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Wikipedia:井戸端/subj/「百科事典的でない」と言われた記述について

「百科事典的でない」と言われた記述について

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最近、自分と議論した方から「記述が百科辞典的でないと私が判断したら容赦なく刈ります」と言われたのですが、これはウィキペディアの方針としてはどうなんでしょう。誰か一人に「百科事典的でない」と言われた記述はウィキペディアに存在してはいけないのでしょうか。--Godsigma 2009年3月16日 (月) 10:29 (UTC)[返信]

おっしゃっている意味が良く分かりませんが、あえてその言い回しにのると、誰か一人が「百科事典的である」と考えたならば、ウィキペディアに存在して良いことになるのでしょうか?
大きな目で見れば、優れた記事・記述を執筆される方が評価されますし、またそうあるべきです。しかし、記述の加筆とともに、記述の除去もまた編集の一種であって、つねにどちらかが優れているとはいえません。ケース・バ・イケースです。ですから、一般論としては、誰かが有用だと思えば記述を加えて良いのであれば、誰かが有用性を損ねると思えば記述を除去してかまわないでしょう。
もっとも、加筆にせよ除去にせよ、誰か一人がそう思ったから、誰か一人が実際にそうしたからといって、ウィキペディアに存在してよいことになったり、存在してはいけないことになったりはしません。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年3月16日 (月) 10:48 (UTC)[返信]
まずケースバイケースだと思いますので、氏がそう言われた状況がわからない現状では何とも言えません。自分も百科事典的ではないと忠告して編集することがありますが、その場合には単なる事実の羅列や広告、そのページの有用性に何ら寄与しない詳細な情報の削除を目的としてます。これらはガイドラインにあることなので、「百科事典的ではない」ではなく、該当するそのガイドラインの旨を引用すれば良いのですが、面倒で「百科事典的ではない」とだけ書いてしまってます。あるいは逆に「百科事典的ではない」と言って削除しているユーザーと対立したこともあり、その判断基準が非常に個人に寄ってしまうことは(自分のことも含め)否定しません。「百科事典的ではない」は簡単な文句ですが望ましい物ではないと思います。--EULE 2009年3月16日 (月) 11:38 (UTC)[返信]
(補足)つまり自分や、そういう言い回しを使う他のユーザーを見るに「百科事典的ではない」と言うのは、該当するガイドラインを引用することを放棄しているのだと思います。無論、ユーザー個人の勝手な価値判断な可能性もあるでしょうが。--EULE 2009年3月16日 (月) 11:51 (UTC)[返信]
おそらくGodsigmaさんの編集が気に食わない人がいて、「今度同じような書き方したら有無を言わず消すぞ」というような意味合いで言われたのだと思います。まずは、いかなる場合にせよ「百科事典的でない」と断じられたからには自分の編集に何か問題があったのではないか、と省みてください。「人間的に気に食わない」という時以外は、相手も何かしらその編集を気に入らない(百科事典的でないと評価する)理由があって言っているのだと思いますから、そこは一度立ち止まって考えてみるべきではないでしょうか。客観性を欠いていないだろうか、独自研究になっていないだろうか、どこか表現がまずいのではないだろうか、など考える点は多々あります。
ただし、それを考えるためには方針と照らし合わせて考えることが必要です。方針の理解無しに相手への反論も、相手から文句の出ない記述もできないかと思います。
しかし、百科事典的でない記述を見つけたら、それを注意したり咎めたりするにせよ、消さずに表現をうまく変えて利用する方向でできるだけ考えていった方が、記事としても発展するんじゃないかなと個人的には思っています(が、方針を理解して文句の出ない編集をするに越したことはないです)。--草薙 2009年3月16日 (月) 13:14 (UTC)[返信]
この件はとある記事のノートで一ヶ月以上議論が続いており、「容赦なく刈ります」と言った当人を含む複数のユーザーがGodsigmaさんの記述しようとした内容が百科事典的でないことを繰り返し説明しています。本人は納得していないようですが。West 2009年3月16日 (月) 15:12 (UTC)[返信]
その「とあるノートページ」はどこなんでしょうか。--ゆきち 2009年3月16日 (月) 17:01 (UTC)[返信]
ノート:天地無用!ではないでしょうか、ある記述をめぐってGodsigmaさんと他のユーザーさんの間で議論となっていて「合意形成のためのコメント依頼」にも提出されているようです。この議論のGodsigmaさんに対するもう一方の主な利用者の方が比較的強硬な姿勢で議論をされる方(それが原因で以前に利用者の行為についてのコメント依頼に出されたことがあるようです)なので双方ヒートアップ気味なようですね。115.162.248.204 2009年3月16日 (月) 22:27 (UTC)[返信]
以前というか、今もコメント依頼に出しています。--203.91.164.37 2009年3月17日 (火) 12:46 (UTC)[返信]

(インデント戻し)mizusumashiさんへ。すると加筆するのも除去するのも個人の自由ということでいいのでしょうか。そして編集の根拠も「そう思った」というだけで十分ということでしょうか。「百科事典的でない」と決めつけられて一方的に除去されても止めることはできないということになるのでしょうか。じゃあ自分はどうしたらいいのでしょう。相手の方と議論しても百科事典的であるかないかを延々と言い合っているだけになってしまいます。今後も同じ人に「百科事典的でない」と自分の記述を刈られ続けなければいけないのでしょうか。
EULEさんへ。ずいぶん長い議論なので状況を説明するのがちょっと難しいです。相手の方は「百科事典的でない」根拠として五本の柱の「単なる情報やデータを無差別に収集する場所でも、雑学集やトリビアコレクションでもありません」やウィキペディアは何でないかの「単なる知識ベース」などを引用していました。しかしEULEさんのおっしゃる通り、結局は個人的判断ということなのでしょう。雑学であるでない、トリビアであるでない、無差別に収集しているしていないという言い合いになってしまいました。
草薙さんへ。おそらく草薙さんのおっしゃる「気に食わない人」だったとは思います。前述のように問題となったのは雑学かどうかという点などで、独自研究や客観性は相手の方も問題にはしていなかったと思います。
West さんへ。たしかに納得していませんが、とりあえず本議論には関係ないと思います。自分の最初の疑問に答えていただけると幸いです。
115.162.248.204さんへ。たしかにノート:天地無用!でのことです。--Godsigma 2009年3月18日 (水) 08:15 (UTC)[返信]

単に「百科事典ではない」だけではなく、既に何が百科事典的ではないのかを具体的に指摘・議論されているのであれば、それに沿って進めるべきでしょう。それで納得がいかないなら、その点を突き詰めるか、コメント依頼で中立的な第三者を求めるかした方が良いと思います。相手が「百科事典的ではない」と具体性にかける言葉を金科玉条かのように使い、どんなに説明を求めても、それしか言ってこないならば問題でしたが。当該のノートも読みましたが、内容の如何は別にして、論を詰めるには悪い相手と言え、冷静な第三者がいれば、また違うのではないかと思いました。--EULE 2009年3月18日 (水) 10:48 (UTC)[返信]
mizusumashiです。
> すると加筆するのも除去するのも個人の自由ということでいいのでしょうか。
もし、その「自由」という言葉を、どういう加筆や除去を行ってもどのような批判も受けず不利益も受けない、という意味で使われてるのであれば、そうではありません。不適切な加筆や除去を行えば、批判を受けますし、場合によっては不利益も受けます。
もし、その「自由」という言葉を、事前の手続きは必要なく、個人の評価と判断で行い、その結果の批判や不利益も自分で受ける、という意味で使われているのであれば、はい、「個人の自由」だと思います。
> そして編集の根拠も「そう思った」というだけで十分ということでしょうか。
いえ、自分が「そう思った」といことが、編集の根拠に(少なくとも強い根拠に)なるわけではないでしょう。
現実に有益である、有益でない、あるいは百科事典的である、百科事典的ではないという評価が編集の根拠になります。しかし、そういった評価をする一次的な主体として、個々の編集者にその評価が委ねられている、ということです。
そして、一次的には委ねられているわけですから、多少の間違いや不合理な判断があっても強く非難されるわけではないでしょうが、その評価に絶対的な権威があるわけではありません。対論者や第三者の評価にも同等の権威があり、最終的にウィキペディア日本語版コミュニティの評価がその権威を上回るでしょう。そして、個々の編集者の評価があまりに間違っているとか、あまりに不道理であったとかであれば、批判や不利益を受けることがあるかもしれません。
> 「百科事典的でない」と決めつけられて一方的に除去されても止めることはできないということになるのでしょうか。じゃあ自分はどうしたらいいのでしょう。
それが本当に不当な決め付けであるのであれば、コメント依頼でコメントをつのり、場合によっては投稿ブロック依頼を出せばよいと思います。
> 相手の方と議論しても百科事典的であるかないかを延々と言い合っているだけになってしまいます。
適切な対応をとれば、ならないと思います。
相手の方が合理的であったり、相手のほうを合理的だと認める第三者が多ければ、自分の主張を取り下げればよいだけです(自分の内面の意見を変える必要はありません。たんに対外的に行っている主張を取り下げればよいのです)。
もし、相手のほうが不合理であったり、あるいは相手のほうを不合理だと認める第三者が多ければ、コメント依頼でコメントをつのり、場合によっては投稿ブロック依頼を出せばよいでしょう。
> 今後も同じ人に「百科事典的でない」と自分の記述を刈られ続けなければいけないのでしょうか。
とりあえずは、毎回、前述のことを繰り返せばよいと思います。
ところで、私の「あえてその言い回しにのると、誰か一人が「百科事典的である」と考えたならば、ウィキペディアに存在して良いことになるのでしょうか?」という質問にお答えいただいていないようですが、お答えいただけないのでしょうか?--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年3月18日 (水) 12:13 (UTC)[返信]
mizusumashiさんの仰ることに同感です。「書いてはいけない」ではなく、「書いてもいいけど内容によっては除去される」ということですね。天地無用!の件に関して言えば、mizusumashiさんの言われるところの「相手のほうを合理的だと認める第三者が多い」状態だと思います(しかも、書き方や書く場所によっては有益な情報になりうると言われているのですから、かたくなになる必要はないと思うのですが)。いずれにせよ、態度としては草薙さんが仰っているようなやり方を私もおすすめします。--ふくたろう 2009年3月19日 (木) 03:01 (UTC)[返信]
EULEさんへ。いやいや金科玉条が「雑学である」や「トリビアである」になるだけで、あまり具体的な論にはならなかったと思います。当該のノートではすでにコメント依頼は出してあります。
mizusumashiさんへ。ちょっと疑問を出しすぎたかもしれません。
自分が言った「自由」とは、どちらかといえば後者の方です。
それにしても個々の編集者の評価=個々の編集者の「そう思った」としちゃいけないのでしょうか。とりあえず一次的には個々の編集者の判断で編集してよいが、二次的な編集は集団の判断でやるべきだということなのですね。
しかしmizusumashiさんのお話だと、百科事典的な記述を練るよりもコミュニティ内で多数派になることの方が重要だという印象です。先のことを心配しすぎなのかもしれませんが、もし自分が少数派に属し、「刈ります」発言の方が多数派に属しているならmizusumashiさんのおっしゃる対応では、ずっと主張を取り下げ、刈られ続けなければならないことになるように思えます。もしそうなったらどうしたらいいのでしょう。
以前はmizusumashiさんの「言い回しにのると…」の質問にどう答えていいのかよく解らなかったのですが、今なら「一時的には存在してもいいが最終的にはコミュニティの多数派が認めないと存在できない」と答えます。
ふくたろうさんへ。とりあえず天地無用!の件は本議論では置いとくようお願いします。
一応、自分は草薙さんのおっしゃるような感じでやってきたつもりです。(「つもり」にすぎないと言われると困りますが)。しかし「百科事典的でない」「雑学」「トリビア」「単なる知識ベース」といった言葉は随分、広い解釈ができる表現のようです。いくら方針関連の文章を読んでも、これらに当てはまらないと確信できるような記述の仕方が解りませんでした。(特に雑学が何の定義も定められていないのに困りました)。自分が如何に百科事典的な記述をしたつもりでも、相手の方が拡大解釈をすれば、何でも「百科事典的でない」等に決めつけて除去されてしまうのではないかと考えてしまいます。(ここから最初の質問が生まれたわけです)。もちろん自分にも至らない点が色々あるとは思いますが、それを改めればいいとはどうも思えなくなってしまいました。
なんだかネガティブな意見ばかりですみません。それでは失礼します。--Godsigma 2009年3月22日 (日) 08:29 (UTC)[返信]
mizusumashiです。引用の順番が、前後しますが、ご寛恕ください。
> 今なら「一時的には存在してもいいが最終的にはコミュニティの多数派が認めないと存在できない」と答えます。
私も基本的にはそうだと思います。そして、除去もまたその裏返しであって、一時的に存在しない状態にしてもよいが、最終的にはコミュニティの多数派が記述の復帰を認めれば、復帰することになると思います。
> しかしmizusumashiさんのお話だと、百科事典的な記述を練るよりもコミュニティ内で多数派になることの方が重要だという印象です。
そうお思いになりたいのであれば、否定はしません。もっとも、百科事典的であるかないかという論点において多数派を形成できなかった場合に、「百科事典的な記述を練るよりもコミュニティ内で多数派になることの方が重要」だということなのかといっても、それは多数派の判断よりも少数派である自分の意見のほうが正しい、おまえらは愚か者の集団だ、といっているのと似たようなものだとは思いますが。
> 先のことを心配しすぎなのかもしれませんが、もし自分が少数派に属し、「刈ります」発言の方が多数派に属しているならmizusumashiさんのおっしゃる対応では、ずっと主張を取り下げ、刈られ続けなければならないことになるように思えます。
多数派と少数派が逆転でき、自分の意見が多数派となるよう努力すれば良いのではないでしょうか。いちばん簡単なのは、自分がどうしても譲歩できない部分以外は、ぜんぶ譲歩してしまうことです。あるいは、「この記述」を残すかどうかで争うのではなく、どういう記述に変更すれば残してよいのかということを相談することです。
その相談をどうすればうまく進められるのかは、人によって考え方がいろいろあるでしょうが、自分から「Aさんの○○というご意見と、Bさんの××というご意見を反映し、『・・・』という記述にしたいと思います。ひとまず、これでどうでしょうか」という感じで、改定案をどんどん出すという手法が効率的だと私は思っています(べつにAさんやBさんの意見に納得している必要はありません。自分が譲歩できることなら、譲歩してしまえば良いのです)。
--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年3月22日 (日) 10:46 (UTC)[返信]
私には具体的に何が問題であるかは指摘されているように見えますが、あなたがそう思うならば、これは寝ず見氏の論の張り方にも問題があることの結果なのでこれ以上は何とも言えません。
あと多数派が~とあまり納得されていない様ですがWikipedia:合意形成をご覧ください。完全に全てを決定できるルールなんて言う物はありませんから、微妙な解釈の違いなどで対立が起こることは必然です。そこで、それを解決するために民主的な手続きを経るのであれば、少数派の意見も尊重されます。そして議論を行い、主張する持論が正しいのであれば、必ず賛同者が現れるでしょうから。その上で少数派だった物が多数派に変わることもあり、選ばれる可能性だって出てくる。逆に賛同者が現れないということは、まず自分の方が間違っていると認識すべきで、何が間違っているか、譲歩できる内容かを検討すべきだと考えます。稀に少数派が正しかったということもありますが、それはあくまで稀な例ですし、「一定の議論」を経た結果であるなら、なおのこと、その可能性は低くなります(そしてちゃんとしたプロセスを経たのであれば、間違っている方が採択されたとしても、多数派はそのこと自体では攻められません。議論の結果は実際の内容の如何に関係無く正しい、それが民主的な手続きです)。これは別にウィキペディアに限った話ではなく、社会通念上の当たり前の話です。--EULE 2009年3月22日 (日) 15:21 (UTC)[返信]
横から、かつ本論とは全然関係のない指摘なので失礼ですが、バンドワゴン効果というものがあるので、賛同者の出現の有無という要素は必ずしも主張する持論の正しさ(あるいは誤り)を担保(あるいは暗示)するものではありません。多数派が多数派であることを理由に免責され、結論の正しさについて無答責である、という条件の下での議論であるのであればなおさらです。「社会通念」ではどうだか知りませんが、社会科学的な常識とは少々乖離しているように思われます。--倫敦橋 (Londonbashi) 2009年3月22日 (日) 15:40 (UTC)[返信]
ですから一定の議論と言う条件を張ってありますし、多数派が間違っている可能性についても言及しています。--EULE 2009年3月22日 (日) 15:59 (UTC)[返信]
横から失礼。この案件に類似する様な事は何度も繰り返されて来たと思われるが、単純な話、改修側の説明責任の放棄又は説明不足による衝突ではないだろうか。wikipediaは管理者権限を持つ者を除いて判断権限は無い。当然プロジェクト参加者(多数派)だろうと判断権限は無いし、第一IDが『身を守る為』と言う建前で重複取得できる以上、『多数派』と言う事がすでに意味を成さない。だから本来、新参の編集に対して改修する時に説明責任が発生する。
 ここで重要なのは『何を持って、誰が、どう判断するのか』が明確に理解できなければならない事。唯のユーザーが『俺がこう判断したから正しい、コミュニティの人間もそういっているだろ』と言った所で、新参が『何で高が100人も満たないコミュニティの、判断権限の無い唯のユーザーが判断しているんだ』と考えて反発するのは当たり前。必要なのは『管理者による物と明確に解る方針及び指針に基く説明』であって個人的指摘ではない。当たり前の事だが、例え新参に間違いが有るとしても、改修者の説明責任は無くならない。
 更に言うと、管理者の方針、指針と全く関係ないコミュニティ内だけのローカルルールに従わせたいなら、それ相応に細かく相手が納得出来る様説明する義務が生じる。とりあえず新参を貶す前に、自分が説明責任を果たせているかどうか考えてみてはどうだろうか、そうすれば無用な衝突が減ると思うのだが。--218.216.229.30 2009年3月22日 (日) 18:00 (UTC)[返信]

ええと。多数派/少数派というのは、その数で判断する前に、それぞれの主張というのがあって、その説得力で、多数/少数というのは揺れ動くものだと思うのですね。「その項目と記述内容は既に平凡社の最新版の百科事典に掲載されている」ということなら、それが百科事典的な内容というのを覆すのは、相当困難でしょう。ウィキペディアでは、質的にも量的にも世界最大のものを目指しますから、他の百科事典にないものでも、百科事典的なものとして書かれるべきことなら、書いたほうがいい。その「百科事典的」というところを、既存の百科事典や、「百科事典」について書かれたもの、それから「ウィキペディアは何ではないか」の文書などから考えて、それぞれに判断していくということになるでしょう。百科事典についての本や論考はそれほど多くありませんが、たとえば、小学館や平凡社、ブリタニカの百科事典の実物は、多くの図書館に置かれていますし、それぞれの百科事典の項目や「序」は参考になるでしょう。岩波文庫の百科全書も入手が容易です。

IPさんの投稿ですが、記事の内容について管理者は判断する権限を持ちません。必要なあらゆる情報を基に、参加しようとするすべての人が、合意を目指して判断する以外に途はありません。自分の意見が正しいということを前提としているならば、説明は難しくないはずです(あるいは、説明が難しいということを承知しているはずです)。難しいと思ったら、自分の意見を疑い、より強固な論を立てるだけの情報源を探し、あるいはその論の立て方が正しいということを示すものを探すのが望ましいでしょう。--Ks aka 98 2009年3月23日 (月) 18:04 (UTC)[返信]

mizusumashiさんへ。なるほど一端少数派になっても多数派になって捲土重来できるかもしれないということですね。おかげで少し希望が湧きました。
自分の記述の一部分が気にいらないだけなら、いきなり全部除去なんてことはしないと思います。たしかに譲歩にしろ提案にしろいくつか出すことはできるとは思います。しかしそれに異論を唱えることもいくらでもできるでしょう。結局の所、相手の方が除去したいという気持ちを持っている限り、譲歩できない所まで追い詰められるだけではないのでしょうか。なんだかノート:天地無用!はそんな感じだった気がします。
EULEさんへ。多数決で決定すること自体は特に異論はありませんし、合意形成のことも理解しているつもりです。
218.216.229.30さんへ。「刈ります」発言の方は、一応五本の柱などの方針を根拠にしています。
Ks aka 98さんへ。そんなに意見の揺れる浮動票がたくさんあるものなのでしょうか。しかも議論が深まれば浮動票は減っていくんじゃないでしょうか。それに平凡社の最新版の百科事典を覆すのはそれほど困難ではないと思います。「百科事典からとった雑学だ」とか「百科事典から無差別に情報を収集している」とか色々あるでしょう。こういった理屈でも多数派でありさえすれば通用し得るということが心配なわけです。一応おっしゃるような情報源は探すということはやっています。--Godsigma 2009年3月28日 (土) 09:10 (UTC)[返信]
「相手の方」、つまりある個人(ここでは寝ず見さん?)が問題だと思っているのであれば、コメント依頼投稿ブロック依頼を出せばよいでしょうとすでに述べていますよね(というか、Wikipedia:コメント依頼/寝ず見 20090316がすでに出ていますが)。「相手の方が除去したいという気持ちを持っている限り」とかなんとかいう話は、それで終わりです。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年3月28日 (土) 10:12 (UTC)[返信]
さて、これだけははっきりさせておきます。既にノート:天地無用!は一定の議論を経ていると思います。寝ず見氏は単に「百科事典的ではない」ではなく、それまでの経過も含めて理由を述べているし、それについて直接の当事者以外の、例えばふくたろう氏やWest氏なども交え、さらにコメント依頼・投稿ブロック依頼という手段も経た上で一定の議論が起こっている。つまり、寝ず見氏の論旨に落ち度はない(口調には落ち度があるが)。
ここであなたが話題に上げている『「百科事典的でない」と言われた記述について』と言う話に限って言うなら、皆が言うように「議論をすべき」という話です。しかし発端となったノート:天地無用!について言うなら、既に議論が起こっている。つまり、この井戸端での話は、既にノート:天地無用!にはさして影響を与え無いでしょう。この点だけははっきりと述べておきます--EULE 2009年3月28日 (土) 13:30 (UTC)[返信]