利用者‐会話:Ktmchi
御礼
[編集]先ほどはどうもありがとうございました。ホントお恥ずかしい限りです。ところでKtmchiさんはあのサイトの作者さん、なのでしょうか?でしたら、自分は以前よりあのサイトに大変お世話になっておりました(諸先生方の学説をわかりやすく教わりました)。勝手な希望ではありますが、Kmtchiさんのような方にぜひ積極的なご執筆がお願いできたらとても嬉しく思います。それでは~。--shimoxx 2007年10月2日 (火) 16:19 (UTC)
- Shimoxxさん、こちらこそ有り難う御座いました。
- あのサイトって武士に外部リンクされている北道倶楽部の「武士の発生と成立」のことですか?それならば私のサイトです。ただ、本職ではないので書いていることが合っているのかどうか、全く自信がありません。Shimoxxさんはこちらで在庁官人についても書かれているんですね。私も「受領と在庁官人」なんてページを書いている最中なのですが頭がショートしかかっています。文章はもっとショートしていますが。Wikipediaは鎌倉七口とかちょこっとだけ書いたんですけど、どうもWikipediaの仕組みが良く解らなくて。まあぼちぼちと。
- このノートも日付や時刻ってどうなってるんだ? とか。どっかに書いてあるんでしょうけど、あっ、真上に書いてある。半角チルダってどのキーだ? これか! ___KTMCHI 2007年10月3日 (水) 13:43 (UTC)
源義家、読みました
[編集]秀逸な記事に選ばれてる源義経よりも内容的に優れていると思います。義家の評価が研究史の中でどう変遷したかを示しているのが特に素晴らしい。内容的には何も申し上げることはございません。外形的なことになりますが、リンクの数が少し過剰な印象を持ちました。ウィキペディアでは、煩雑さを避けるため、同一項目へのリンクは初出の1つに限るという慣習があります。ページ内初出の1つだけに限るという考えの人と、節ごと初出の1つでいいだろうという考えの人とに別れてますが、この辺りは好みの問題です。たいてい誰かが過剰リンクの整理をやってくれますので、心配される必要はありませんが、今後のご執筆では少し心にお留め置きくださいますようお願いいたします。あと、「『後二条師通記』と『百錬抄』」節の第4段落は独自の考察のような印象を受けました。独自の考察についてはWikipedia:独自研究は載せないをご覧くださいまし。その他、ウィキペディアには多くの慣習やルールが細々とありまして、既にいろいろご存知だろうとは思いますが、Wikipedia:ウィキペディアへようこそなどをご参考にされてみてください。いろいろ勝手申し上げましたが、それでは~。--shimoxx 2007年12月1日 (土) 16:49 (UTC)
- shimoxxさん、お褒めにあずかり恐縮至極で御座います。(RES追記しました)
- > ウィキペディアでは、煩雑さを避けるため、同一項目へのリンクは初出の1つに限るという慣習があります。
- そ、そうだったんですか。全部つけなきゃいけないのかと思って「たるいなぁ」と思いながら一生懸命付けていました。なんてこったい! でもそうですよね。他にも気がついたことがあれば何なりとご教示ください。
- > 「『後二条師通記』と『百錬抄』」節の第4段落は独自の考察のような印象を受けました。
- うっ、ご指摘の通りです。そもそも『百錬抄』は勘違いと言っているのは、私の知る限り元木泰雄氏だけで、元木氏も、ご指摘の点までは書いていません。ただ「直接関連のある情報を提供」は『後二条師通記』そのもの、そして公卿議定、関白の内覧、天皇(または院)への官奏、天皇(または院)の意向が公卿議定に伝えられて、太政官符という手続きは誰でも検証可能なので、「Wikipedia:中立的な観点」 と「Wikipedia:検証可能性」は満たしているかなぁ、と考えました。元木氏もそこまで突っ込んでくれれば「と言われる」と書けたのに(とまた人のせいにする)。
- ちなみに夜になって追記した「『百錬抄』の編者の認識の誤りはこれだけではない。もう一件は一次史料である複数の公卿の日記と相違している。」というのは、実は今日の夕方、マクドナルドで上杉和彦氏の『源平の争乱』p124を読んでいて見つけたんです。詳しくは「『百錬抄』の編集ミス?」にも追記しました。あまり脱線しても何なので、「源義家」にはイントロしか書きませんでしたが。源義家のノートあたりで「根拠は何だ!」と突っ込みをうけたら「恐れながら」と紹介しようと思っていたのですが、先にだしちゃいました。(笑)
- 【追記】
- ことのついでに、何故義家に拘るかというと、shimoxxさんもご存じの通り、前九年、後三年の役で源氏は関東の武士団を郎党とし、それが鎌倉幕府の石杖になったという歴史観(私も昔はそう思っていました)が今でも非常に強いことです。この歴史観は後の源平の争乱、鎌倉幕府の成立過程を理解する上で非常な害を及ぼすと思うからです。
- 「前九年、後三年の役」が鎌倉幕府を作ったのではありません。「前九年、後三年の役」で鎌倉幕府を作ったのは頼朝です。頼朝は関東の武士達に「源家と君たちは前九年、後三年の役の頃から強い絆で結ばれているのだ」というプロパガンダに使ったのです。頼朝の奥州攻めはその総決算です。だから全て前九年の役の古事に添って事を運びました。吾妻鏡でも、頼朝が最も生き生きしているのはこの奥州攻めです。唯一の誤算は厨川柵に至る前に藤原泰衡が首になってしまったことでしょう。それでも頼朝は当初の予定通り厨川柵まで行きます。
- 頼朝は目の前の、自分の利害だけで頼朝を御輿に担いだに過ぎない関東の在地領主達をだまして源頼義を関東の武士の棟梁に祀りあげ、自分はその正当な後継者、嫡流であるという形で関東の武士(領主)達を統合していきました。鶴岡八幡宮を鎌倉の中心としたのもそのためです。
- ただ、頼朝が企んだのは目の前の武士(領主)達の精神的統合と自らの権威付けだけだったのに、何故かその魔術は室町幕府にまで引き継がれで、とうとう現代の歴史学者まで騙されてしまったという訳です。これは残念ながら私の独自見解ではありません。そういう学者さん達は今では沢山います。
- もうひとつ、Wikipediaの義家を徹底的に書いたのはWikipediaの義家ページの社会的(?)影響力はかなりのものだと思ったからです。そう思った理由は、(これは悪い影響力ですが)「天下第一武勇の士」と評したのは白河法皇と書いてあるサイトがネット上に沢山あることに気がついたからです。そのほとんどは「源義家」で検索すると常に1番目に出てくるWikipedia義家ページの元の記述にそうあったからではないかと私は疑っています。--KTMCHI 2007年12月1日 (土) 18:55 (UTC)
源義家2・後世つくられた虚像
[編集]shimoxxさんの「お題」を別のツリーにしました。うっかりログインせずにやってしまいましたが。(--KTMCHI 2007年12月5日 (水) 08:21 (UTC)
---以下shimoxxさん ----
武家の棟梁としての源義家は後世つくられた虚像、という主張を私が始めて目にしたのは確か元木先生の『武士の成立』だったような(記憶あやふや)。元々、源義家に胡散臭さを感じてましたので、ここまで言い切ってしまってることに衝撃を受け、他の先生の本を読んでみましたけれど、どれも義家は武家の棟梁として自勢力を東国に扶植したという説明しかしてませんでしたので、釈然としないものが残った記憶があります。これが10年くらい前のことです。それが今では、川合先生らのおかげもあって、どうやら源頼朝の仕業らしいということが一般的な認識になってますよね。まあ、KTMCHIさんが手を加えられるまでは、古い歴史像に基づく義家が描かれていたわけですけれども。。。
ちょっと話を脱線させてみます。野口先生じゃありませんが、武士って本当に暴力団だなあと思うのです。いや、むしろ暴力団こそ武士の正統な後継者というべきでしょうか。両者の共通点はその暴力性だけでなく、強い名誉心(メンツ)にも見出せます。『今昔』や中世史料に現れる武士の振る舞いなんて、暴力とメンツという2つのキーワードで見ていきますと現代ヤクザのそれと変わるところがありません。ここから敷衍して、武士団とは、小さな組が地縁的にいくつか集まって結成した連合のようなものだったんじゃないかなー、とテキトーな夢想をとばしております。 酔った勢いでいろいろ書いてしまいました。今後ともよろしくお願いいたします。--shimoxx 2007年12月4日 (火) 16:41 (UTC)
- shimoxx さん。毎度です。面白そうなネタを振って頂きまして。(笑)
- え~、先にいっときますが、私のことを「郷土史家」なんて言わないでくださいね。私は「郷土史家」が大嫌いなんですから。いや、遠い親戚にいて、田舎に帰って聞いた話を調べてみたら嘘八百だったことがあって。とお断りしたうえで、私が最初に調べだしたのは「頼朝以前の鎌倉」「鎌倉がどう作られてきたか」あたりなんです。そこから「頼朝以前の武士は?」と広がっていった訳で。
- 「頼朝なんて書いてないじゃん!」と思われるかもしれませんが、ちゃんとあるんですよ。お散歩コース案内のひとつの「鶴岡八幡宮の歴史」にね。(笑)
- あとは「大手中路」「鎌倉権五郎神社」、最近更新した「六浦道と朝比奈切通し.4」とかにちらばっていますが。
- 「大庭御厨の濫妨」なんてことを頼朝の父の義朝がやっているなんて、おかしいと思いません? 義家の頃からの郎党だったんじゃないの? 大庭氏は鎌倉権五郎の子孫(少なくとも同族)ですぜ。
- 「吾妻鏡」には吾妻鏡1180年9月9日条で、千葉介常胤が頼朝の挙兵に「源家中絶の跡を興せしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃ぶ所に非ざるなりて・・」と言ったなどと、代々源氏の忠臣と言うような書き方をしていますが、そりゃ嘘ですね。千葉介常胤にとっては頼朝の父、源義朝はとんでもない野郎です。「地上げのヤクザなんぞ、それに比べたら可愛いもんよ」と千葉介常胤は言うかもしれませんね。・・・とこれは「六浦道と朝比奈切通し.1」に書いたこと。「吾妻鏡」も結構嘘つきです。
- 吾妻鏡 建久6(1195)年11月19日には、鎌倉権五郎以来の神社仏閣(神仏混合だからどちらか判らない)で、石橋山で頼朝を窮地に追い込んだ大庭氏の一族、俣野景久が「帰敬」していた大日堂が、俣野景久が滅びたことにより、「堂舎漸く傾危に及び、仏像雨露に侵さる。景久の後家尼旦暮この事を愁い、醒めても寝てもその功を思う」というのを、「景久は反逆者たりと雖も、景政は源家の忠士たるなり」と、「柳営の護持せしめ給うかの由御沙汰有り。聊か御奉加に及ぶ」つまり、頼朝が田畠を寄進し、再建したとあります。どこかで書いたと思ったら「鎌倉権五郎神社」の中の「鎌倉権五郎平景政と後三年の役」でした。
- という疑問を抱いていたところへ、元木先生が『保元平治の乱を読みなおす』で、バシッと書いているのを見つけて、「やっぱり!」と。『武士の成立』を買ったのはそのあとでしたね。
- 伝承は確実な史料で裏付けられなければ信用しないというのは、鎌倉に奈良時代からあったと言ういくつもの寺とか仏像を調べたときからです。特に仏像は文化財として冷静に調査した県の報告書や目録がありますので。結果は「大嘘!」。これは「杉本寺」他。後白河法皇に、花山法皇までが逗子にやってきて法事をやったと言われて信じます?(笑)「岩殿寺」ですが。
- 「武士=ヤクザ論」はですねぇ、そういうとカチンと来る人達が沢山いますね。感情論になってしまう。下向井龍彦先生とか。下向井先生が書いた元木「武士の発生」の書評をネット上で読みましたが、元木先生をよいしょしながら髙橋先生(多分)をボロクロにこき下ろしていたり、あの二人の論戦にはうんざりしました。まるで昔の新左翼同士の論争(レッテルの貼りあい)みたいで。
- そんなこともあるので、あくまで「結合形態」ということで似ている、「江戸時代の十手を持ったヤクザの親分」ぐらいに留めた方が良いように思います。「ヤクザ」は現在「反社会的勢力」(会社では略して「反社」)ですが、武士(武者)は「公権(この場合は公的権力)」が建前ですからね。
- それと「武士=ヤクザだ!」と言ったって、ほとんどの人は納得しないので、「ヤクザとたいして変わらない実例」を淡々と並べた方が良いのではないでしょうか。実例に対して「そんなの嘘だ!」と言う人が居たら「嘘と言う証拠を同時代の史料から証明してくれ」と返せば良い訳で。そこで確たる証拠がでてきたら、それはそれで大もうけですね。(笑)
- 去年だったか、昔高校で郷土史研究会の部長をしていたという自転車仲間の友人が、私のサイトの歴史の部分を読んで「セキュリティ屋の匂いがする」と。「何処が?」と聞き返したら「疑り深い!」だって。これには大笑しました。
- でも、こういう気軽な会話は楽しいですね。Wikipediaの記事には書けないことを平気で言える。(笑)
- 実は今日は会社を休んで通院していました。歳ですかねぇ。トホホホホ
- 岩田@北道(--KTMCHI 2007年12月5日 (水) 08:21 (UTC)
- 以前、保土ヶ谷区に住んでたことがありまして、鎌倉方面へもMTBで何度か行きました。県道での朝比奈越えとかナツカシス。
- そうそう、元木先生の『武士の成立』に書いてあったのは「坂東武士が源義家以来の累代家人というのは頼朝が作ったフィクション」てな話でしたっけ、よく覚えてませんけども。こーゆー会話は尽きないところですけど、ウィキペディア上であんまりやると怒られちゃいますので、この辺で。--shimoxx 2007年12月10日 (月) 15:28 (UTC)
義家、参考文献に関して
[編集]はじめまして。ろう(Law soma) D Cと申します。私もshimoxxさんと同様、北道さんのサイトに常日頃お世話になっている一人です。義家の項目、とてもすばらしく感動すら覚えます。本日は、北道さんの利用者ページにありました参考文献について釈明をいたしたく、またそれを口実にお近づきを賜りたく参上しました。
私も素人ながら歴史が好きで、執筆項目のほとんどは日本史分野です。その執筆の際には、特に最近は意識的に参考文献を明示するよう気をつけるようになりましたが、以前は、それこそ北道さんのサイトなどを利用して執筆したこともあり、原典にあたらないままの編集が多かったように思います。そのようなときには、ほとんど参考文献を入れずにおりました。おそらく参考文献を入れない大多数の方は、どこで読んだか忘れた記憶とネット情報に基づいて執筆しているのだろうと思います。私事ではありますが、このような御挨拶をしたことによって自分を律していきたいと考えておりますので、今後ともよろしくお願いいたします。--ろう(Law soma) D C 2007年12月1日 (土) 22:28 (UTC)
- ろう(Law soma) さん、初めまして。岩田@北道(KTMCHI)です。
- 利用者ページはですねぇ、こないだオフラインミーティングとかいうものに顔を出したので、そのときに、「何か意見を述べよ」って要求事項があって、言い忘れたのを自己紹介ページに書いたぐらいのことですので。自分もネットで検索しますし「書いてること全部出典を示せ!」なんて言われると困ってしまいますね。何処で読んだか思い出せないのも沢山ある。私のサイトに時々(髙橋p99)とか書いてあるのは実は自分用だったり。(笑)
- でもWikipediaでも長い記事だったりすると「詳しく知りたければこれを読みなさい」ぐらいの感じで紹介した方が親切かな、とぐらいには思います。でも「陸奥話記は陸奥話記を読みなさい、検索すれば現代語訳全文が出てくるから!」ぐらいで終わりですけどね。今ちらっと関係された項目を見てみたら、多分かなりの数、私のサイトのリンク先に使わせてもらっているかもしれません。有り難う御座います。荘園制関連を色々お書きになっておられるようですね。私は荘園制は実は大の苦手で、変なところ、舌足らずのところがあったらアドバイスを頂ければと思います。
- これからもよろしくお願いします。m(_ _)m --KTMCHI 2007年12月2日 (日) 09:50 (UTC)
- お恥ずかしい。私の荘園制関連の知識は底も浅く、shimoxxさんから出された宿題も残っております。ほとんど概説書頼りで自信もありませんので、こちらこそ武士論など幅広い岩田さんからのアドバイスを頂ければ嬉しく思います。--ろう(Law soma) D C 2007年12月3日 (月) 01:44 (UTC)
奥州後三年記について
[編集]これはまた、すごいものを読ませて頂きました。私の執筆した陸奥話記が裸足で逃げていきそうです(笑)。奥州後三年記のようなレベルの軍記物でこれだけのものが書かれてしまうと、他の軍記物に関して要求されるレベルが格段に上昇し、Wikipedia全体の質向上にも繋がる画期的な記事だと思います。まずは賞賛、そしてお恥ずかしながら陸奥話記への加筆などもお願いできれば幸いです。--ろう(Law soma) D C 2007年12月10日 (月) 05:06 (UTC)
- ろう(Law soma) さん、有り難う御座います。
- 実は「奥州後三年記」は「源義家」とセットなんです。特に「義家の郎党」の部分が。
- 山内首藤氏の山内荘は、実は現在私が住んでいるところなので、昔から調べていました。山内首藤氏は昔から山内(やまのうち)に居たというのは、安田先生だけが間違えたのではなくて、1970年代にも『戸塚区の歴史』を書かれた大橋俊雄先生もそう書いていました。横浜市のサイトの「栄区の歴史9 栄区の荘園・山内荘」には、今でもそう書いてあります。学者さんにとってはたいした問題ではないので、あそこまで証拠を挙げた人はいませんが、しかし源義朝が山内荘を首藤氏に与えて、鎌倉の北の守りとしたというのは現在では通説になっています。
- 大三大夫光任は大宅光房の父、というのは独自見解かもしれません。そう書かれた本は読んだことがありませんから。でも「中右記」に書いてあるんだから、ルール違反ではないかと。私のサイトの方には「中右記」原文を載せておきました。ネット上で見つけたのですが。『奥州後三年記』の欠落部分についての『康富記』の原文も、今のせておきました。
- 源義家は既に人様が書いていたものですから、様子を見ながら、上から1章づつぐらいに少しずつ置き換えていきましたが、「奥州後三年記」は新規なので、一発でドーンと行ってしまいました。
- ところで、『陸奥話記』ですが、あれで十分だと思いますよ。『陸奥話記』自体にあまり問題は無い、それの解釈で歴史観が変わるなんてとこは無いですから。せいぜいが、安部氏は俘囚か否か、ぐらいでしょう。でも、『陸奥話記』も、『今昔物語集』にある同じ話しも、ほろりと来ますねぇ。源の頼義は悪いやっちゃ!、あっ、これは独自見解です。(笑) 岩田@北道--KTMCHI 2007年12月10日 (月) 14:04 (UTC)
- ありがとうございます。私も東北人として「何で頼義・義家は英雄なんだろう」と常々感じておりましたので独自見解には激しく同意です(笑)。Wikipedia的には、この辺りでやめておきますが、安倍氏の出自についても『陸奥話記』諸本の変遷を書こうか書くまいか悩んでおりましたので、そのうちどこかに書きたいと思います。(出典は「蝦夷の末裔」あたりが纏まっているかな)--ろう(Law soma) D C 2007年12月11日 (火) 01:30 (UTC)
- Kyubeと申します。外部サイト[1]との記載が一致したため、念のため削除依頼を提出させていただきました。当該サイトのアドレスから推測するに、KTMCHI様が当該サイトの作成者であろうかと思います。しかし、WikipediaはGFDLに基づいて正しく利用する必要があります。GFDLは特殊な著作権形態であり、
- GFDLで提供されたものは改変履歴を継承するかぎり改変可能
- 一定の条件を満たせば商用利用含めてだれにでも利用可能
- の条件下に提供されるものです。もし、あなたがGFDL下での使用を許諾する意思がおありであれば、Wikipedia:自著作物の持ち込みをお読みになり、著作権を侵害していないことを証明し、どこで証明したかを削除依頼のページにてお示しいただきますようお願いします。それ以外でも何かありましたら、削除依頼のページでコメントなどを書き込み願います。 kyube 2008年1月8日 (火) 12:15 (UTC)
- Kyubeさん、お手数をおかけしました。アドバイスを参考に奥州後三年記と義家の郎党の末尾に追記し、削除依頼のページにコメントしました。(--KTMCHI 2008年1月8日 (火) 15:08 (UTC)
- 先ほど、削除依頼に追記を確認した旨を記載しました。作業ありがとうございました。 kyube 2008年1月8日 (火) 15:11 (UTC)
「秀逸な記事の選考/武士団」の件
[編集]Ktmchiさん、私の提案を受け入れていただきありがとうございました。散財させてしまい恐縮です。
紳士的な対応に感謝します。意地の張り合いや感情のもつれあいになっては解決するものも解決しないので、その点を心配しております。経歴を拝見するとパソコン通信時代からのネットワーカーということですので、バトルの恐さもご存知だろうし、それを避ける智慧もお持ちかと思いますが、老婆心から余計な一言を言わせていただきました。
この件どのように決着するかわかりません。したがって、結論が出るまで版を改めるのを控えておいた方が良いかもしれません。結論が出てから加筆したり編集したりしても遅くはないでしょうから。--赤い飛行船 2008年4月5日 (土) 14:31 (UTC)
- 赤い飛行船さん、御提案の件、そして今回の御助言、重ね重ね有り難う御座いました。
- おっしゃる通り、少なくとも話題の引用部分については手を加えないつもりでおります。選考期間は6月までまだ2ヶ月もありますし。実は現在Wikipedia:月間強化記事賞にも推薦されていましてその投票期間が4/11から4/20。本当はそれが終わるまで一切修整しないつもりで居ました。ただ、らりたさんのこれもご親切なアドバイスを頂いて「ちょっと考えてみます」のまま放置するのも失礼かと手直しを行ったものです。それを「古い版の長い引用は大部分が不要なものが引用されていたということにも」とおっしゃる方まで現れたのにはビックリ致しました。結論が出るまであの章は凍結しておくつもりです。
- 誰でもそうでしょうが「秀逸」と言われたくて記事を書いている訳ではありませんし、候補に御推薦頂いただけで十分に名誉なことと思っております。まあ「貰った宿題をちゃんと仕上げたんだから月間強化記事賞ぐらい欲しいなぁ」とは思いますがそこにも強敵が(笑)。
- ただ、現在の問題は私の書いた記事の内容、歴史認識に問題があるというのではなくて「引用」の是非になってるような。「引用は適法な無断利用の一態様のことなので無断引用という言葉はあり得ない」とご提案の本にもあるようですから「この引用はいけない」ではなくて「これは引用ではない」と言う批判であるべきだと思います。
- また、これがもし「お前の引用は的を射ていない。引用するとすればこちらではないか?」とか言うことなら「そうでしょうか、私はこういう点から・・・」と楽しい議論が出来るのですが。そうではなくて内容など関係無しに「引用という行為」そのものが悪であるかに主張されている様に見えてなりません。この調子だとWikipediaから「引用」が封殺されてしまいそうにも。それに比べれば「秀逸」リストに載ることなどどうでも良い問題かと。また、最終的にはどちらが利用者の利益(とぢらがより深く理解出来るか)に繋がるかで判断すべきだと思います。
- もっとも日本中世史関係の方はまだ投票されていないので「引用」の是非で「是」となっても、「勉強が足りない」と内容で「非」になる可能性はまだまだ大きいのですがね。早くそういう批判に頭を掻きむしる状態になって欲しいと思います。(4/13 若干追記)Ktmchi 2008年4月6日 (日) 12:06 (UTC)
一括投稿のお願い
[編集]こんにちは。Ktmchiさんが同じ記事に対して節ごとに分けて連続して投稿されているようでしたので、一括投稿のお願いに参りました。Wikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすにあるとおり、同じ記事への連続投稿はウィキペディアのサーバに負荷がかかるうえ、履歴の見通しが悪くなるなど、さまざまな面で支障をきたすおそれがあります。細かい節がたくさんある場合は、節ごとに細かく投稿をするのではなく、上位の節または項目全体の編集を行い、一括して投稿していただきますようにお願いいたします。
その際に細かいところでミスを起こすのではないかと心配な場合は、「投稿する」ボタンの右隣にある「プレビューを実行」ボタンを活用されることをお勧めします(画面右側の図を参照)。投稿される前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。これを使うことで、
などをあらかじめチェックし、修正した上で記事を投稿することができますので、是非ともご活用ください。
また、編集競合を避けたい場合は、Template:工事中をお使いください。ご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力をよろしくお願いします。--松茸 2008年5月10日 (土) 18:15 (UTC)
- 松茸さんすいません。「プレビューを実行」は毎回使ってはいるのですが、後々読みなおすとまだてにおはとか誤字とかバランスの悪さを見つけてしまうものですから。デッカイ記事は自分のサイトの隠しページに下書きをして1ヶ月以上念には念を入れているのですが、周辺関連小項目ではついついおろそかになってしまうようです。Template:工事中は知りませんでした。今回同じ時分に他の方と更新がぶつかり、焦りましたが、ちゃんと同期がどれていて双方の修整部分がちゃんと反映されているようなのでホッとしました。--Ktmchi 2008年5月11日 (日) 03:59 (UTC)
おつかれさまです。
[編集]ノート:吾妻鏡でお世話になりました元125.31.77.164、203.135.247.103です。またIP変わってしまったのでとりあえずアカウント取りました。吾妻鏡を素晴らしい記事にして頂いたことを、この時代関連記事の充実を願う者の一人としてお礼を申し上げます。源平・鎌倉初期関連記事の執筆に吾妻鏡はとかく安易に利用しがちですし、現代語訳吾妻鏡も発売されて誰でも読めるようになっただけに、この記事は大変重要でWikipedia日本史分野においての貴重な財産であると思います。出来るだけ多くの方に見てもらえるよう月間強化記事賞/2008年5月に推薦させて頂きました。(初めてなので上手くいってるのかわかりませんが)ゆっくりお休みされた後、また今後の執筆活動を楽しみに拝見させて頂きたいと思います。
実は執筆過程を拝見していて、軽い気持ちでお願いしたのが申し訳なくなって多少はお手伝いになるかと源頼家を出来る範囲で加筆しましたが、近所の図書館では別冊歴史読本くらいしか見つけられず、やはり素人には資料集めから限界がありまして、やっと奥州合戦部分が整理された源頼朝の他、吾妻鏡丸写し感のある源実朝や、長いことわびしい状態の藤原秀衡など、色々気になる記事はあるのですが、中々手が出せず、Ktmchiさんに手を入れていただければなあと密かに期待している次第です。
ありがとうの花 | |
感謝申し上げます |
--Gokenin 2008年5月26日 (月) 15:27 (UTC)
- Gokeninさん、あ、有り難う御座います(嬉涙)。なんかこうホッとするような絵柄ですね。地の色ともとても暖かくマッチしているし。
- ところで、御家人さんですか。良い名を取りましたねぇ。「源頼家」読ませて頂きました。源頼家についての曲筆はあれも書きたい、これも書きたいというのをグッと押さえて、このひとつだけで押して知るべしでしょう・・・、としたのですが、そうは言っても欲求不満は残って、でも「源頼家」読ませて頂いてその欲求不満が解消されました。ここまでちゃんと書いてあれば大丈夫と。「源実朝」ですか? 「源頼家」を書かれたのならその勢いでちょいちょいでしょう(と焚きつける・笑)。
- 近所の図書館はですねぇ、私が自宅から自転車で通える図書館は鎌倉市図書館なんで「鎌倉時代」や「吾妻鏡」は地元の強みなんですね。なにはともあれこちらこそ有り難う御座いました。このお花は我が家の「家宝」と致します。--Ktmchi 2008年5月27日 (火) 13:58 (UTC)
50万項目達成記念飲み会
[編集]Wikipedia:オフラインミーティング/東京/50万項目記念飲み会を企画しています。良かったらご参加ください。--ゆきち 2008年6月30日 (月) 15:38 (UTC)
利用者ページへの一般カテゴリ付与について
[編集]はじめまして、kouko0515と申します。先ほどCategory:日本の歴史書を見ていましたところ、Ktmchiさんのサブページである利用者:Ktmchi/下書き(1)がカテゴライズされておりました。また、Category:鎌倉時代の文化にもカテゴライズされています。『吾妻鏡』の転記作業中だと思うのですが、今年5月19日からそのままになっていますので、早期の修正をお願いします。--kouko0515 2008年12月5日 (金) 09:37 (UTC)
- これは気が付きませんでした。お知らせ頂き有り難う御座います。早速削除しておきました。申し訳ありません。--Ktmchi 2008年12月5日 (金) 23:13 (UTC)
- 迅速な対応をしていただき、ありがとうございました。下書きの際に転記されるのであれば、カテゴリ部分だけでもコメントアウト(「<!-- -->」)しておけばいいと思います。--kouko0515 2008年12月10日 (水) 12:35 (UTC)
お願い
[編集]ご多忙とは存じますが宮古島島民遭難事件をGAに自薦しました。ご検討をお願いします。--Ichiro Kikuchi 2011年6月30日 (木) 01:50 (UTC)
花束をどうぞ!
[編集]春なのでチューリップです。
Margarita(会話) 2012年3月3日 (土) 18:01 (UTC)
こんばんは。パーソナリティ障害の改名では強力な助太刀ありがとうございました。改名提案してみたものの、皆さん反応が鈍くなかなか票が集まらなかったので助かったどころではありません。論破も素晴らしかったです(笑)リンク元ページをちょこちょこ編集しながら、なにか一つの時代が終わったのかなぁ…と郷愁のようなものがこみ上げてきました。御礼にチューリップをどうぞ!(使い方これでいいのかな??)--Margarita(会話) 2012年3月3日 (土) 18:03 (UTC)
- わお~♪
感激です。家宝が2つに増えました。女性から花束を貰うなんて、生まれてこの方あったかしら? うちの娘なんか・・・、Margaritaさんの爪の垢でも飲ませてやりたいです(笑)。 続きはそちらの会話ページに。---Ktmchi(会話) 2012年3月4日 (日) 10:20 (UTC)
良質な記事の選考
[編集]Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考に 解離性同一性障害を出しました。 専門の方からのコメントを期待するのは難しいと思いますが、専門家以外の方の「こういう点はどうなんだろう」とか「ここ、解りにくい」というような疑問、指摘を沢山頂ければと思います。---Ktmchi(会話) 2012年7月15日 (日) 03:54 (UTC)
利用者:Ktmchi/下書き(1)の書き込み数限界
[編集]こんにちは、私は書き込み件数の比較的多いページのメンテナンスを行っておりますTriglav(トリグラフ)と申します。
Ktmchi様が作業場として使われている利用者:Ktmchi/下書き(1)の本日現在の書き込み総数5,023回は、ウィキペディアが使用しているMediaWikiシステムでの操作の一部における限界値を超えているため、今後も継続して同ページをご利用になる場合、「履歴分離」と呼ばれる処置が必要になります。
当該ページの使用を止めて別のページに作業場を替えるか、「利用者:Ktmchi/下書き(1)/log」などに改名してリダイレクトとなった「利用者:Ktmchi/下書き(1)」を新たに使用する方法のどちらかをお選びください。面倒でありますが、ご対応よろしくお願いいたします。--Triglav(会話) 2013年1月17日 (木) 06:53 (UTC)
- お知らせ有難う御座います。ログをクリアしてしまう方法ってないのですかね。---Ktmchi(会話) 2013年1月17日 (木) 11:28 (UTC)
- 対応に感謝いたします。今回の件、当該ページの履歴がKtmchi様のみで構成されていれば、手続き的には削除要請することは可能です。ですが「操作の一部」とは削除機能のことでして、現在、当該ページは通常の操作では削除することができません。
- 作文はローカルのテキストエディタ上で行い、そこから文章をコピーし、書式の整形のみを作業ページでのプレビューで確認するのがシステムに負担をかけないもっとも効率のよい方法とされていますが、そこには特にこだわらずに、これまでのような作業し易いスタイルで編集作業を行ってもらって結構です。
- 今後、履歴数のチェックで、およそ3,000を目安に今回のような過去ログ処置を行っていただきますと非常に助かります。ご面倒ですが、よろしくお願いいたします。--Triglav(会話) 2013年1月17日 (木) 13:09 (UTC)
- 了解しました。重ね重ね有難う御座います。---Ktmchi(会話) 2013年1月17日 (木) 13:18 (UTC)
ご報告
[編集]初めまして、Facial expression (会話/投稿記録)と申します。
「自傷行為」における取り消し編集の件、大変感謝しております。その問題となった画像ですが、Commons:Deletion requests/File:Self-harm eir aoi.pngにて、当方が削除を依頼し、著作権侵害を理由に削除されましたことをご報告させて頂きます。--Facial expression (会話/投稿記録) 2013年2月11日 (月) 17:00 (UTC)
- ご報告有難う御座います。我々の「画像追加版」取り消しを2度に渡って巻き戻しした人のアカウントはあれだけのために登録されたみたいですね。何にせよ安心しました。ご苦労様でした。そして有難う御座います。---Ktmchi(会話) 2013年2月11日 (月) 17:14 (UTC)
修正を了解していただきありがとうございます。
[編集]ご存知だと思いますが、解離性同一障害は鬱を併発することが多く自殺企図を持つ場合も少なくありません。そういう状態にある者が該当部分を読んで罪悪感を昂進させ自殺企図が助長されてしまう可能性を懸念し、いくつかのネグレクト関連サイトを参考に、特定例に絞らない幅広い表現に修正させていただきました。ご了解頂きありがとうございます。--Kusamura N(会話) 2013年9月17日 (火) 01:22 (UTC)Kusamura N(会話)
東慶寺記事について軽いお願い
[編集]こんにちは、ぱたごんです。いつも上質な記事を読ませてくださってありがとうございます。とくに東慶寺記事はFAとして十分な記事だと思っています。私はFA選考ではどの選考であれ賛成する場合には必ず出典にあたって検証作業をしたうえで賛成票を入れています。検証作業には国会図書館で2日ほどかかるのでよほど優秀な記事で無いと検証作業をする気になりませんが、東慶寺記事は手間暇かけて検証作業に当たる気になる出来栄えです。すぐにとは言えませんが検証作業の上で賛成票を入れたいと思います。さて、東慶寺記事は十分に上質な記事ですが、3点ほどご検討いただきたいことがあります。
- (1)記事中のカタカナの使い方(「イエ」、ホンネとタテマエ、密通がバレても)が気になります。あえてカタカナにする理由が分からないのですが、いかがなのでしょう?Ktmchiさんにカタカナにすることにこだわりがあるならこの点には触れませんが、特にこだわりがないなら漢字にしてはいただけないでしょうか?
- (2)「縁切寺への幕府の態度」節の末尾「この「ならば日本中に駆込中止の触れを出せ」との叱責に慌てた円覚寺は・・・これを禁じている[注 66]。」や「葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(重文)」節 「今日本にある「南蛮漆芸」は」以下など出典が明記されていない部分があります。国会図書館に行く前にご提示くだされば検証作業も早く進みますのでご提示くださるとうれしいです(どのみちFA審議で指摘することになります)。
- (3)[出入三年満二十四ヶ月の縁切奉公]節末尾の「これは上臈衆格と思われるが、中略、それでも親族が協力すれば払えない額ではない。」はいささか主観的かと。せめて1838年(天保9年)ごろの1両がどの程度の価値であったかは書き加えるべきではないでしょうか?
以上、FA審議で指摘するべきかもしれませんが、検証の手間を少なくしたいのとあまりFA審議の場をごちゃごちゃさせたくないので直にご連絡いたしました。1838年(天保9年)ごろの1両がどの程度の価値については「どうせ図書館に行くならぱたごんが調べろ」ということなら私が調べても構いません--ぱたごん(会話) 2014年1月13日 (月) 05:25 (UTC)
- 「検証作業には国会図書館で2日ほど」にはびっくりしました。私も昔に投票に参加したことはありますがそこまではやっていません。頭が下がります。さて、事前のご指摘、有難う御座います。
- (1)「イエ」以外は単に私の癖ですので直しました。「イエ」には意味があります。あるんですが、この場合は「家」の方が適切なようです。参考文献とした書籍三冊とも「家」と書いてありましたのでそれに従い修正します。私はどちらかというと平安時代後期から鎌倉時代が中心な人間なので、「家」の概念の形成過程、初期の状態を「イエ」「イヘ」と呼ぶ癖があります。
- (2-1)「縁切寺への幕府の態度」節の末尾の一部に出典が無いとは「寺法離縁状を書かない強情夫を寺社奉行が呼び出して仮牢で脅す」でしょうか。出典を追加しました。
- (2-2)「今日本にある「南蛮漆芸」は」云々の部分は一昨年の東慶寺伝来蒔絵展に合わせた講演会で、東京国立博物館前副館長の小松大秀先生が説明されていたことです。ただ、それでは検証のしようがないですね。通説だと思うのですが、私は漆芸の図書を全く持っていないので今調べてみました。荒川 浩和著『漆工芸』保育社 (1982/08)に「南蛮漆芸」の記述があります。今注文をかけておきましたが、Google ブックにも登録されていてネット上でも参照できます。(現物を入手したあとに出典を追記します。)
- (3)「これは上臈衆格と思われるが、中略、それでも親族が協力すれば払えない額ではない」という根拠は、江戸時代の庶民の不倫の慰謝料の相場が大判1枚相当約8両だったことです。もうひとつは、東慶寺絡みではありませんが、信州で貧農の出の女房が離婚を申し出たら、夫に15両もの趣意金を要求される、しかしその女房の親はもうこのよにはおらず、女方の親戚が工面することになったが皆貧農なので家財道具を売って工面したが、その親戚達の嘆きは筆舌につくしがたいと、その地を預かる役人が書いていたと思います。今は記憶で書いているので正確ではありませんが、8両の倍近くの金を貧農一族がともかくは工面しています。何処に書いてあったのかをしらべるのに少し時間がかかります。高木先生の本だと思うのですが。このあたりも脚注に書いておいた方が良いですかね。---Ktmchi(会話) 2014年1月13日 (月) 11:57 (UTC)
- 【追記】記憶で書い「夫に15両もの趣意金を要求される」云々はそうとうな記憶違いでした。[注 75]に記した通りです。すいませんでした。---Ktmchi(会話) 2014年1月20日 (月) 12:45 (UTC)
- ありがとうございます。検証がしやすくなりました。カタカナについてもありがとうございました。「これは上臈衆格と思われるが、中略、それでも親族が協力すれば払えない額ではない」については当時の1両の価値は私の方で提示してもいいです--ぱたごん(会話) 2014年1月13日 (月) 15:05 (UTC)
- 1両が今のいくらぐらいなのかは時代によっても変わりますが、比較する対象によってもものすごく大きく変わります。日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料では「当時と今の米の値段を比較すると1両=約4万円、大工の手間賃では1両=30~40万円、お蕎麦(そば)の代金では1両=12~13万円」という試算を紹介しているそうです。お米換算と大工の手間賃換算では10倍近い違いがあります。そこで中間のお蕎麦の代金で換算しても駅の立ち食い蕎麦の300円ぐらいから、鎌倉の蕎麦屋の1000円近いものまであり、どれと比較すりゃ良いんだという問題が。1両=13万円とすると、蕎麦一杯16文は520円になるそうですが、とりええずそれを使うと8両は100万円ぐらい。15両は200万円ぐらい。30両は400万円ぐらいで、今の感覚では「なんだ、2年間でその程度か」となってしまうのではないでしょうか。先にあげた15両もの趣意金(手切金)を要求した夫を私は他の趣意金の相場から「なんて強欲なやつなんだ!」と思いましたが、200万円ぐらいと云われるとそんなに非道くない気になってしまいます。よくお米の値段で比較したりしますが、そうすると15両は60万円。私には大金ですが、でも親戚一同が泣きの涙ってほどの金額か? ってなってしまいます。こういう換算は非常に厄介で、例えば注釈の14に貫文と石高の換算を書きましたが、結局は「判らない」とするしかありませんでした。いろんな史料を比較すると計算が合わないんです。---Ktmchi(会話) 2014年1月13日 (月) 16:45 (UTC)
人物記事について
[編集]はじめまして。建築史家記事の精力的な編集お疲れ様です。さて、あなたの立項された人物伝記事を拝見すると、Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)に従っていない点が見受けられます。具体的には、
- 生没年が明確な人物でも、導入部の読み仮名の後に生没年を記載しない
- 導入部の次に年譜形式での記載をおこなう
といった点です。また、記事にカテゴリを付与されていない点も気になります。経歴を拝見すると十分にベテランの域に達しており、それなりに優れた記事も書かれていらっしゃるようにお見受けしますので、他の編集者の範となるべく、これらの点についてガイドラインに沿った形で編集をいただくようにお願いいたします。--Unamu(会話) 2017年4月13日 (木) 11:46 (UTC)
- そちらの会話ページにお礼に伺おうと思っていたところでした。加筆ありがとう御座います。おかげさまで知らなかった情報を色々得ることが出来ました。実は「人物記事」なんて、歴史上の人物以外ほとんど書いたことが無いんです。これ以降も滅多に書かないと思いますが。それなのになんで五人も急に書いたかというと、準備中の記事に名前が出てくるからなんです。
- 例として川本重雄先生を使いますが、「この件について川本重雄はこう述べている」とか。記事を見た人は「この人誰?」となるでしょう。そこで「いや、寝殿造の世界では有名な人なんですよ」という程度の時事です。経歴は著書の後ろに出ているぐらいしか知りません。2012年再版の『寝殿造の空間と儀式』には京都女子大学の学長になったことまでは書いてありましたが、現在は近畿大学教授というのは記事を書くときに調べて始めて知ったぐらいです。この方の生まれた年は著書の後ろに書いてありましたが、飯淵康一先生のお歳は松茸さんが追記してくれるまで知りませんでした。
- ただ、経歴については、私が参照するのは主に歴史上の人物ですが、ある事柄の年に関係者の官位官職は何だったかなどをwikipediaで良く調べます。例えば「藤原顕季が美作守になったのはいつ? あれ、美作守になった頃にはもう藤原師通は死んでるじゃん!」とか。こういう調べ方をするときには年譜形式の方が私は解りやすいと思います。
- 数年に一度、その時点での自分のメインテーマについて長文のリライト記事を書くことがあり、そちらは全力で調べますが、関連する周辺項目についてはともかく項目をたてておけば知ってる人が補強してくれるだろうと他力本願なところがあります。申し訳ありません。みなさんに加筆して頂いたおかげで、私も情報量が増えました。感謝致します。Ktmchi(会話) 2017年4月13日 (木) 18:41 (UTC)