Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/夜長姫と耳男 20130713
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選考終了日時:2013年7月27日 (土) 22:19 (UTC)
- (推薦)自薦です。1,2件参照できなかったものはあるのですが、この作品を主題とする主な文献をほぼ総覧した上で必要なトピックをまとめることができていると思います。良質な記事のレベルには達していると考え推薦いたします。--頭痛(会話) 2013年7月13日 (土) 22:19 (UTC)
- 賛成 自薦票。なおノートページにて、「解釈」節で各論者の意見を分類しているのは独自研究に当たるのではないか、という意見が寄せられましたが、参照論文自体を分類することを目的としているわけではないことは文章構成上わかると思いますし、Wikipedia:独自研究は載せないに抵触しているような部分はないと認識しています。--頭痛(会話) 2013年7月13日 (土) 22:19 (UTC)
- コメント自薦票のコメントのみを見ただけにすぎないことをお断りしたうえで、疑問点を書きます。記事内の「解釈」節での分類はなんらかの研究史・学説史に関する論文等(研究史・学説史を主たる主題にしていなくても、個々の論文内での先行研究オーバービューでも構わない)に依拠しているということでしょうか。していないのであれば、「各論者の意見を分類」という行為自体が研究史・学説史という研究上の主題となりうる以上、「文章構成上わかる」で済むことではないでしょう。また、「論者の意見の分類」と「参照論文自体を分類」は論理的には区別できるでしょうが、実体的な問題として前者は後者に帰着します。この2つが論理的にではなく実体的に意味のある識別が可能なのでしょうか。--ikedat76(会話) 2013年7月13日 (土) 23:56 (UTC)下線部追記。--ikedat76(会話) 2013年7月14日 (日) 00:47 (UTC)
- コメント 「この作品を安吾のエッセイ「文学のふるさと」と結びつけたうえで「芸術家の試練」の主題を見るという一連の流れがある」として由良、高桑の論を紹介しているのは出典24に基づきます。それ以下の各意見の内容が「恋愛」を論じていること、神話を論じていること、執筆時の政治的背景を論じていることは記述内容から自明ではないでしょうか。「政治的解釈」のような見出しの付け方から意見や論文を「分類」しているように見えてしまうことであれば「神話との関連」「政治的背景について」などのように無難な見出しにすることもできます。多数の解釈があり、主題からしてそれをトピックとして記述する必要がある以上、何らかの形で各論を整理することは避けられないと思いますが、他により適した記述方法がありますでしょうか。--頭痛(会話) 2013年7月14日 (日) 00:49 (UTC)
- (追記)とりあえず見出しは変更しておきました [1]。--頭痛(会話) 2013年7月14日 (日) 01:06 (UTC)
- コメント自薦票のコメントのみを見ただけにすぎないことをお断りしたうえで、疑問点を書きます。記事内の「解釈」節での分類はなんらかの研究史・学説史に関する論文等(研究史・学説史を主たる主題にしていなくても、個々の論文内での先行研究オーバービューでも構わない)に依拠しているということでしょうか。していないのであれば、「各論者の意見を分類」という行為自体が研究史・学説史という研究上の主題となりうる以上、「文章構成上わかる」で済むことではないでしょう。また、「論者の意見の分類」と「参照論文自体を分類」は論理的には区別できるでしょうが、実体的な問題として前者は後者に帰着します。この2つが論理的にではなく実体的に意味のある識別が可能なのでしょうか。--ikedat76(会話) 2013年7月13日 (土) 23:56 (UTC)下線部追記。--ikedat76(会話) 2013年7月14日 (日) 00:47 (UTC)
- 反対 反対いたします。「解釈」の「政治的解釈」のところで、安吾が天皇制を否定することを意図しているかのような研究者の解釈が載っていますが、安吾自身は、共産主義や社会主義といったものを否定しており、そういう政治的意図を芸術作品の盛り込むという低レベルな次元自体を拒否する作家です。だから、そういう片寄った見方の研究者の論をあたかも定着している定番の論のように位置づけて編集しているのは、坂口安吾の文学記事として何か中身的に頓珍漢な感じが否めません。「芸術的解釈」のところも、『文学のふるさと』と本作の関係性が何かあいまいで、頭痛さんご自身が、研究者の論からの孫引きだけに頼っており、頭痛さん自身が『文学のふるさと』をよく咀嚼して理解していないために、研究者の主張している意図が説明しきれていず、言葉足らずで非常に解りにくいです。他にも初版刊行本の日付や出版社名に不備が見られますので、努力はなさっていますが、良質な記事として掲げるほどの良質な記事とは言えないと思います。
- それから、文学の総合的解釈というものを項目分けをして分類し、体裁的には整えて学問的に編集なさっているおつもりでしょうが、そもそも文学というのは、そういった既成概念を突き抜けたところにあるもので、学問じゃありませんので、あまり過剰に一面的な解釈ごとにふるい分けて分析するのは、一歩間違えば、「Aはこう言っていて、Bはこう言っているから、よってCという解釈が可能である」というような独自研究の方向に走りかねませんので、お気をつけになった方がいいと思いますし、なによりも、夜長姫と耳男という作品自体の面白みや、総合的な作品そのものが見えてきません。--みしまるもも(会話) 2013年7月14日 (日) 00:44 (UTC)
- コメント
- 出典に基づく記述をあなたの抱いている作家像から「低レベルな次元」というふうに否定することはできません。論や評自体によくない点があるのであればそれはその論に対して行われた反論などを出典とする形で行うべきですし、その場合でも両論併記が原則でしょう。そもそも別に「定番」として紹介するような形にはなっていないと思いますが。
- 『文学のふるさと』と本作の関係性が何かあいまい、というのであればどう曖昧なのか具体的に述べてください。「文学のふるさと」の関連付けは各論者によって異なり、私の考えを書くことはできません。各論者の関連付けは簡潔に記述できていると思います。
- 初版刊行本の日付や出版社名に不備、というのはどの点のことですか。繰り返しますが具体的に述べてください。あなたはTemplate‐ノート:基礎情報 文学作品で初版単行本は発行日の日付を何日というところまで書くべきだという意見を述べられていますが、私は何日というところまでは必要ないだろうという意見を述べています。執筆者によって見解が異なるようなことを選考での修正の要件として持ち出さないでください。
- 文学は学問じゃない、というのは非常に特殊な意見のように思われます。あなたの文学観を選考の場に持ち出さないでください。事典の記事はたとえ娯楽を主題とするものであっても「作品自体がいかに面白いか」を直接伝えるためのものではありません。--頭痛(会話) 2013年7月14日 (日) 01:01 (UTC)
- コメント
- コメント 他人の意見や感想に対して、直ちに反論をし全く聞く耳を持っていないような方は、耳男のように耳を切られるとよいと思われます(笑)--みしまるもも(会話) 2013年7月14日 (日) 01:07 (UTC)
- コメント みしまるももさんは議論を放棄し、反対票は取り下げるということでよろしいですか。--Calvero(会話) 2013年7月14日 (日) 11:25 (UTC)
- 反対票は取り下げません。頭痛さんは「私の考えを書くことはできません」とおっしゃてますが、『文学のふるさと』をご自分で咀嚼していれば、研究者の論の要点をもっと解りやすくガイドできると思います。まず『文学のふるさと』というものの主題や性質が、あれでは説明不足で、研究者の言いたいこととの接点があいまいで、「青空」と言ってもそれが何を意味するものであるのか、もう少しガイドできうるのではないかと思います。あれでは『文学のふるさと』を読んでない人や、文学に疎い人たちには、「ふるさと」「青空」って何やねん?ってな感じで不親切な気がします。
- 初版の収録刊行日もせめて「月」くらいまでは調べてほしいものです。きちんと調べれば日付までも判りますので。出版社名も当時の表記のものを書くべきだと思います。それが事典として正しい初版情報というものです。--みしまるもも(会話) 2013年7月14日 (日) 12:41 (UTC)
- 前述のように「文学のふるさと」は脚注24の資料の記述をもとに、原資料からそれぞれ加筆して書いたものになっています。私はこれで十分だと思って書きましたので、不足を感じられるのでしたらもう少し具体的にどのようなポイントが抜けているのか、具体的にどのようなことが分かるように書かれていないのか、といった指摘をしてもらえますでしょうか。可能であれば文案などを示していただけると議論がしやすいのですが。
- 刊行年月は「月」まで「出版と評価」の節に記載しています。「何月に刊行されたか」が冒頭に是非必要な情報とも思えません(別に記載してもいいと思いますが)。テンプレートの出版者名を「講談社」としているのはスペースを省くために略称として用いているのですが、そんなに問題があるでしょうか。正式名称は左の節に記していますが。--頭痛(会話) 2013年7月15日 (月) 00:16 (UTC)
- コメント みしまるももさんは議論を放棄し、反対票は取り下げるということでよろしいですか。--Calvero(会話) 2013年7月14日 (日) 11:25 (UTC)
- コメント 初版刊行日については、私が「出版と評価」の節を見落としていましたね。失礼しました。解釈の項目ばかり注目していたので、ついうっかりしてました。でも、やはりテンプレにも正式な当時の出版名や日付は入れた方がよいと思います。私のように下部の項目まで注意を払わない人も多いと思われますので、初刊の正確な基本情報提供としてテンプレを使用しなければ、何のためのテンプレかということになります。「12月」が判っていたのなら何故それをテンプレにも書かなかったのか、ちょっと不思議な気がします。きちんと日付を記載し、是非テンプレの利点を生かしてください。テンプレは閲覧者が一読で理解するためにあるものですから、日付が判明しているのならば、それを書かないと意味ないと思います。ちなみに刊行日は、1953年(昭和28年)12月10日ですので、10日まで書いておいた方が、より事典の情報として充足したものになります。
- それから、本題の「解釈」項目の「芸術家および恋愛の主題」の執筆についてですが、『文学のふるさと』で坂口安吾が言わんとしていることを考えると、由良君美が論じている前段部分の精神分析的解釈を交えている部分は『文学とふるさと』の主題とは直接的にはあまり関係のない解釈部分であると思われますので、後段部分を前に持っていった方が『文学のふるさと』との関連部分がはっきりすると思います。それから、加藤が最初に言っている「芸術家の試練」という主題は、「人間」の回復といった主旨で論じている後述の「政治的背景」の項目で、戦争と政治絡みで展開している論旨のものですので、由良君美が耳男の仕事の過程を「芸術による自己超越」に向かう道と読み解いている解釈のものとは、基本的には性質が違うものだと思われますので、加藤の意味する文脈を先に出しながら、別の研究者の意味合いの違う論考に繋げるというのは、ごっちゃになるので避けた方がいいと思います。そこで、私の改定案を書いてみました。
『夜長姫と耳男』研究史には、この作品を安吾のエッセイで文学論でもある『文学のふるさと』と結びつけた上で論じるという一連の流れがある[24][27][28]。『文学のふるさと』の中では、可憐な赤ずきんが狼に食べられたままで終わってしまうというペロー版『赤ずきん』のような救いのない結末の物語について考察され、その切ない突き放された読後の「ぷつんとちょん切られた空しい余白」に、「文学のふるさと」を見出すというものであり[25]、そこで述べられている、「モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ」という安吾の「生存の孤独」の文学観は、しばしば『堕落論』『桜の森の満開の下』など他の作品とも結び付けて論じられることが多く、『夜長姫と耳男』も例外ではない。例えば由良君美は、耳男が残酷な姫を、「この青空と同じぐらい大きい」と思い、姫を刺す直前に見る、人間世界を超えた「キレイな青空」を、安吾の言う「文学のふるさと」と同義であるとしている[27]。また由良は、江奈古による耳男の耳の切除を「象徴的去勢」とし、江奈古の自殺を、彼女に転位された耳男の母体回帰願望の超克とするなどの精神分析的解釈[注釈 4]を施しながら、耳男の仕事の過程を「芸術による自己超越」に向かう道と読み解いている[27]。高桑法子は、安吾の「ふるさと」が「母性によって満たされる世界から自己を突き放し、人間関係を剥奪したところに始まる」ものとし、姫を刺し殺すまでの過程を、「酷薄なる虚空の美を獲得してゆく男の過程」であると解釈している[28]。[注釈 5][注釈 6]
- あと余談になるのですが、頭痛さんの括弧類の付け方が、記事内の文脈を読む上で、著作物(作品名)の括弧も、研究者や作者の発言の括弧も同じ一重括弧であるために、非常にわかりづらい感じがします。こういうときのために、作品名を鍵括弧とする方針があるのですから、それを活用なさった方がいいと思いました。--みしまるもも(会話) 2013年7月15日 (月) 08:08 (UTC)
- 対照のために、現時点で記事に書かれている同じ部分を掲示します。
「夜長姫と耳男」研究史には、この作品を安吾のエッセイ「文学のふるさと」と結びつけたうえで「芸術家の試練」の主題を見るという一連の流れがある[24]。「文学のふるさと」は、赤ずきんが狼に食べられたままで終わってしまうペロー版の「赤ずきん」のような救いのない物語、「ぷつんとチョン切られた、むなしい余白」に「文学のふるさと」を見出すというもので[25]、しばしば「桜の森の満開の下」などとも結び付けて論じられている。例えば由良君美は、江奈古による耳男の耳の切除を「象徴的去勢」、彼女の自殺を、彼女に転位された耳男の母体回帰願望の超克とするなどの精神分析的解釈[注釈 4]を施しながら、耳男の仕事の過程を「芸術による自己超越」に向かう道と読み解き、また耳男が姫を刺す直前に見る「キレイな青空」が安吾の言う「文学のふるさと」と同義であるとしている[27]。高桑法子は、安吾の「ふるさと」が「母性によって満たされる世界から自己を突き放し、人間関係を剥奪したところに始まる」ものとし、姫を刺し殺すまでの過程を「酷薄なる虚空の美を獲得してゆく男の過程」であるとした[28]。[注釈 5][注釈 6]
- で、みしまるももさんの文案で本質的になにが改善されているのかちょっとよく理解できませんでした。「文学のふるさと」に関するくだりでは「赤ずきん」が「可憐な赤ずきん」になったり(赤ずきんは一般に可憐なイメージでしょう)「考察され」「切ない」といった言葉が加えられていますが、趣旨に影響があるとは思えません。むしろ要約を書くという観点からは省くべきものでは。「せつない」といった言葉も「文学のふるさと」では赤ずきんについて述べている冒頭のあたりしか出ていませんし、「むなしい余白」と伝えたいことのニュアンスが被ると思いますが。どちらかというと繰り返し出てくるのは「モラル(教訓)がない」というような表現です。「堕落論」についてはここで特に挙げる必要性がないと思われるということは記事のノートにも書いたと思います。「「生存の孤独」の文学観」というのはどこから出てきた言葉ですか。「生存の孤独」という語自体は「文学のふるさと」の中にありますが、「「生存の孤独」の文学観」というような批評的な概括を入れるのであれば出典が必須でしょう。
- 由良の部分は「精神分析による自己超越の解釈」のうえで、その自己超越の道が非人間的な道であり、その道が「空の底知れぬ青さ」に通じていて、耳男は姫を刺し殺すまえにその空の青さを見ていたのだ、という、簡略に書けばこのように論旨が展開しているので、順番を変えるべきではありません。しかし実際のこの部分はもっと展開の仕方が複雑で、自分の解釈を入れずには前後を繋ぎ難いので止むをえず並列させる形になっているのです。出典24の加藤論文の中では「ふるさと」についての部分はカットして紹介されています。
- 耳男が姫のことを「この青空と同じぐらい大きい」と思うくだりを入れたい気持ちはわかるのですが、由良の文章のなかではこのシーンは触れられていません。このシーンと刺殺直前に「キレイな青空」を見るシーンは別のところなので、まあ普通の感性で読めば繋がりを意識して書かれているのだと自然に解釈できるところでしょうが、やはり執筆者の判断で出典にない関連付けをするべきではないと思います。
- 加藤が「芸術家の試練」と言っている部分は「夜長姫」の研究史を振り返っている部分ですので、加藤自身が解釈を述べているところとは直接の関係はありません。というより、この段落全体が加藤論文を二次文献とし、由良、高桑を一次文献として補足しながら書いたところですので、二次文献に基づく概括を削らないでいただきたいです。先に「芸術家の試練」の主題について断っておかないと見出しとも二段落目ともすっきりつながりません。
- 鉤括弧はWikipedia:表記ガイドに沿った表記を用いています。短編や論文は一重鉤を使用します。--頭痛(会話) 2013年7月15日 (月) 09:23 (UTC)
- (追記)前後を繋ぎ難いと書いてしまいましたが、なんとか繋げてみました[2]。たぶん問題ないと思いますが。--頭痛(会話) 2013年7月15日 (月) 09:37 (UTC)
- (追記2)書き忘れました。テンプレートについてですが、私は導入部の概要もテンプレートも「基本的な情報を簡略にかくもの」だと理解しているので、過度に詳しい情報は書きたくありません。出版日の月くらいは別にあってもいいと思うのですが、テンプレートのほうは一行に収まらなかったので省いたというだけです。出版者名については他の方のご意見もお聞きしたいです。やはり断りなく省略するのはまずいということであれば正式名称を入れるか出版社名自体を省くかにいたします。--頭痛(会話) 2013年7月15日 (月) 09:44 (UTC)
- 何だか何故あなたが文学記事に携わっているのか不思議です。頭痛さんは根本的に「言葉」というものに対する感覚が鈍感というか、何というか…。私があなたの文章を直したのは、ただ単に単語を補足しただけでなくて、いったい『文学のふるさと』がどういうものであるかを明瞭化するためです。言いにくいことを言いますと、あなたのその文章表現では、『文学のふるさと』の内容を全く知らない人から見れば、まるで、『文学のふるさと』が「赤ずきん」のような救いのない物語で、「ぷつんとチョン切られた、むなしい余白」に「文学のふるさと」を見出すという話に見えるような文脈なのです。だから私はそれを改善するために、より明確にガイドしたわけです。それから安吾の原文では、「ぷつんとちょん切られた空しい余白」ですので、研究者の孫引きを鵜呑みにして、作者の原文と違うものは載せないように気をつけてください。
- それから、「モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ」という安吾の「生存の孤独」の文学観は、『文学のふるさと』が論じている全体の論旨のことです。あなたが『文学のふるさと』を読んでいながら、それがお解かりにならなければ、そもそも文学作品に携わるにあたっての必要な基本的な読解力が欠けているんじゃないでしょうか。そして、あなたの執筆では一体、『文学のふるさと』と本作の繋がりで何が言いたいのか、言葉足らずと解りにくい文章ととの相乗効果で理解しにくく、あいまいです。「キレイな青空」と「ふるさと」の関係性は推測できましたが、それでも私が入れたような説明を加えないと、第三者には何がなんだかよく解らないと思います。由良の前段の「精神分析による自己超越の解釈」とやらも、上の説明で何とか雰囲気はやっと掴め、あなたが少し加筆した現段階の執筆で、やっとこさ後段の「青空」へ繋がっていくことが見えてきましたが、加筆前では、『夜長姫と耳男』も『文学のふるさと』両方とも読んでいる私でさえも、あなたの書き方では、いったい何が言いたいのか、何が繋がっているのかあいまいでした。加藤の論についての上のあなたの説明や弁明も今ひとつよく解りません。
- 括弧の表記のことも、短編だから一重括弧と決まっているわけではないでしょう。著作物である「書名」は基本的括弧には鍵括弧ですよ。何かの作品群に含まれる場合においての短小な作品を相対的に記載するときに、一重になるのであって、普通の記述文章内では、著作物は普通の鍵括弧にしなければ、発言の「」とかぶって非常におかしいです。書名は基本的に鍵括弧にすることは、[3] で説明されています。参考文献のところでも、あなたは、「「といったぐあいに、とても奇妙な付け方をしてます。そんなとこまで短編だから一重括弧だと、まさか凝り固まっているのでしょうか? そんな応用のきかないデジタル思考で文学的思考ではありませんね(笑)--みしまるもも(会話) 2013年7月15日 (月) 13:01 (UTC)
- 「エッセイ」と断っているものを「物語」と勘違いしたりはしないでしょう。「物語、」が並置であることを読み取ることは別に難しくはないはずです。表記は参考文献に挙げている文芸文庫収録のものでは「プツンとちょん切られた空しい余白」という表記でしたので後で修正しておきます。
- 「全体の論旨」を「「生存の孤独」の文学観」という風に概括しているのはあなたです。あなたの観点や新規の語を記事に入れてはいけません。
- 一重鉤は「比較的短小な作品」に用いられます。リンク先の詳細まで見てください。『夜長姫と耳男』にしてしまっては「短編小説」ではなく「短編集」を意味するものになってしまいます。「作品名」は「書名」ではありません。論文名で「」が使われているところを勝手に『』に変えたりするべきではないでしょう(別に厳密な決まりはないのかもしれませんが、よくわかりません)。そのへんの論文の出典部分などを見れば、論文名の中に「」が使われている場合には「「」」の入れ子にされていることが容易に確認できると思いますが。例えば「坂口安吾の「夜長姫と耳男」」という論文名なら左のように表記されます。この記事に使った論文の少なくともいくつかはそうなっています。
- 「加藤の論についての上のあなたの説明や弁明も今ひとつよく解りません」というのは何がよくわからないのですか。由良についてはあなたの文案は「耳男が残酷な姫を、「この青空と同じぐらい大きい」と思い」というのが加わっているだけです。由良の文中に出てくるものではないからこれを加えるべきでないことは説明しました。--頭痛(会話) 2013年7月15日 (月) 13:56 (UTC)
- エッセイでも作中に物語仕立ての様相を帯びているものはありますから、『文学のふるさと』の予備知識のない人が、あなたの文章から「誤読」の可能性は多いにあります。『文学のふるさと』の中身を知っていても、「何だか変てこな文章だなあ」と最初に思いました。何も内容の予備知識のない人だったら、よく考えないと立ち止まってしまうような変な文章です。間違うことはないというのは、あなたがあらゆる閲覧者を想定していない証拠でしょう。
- 由良についての論旨は、私の文案例のようなものを加味して、耳男が見た「キレイな青空」がどういう性質のものであるのかガイドしなければ、由良が何故、「ふるさと」と「キレイな青空」を結び付けて論じているのかが、概略として見えていません。あなたの執筆では、元の「ふるさと」の主題もろくに解らないので、由良が論じている「青空」も、前段との関係性を補足説明したところで、まだ何のことやら初心者には概略すら掴めないと思います。
- それから、加藤の述べている「芸術家の試練」というものについて、あなたは加藤自身が解釈を述べているものとは関係ないと言っていますが、「政治的背景について」の項目のところの加藤の論旨である、耳男による彼女の刺殺はその安吾的な「人間」のあり方を耳男自身が内に宿すための「究極の試練」であるとした から読みとれば、加藤自身の解釈コードだということが安易に判断できます。そして加藤の論旨と、由良の言っている「芸術による自己超越」の営みは、相反する性質のものですから、やはり加藤の「芸術家の試練」という前提で、由良や高桑法子の言うところの「芸術家」を繋げるのは、あまりに大雑把な方法だと言えます。
- なので、加藤や由良の論は、「『文学のふるさと』との関係性」という項目名で、きちんとその相違点をガイドして整理した方がいいと思います。同じ『文学のふるさと』との関連から展開している同じ加藤の論にもかかわらず、「芸術」と「政治」という風にあなたの大雑把な判断によって、勝手にバラバラに解体されてしまっている現状では、加藤の論旨の意味が短絡的に「政治的」という風に位置づけられている乱雑さです。そういうふうにある研究者の論の一面を大雑把にバラバラに分けてしまって、結論的に「政治的解釈」としてその項目に振り分け、上段の亀頭や青木の論と関連を持たせてしまうようなあなたのやり方は、やはり「独自研究」の様相を帯びていると思えます。あるいは、研究者たちの中身を正確に解りやすく伝えるという中身重視の意識よりも、あなたは最初に項目分けありきで、一見見栄えの良さの体裁重視の意識の方に傾いて執筆しているように正直なところ感じてしまいます。--みしまるもも(会話) 2013年7月16日 (火) 02:05 (UTC)
- 「救いようのない物語」と「むなしい余白」とがつながることは自然に理解できると思いますから、やはり現状で問題はないと思います。人が文を読むときは文法のみに頼って読むわけではないので、文法的にそうも読めるというだけでは文がわかりにくいということにはならないと思いますが。
- もう一度いいますが、出典の文献で解釈者が言っていないことを執筆者が付け加えてはいけません。「この青空と同じぐらい大きい」と「キレイな青空」とは作中でも出典中でも明示的に繋げられていません。
- 加藤論文では言葉通りには「芸術家の覚悟」という言い方になっています。ここは写し間違えたのか二つの一次資料を見て記事の文脈に合うよう意図的に変えたのだったかちょっと忘れましたが(高桑文献は今確認できません)、引用符を使っているところですので文字通りに直しておきます。加藤文献では「文学のふるさと」は主題的に扱われていません。 文学のふるさと - 芸術の主題 - 恋愛の主題でそれぞれつながりを示す構成にしていますので、「文学のふるさととの関連性」のような節に構成しなおすのは反対です。--頭痛(会話) 2013年7月16日 (火) 03:07 (UTC)
- “『文学のふるさと』は、『赤ずきん』のような「救いようのない物語」で「むなしい余白」に「文学のふるさと」を見出すというもの” と誤読されかねないと、私は言っているので、「救いようのない物語」と「むなしい余白」とが繋がるから問題がなくなるわけではありません。やっぱり何度読んでも変なことには変りありませんので。
- 耳男が、ヒメはこの青空と同じぐらい大きいような気がするな と思っている描写はちゃんと作中に書かれています。よく熟読してくださいな。作中でちゃんと耳男が思っていることは、独自研究になりませんので、研究者の言わんとしていることを補足してガイドしても何の問題となりません。
- 加藤の論旨については、頭痛さん自身が執筆してらっっしゃる「注釈5」には、“これらに対し加藤達彦は、むしろ「夜長姫と耳男」などの「小説を通じて事後的に見出されてくる境地」こそが安吾の「ふるさと」そのものではないかとする。そして本作に表れた「視線」の対決・対峙のモチーフに着目しつつ、後述するように安吾的な「人間」の回復の主題を見出す読解につなげている”と、加藤が「ふるさと」と「事後的に見出されてくる境地」を関連させて繋げていることが説明されています。そして加藤が展開している論旨の、耳男による彼女の刺殺はその安吾的な「人間」のあり方を耳男自身が内に宿すための「究極の試練」である を読み限りでは、『文学のふるさと』の主題と関係しているものと捉えられます。
- つまり由良の解釈コードであるところの「姫」=「キレイな青空」=「ふるさと」を殺すことによって、「人間のあり方」=モラル的なものを、耳男=芸術家が内に宿すための「試練」というふうに、加藤は論考していることになります。そしてこれは由良の論旨であるところの、耳男が「キレイな青空」の底知れぬ青さを、その自己超越の営みが目指すものとして、芸術を志向する方向とは、相反するものと言えますから、両者を同じ項目内で語らなければ、加藤の論旨も生きてきません。今の状態のように加藤の論旨が、「政治的背景」の項目にあることは、もったいないとも言えましょう。
- 恋愛観については、これら加藤や由良の比較検討のその次の段落、あるいはすぐ次の別項目として繋げても特に問題は生じませんし、何の支障もありません。現時点でも特に由良と高桑の論旨が、それほど密接に直接的に関係しているとも思えませんから、大丈夫だと思います。安吾の女性観が安吾自身の芸術観と関係はありますが、由良と高桑の論旨を、奥野へ直接的に繋げようとするのは、頭痛さんの独自研究部分とも見受けられますので、むしろ別項にした方がいいと思います。
- とはいっても、あなたはそうしないでしょうから、特に押し付けるつもりはありません。絵や画像はきれいですが、現状の分類法では、文章の中身的には「良質な記事」には私には見えませんので、正直な意見を述べさせていただいたまでです。キリがありませんの、この件はこれで切り上げたいと思います。--みしまるもも(会話) 2013年7月16日 (火) 04:38 (UTC)
- 「文学のふるさと」についてはやはりそこまでおかしい文章とは思えません。「物語風のエッセイ」は「エッセイ」であって常識的に言って「物語」ではないです。やはりあなたの想定には無理があると思います。
- 「由良の解釈コードであるところの「姫」=「キレイな青空」=「ふるさと」を殺すことによって、「人間のあり方」=モラル的なものを、耳男=芸術家が内に宿すための「試練」というふうに、加藤は論考していることになります。」なぜそうなるのでしょうか。「姫はこの青空と同じぐらい大きい」と耳男が思う場面に由良は触れていないのだと何度も言いましたよね。由良は「姫=青空」という立論をしていません。加藤も自分の論を立てるところでは「文学のふるさと」には触れていませんし、記事中でもそんな書き方はしていません。脚注では「これらに対し加藤達彦は、むしろ・・・」と書いているのだから由良や高桑の論を肯っていないことはわかりますよね。いくらなんでも指摘が粗雑過ぎると思います。実際の出典に当たらずに特定の出典についてこんな突っ込んだ意見を言っているのですか?--頭痛(会話) 2013年7月16日 (火) 05:05 (UTC)
- 作中に「姫はこの青空と同じぐらい大きい」という言葉はどこにもないとおっしゃっていたあなたが、“「姫はこの青空と同じぐらい大きい」と耳男が思う場面に由良は触れていない”と何度も言えるわけないでしょう(笑)。その場面さえ知らなかったのですから。本当にあなたっていう人は、ああいえばこういうで、すりかえる嘘ばっかりですね。開いた口がふさがりませんよ。
- それから、あなたは私が説明している意味さえ解らないようですね。私は加藤が由良と相反する論旨だということを解りやすく解読して言っているのです。由良が「姫=青空」を立論していないなどとは何かの冗談でしょうか? 作品を読めば誰でもそんな自明のこと解るはずでしょう。まさかそんなことぐらいあなたは読めないのでしょうか? 由良は当然、あなたよりは作品を熟読した上で論考しているはずですから、それをちゃんとを踏まえて「キレイな青空」=「ふるさと」(アモラル=姫)を導き出しています。この坂口安吾が意図している図式は誰が論じてもそうです。そして、加藤も「ふるさと」に触れて、由良の耳男の解釈とは違うことを展開しています。加藤は、耳男が「姫=青空」を殺す解釈や意味づけにおいて、「人間の回復」という意味づけを導く方向になっており、由良の論(耳男が自己超越して「青空」を目指す)に相反する論旨となってます。加藤が「ふるさと」に触れていないと、いくらあなたが否定してもあなた自身の執筆の中にも書いてありますし、加藤の「人間」の回復のところの論旨を見れば、坂口の『文学のふるさと』の主題と間接的に繋がっている論を述べているのが判ります。その全容が掴めないのは、そもそもあなた自身が彼らの主旨の全体の流れを理解できていないということです。たぶんあなたは、論文の段落段落の中で或る言葉やキーワードが出てこないと、そこでは全然それに触れていないと考え、それまでの論の流れを無視して勝手に決めつけてしまう人なのでしょう。そんなことじゃ「文学論」を読みこなせませんよ。--みしまるもも(会話) 2013年7月16日 (火) 09:06 (UTC)
- >作中に「姫はこの青空と同じぐらい大きい」という言葉はどこにもないとおっしゃっていたあなたが
- ひょっとして
- 出典の文献で解釈者が言っていないことを執筆者が付け加えてはいけません。「この青空と同じぐらい大きい」と「キレイな青空」とは作中でも出典中でも明示的に繋げられていません。( 2013年7月16日 (火) 03:07 (UTC))
- という発言のことですか。どう読めばそういう意味になるんでしょう。
- 要するに、極めて大雑把に言えば加藤は「文学のふるさと」と「夜長姫と耳男」を過度に結びつけることを否定した上で自分の立論をおこなっているのです。本当に出典の現物を見ないで意見されていたんですね。
- 「夜長姫と耳男」の「青空」についての場面の原文はこうです。
- 「なるほど。まさしくヒメの言われるとおり、いま造っているミロクなんぞはただのチッポケな人間なんだな。ヒメはこの青空と同じぐらい大きいような気がするな」
- 「ヒメは青空と同じだな」ではありません。素直に読めば「青空」は「ヒメ」の「大きさ」の比喩です。これを「ヒメ=青空」とするならばそれは解釈です。あなたは自分の解釈を暗黙の前提として意見を述べてしまっています。
- もうそろそろ審議妨害の域に入っているのではないかと思うのですが、どうでしょうか。--頭痛(会話) 2013年7月16日 (火) 10:08 (UTC)
- あなたの注解5を読む限りでは、加藤が『文学のふるさと』と『夜長姫と耳男』を過度に結びつけること自体を否定しているようには、どうみてもなってません。ご自分でご自分の書かれたものを読み返したらどうなんですか。
- それから、「青空」を単に「ヒメ」の「大きさ」の比喩でしか捉えられない人は、そもそもこの作品を語る資格はないです。作中では何度もヒメの笑顔について、耳男が考えるくだりが繰り返されており、そこにはヒメの残酷さと美が、ちっぽけな人間界を超えた得体のしれないものの象徴として描かれ、そういう位置づけとして「ヒメ」が置かれているのは確かなことです。「ヒメ=キレイな青空」なのは、文学研究者なら自明のことです。研究者はそんなことは自明の前提の上で、あとは耳男が、ヒメに象徴されるところの「人間界を超えたもの」を殺すのは、どういう意味であるのかとか、その他派生するものを、いろいろとそれぞれの論者が解釈しているんです。まず、そのことをあなたが解らないようでは、もうどうしようもありませんわ。本当にあなたには呆れてしまいました。--みしまるもも(会話) 2013年7月16日 (火) 12:02 (UTC)
- 「極めて大雑把に言えば」と言っているのですが。もう少し正確に言えば、加藤が否定(批判)しているのは「文学のふるさと」に基づいて「夜長姫と耳男」を「芸術家の覚悟」として読み解く読解のことです。「これらに対し」の「これら」が由良、高桑の「芸術家の覚悟」論を指していることは明白です。「過度に結びつけること」には批判的だが結びつけること自体は否定しておらず、由良、高桑への批判を踏まえて自説に入っているので「繋げている」と書いています。その加藤の「自説」は「文学のふるさと」を主題とするものではありません。
- ニ段落目以降の部分はあなたの方針の理解不足を示すものでしかないと思います。「「青空」を単に「ヒメ」の「大きさ」の比喩でしか捉えられない人は、そもそもこの作品を語る資格はないです。」も「確かなことです」も「あなたの考え」でしかありません。典拠を示さずに「これはこうだ。お前はわかってない」と決め付けるだけでは私も第三者も何も根拠がわかりませんよね。あなただけわかってても議論は成立しません。典拠がないことは記事に書くべきではないし、記事であれノートであれ典拠をしめさずに行われた解釈を披瀝されてもそれを根拠に編集することはできません。これはWikipediaの基本的なルールであり方針です。--頭痛(会話)2013年7月16日 (火) 12:41 (UTC)
- (追記)「繋げている」で過度に加藤の論との繋がりが強調されて見えたようですので少し書きかたを変えました[4]。その前の編集で「文学のふるさと」の解説部分も前段までの議論を踏まえて修正してあります。--頭痛(会話) 2013年7月16日 (火) 12:48 (UTC)
- コメント 「夭折した安吾の親友長島萃の妹」なる一節を読んで失笑。夭折したのは安吾なのか、長島なのか、その妹なのか。--182.169.237.249 2013年7月14日 (日) 03:55 (UTC)
- コメント 個人攻撃と考えられる部分をコメントアウトしました。--Calvero(会話) 2013年7月14日 (日) 11:25 (UTC)
条件付賛成条件付と言っても些細なことで、事実上賛成票です。短編とは書いていますがどの程度のサイズの小説なのか、例えば「 講談社文芸文庫本で54ページのサイズの小説である。」みたいな文章を追加していただきたい。参考文献節を見れば【坂口安吾 (1989) 「夜長姫と耳男」 『桜の森の満開の下』 講談社文芸文庫、315-368頁。初出:『新潮』第9巻第6号、1952年6月】とあるので解るわけですが、記事中に記載が欲しい。無論、「ぱたごん、お前がやれ」とか「載せたい人が載せればいい」と仰るのなら私が追記しますが、主筆者の気分の話としては頭痛さんご自身で追記されたほうがいいでしょう。選考終了ぎりぎりになったら私が追記の上、賛成票に代えます。確かに文学作品を語る上で解釈や評価は避けられないし、誰の評論をどのように取り上げるかは主筆者の主観が入りますが、しかし、この記事は十分に考慮のうえでチョイスされていることが伺われます。--ぱたごん(会話) 2013年7月17日 (水) 12:24 (UTC)- コメント 参考文献に挙げているとはいえ、特定の文庫本のページ数のみ表記するのは違和感がありましたので、「書籍にして50頁ほどの作品」とした上で脚注で補足する形をとってみました[5](文芸文庫のページ数を315-368頁としてありましたが、これは誤認で最後のページは空ページでしたので修正しています)。日本の文学作品の長さは400字詰め原稿用紙の枚数、海外の作品は語数を表記するのが一般的だと思いますが、「夜長姫と耳男」の枚数について言及している資料が見つかりませんでした(ファンサイトらしきものに約79枚とあるのですが、たぶん独自に換算したものだと思います)。枚数に言及している資料が見つかったらこの部分は差し替えるのがよいと思います。--頭痛(会話) 2013年7月18日 (木) 06:02 (UTC)
- 賛成 上記の条件付賛成意見に対応していただいたので票を賛成票に切り替えました。--ぱたごん(会話) 2013年7月18日 (木) 11:31 (UTC)
- コメント あまりに長文な議論は本件記事のノートでやるべきです。--ガンマゼータ(会話) 2013年7月23日 (火) 09:06 (UTC)
- 賛成 「良質な記事」の水準で考えれば、現状ですでに基準に達していると考えます。文学作品の記事の多くはあらすじや単なる書籍データ紹介にとどまっていますが、こちらの記事は百科事典として必要な要素を備えたものです。また疑義の生じやすい作品の解説や外部からの解釈と評価についても、多数の出典に元にして慎重かつ忠実に触れており、個人的な考えや主観が極力排除されています。文章や構成も努めて平明で簡潔さが保たれているため、非常に理解のしやすい内容になっています。そのため、記事の中立性、信頼性、肝心の質ともに良質な記事として不足ないものと判断しました。--Sikemoku(会話) 2013年7月24日 (水) 17:41 (UTC)
選考終了時点で賛成3票、反対1票で支持が2/3以上のため、通過となります。--ガンマゼータ(会話) 2013年7月28日 (日) 05:53 (UTC)