っている」や「核武装の議論をするが、核武装を主張するための講演ではない」と反発[55]したが、田母神が6月20日に広島の新聞社[50]に対し「核兵器は絶対に使われることのない兵器だが、持つか持たないかで国際的な発言力は全然違う。日本のために核兵器を持つべきだと考えており、講演ではそこに触れる事になると思う」と、講演で持論の核武装論を主張することを予告するコメントをしていたことが明らかになったため、広島の7つの被爆者団体は日本会議広島支部への抗議と日程の変更を求める申し入れを行い、8月6日に講演が強行された場合には講演会場前で抗議集会を検討すると表明した[56]。
この動きについて、日本会議広島支部事務局は秋葉市長に対し「民間団体を排除する動き。思想信条を侵害することになる」と指摘し、その主旨の文書回答を検討するとしたうえで、被爆者団体からの抗議については「核兵器がない世界を求めることについては(広島)市と同じ思い。平和へのアプローチが違うだけだ」と[56]した。また日本会議広島支部は主に広島県と山口県東部の県紙である中国新聞に7月27日に意見広告を掲載し、そのなかで2008年に北朝鮮の核に触れないヒロシマの「平和宣言」に疑問がある[57]としたうえで、再び被爆者を生み出さないために安全保障の専門家で時の人でもある田母神の講演会を8月6日にする必要があるなどと主張した。なお、意見広告に中国新聞社に支払った広告費用1,491,000円(消費税込)を募金するようよびかけていたものであった。
なお、講演は予定どおり8月6日に開催された[58]。当日は講演会開催に反戦団体や労働組合など200人が集まり、田母神に反対する横断幕を掲げてシュプレヒコールを上げるなどの抗議行動をし、さらに右翼団体の街宣車1台が登場し、市民団体ともみ合いになったが、警備の警察官による説得で事態を収拾した[59][60][61]。なお、当日は会場に入りきらず別室でモニターで視聴したものを含め主催者発表で1400人が集まったが、講演会ではジョークを交えサービス精神旺盛なところを見せて[62]持論を主張[61]した。その中で核廃絶は夢物語であり無理であるが、核保有国は報復が恐ろしいので使用することはないだろうと核抑止についての講演[61]を行った。
なお、日本会議広島は当日の講演会の模様を『秋葉広島市長が「待った」をかけ、注目を集めた講演』としてCD「ヒロシマの平和を疑う~8.6 田母神俊雄 講演会」として販売している。
産経新聞の古森義久はこの騒動に対し、秋葉忠利広島市長が長年(秋葉が2002年アメリカン大学でのパネルディスカッションで米国の核のみを批判した例を挙げ、少なくとも2002年までに)[63]、核廃絶を主張する際にほとんど中露、イラク、北朝鮮には触れず、アメリカの核だけを廃絶の対象にあげてきたとし、日本の反核運動は左翼による政治的に偏った運動が顕著だった歴史があると主張し、それがこの騒ぎの背景にあるとしている[64][65]。
「広島平和記念式典は左翼運動、被爆者はいない」
前述の原爆忌の講演の後、自身の田母神俊雄後援会公式ホームページの「田母神ルーム」で広島の原爆慰霊祭についてのコメントで『慰霊祭の参列者の中には広島市民も被爆者やその家族の方々もほとんどいない、全国からバスなどで集まってきたある種の思想を持った人たちで、広島の被爆とは全く関係のない人たちが参列しており、平和学習と称して日教組の先生方に引率された小学生や中学生もいっぱい参列している」と主張し、こうした事実はテレビや新聞でも全く報道されていないとした。また広島の原爆慰霊祭は核廃絶の政治運動であり、核廃絶以外の意見が公式には全く言えないような状況であるなか、広島で講演したことは「言論の自由」の確保に一定の効果があったなどと主張した。
こうしたなか、第45回衆議院議員総選挙で大阪府第17区に改革クラブから出馬する西村眞悟の応援演説に8月24日立った際、広島平和記念式典を「左翼の大会」と呼び、“広島在住の知人から聞いた話”として「祈念式典出席者に本物の被爆者や被爆者家族はほとんどいない。並んでいるのは全国から集った左翼。一部政治勢力が日本弱体化を図っている」と発言、麻生太郎首相が式であいさつ[66]したことを「マンガです」と評した[67]。この発言に対し広島市及び広島被爆者団体協議会は「事実誤認も甚だしい」「虚偽発言。記念式典への許し難い中傷だ」と反発している。なお本人は式典会場を見ていないし、当日のテレビ放送も見ていない[68]。発言の根拠については「広島の知人がみんなそう言っている」からというものであった[67]。なお西村とは2008年11月1日に自身のブログで田母神の主張に対し「当たり前のことを述べておられる。同感である。」と賛同したのが縁で親密になったという。
また8月25日には宮崎県第1区から出馬する中山成彬の応援演説でも「慰霊祭は左翼運動。あそこに広島市民も県民もほとんどいない。被爆者も2世もいない。左翼ばかりだ。並んでいるのは全国から集まった左翼。一部政治勢力が日本弱体化を図っている」などと大阪で行なったと同様の演説[69][70]をした。田母神は式典には広島市民も広島県民もほとんおらず[71]全国からバスで左翼が押しかけたと重ねて主張した。中山とはサイゾー2008年12月号で対談して外交問題や歴史認識で意気投合したという[72]。
田母神によるこれらの発言に対し、広島被爆者団体協議会の坪井直理事長は「広島の平和記念式典は被爆者が平和宣言を聞き、亡くなられた方々に献花などする場。田母神氏の発言は実証がないのに人を扇動するばかりだが、何の効果もない。騒ぐ必要はないだろう」とし、「真実とはほど遠い。相手にもしたくないが、間違ったことが風評になることは止めなければいけない」と主張した[73]。長崎原爆被災者協議会も「原爆犠牲者に対して失礼だ。式典には歴代首相が参列して恒久平和と核兵器廃絶を誓っているのだから、日本政府はきちんと田母神氏に抗議すべきだ」と主張した。なお、広島市は当日の平和式典の参加者は約5万人[74]で、被爆者とその家族席として5500席のテント席を設けたとし[75]、広島市市民活動推進課によるとテナント席には高齢被爆者のために一杯であり、一般席にも多くの被爆者がいたとしている[76]。広島市原爆被害対策部の担当者は「事実誤認であり、コメントできない」とした[77]。また広島県被団協も「暑い中、慰霊のため参列する老いた被爆者の心情をわかっていない。許されない」と批判[78]した。
中国新聞のコラム『天風録』2009年8月28日の中で、被爆者は出席していないという「被爆者席」を見ない田母神の言論を「ノストラダムスの大予言(の予言解釈本)」と同様に、無責任な主張をする「トンデモ本」の著者と評したが、そのなかで『トンデモ本が出回る社会には自由があるそうだ。でたらめを承知で「うそ」を楽しむのも一つの文化であり、健全さの証しと見る人もいる。しかしそれは傷つく人がいないならである。(中略)かつての戦争を正当化する「論文」のたぐいも今までにも増して、まゆにつばをつけて読まねばなるまい。大予言は「外れたね」で済んだが、こちらは笑ってすまされない』と主張した。
家系
「田母神」姓は福島県に縁のある姓である。福島県郡山市田村町にある山村地帯に田母神地区がある。同地は坂上田村麻呂の母の出身地といわれている。また福島県内には同じ地名が他にいくつかある。
その意味は、田を守護する神から来た地名で、田村麻呂の子孫が散らばってその神を祭ったことに由来するといわれている。またオートレース選手の田母神昇も同じ福島県出身である。なお同地区に田母神小学校と言う学校があるが、田母神はその小学校の卒業生である。
著書
- 『自らの身は顧みず』ワック、2008年12月。ISBN 978-4-89831-128-8。
- 『DVD 自らの身は顧みず 田母神俊雄講演』ワック、2009年1月。ISBN 978-4-89831-306-0。
- 『田母神塾 これが誇りある日本の教科書だ』双葉社、2009年2月。ISBN 978-4-575-30110-6。
- 『真・国防論』宝島社、2009年5月。ISBN 978-4-7966-6974-0。
- 『自衛隊風雲録』飛鳥新社、2009年5月。ISBN 978-4-87031-919-6。
- 『座して平和は守れず 田母神式リアル国防論』幻冬舎、2009年5月。ISBN 978-4-344-01678-1。
- 『田母神流ブレない生き方』主婦と生活社、2009年8月。ISBN 978-4-391-13802-3。
- 『サルでもわかる日本核武装論』飛鳥新社〈家族で読めるFamily book series 006 たちまちわかる最新時事解説〉、2009年8月。ISBN 978-4-87031-936-3。
- 共著・対談・編著
- 『日本は「侵略国家」ではない!』渡部昇一、海竜社、2008年12月。ISBN 978-4-7593-1054-2。
- 『自衛隊はどこまで強いのか』潮匡人、講談社〈講談社+α新書〉、2009年3月。ISBN 978-4-06-272567-5。
- 『この身、死すとも「これだけは言いたい」』長谷川慶太郎、李白社、2009年4月。ISBN 978-4-89451-908-4。
- 『国防論』勝谷誠彦・川村純彦(元海将)・松島悠佐(元陸将)、アスコム、2009年5月。ISBN 978-4-7762-0548-7。
- 『国粋ニッポン闘議 高須基仁対談集』高須基仁、春日出版、2009年6月。ISBN 978-4-86321-166-7。
- 『田母神俊雄 全一巻 WiLL増刊号』ワック、2009年8月。
脚注
- ^ 政府、田母神空幕長を更迭 「侵略はぬれぎぬ」主張巡り(NIKKEI NET 2008年11月1日 01:01)
- ^ 第170回外交防衛委員会(第170回国会 外交防衛委員会 第6号)平成二十年十一月十一日
- ^ a b 『自らの身は顧みず』205ページ
- ^ 『自らの身は顧みず』142ページ
- ^ 航空幕僚長:田母神氏更迭 過去にも問題発言、隊内に衝撃(『毎日新聞』 2008年10月31日 22時25分(最終更新 11月1日 1時13分) )
- ^ 「更迭の空幕長、侵略美化就任前から 隊内誌に論文 政府の任命責任重大」(『しんぶん赤旗』 2008年11月2日付)
- ^ 裁判長青山邦夫・裁判官坪井宣幸・裁判官上杉英司
- ^ 、航空自衛隊部隊が多国籍軍兵士をバグダットに輸送していることについて、戦闘地域での活動とし、他国による武力行使と一体化した行動で、自らも武力の行使を行ったとの評価を受けざるを得ない行動であり、武力行使を禁じたイラク特措法に違反し、日本国憲法第9条に違反する活動を含んでいるとする問題点を指摘した。
- ^ 自衛隊イラク派兵差し止め訴訟の会/声明 ─ 違憲判決を承けて
- ^ 違憲判決?「そんなの関係ねえ」(『デイリースポーツ』、2008年4月19日)
- ^ 「関係ねえ」発言 空幕長、「一部不適切だった」(『産経新聞』 2008年4月25日)
- ^ 第169回国会 安全保障委員会 第6号 平成20年4月25日
- ^ ”「そんなの関係ねえ」と言い放ち”(「空幕長更迭 侵略が「ぬれぎぬ」とは 」(『北海道新聞』 2008年11月1日 社説)、”「そんなの関係ねえ」と記者会見でちゃかして”(「空幕長更迭―ぞっとする自衛官の暴走」(『朝日新聞』 2008年11月2日 社説)、”お笑いタレントの言葉を引用して「そんなの関係ねえ」と語り”(「空幕長更迭 トップがゆがんだ歴史観とは」(『毎日新聞』 2008年11月2日 社説)、 ”お笑いタレントのせりふに重ね「そんなの関係ねえ」と述べた”(「空幕長論文 あきれ返る「侵略」正当化」(『西日本新聞』 2008年11月3日 社説)、”「そんなの関係ねえ」といわんばかりの言動”(「前空幕長の陳述 文民統制を何と心得る」(『東京新聞』 2008年11月12日 社説)など
- ^ 内閣衆質一六九第三一九号 平成二十年四月三十日 (第169国会質問319号「航空幕僚長の「そんなの関係ねえ」発言と官房長官の「戦闘地域で民間航空機が飛ぶはずがない」発言に関する質問主意書」に対する答弁書)
- ^ マガジン9条〜伊藤真のけんぽう手習い塾〜第64回:イラク派兵9条違憲判決の効力
- ^ 田母神氏、再び「関係ねえ」発言 名古屋の講演で共同通信12月21日
- ^ 朝日新聞 2007年5月26日朝刊
- ^ 「東大生は年寄りが多い」 “関係ない”発言の田母神航空幕僚長が講演(『産経新聞』 2008年5月24日)
- ^ 憲法改正論にまで踏み込む前航空幕僚長 「田母神論文」の危うさ(『毎日新聞』 2008年11月12日夕刊)
- ^ NATOの運用するニュークリアシェアリングとは「通常兵器」であるワルシャワ条約機構の機甲部隊が侵攻した際に、それを阻止するために「NATO加盟国領土」に「NATO加盟国自身」が戦術核を使用するという防衛構想の前提において、その投射手段を米軍だけではなくNATO共同で負担し、核の使用をNATOの総意とするものであって、戦略核兵器をNATOが共同運用するものではなく「NATOのような」方法を採る限り、そこに核抑止の概念は無い。NATO以上に密接な日米関係を強化するのか、NATOのように通常戦力の底上げとしての戦術核兵器の保有を目指すのか、戦術核兵器という限られた能力の中で核抑止力の構築を目指すのか、核武装の端緒としての方便なのか、田母神から具体的な説明はない。
- ^ 日本会議広島 活動レポート
- ^ アパグループ第一回「真の近現代史観」懸賞論文募集(APA GROUP)
- ^ 日本は侵略国家であったのか(PDF)
- ^ a b 平成20年11月4日(11時01分~11時23分)防衛大臣記者会見概要 防衛省
- ^ 日本テレビ2008年11月定例世論調査
- ^ 『小学校から勉強を』 「低レベル」論文内容 識者らあきれ顔東京新聞 2008年11月1日閲覧
- ^ 朝日新聞 朝刊 社会面 2008年11月1日。ただし、「(旧日本軍の)」という部分は誤りであり、第29軍は中国側の軍を指す。朝日新聞は翌日の朝刊で訂正。
- ^ 石破茂(いしばしげる)オフィシャルブログ「田母神・前空幕長の論文から思うこと」
- ^ 防衛省OB太田述正アングロサクソン文明と軍事研究ブログ「田母神空幕長解任事件について」
- ^ 中国新聞社説『参考人の前空幕長 この期に及び強弁とは』2008年11月12日
- ^ 「田母神氏支持」、ネット調査で7割(livedoorニュース 2008年11月12日)
- ^ 『週刊文春』 2008年11月27日号 p.166-167
- ^ 自衛隊法 法令データ提供システム
- ^ 「防衛省改革の取組みについて(防衛省)PDF)
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- ^ 時事ドットコム 2008年11月11日
- ^ “田母神氏「制服99%が支持」 講演で影響力強調”. 西日本新聞. (2008年12月23日) 2009年2月17日閲覧。
- ^ フライデー 2008年12月26日号 『田母神俊雄《前航空幕僚長》【激白】「過剰な文民統制が日本を滅ぼす』」
- ^ 朝日新聞2009年3月13日の訂正記事より。防衛大学校校長を自衛官と表現したことから、防衛省から抗議がきたため。
- ^ p110 「田母神塾」田母神俊雄 双葉社 ISBN 978-4-575-30110-6
- ^ 田母神前空幕長が石破氏批判 「偏っているのはあなただ」東京新聞2009年2月19日
- ^ 拉致問題「自衛隊動かしてでも」 田母神前空幕長、講演で共同通信2009年2月28日
- ^ 朝鮮中央通信 田母神前航空幕僚長の暴言を非難朝鮮新報2009年3月13日
- ^ 「拉致と国防」でシンポジウム 家族会事務局長・増元氏、特定失踪者調査会代表・荒木氏ら 田母神氏も参加し「ぶん殴る姿勢示せ」日刊ベリタ 2009年3月3日
- ^ “田母神氏、講演引っ張りだこ 「言論タブー」照らし出す”. 産経新聞. 2月28日閲覧。accessdateの記入に不備があります。
- ^ “言論タブーも照らし出す“田母神人気””. 産経新聞. 3月1日閲覧。accessdateの記入に不備があります。
- ^ 『自らの身は顧みず』167ページ
- ^ 週刊新潮、2009年3月12日号「講演会モテモテ「田母神」前空幕長は「年収1億」突破目前」
- ^ 『自らの身は顧みず』205 - 206ページ
- ^ a b 中国新聞 2009年6月30日朝刊
- ^ 平和文化No.170(財団法人広島平和文化センター)[1]
- ^ 朝日新聞2009年8月24日[2]
- ^ 広島市による広島平和式典の概要
- ^ 中国放送2009年6月30日
- ^ 朝日新聞2009年6月30日朝刊
- ^ a b 中国新聞 2009年7月1日朝刊 引用エラー: 無効な
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タグ; name "chugoku1"が異なる内容で複数回定義されています - ^ 実際には2005年、2006年、2009年に宣言に直接言及している
- ^ 田母神講演会:ヒロシマの平和を疑う! 日本会議広島
- ^ 2009年8月7日 毎日新聞
- ^ 2009年8月6日 時事通信
- ^ a b c 中国新聞 2009年8月7日朝刊
- ^ 中国新聞2009年8月28日朝刊「天風録」
- ^ 1999年に広島市長に就任した秋葉は、2001年以前の平和宣言では米国も含め特定国を名指批判していない[3][4][5]。2002年には米国のみを名指しで批判している[6]。
- ^ 2009/06/30 ステージ風発秋葉忠利・広島市長が言論抑圧か――市長の反核運動の偏りを問う
- ^ 2002年、2005年に北朝鮮は核保有宣言をしたが、広島市秋葉市長は、2003年~2005年の平和宣言では北朝鮮に言及しているが、2006年には言及せず、北朝鮮の核実験後の2007~2008年の平和宣言でも北朝鮮に言及せずに、2007年にはブッシュ政権批判、2008年には米国の核に対する姿勢批判と米国のみを名指しで批判している。但し、核実験を行った国々へ抗議文を、核保有国には核廃棄の要請文を送っている(核保有国等への要請文・抗議文)。
- ^ 読売新聞2009年8月7日朝刊によれば、あいさつの主旨は「日本が今後も非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて国際社会の先頭に立ってゆく」であった
- ^ a b 広島平和記念式「被爆者ほとんどいない」田母神氏が演説アサヒコム2009年8月24日
- ^ 8月6日にはNHKが式典の模様を全国中継していたが、広島県民放4社(中継局が広島にないテレビ東京系を除くネット局4社)も自主制作中継番組をローカル枠で中継しており、教育テレビを除く地上波5局とも放送していた。なお田母神は前日から広島に滞在していた。式典の様子は動画サイトで誰でも確認できる
- ^ 『田母神元空幕長 広島平和式典「被爆者も2世もいない」』毎日新聞 2009年8月25日配信、2009年8月26日確認
- ^ 田母神氏「参列者は左翼ばかり」 広島の平和記念式批判中国新聞2009年8月26日配信、2009年8月26日確認
- ^ >64年目の祈りの朝 広島きょう原爆の日によれば、実際には元自民党の参議院議員の藤田雄山広島県知事や広島市の市立小学校の児童など多くの広島市民は参加している。
- ^ 中山氏に田母神氏が“救いの手”スポーツ報知 2009年8月20日 2009年8月26日確認
- ^ 『前空幕長「広島平和記念式典は左翼運動」と発言』 読売新聞2009年8月26日
- ^ 中国新聞2009年8月7日朝刊
- ^ 64年目の祈りの朝 広島きょう原爆の日中国新聞2009年8月6日配信、2009年8月26日確認
- ^ 中国新聞2009年8月27日朝刊社会面
- ^ 『前空幕長「広島平和記念式典は左翼運動」と発言』 読売新聞2009年8月26日
- ^ 中国新聞2009年8月27日朝刊「田母神氏発言被爆者ら怒り」
関連項目
- 戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話
- 真珠湾攻撃陰謀説
- 張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説
- 文民統制
- 歴史認識
- 藤尾正行
- 奥野誠亮
- 永野茂門
- 桜井新
- 江藤隆美
- 平沼赳夫
- 西尾幹二
- 西村眞悟 - 防衛政務次官を短期で辞任
- 日本会議
- 日本文化チャンネル桜
- 小林よしのり - 2009年、WiLL増刊号で対談
- 潮匡人 - 共に元自衛官で共著あり
外部リンク
- 田母神俊雄 後援会 (公式サイト)
- 田母神論文と自衛官の名誉を考える会
- 田母神俊雄(防衛大第15期同窓会 『航空自衛隊を元気にする10の提言』へのリンクあり)
- 小泉談話
- 揺らぐ文民統制(東京新聞「特集・連載」)
- 第12回防衛省改革会議 防衛省提出資料「防衛省改革の取組みについて」
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