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2007年11月6日 (火) 01:09時点における版

丹波哲郎
たんばてつろう
本名 丹波正三郎
生年月日 (1922-07-17) 1922年7月17日
没年月日 (2006-09-24) 2006年9月24日(84歳没)
出生地 日本の旗日本東京都
民族 日本人
ジャンル 俳優
活動期間 1952年 -2006年
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丹波 哲郎たんば てつろう1922年大正11年)7月17日 - 2006年平成18年)9月24日)は、東京都新宿区出身の日本の男性俳優

来歴・人物

本名は、丹波正三郎。東京・大久保の名家の三男。祖父敬三大正時代を代表する薬学者として知られ、系図を遡ると平安時代医学書医心方』を著した丹波康頼に辿り着くという(丹波の国の農民だから丹波と名乗ったとの説もある)。

成城学校新宿区原町)を卒業、中央大学法学部英法科卒業。在学中に学徒出陣GHQ通訳のアルバイトを経験。卒業後は団体職員となるも俳優を志し、創芸小劇場、文化座を経て、1952年「殺人容疑者」(新東宝)にて主演級の役でデビュー。その後は脇役ばかりの日々を過ごすが、敵役悪役としては主役俳優を圧倒してしまうほどの強烈な存在感を見せた。

1960年より新東宝を離れフリーに。1961年のニュー東映で「霧と影」や「白昼の無頼漢」に主演し重厚な演技が徐々に注目を集める。1963年に始まるフジテレビのドラマ「三匹の侍」でスターダムにのし上がる。既に41歳であった。1960年代は東映のギャング映画や任侠映画を中心に準主演級の存在感の有る役どころ(ギャングのボス・やくざの兄貴分など)で多数出演するなど演技派性格俳優として活躍。1967年には「007は二度死ぬ」に出演し、三船敏郎に次ぐ国際俳優と呼ばれるようになる。代表作は1974年の「砂の器」と1975年より始まるTVドラマシリーズ「Gメン75」。俳優活動は50年以上、映画出演作品は300本以上に及んだ。そのうち外国映画は10本。

さらに、俳優養成所「丹波道場」を設立、後進の育成も手がけた。

オールスター映画の常連であり特に権力者など上層部の人間の役を得意としていた。また、そのような権力者役で数秒の特別出演をすることが非常に多かった。

1980年、「二百三高地」でブルーリボン賞助演男優賞、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。

また、心霊学と霊界に造詣を持ち、心霊学研究書は1万冊以上[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。 。心霊関係著書は70冊。総発行部数は250万冊を越え、年間20回以上の講演を行う。自ら「死後の世界」を描いた映画を作成・出演し、300万人以上の動員を得る。1994年11月には舞台で「大霊界」を表現し、映像では得ることの出来ない空間を表現し話題を呼んだ。

息子には、俳優の丹波義隆森正樹がいる。

チェロキー族出身の米国の俳優ウェス・ストゥーディと容貌が似ていると言われる[1]

2005年2月から約2ヶ月間、インフルエンザと虫垂炎のために入院しそれが原因でひどく痩せ、健康が懸念されていた。丹波は死去する前に霊界はすばらしいところなどと遺言を残したという。

2006年9月24日午後11時27分、肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去。享年85(満84歳没)[利用者の方へ]。大霊界へ旅立っていった。ウィキニュース

エピソード

  • 日本ではあまり知られていないが海外、とくにヨーロッパでは俳優、プロデューサーとして「テツロー・タンバ」の評価は高い。主演も多い大物映画俳優としては屈指の出演本数の多さであり、仁義なき戦いシリーズでは写真だけの出演もあった。彼の本によると『人間革命』(創価学会池田大作原作)でシリアスな宗教家を演じた時期に東映の「ポルノ時代劇 忘八武士道」(石井輝男監督)にも主演していた。
  • 『人間革命』出演後、創価学会の大会に招待された際、創価学会の活動をさかんに顕揚する講演をした後で「南無阿弥陀仏」としめくくり、場内を騒然とさせたという、丹波は著書に、自分のオッチョコチョイな性格を示す逸話として、この失敗談を載せている。
  • 出演依頼は二度断り三度目に応諾する、5ページ以上台詞のある仕事は受けない、というスタイルを守っていたとされる。マネージャーの条件は「仕事を取って来ないこと」で、仕事を取りすぎるという理由で解雇されたマネージャーも複数いたという。
  • 近年では、出演する映画やテレビドラマでは出演者紹介のクレジットはいつも最後に登場するか、「特別出演」となっていることが多かった。キャリアや年齢、役柄からそうなっているが、そのような待遇でないと出演しなかったとの説もある(ただし、2002年の「釣りバカ日誌13」に出演した際のクレジットは、シリーズ物へのゲスト出演という関係からか三國連太郎の前で連名表記の三番手となっていた。)。
  • 現場では台詞を覚えてこないことで有名であった。何故セリフを覚えてこないのかと訊かれ、「仕事は家庭に持ち込まない主義だから」と答えた。撮影ではカンニングペーパーが準備された。
  • 丹波の乗った車が交通違反で停められた際、丹波が警察官に「Gメンだ」と言ったエピソードは有名。このときの違反はスピード違反と語られることが多いが、丹波自身の談話によると、一方通行の逆走だったとのことである[1]
  • 右目、右手が無い剣士、丹下左膳を演じる際、撮影のときに殺陣がやりにくいから左手、左目がないことにして刀を右で持つ、という提案をし、世間を驚かせた。歴代の丹下左膳の中でも右手なのは彼が演じる丹下左膳のみである。
  • 心霊学の他、催眠術への造詣も深く、自ら催眠術を操れたという。新東宝時代、社長の大蔵貢と会食した際、彼の愛娘に対し催眠術を掛けてやると持ちかけ、慌てて大蔵に止められた事がある。これは、当時大蔵が自社の女優を手当たり次第物色していたとして物議を醸していた最中の事であり、この一件はこのような大蔵の姿勢に対し、丹波が催眠術を掛けて逆に娘を物色するぞと皮肉ったものとされる。
  • ワンマンで名高い松竹の城戸四郎社長を影でシロウちゃんと呼んでおり、不在の本社を訪ねては「シロウちゃん、いるかい」とふざけていたら、偶然本人がいたのでこの映画界のドンとモメテしまったとされる(キネマ旬報「大放言」より)。但、城戸を偏屈だが愛すべき人物として敬愛してもいたらしい。
  • 俳優として確固たる地位を築いた矢先、愛人と隠し子がいるとの騒動が勃発。しかし、「こんな事はタクシーの運転手さんも知っているよ」とあっさり認めてしまった。彼の葬儀が行われた際、愛人とその子供が弔いに訪れた。実子である義隆は、これを気遣ってあえて席を外し、二人に別れの一時を与えたという。丹波は、二つの家族を分け隔て無く愛した故の出来事と言える。
  • 葬儀の際、義隆の長男が「祖父はいつも女性の身体をさわっていた」と暴露。被害者(?)は義隆の夫人のみならず孫娘2人など多岐に渡っていた模様。しかし当の本人達は笑って回顧していたことから、決して陰湿なものではなかったようである。

出演作品

映画

テレビ

ドラマ
バラエティー

CM

著書

  • 大霊界
  • 大俳優 丹波哲郎(ダーティ工藤によるインタヴュー集 ワイズ出版 2004年)

関連項目

  • 川上哲治(著書の中で豪放な丹波にしては珍しく軍隊時代のリンチの恨みを語っている。その相手がドン川上である)
  • 嘉門達夫(丹波の発言やキャラクターをもとにした楽曲「タンバでルンバ」を発表)
  • 宮内洋(丹波哲郎の一番弟子)

パロディ

  1. ^ DVD「Gメン'75 FOREVER BOX」Vol.1 映像特典 TALK ALIVE (東映ビデオ)

外部リンク

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