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Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/やぐら 20140411

選考終了日時:2014年4月24日 (木) 16:25 (UTC)

  • (自薦)3月度の月間強化記事賞受賞からは漏れましたが、エントリー時点以降、更に今月に入って以降、画像・記述ともに強化をしたつもりです。まだ文言の未熟な処は残りますが、ご批判、アドバイス等頂ければ幸いです。--Ktmchi会話2014年4月10日 (木) 16:25 (UTC)[返信]
  • 賛成 :推薦者票。--Ktmchi会話2014年4月10日 (木) 16:25 (UTC)[返信]
  • 賛成 判断が難しい記事ですが、興味深い対象について十分な記述が行われているものと思います。ただ、記述はやや過剰気味にも思えます。その当時の葬祭・埋葬がどうであったかを説明して、「やぐら」と比較する必要はあるのでしょうが、詳しいことは「日本の埋葬の歴史」のような記事でも作ってそちらに移してしまい、この記事からはそれを参照する形で「やぐら」以外の埋葬の仕方については簡潔に留めてしまう方が、記事群全体の構成としてはすっきりするのではないかと思います。--Tam0031会話2014年4月20日 (日) 11:52 (UTC)[返信]
アドバイスありがとう御座います。「記述はやや過剰気味にも」という部分は自分でもちょっと気になっていたところで、やっぱり指摘されたかというのが正直なところ。例えば法華堂ですが何でここまで徹底的に書いたかというと、この改訂版を用意している最中に北条義時の記事を見たのですがそこに「義時は法華堂の東ノ山に葬られたとするが、現在は不詳。源頼朝の墓の東の山に北条義時のやぐらと思われる物がある。現在は立ち入る事も困難である」と書かれていたからです。「この時代に義時クラスの者がやぐらに葬られた記録はない」と修正しましたがそれもあって力が入ってしまいました。
1959年に赤星直忠先生は『鎌倉市史・考古編』で北条義時の時代からやぐらはあったと解釈されていますが、その後、1977年の大三輪龍彥先生はその説に反証をあげて否定し、仁治3年(1242年)正月15日の「新御成敗状」を発端としました。更に1995年に河野真知郎先生は「その説では20年以上の空白期間が出来てしまうと疑問を出され、2009年には岡陽一郎さんがもっとハッキリと否定的な意見を出されています(これは直接出典にはあげませんでしたが)。どうも良くわからないので葬送史とか石塔の考古学を眺めてみたら、やぐらブームが13世紀の中頃から発生してたなど有りえない(とは本文中には書いていませんが)。やぐらのピークはやはり河野真知郎先生の云うように1300年前後から14世紀末で良いのだろうと納得したということがあります。
もうひとつは(東慶寺のときに書いた縁切寺法もそうでしたが)、習俗を理解するためには現在持っている先入観を壊しておかないと理解できないということがあります。ここでの先入観は「墓は形は違えど昔からあった」という先入観です。「納骨信仰と葬送実務」の章は私自身の先入観を消すための作業みたいなところが確かにあります。「日本の埋葬の歴史」は私の知識では無理なので書けませんが(というのはやぐらに関わる問題しか掘り下げていないので)。もしも次ぎのステップに進めるなら少し整理しようかとも思います。だいたい長すぎて最後まで読む人がどれぐらい居るんだろうと自分でも思いますので。繰り返しになりますが「やはりそうか」というのが素直な気持です。アドバイスありがとう御座いました。--Ktmchi会話2014年4月23日 (水) 13:45 (UTC)[返信]
  • コメント 重要な記事だと思います。小生の辞書によるとExword XD-N9800のなかで、複数辞書検索によると、 大辞泉は やぐら谷倉 ブリタニカ 矢倉 マイペディア やぐら がそれに相当するようです。ここに書かれているのが正しいと思いますが、これらのことにコメントしていただければ幸いです。--Ichiro Kikuchi会話2014年4月23日 (水) 09:11 (UTC)[返信]
コメントありがとう御座います。「これらのことにコメント」とはそれぞれの辞典に書かれていることについてでしょうか。とりあえずそう解釈しておきます。勘違いであればご指摘ください。
  1. デジタル大辞泉」「やぐら【谷倉】」
    2が元々のやぐらの意味で、1は室町時代末から江戸時代(あるいは現代でも)に五輪塔などが持ち去られて穴だけが残り、何であったのか判らなくなって、民家や寺院に残るやぐらが物置などに再利用された段階のものです。寺院に残るものでも廃材置き場になっているものや、民家では天井の岩が落ちないように鉄筋などで補強をして車庫に使っている例もあります。ただ「塚穴」と呼んでいる文献は知りません。
  2. 平凡社・世界大百科事典 第2版の解説 「やぐら【矢倉】」
    基本的に赤星直忠先生が書かれた『鎌倉市史・考古編』(1959年)の要約のようです。ただ「中世の文献」云々の中の「岩殿」は逗子の岩殿寺のことだろうとは思いますが、「巌」でなくて「岩屋」「岩屋殿」と書いている中世の文献は知りません。なお岩殿寺のものは石龕、仏龕、つまり仏像を安置する石窟で、やぐらの起源のひとつとして取り上げられることはあってもそれをやぐらとは呼んでいないと思います。
  3. 世百科事典マイペディアの解説:「やぐら」
    「中世の横穴式墳墓」と云いながら「埋骨施設と供養のための仏堂機能」と説明をしているので1995年の河野真知郎先生の本もベースとして採用しているように見えます。ただ「13世紀末から14世紀」というのはピーク時のことで、考古学的には1270年頃から15世紀中頃までとか室町時代中期までというのが定説になっていると思います。
以上「デジタル大辞泉」「世界大百科事典」「世百科事典マイペディア」は見つかりましたが「ブリタニカ」はヒットしませんでした。「世界大百科事典」のことでしょうか。--Ktmchi会話2014年4月23日 (水) 12:18 (UTC)[返信]
  • コメント 内容というより、事典により、言葉が一定しないことをコメントして頂きたかったわけです。ついでですから、ブリタニカの内容を書きます。矢倉(ヤグラ):軟質の岩山を横穴状にうがった納骨施設。鎌倉~室町時代に営まれた。鎌倉付近を中心に、三浦半島に多く密集している。別に櫓(ヤグラ)があり、勿論別のものです。ブリタニカはブリタニカ国際大百科事典というのが正確です。この事典はメニューによると、英語事典でなく、生活実用1 という分類に入っていました。--Ichiro Kikuchi会話2014年4月23日 (水) 13:56 (UTC)[返信]
やっぱり勘違いでしたか。失礼しました。「そんなこと云われても」と悩んでしまいました(笑)。私は漢字で書けば「矢倉」ひらがなでは「やぐら」だと思っていました。でも大三輪龍彥先生が『鎌倉のやぐら』(p.16-17) で「矢倉」は音からの当て字、「矢」にも「倉」にも意味はないので一般に流通してはいるけど誤解を与える。だから「やぐら」とひらがな書くべき。しいて漢字をあてるなら「窟」だろう。と書かれているので研究者は必ず「やぐら」と書きます。「デジタル大辞泉」が「谷倉」という漢字を使ってますがあまり見たことはありません。「谷倉」で検索してみたら南方熊楠がそう書いているようですね。「又墓穴もあり、土俗是をヤグラと云ふ。日本紀に兵庫をヤグラと讀るは箭を納る處なれば也、是は其義には非ず谷倉の義なるべし。因て塚穴をもなべていふ」。でもその意味は「矢の倉」ではないよという意味です。あくまで「土俗是をヤグラと云ふ」で「谷倉」と書くと言っている訳ではありません。「塚穴」もここに出てきたんですね。南方熊楠が「土俗是をヤグラと云ふ」とか、大三輪龍彥先生が「しいて漢字をあてるなら窟だろう」という出典は本文中に書いたように『新編鎌倉志』です。--Ktmchi会話2014年4月23日 (水) 14:56 (UTC)[返信]

選考終了時点で賛成3票のため、通過となります。--ぱたごん会話2014年4月25日 (金) 10:50 (UTC)[返信]