Wikipedia:井戸端/subj/外国語の出典を日本語で読めるように提示することの是非について
|
外国語の出典を日本語で読めるように提示することの是非について
[編集]あるブロック依頼において、外国語の出典を日本語で示すことの是非が論点のひとつとなっています。これについて、私が「依頼者(記述者)に不都合なことがないのであれば、(出典の内容を)日本語で示すことを厭う理由はありません」と述べたところ、別の利用者から「論外」であり、方針不理解の上他人に著作権侵害行為を強要しているとの指摘を受けました。
個人的には、使用する文脈からいって、出典元を明らかにして該当部分の日本語訳を示すのは「引用」の範囲であって、著作権侵害の指摘を受けることはないだろうと考えていたのですが、著作権について深く理解しているわけではなく、認識が甘いのかもしれません。ちなみにWikipedia:引用のガイドラインは現在のところ「私論」の段階です。
私自身が外国語の出典を元に記事を書くことはまずありませんが、翻訳などに携わる方がもし私と同じような考えでおられたりすると、あとで問題になるようなことがあってはいけませんので、周知の必要性も含めて利用者のみなさんのお考えを伺いたいと思います。--みっち 2011年10月13日 (木) 08:20 (UTC)
- 訳文を書く側が最低限の著作権の知識を持っていれば、侵害になることはないですし、それは百科事典の記事を書こうというプロジェクトのなかでは著作権の知識と言うよりも常識といえる範囲のものでしょうから、示して欲しいと求める側としては、権利侵害になることを想定する必要はないと思います。対話の中で不安があれば、多少助言してあげることは望ましいことだと思います。
- ただし、日本語で示すにも多少の労力は必要ですから、分量によって、また意見対立の経緯や内容、双方の語学や記述内容についての知識の量によっては、「厭う理由」にはなりえると思います。--Ks aka 98 2011年10月13日 (木) 08:32 (UTC)
- ちょっと論点がはっきりしないのですが、もし出典者が日本語説明をする義務が有るとする主張なら「否」です。また、その話とは関係なく、単純に著作権の取り扱いだけを確認しているのならば「ケースバイケース」です。通常、一定範囲(数行とか)の引用は問題ないとされています。(著作権法第三十二条)この範囲であれば、まず著作権で問題になる事は有りません。しかし、例えばノートなどでは恐らく、議論に於いて対立している場合、出典者は「一定の範囲の日本語訳」を用いて「この記事ではこの様に書かれている」と言う説明を既にしている事が多いと思います。その上で対立者が「その説明では納得いかん」とゴネて、出典者に詳細な日本語訳を要求、又は出典者が自発的に出典の日本語訳を示す時は、それは「全文を示す」や「著作権上許容できない量の提示」に繋がり著作権問題に発展する懸念が有ります。いずれにせよ検証を求める側が自らの翻訳能力を持って検証するのがトラブル防止にもなり、また方針やガイドライン、常識に沿った行動と言えるでしょう。その上でなら、特定語の誤訳の可能性に絞って議論を刷り合わせれば良い事になり、著作権問題も気にする必要は無くなるのではと思います。
- --Toshi999 2011年10月13日 (木) 09:00 (UTC)
- あまり愉快でない想定ですが、日本語話者の世界の中でマイナーな言語の文献を盾に取って出鱈目な編集を強行された場合、どこで歯止めがかかるんだと言う心配もあります。やはりコミュニティ内の合意を基礎に置いた作業である以上、「その文献には何と書いてあるんですか?」と聞かれたら、なるべく誠意を持って対応して頂きたいとは思います。ただし、翻訳の量によっては「厭う理由」にはなるでしょうね。「著作権侵害を強要している」という主張については、「言いがかり」みたいな印象を受けました。--おーた 2011年10月13日 (木) 13:46 (UTC)
- 確かに(笑)しかしそこはもう常識の問題かなと思います。その様な非常識な行動を取る人に対して「その文献には何と書いてあるんですか?」と尋ね、仮に答えてくれたとしても、誠意を持って答えてる様に見せかけてるだけと言う可能性が大きいと言う事になりますので、恐らくもう、何を答えても納得出来ない情況に陥るのでは無いかと思います。そうなると、論点は出典言語としての妥当性としてどうなのか・・と言う点で合意を取るしか無いと思います。検証可能性は編集者に限らず全ての読者の問題ですから、世界的な言語認知度を元に許容出来るのか否かで擦り合わせれば良いのでは無いかと。
- 例えばWikipediaがその言語版をサポートしているか否かを一つの基準にしても良いかも知れません。
- 後、これは私の個人的な感想なのですが、敵対している相手に必要以上の日本語訳を求める時点で、もはや感情的なレトリックに陥ってると思いますし、売り言葉に買い言葉で著作権と言うレトリックに発展してしまうのかな・・と思います。もし本当に出典者が「求められたら答えるべき」とするならば、それはもう読者の検証可能性を全く意識していない主観的議論です。
- --Toshi999 2011年10月13日 (木) 20:08 (UTC)
- まず、引用のガイドラインは記事本文に対して定めたものであって、ノート等での議論関係を対象にはしてないように思えます(実際にこのガイドラインの議論に参加している人がどう認識しているかは知らない)。
- 確かにつたない機械翻訳でも大約を知ることはさほど問題ではないけど、細かいニュアンスや言語的な微妙な表現の違いまで読めない方が悪いとなると、それは困りものです。だから、とりあえず機械翻訳なり何なりで読んでみて、これは主張者の根拠になりえないだろうと思ったら具体的に問う、というのが無難なのかなあと今回の騒動を見ると思います。無論、最初から日本語訳を教えてあげることを否定するものではありません。--EULE 2011年10月13日 (木) 14:05 (UTC)
- 使用言語の問題は「検証する側」の問題で本来の検証可能性とは無関係なハズ(その言語が理解できないのならば検証に参加を表明しなければ良い)なんですが、英語版などでは「日本語の文献を紹介したいのであれば日本語版でその記事を作成すればよい」なる論理で、日本語で記述され英語訳が公表されていない書籍の英語版での紹介を拒否するへんなひとがいたりしますので、自分の気に食わない出典情報を拒否する便利使いには良いのではなかろうか。--大和屋敷 2011年10月13日 (木) 14:39 (UTC)
- 英語の母語話者は、外国語で苦労しなくて済む人がほとんどなので、語学学習者に冷淡な傾向があるんじゃないでしょうか。--Littlefox 2011年10月14日 (金) 02:21 (UTC)
- このブロック依頼をした本人です。韓国語は日本語と近いため翻訳サイトでも極めて正確に(完全に近いと言ってもよいくらい)翻訳する事ができます[1][2][3][4][5][6]。私はこの問題について誰も出典を読んで物事を判断しようとする者がいないことに驚いています。そもそも外国語出典が有効なのは自明の理ではありませんか。--SLIMHANNYA 2011年10月13日 (木) 16:38 (UTC) 追記--SLIMHANNYA 2011年10月13日 (木) 17:46 (UTC)
- 「論外であり、方針不理解の上他人に著作権侵害行為を強要している」と言った張本人です。上記のみっち氏やKs aka 98氏の発言を見ると、私と両氏では想定している状況に隔たりがあるようですね。あるブロック依頼で問題となった論争に於いて被依頼者は「では、12,17,18のメディア名と書かれている内容を、日本語で読める形で提示していただけますでしょうか」と言ってたんで、私はこれを「全文翻訳しろ」って解釈したんですが違うんですか?っていうか、提示された出典を検証するのに「引用の範囲で」示されたものでいいのか?って思っちゃいますね。しかも相手の主張に疑問があるんでしょ?そういう相手が「引用の範囲で」抄訳したものを示されて満足するんでしょうか?普通に考えれば「全文翻訳」が求められてると思うでしょう。それと、「量によっては厭う理由にはなる」旨の発言をされてる方が複数おられますが、”厭うような量”ということは、その時点で引用の要件を満たさなくなる可能性があるのではないでしょうか?そう考えると、「示して欲しいと求める側としては、権利侵害になることを想定する必要はない」と言うのはどういう状況を想定してのものなのか理解できないですね。
ところで、あるブロック依頼ではみっちさんからお答えいただけなかったのですが、Wikipedia:検証可能性方針のどこをどう読めば「外国語の出典は日本語で読めるようにしなけらばならない」ってことになるんですか?日本語の重要性とは「優先して使用するべき」ってだけじゃないんですか?ブロック依頼では場所的に不適切ですが、ここではお答えいただけるものと信じております。--uaa 2011年10月13日 (木) 19:09 (UTC)
- みなさん、参考になるご意見をありがとうございます。井戸端での私の提起は、一般論として外国語の出典を日本語訳することの是非について広く意見を募ったものです。端を発しているブロック依頼の経過には触れましたが、個別のケースでの判断やブロックの是非を直接目的とされるのなら、直接ノート:キム・テヒか当該ブロック依頼にコメント願います。
- しかし、すでに何人か「関係者」の方々がこられて、その上私が応答することが義務になってるようなコメントも頂戴していますので、中入りというか、以下の脱線をお許しいただきたく思います。
- まず、「想定している状況に隔たりがある」とご理解いただいたことはなによりです。しかし、率直に言いますが、uaaさんの「想定」するような事態は、当該ノートのどこにあるのでしょうか。「全文翻訳」とはどこにも書かれていませんし、当然問題にもなっていません。依頼者は翻訳を拒否しましたが、全文だからとか著作権侵害を理由にしてはいません。依頼者の拒否後、被依頼者は当該部分を自ら翻訳して正当に「引用」しました。依頼者もまた、自ら出典とした当該部分を翻訳サイトを通じて提示されたのは、上記のとおりです。
- Ks aka 98さんも私も、著作権侵害の可能性がゼロとはいっていません。しかし、蓋然性という点では無視できるレベルであり、そもそもそれくらいのわきまえのない人が出典を元に記事を書けるのかという話です。にもかかわらず、想定に想定を重ねた上に「著作権侵害行為を強要」などいうのは、もはや大気圏のかなたというべきでしょう。
- また、uaaさんの中では、私は「外国語の出典は日本語で読めるようにしなけらばならない」(原文ママ)論者なのでしょうか? 私はそのような主張をしたことはなく、回答を迫られる理由がわかりません。これはuaaさんの早とちりか、でなければ妄想でしょう。私が問題だと言っているのは、依頼者が翻訳を拒否する理由として対人論証に及んだことに対してで、そこに至る経過として、被依頼者が検証可能性方針上の指摘をした事実を述べているにすぎないことは、ふつうの読解力があれば容易なはずです。したがって、言ってもいないことを根拠に「方針不理解」などと決めつけるのは、これこそ論外というものです。これ以上、あなたの勝手な「想定」や妄想に私をつき合わせないでください。
- 以上、お答えとしますが、私がこんな言い方をしたとしてもuaaさんは怨まないでくださいね。私は一度はWikipedia:エチケットのあなたに反対した人物には彼の意見を持たせたままそっとしておくのが一番です。に従ってスルーさせていただいたのですが、回答を「強要」されたためにやむなく応じました。この応答は決して私の本意ではなかったことをここに表明します。よって、この件はこれで打ち切りとさせていただきます。お返事は自由ですが、回答があるとはもう信じないでください。脱線失礼しました。ひきつづき、一般論としてのご意見をお待ちします。--みっち 2011年10月14日 (金) 12:40 (UTC)
今はブロック依頼に立ち入る気がないので、一般論を述べます。Wikipediaにおける出典というのは、他者に検証してもらうための資料ですので、いかなる場合もユーザーにわかりやすい形で提示するのが望ましいと思います。
外国語の文献を出典につけるのは自由だと思います(もちろん信頼できる資料を、可読性を損なわない範囲でという意味ですが)。ただし、出典を根拠に合意形成を行いたいなら、もう一声必要だと思います。ノート上であれば、その場の日本語版のユーザーにわかるように内容を日本語説明するとよいでしょう。さらに翻訳できる人が本文に確かにそのことが書かれていることを確認しやすいものでないと、議論を左右するような強い資料になりにくいと思います。やはり、日本語で書かれた文章も付属させるのが望ましい(もちろん、信頼できる日本語の出典も同時に出すのが一番よいですね)--Littlefox 2011年10月14日 (金) 02:30 (UTC)
著作権についてはまた別の問題ですので、引用ルールの枠内にとどめるとか、原文を写さずに内容の説明にとどめるなどの工夫でなんとかしてください。--Littlefox 2011年10月14日 (金) 04:27 (UTC)
「勝手な想定や妄想」と言われると、「一方、ノート:キム・テヒ#立証責任は記述をする側にあると理解していますでは、外国語の出典を日本語で読めるように提示を求められた依頼者は、これを拒否しています。依頼者に不都合なことがないのであれば、日本語で示すことを厭う理由はありません」と言う発言からは、”ふつうの読解力”では「外国語の出典は日本語で読めるようにしなけらばならない論者」と見られても仕方がないでしょうとか言いたくなりますが、キリがないのでこの件は置くことにしましょう。
”一般論”とのことですが、一部件のブロック依頼を例に意見を述べさせていただきます。Wikipedia:検証可能性によると執筆者には出展を提示する義務はありますが、それを読む能力のない輩の面倒を見る義務まではないはずです。その点で依頼人は、被依頼人の方針解釈の誤りを指摘した上で拒否するに留めれば良かったものを、対人論証に走ったのは不適切だったと私は思います。しかし、示させた出展を読もうとする努力もせず、「日本語で示せ」というのは無礼ではないでしょうか?「(機械翻訳を使ったりして)読んでみたんですが、あなたが主張するような記述が確認できません。書いてある部分とそれをあなたがどう訳されたのか示してください。」とか言うのが筋でしょう。当該ノートに於ける被依頼人のようにいきなり「はい。では、12,17,18のメディア名と書かれている内容を、日本語で読める形で提示していただけますでしょうか」では、能力ないくせに上から目線でものを言ってるとしか思えませんね。つまり、提示を求める側は求める部分を具体的に指定するべきであり、「読めないから何とかしてくれ」的な要求に対しては「読む能力がないんなら首を突っ込むな」でいいと思います。--uaa 2011年10月14日 (金) 20:52 (UTC)
- ある程度共通理解が得られたようなので、もう少し補足させていただきます。
- キム・テヒについていえば、私がブロック依頼のコメントの第一に挙げていることですが、Wikipedia:存命人物の伝記が適用される案件だということです。一般の記事であっても、「検証可能性」を満たせばなにを書いてもいいわけではなく、存命人物の記事なら制約はいっそう厳しい、ということはご理解いただけるでしょうか。どうもこの点について理解不足な方がおられるように思いますので念のため。
- その上で、外国語の出典を日本語化することを求めるのがありなのか、なしなのか、でいえば、フェアな議論の前提として、私はありだと判断しています。出典に自信があるなら積極的に開示することをためらう必要はなく、「依頼者に不都合なことがないのであれば、日本語で示すことを厭う理由はありません」とはそういう意味です。無礼を怒るなら、示した後でいいのじゃありませんか? ここのところは見解が分かれているようですが、少なくともブロック理由には当たらないと考えています。--みっち 2011年10月15日 (土) 02:24 (UTC)
- ブロック依頼の妥当性云々に関しては Wikipedia:コメント依頼/J Stalin 20111003 若しくは Wikipedia‐ノート:投稿ブロック依頼/J Stalin でするのが妥当だと思いますが。
- --Toshi999 2011年10月15日 (土) 03:34 (UTC)
- 言いたいことはToshi999さんに先に言われちゃったんですが、あなたのブロック依頼での投票行動に対する言い訳なんかここで聴くつもりはありません。っていうか、ここでの議論は「一般論として外国語の出典を日本語訳することの是非について広く意見を募ったもの」じゃなかったんですか?それが何で「どうもこの点について理解不足な方」なんて非難されなきゃならないんですかね?あなたが「一般論」と言うから私はあなたに”妄想”呼ばわりされたこともスルーしたんでしょう。
- それはともかく、今回のみっちさんの主張でおかしいと思う点を挙げさせてもらいます。
- 「存命人物の記事なら制約はいっそう厳しい」とのことですが、存命人物の記事に於いていっそう厳しく制約されるのは情報源の信頼性であり、検証できる人が多いか少ないかなんて関係ないでしょう。
- 「無礼を怒るなら、示した後でいいのじゃありませんか?」と言うのは無茶な話ですね。提示を求める部分が具体的に指定されていなければ提示のしようがないでしょう。それこそ”全文翻訳”を求めてるのか?っていうことになりますよ。
- そうなると、「外国語の出典を日本語化することを求めるのがありなのか、なしなのか、でいえば、フェアな議論の前提として、私はありだと判断しています」の「外国語の出典を日本語化」とはどういうものを言ってるのか再度お伺いしたい。提示を求める部分が具体的に示されていないという指摘をするのが「示した後でいいのじゃありませんか?」ということは、”とりあえず全文翻訳しろ”と言ってるようにしか見えないのですが。--uaa 2011年10月16日 (日) 11:21 (UTC)
他言語の資料を使用すること自体は全く問題ありませんが、その内容が議論の対象になっているのであれば、その言語に通じていない利用者のためにわかりやすく説明することは、当然望まれる態度ではないでしょうか。過去の議論で似たような事例を思いつかないのですが、例えばノート:チョルノーブィリの後半のようなやり取りはあって然るべきかと思います。資料の全文を翻訳するのはかかる労力からいっても著作権法の観点からも現実的でないでしょうが、論点となっている当該箇所のみを適切に引用したり、要旨を自分の言葉で説明するのは全く問題ありません。それを求められながら敢えて避けるというのは、誠意を以て相手と対話する意思がないと見なされても仕方ないと思います。--sergei 2011年10月15日 (土) 13:03 (UTC)
- 報告 上の私のコメントの一部とそこから派生した議論をノートに移動しました。--sergei 2011年10月27日 (木) 14:30 (UTC)
コメント 横からすみません。色々な話がされているようですが、一般論として気になった点をコメントさせてください。(1)著作権と翻訳の話は全く別物です。翻訳有無にかかわらず、著作権違反の可能性があるものは駄目です。ただし判例等では「引用が従」などの要件を満たせば引用として扱われています(Wikipedia:引用のガイドライン)。(2)Wikipedia:検証可能性#情報源/ソースでは「可能な限り日本語による情報源を示すべきであり、常に日本語による情報源を日本語以外の言語による情報源より優先して使用するべきです。これは、情報源の資料が正しく使用されたことを、日本語版の読者が容易に検証できるようにするためです。」とあります。これは記事本文の出典に関してですが、ノートの議論でも基本は同じと思います。ただし「可能な限り」であり、適切な日本語出典が無ければ日本語以外が禁止されている訳ではなく、翻訳記事や海外の主題では英語などの出典が多数使われています。具体的には程度問題やケースバイケースと思います。(3)「翻訳する義務が、どちら側にあるか」の議論は不毛で、「誰にも義務は無い」が回答と思います。ただ、出典の妥当性判断や、ノートの議論でも、要点だけでも部分翻訳すれば説得力は増します。説得力を増す手間をかけるかどうかは、本人の自由です。(4)「無礼」とか個人の感情を書くのはお互いに止めませんか。Wikipedia:礼儀を忘れないやWikipedia:善意にとるも再読してみませんか。--Rabit gti 2011年10月16日 (日) 01:39 (UTC)
コメント 外国語のニュースソースを提示した側がそれらの全訳を提示する義務を負っているとは思えません。もちろん記載に必要な部分や概要ぐらいは提示するのが当然だと思いますが逐一細かな訳を出さなくてはいけないというのは違うでしょう。そもそも訳を求める側は検証を行う為だと考えられ、であれば自助努力で以って行うべきでしょう。極論をいうとそういった自助努力なしで検証作業を行おうというのは怠惰以外の何物でもなく、出典に対する是非を論じる立場にありません。わたくしごとで恐縮ですが、過去、外国語出典についての議論を行いましたが、そのときの先方はニューズウィーク誌をタブロイド呼ばわりし、数度にわたって、英語出典に当該記述がない、英訳についても誤訳であるなどと主張しておりましたが丹念に出典を精査し、議論を継続していった結果、全て先方の虚偽であったことが判明しています。これは極端なケースでしょうが、議論を行うにあたって訳を先方任せにするということは、少なからず、このようなリスクを負っていることは明らかです。現在では特段語学力がなくとも、自動翻訳等もあり、文を文節ごとに分けて翻訳にかけるなどを行えば相当正確な訳を得ることも可能です。こういった努力さえ行わずに外国語出典について論じるなどは論外でしょう。議論を行う立場にありません。--Truesight 2011年10月16日 (日) 10:07 (UTC)
わたくしのごとき一介の読者があれこれ申すのもナンですガ、検証可能性って読者に記事の品質のウラ取りをあたえるものでしょう? 誰に出典を聞かれたにしても、出さないとアカンのとちがうでしょうかねえ。そもそも論で知識のない人が百科事典で調べ物するわけで、そこで素朴な疑問でこの記事って裏付けあるの、って聞かれても「訳を求める側は検証を行う為だと考えられ、であれば自助努力で以って行うべきでしょう。極論をいうとそういった自助努力なしで検証作業を行おうというのは怠惰以外の何物でもなく」とか「それを読む能力のない輩の面倒を見る義務まではない」とかって般若みたいなこわ~いことこわ~い顔して言っちゃうんですかねえ? 読者を「怠惰」とか「輩」とかって言われちゃうと、読者から編集者になろうっても、まあビビッてやんなっちゃいますわなあ。もっと読者にね、優しくしてくださいよ、ね。--126.112.104.42 2011年10月19日 (水) 13:35 (UTC)
- はっきり言わせてもらうと、怠惰な輩は読者に徹してればいいんですよ。出典として提示された資料が理解できないような低レベルな輩の面倒まで見なければならないとなったら、まともな編集者はやんなっちゃいますわなあ。--uaa 2011年10月19日 (水) 19:40 (UTC) ※この一文が直後のインデントの深さの異なる一文と同時に書かれた物と後から読んで分からなかったので、署名を補いました。--野良人(会話・履歴) 2019年10月14日 (月) 02:31 (UTC))
議論の対象になっている事柄ついて出典を示した人が求められて内容を説明するっていうことは、日本語の出典でもよくあることですよね。外国語出典の場合だけのことではないでしょう。示された日本語の出典について「自分は資料を入手できないからコピペしてくれ」とか「文章が難解で理解できないから簡易な表現に訳してくれ」なんて通用しないでしょ?そう考えると、疑義が指摘された事柄について出典資料にどのように書かれているか説明することは(出典の言語に関係なく)当然のことであるが、外国語の出典を日本語化することを求めるのは不適切であるとするのが妥当ではないでしょうか。--uaa 2011年10月19日 (水) 19:40 (UTC)
コメント 議論がいろいろな方向に発展していますが、私が思うに、uaaさんが(2011年10月19日 (水) 19:40 (UTC))書かれた『疑義が指摘された事柄について出典資料にどのように書かれているか説明することは(出典の言語に関係なく)当然のことである』という点には、ほとんどの人が同意できるでしょうし、基本的には、そのコンセンサスがあれば十分なのではないかと思います(もちろん説明は日本語でされるという想定ですね)。外国語の出典の全文邦訳を要求している人は、見渡す限り誰もいないので、それは議論の対象ではないと思います。--J Stalin 2011年10月20日 (木) 08:46 (UTC)
コメント もう一点、今回の話題の発端となったノート:キム・テヒにおける特異性として、執筆者も議論参加者も誰も韓国語の読み書き能力を持っていない中で、ハングルで書かれた出典を根拠として執筆と議論が進行する、という奇妙な状況になっていたことが挙げられます。このような作業のあり方に対しては、Sergei semenovichさんから(2011年10月19日 (水) 14:14 (UTC))、『百科事典の編集における検証作業がそのようないい加減なものであっていいはずがありません。そんなことこそまさに論外というべきでしょう』との厳しいご指摘があります。私もSergei semenovichさんの判断に従います。議論に参加された皆さんは、この点に関して、いかがお考えでしょうか。--J Stalin 2011年10月20日 (木) 08:46 (UTC)
- 外国語の読み書き能力は辞書で補完できるものです。誤訳はまずいでしょうが、正しく訳せる場合は問題ないでしょう。--Truesight 2011年10月20日 (木) 14:26 (UTC)
- 上記では本題からずれたから本質論をこちらに書きましょう。仮に編集者が翻訳能力を持っているとしても、その翻訳能力が完璧で、正しい翻訳をできている第3者的客観的証拠はありません。つまり機械翻訳も自己翻訳も同じなのです。むしろ原文と機械翻訳を出せば他の人の判断にゆだねることが出来て都合が良いでしょう。特に翻訳サイトで訳した結果、完璧に意味が通ってる場合は(単純な単語レベルの話ではなく)無理に誤訳の可能性を主張するほうが不自然でしょう。なにより、こういう状況であっても、wikipediaでは外国語出典が認められていることは銘記すべきです。--SLIMHANNYA 2011年10月20日 (木) 15:03 (UTC)
- 私は、韓国語と日本語の翻訳精度は高いと思います、あとは解釈の問題だと思います。--まっとん 2011年10月21日 (金) 09:41 (UTC)
- 上記SLIMHANNYAまっとん両氏のインテンドを、J Stalin氏の発言へのレスと見られるのでそのように修正しました。私もJ Stalin氏へ。
- sergei氏の発言の件ですが、私は同意できませんね。検証者の原文解釈に疑念があったら、その点を指摘するべきでしょう。出典を読みもしないで出鱈目と決め付ける方がいい加減であり、まさに論外というべきでしょう。
- そう考えると、J Stalinさんのノート:キム・テヒ2011年10月2日 (日) 13:52 (UTC)の発言はなんだったのか?ということになりますね。具体的な疑義が指摘されていないので、出典資料にどのように書かれているか説明のしようがないでしょう。私には外国語の出典の全文邦訳を要求しているようにしか見えないのですが。--uaa 2011年10月21日 (金) 20:31 (UTC)
コメント おーたさん(2011年10月13日 (木) 13:46 (UTC))、初めまして。『あまり愉快でない想定ですが、日本語話者の世界の中でマイナーな言語の文献を盾に取って出鱈目な編集を強行された場合、どこで歯止めがかかるんだと言う心配もあります。』 ⇒ マイナーな言語ではなく韓国語ですが、「キム・テヒ」記事に良い例があります。記事の編集が進むと内容が変わるかもしれないので、2週間保護された版(2011年10月2日 (日) 09:12版) [7] と、その前に1週間保護された版(2011年9月20日 (火) 02:28版) [8] を挙げます。 脚注の 「13(又は7) ^ 유니·김태희·이완 "독도 사랑 내가 보여주겠다" 입력 朝鮮日報韓国語版 2005年4月20日版」です。 (日本語訳)『日本の教科書歪曲、独島領有権主張など日本の妄言が後を絶たない中、芸能人たちの独島守護キャンペーンが続いて話題を集めている。』……『今回の行事は、スイス政府観光局が主導したことで韓国の独島守護運動を支持し、両国間(私注:韓国とスイス間)の交流を広げることである。』 (原文)『일본교과서 왜곡, 독도영토주장 등 일본의 망언의 끊이지 않고 있는 가운데 연예인들의 독도 수호 캠페인이 이어져 화제를 모으고 있다.』……『이번 행사는 스위스 정부 관광청이 주도한 것으로 한국의 독도 수호 운동을 지지하고 양국간 교류를 넓히기 위한 것이다.』 このような「永世中立国スイスの政府機関が、日本と韓国の間で領土問題となっている竹島(韓国名:独島)について、これを韓国の領土と主張する独島愛キャンペーンを主導したとする報道」について私Juujitsu Harrisonは、「スイスは永世中立国である、という小学校・中学校で学習する知識」及び「スイス政府観光局の公式発表が無い」事から信ぴょう性の無いものと主張しています(J Stalinさんも同じ意見だと思います)。 一方、SLIMHANNYAさん、Toshi999さんはこの報道に書かれている事が事実だと主張しているようです。 この井戸端をお騒がせしている経緯には、この報道の信ぴょう性をめぐるノート:キム・テヒでの議論の存在もあります。--Juujitsu Harrison 2011年10月21日 (金) 19:26 (UTC)
- 報告 上記Juujitsu Harrison氏のコメントから派生した議論をノートに移動しました。--uaa 2011年10月30日 (日) 18:15 (UTC)
情報 この議論の中で扱われた論点の中で、特に意見の開きが大きいと思われるものを、別議題として独立させました。→外国語の読み書きスキルがないまま外国語文献を扱うことの是非 ←こちらへのご意見も、よろしくお願いいたします。--J Stalin 2011年10月24日 (月) 03:46 (UTC)