Wikipedia:コメント依頼/Yassie方式もしくは132人目方式の是非について/有益性とは
132人目方式の有益性とは?
[編集]Ks aka 98氏の文章を読ませて戴くと、何故「132人目方式が有益であるのか」明確な理由が述べられていないように思えます。それは、「著作権侵害の虞があった場合、既存の投稿を外に押し出して置くのがよい」と、これだけの言葉で述べられることのように思えます。特定版削除上での手続きの簡略化なども、この前提においての話で、この前提が崩れれば、述べておられることすべてが空文に近くなるということで、宜しいでしょうか? 「有益性」とはそもそも何かという疑問です。
実際の著作者ではない者の名が、履歴に残っていることは、日本の著作権の侵害であるという乱暴な意見があるのですが、これについては、全面改定新規作成のケース以外に、著作者とは考えられない者の名が、色々なケースで非常に多数、履歴には載っているのであって、この事実を無視して、全面改稿後とその以前の履歴だけを問題にして、懲役一年以下の過料がどうとかを述べる人がいますが、そもそも、そんな簡単に決めつけができるのかというのがあります。そしてKs aka 98氏自身、その問題は、特にここでは取り上げていないと述べています。では、「著作者でない者の名が履歴にあることは問題である」という意見は、ここでは論じる内容ではなく、とりえあえず、それは考慮に入れない、このことで確認同意できますでしょうか、Ks aka 98さん? --Maris stella 2007年1月22日 (月) 00:37 (UTC)
- 時間があまりとれないので、簡単に。ちょっとずつ。以後の議論について、考慮しないということに同意します。なお、前段については、GFDLとウィキペディアの対応について丹念に検証されてきたMaris stellaさんの見解も伺いたいところではあります。--Ks aka 98 2007年1月22日 (月) 07:49 (UTC)
このことの確認の上で、再度、「132人目方式の有益性」として挙げられるのは一点です。
- 初版乃至先行する編集に著作権侵害の疑いがあるとき、後続する投稿にはリスクがある。よって、先行する編集全体を、132人目方式を使い、別の文書にして、リダイレクト化で隠してしまい処理をする。これで、後続の投稿は安全である。
ところで、初版及びその後の編集に著作権侵害の虞があるかないか、実はほとんどすべての投稿で、疑えば、すべてグレイになります。転載元が確認できれば、ブラックで対応できますが、オリジナルに書いた記事はすべて、オリジナルであれば、すなわち、転載元は出てこないのであり、換言すれば、オリジナルな投稿はすべて、グレイだとなります。
これは132人目氏にも言えることで、氏の投稿が著作権侵害を犯していないなどという絶対の保証はどこにもないと言えます。また、外国語版ウィキペディアからの翻訳の場合は、そんなことは絶対ありえないと云っても、誰かが翻訳しているものを、盗用している可能性があります。Yassie氏に英語力があり、アメリカの都市などについて知識があることは認めますが、だからと云って、彼/女の翻訳が誰かの翻訳のコピーでないなどという保証はないのです。
その活動によって、より白に近いグレイの活動と、より黒に近いグレイの活動(投稿)はあっても、確実に白というのは、かなり難しいとも言えます。ほとんどの投稿や、投稿に重なる編集、追加投稿は、先行する投稿や編集は、白である、またはグレイなので、その場合は、削除されても構わないという覚悟でないとできないというのがウィキペディアのシステムです。警告で、「自分の責任でなくとも削除されることがあります」ということに同意して投稿するはずです。
ある程度の分量(その大きさは個人によって、場合によって測り方が違うでしょう)の投稿を行うとき、自分の投稿が先行する著作権侵害に巻き込まれて消されるのを避けるため、先行する編集は、ともかくどれもかも怪しいので、132人目方式で別文書にしてしまうというようなことが起これば、(数が多くなくとも、Yassie氏や132人目氏が実行できるのなら、誰でも実行してよいはずだとの考えは、普通に云っておかしくなく、色々な人が、この方式を実行し始めると)、それは問題にはならないのか。
一部の人が例外的に、このような方式を実行している場合は、ウィキペディアとして全体的に問題は目立たない。しかし、(わたしは、ユーザーには相応の良識があるので歯止めがかかるとは思うが)、誰も彼もがこの方式を知るようになり、必要と思った場合は実行するとなれば、それは問題ではないのか。
「著作権侵害」があったとき、被害を未然に防ぐ効果があるというのが、唯一の「有用性」であるが、すべての投稿は、濃淡の差はあっても、グレイなのだという事実からすると、どの場合は方式を使ってよく、どの場合は不可か、春野秋葉氏が二つに分けているように「適切な使用」と「不可な使用」という区別が必要になるが、そういう規準について具体的な検討も提案も、Ks aka 98氏の発言からはほとんど見て取れない。
一方、すでに認められているように、このコメント依頼の発端となった、Wikipedia:削除依頼/イーストロサンゼルスの場合、Yassie氏の行った操作は、対象が、侵害についてグレイというより、むしろ普通には白(に近い)と判断されるもので、132人目方式を著作権侵害に巻き込まれるのを防ぐ目的で行ったとは考え難いという指摘もある。少し飛躍に聞こえるかも知れないが、132人目方式が「良い方法だ」と肯定するのは、投稿者は誰も彼も著作権侵害を犯している可能性がある、特に、実際に132人目方式を実行すると、された側は、名指しで「お前は、転載の疑いがある。侵害の疑いがあるので排除したのだ」と断罪されていることになる。こういうことを、132人目氏、Yassie氏、あるいはKs aka 98氏は、自分がされた場合、もっともなことです、と納得が行くのかどうかです。
こういうことが、望ましい方法と認められれば、投稿者の立場から、とりわけ、132人目方式で排除された投稿者の立場からすれば、ウィキペディアの投稿とは何なのか、という疑問が起こるのではないのか。「性善説」を基本にしているはずが、これでは「性悪説」を前提にしての方式としか言えない。これについてはどうですか、Ks aka 98さん。--Maris stella 2007年1月22日 (月) 00:37 (UTC)
- 1 日で読まなければならないものが増え、全て読んでいるだけの時間が無いので、Maris stella さんの勘違いについて 1 つだけ述べておきます。私は、百科事典を目指して、記事を書いています。私よりも良い人が、あの分野をなんとかしてくれるのであれば、いくらでもお願いしたいものです。府税や寿司屋のような悪質な悪戯の山で、埋もれてしまっている、あの分野がどうにかなるのであれば、それほど喜ばしいことはありません。悪戯をした人が、性善であれ性悪であれ、目の前にある悪戯という事実をどうするか、それだけですね。ウィキペディアの投稿とは何なのか、といえば、百科事典を作るためのものです。投稿とはそういった、悪戯の事ではないです。私が描いたものを、消したいという方がくれば、どうぞと言うだけです。書いたものを不要と思えば、消すだけ[1]です。記事というものは、その制約から、書くべきことの何割も書けるものではありません。私の書いたものも、いくらでも書き直せる、成長できる可能性が沢山残っています。自ら再投稿することになったとしても、Wikipedia:井戸端の過去ログ/2005年12月#項目「ペド」の処理についてのように、なんとしてでも昔のものを残しておきたいといったことは無く、新たに書き直すでしょうね。みっともないとすら思います。いかなる方式であれ、向上できる人が来られるならば、喜ばしいことです。10 年もしたら、私などがいた形跡すら無く、ウィキペディアが百科事典として使えるものになっているといいですね。--132人目 2007年1月22日 (月) 04:57 (UTC)
- えー、へのいちさん、前段はお気になさらず。以下、履歴の問題の確認(maris stellaさん)、ks aka 98からの確認(基本的に全員、特にNiKeさん)さん、ks aka 98が132人目を使われる側であった場合(maris stellaさん)、その他削除関係、という順でお答えします。
- 「『著作者でない者の名が履歴にあることは問題である』という意見は、ここでは論じる内容ではなく、とりえあえず、それは考慮に入れない」ことに同意します。ただし、複数の文書が存在するのであれば、履歴は独立していた方が自然であるということは、変わりません。もっとも、これはこれ自体で何かを導くものではなく、特に必要を感じなければ論じる対象として取り上げないつもりです。
- 逆に、著作権法やGFDLの履歴の問題が、132人目方式で作られた記事を削除しなければならない、あるいは132人目方式を禁止しなければならない理由とはならないということには、同意頂けますでしょうか。この点については、既に削除依頼で指摘され、Wikipedia:コメント依頼/Yassie方式もしくは132人目方式の是非について/この手法の是非、およびmonanekoさんによってにまとめられ、反論も見受けられないようですが、この点に齟齬があると、以後の議論がすれ違います。maris stellaさんは「それは、この方式の操作は、著作権的にも、GFDL的にも問題はないからです」と言明されていらっしゃいますが、他の方はいかがでしょうか。
- これに同意頂けるなら、この場は、132人目方式を容認するかどうかではなく、132人目方式を禁止するか、あるいは132人目方式による投稿を削除をするか、という議論の場であるはずです。「必要なのか」を問うことも大事ですが、「なぜ禁止したり削除したりしなければいけないのか」「どのような混乱が起きるのか」「なぜ不必要なのか」についての意見も同様に大事ですし、これらは「必要なのか」を問う側、つまり禁止や削除を求める側が答えるべきものではないかと思うのです。類型的には、グレーのスタブがある項目について、新規投稿を上書きしなければいけないとするならば、後のまきこまれ削除、あるいは「著作権侵害かもしれない記事」や「削除依頼」で判断が付かないまま、加筆が遅れると思うのだけれど、それはどう対処するのか、あきらめるということで合意を求めるのか、ということ、他方、132人目方式を禁止しないことで、どのようなデメリットがあるかという点について考え、両者のバランスを取るならば、落としどころはどこか、ということを考えなければなりません。
- 名指しで問われたので、ごく個人的に答えをすることとしましょう。記事の投稿歴がほとんどないことは、さておくこととさせてください。また、おそらく自分では132人目方式は使わないであろうとは思います。
- 自分が書いた記事が移動された上にリダイレクトとなり、自分の記事の内容をほぼ含む新しい記事が投稿されることについては、特に何も思わないというか、記事の充実を歓迎し、自らの記事が有効に使われる物ではなかったことを反省する、ということになるでしょうか。動機は不問です。チンドン屋なんかは、ポータルで赤いの見つけてちょこちょこと書いた程度なので、どうとでもしてもらっていいって感じ。下書き中ですが、今集めている資料を使ってきっちり書けた後に、132人目方式で移動されたら、ショックは受けるけれど、畏敬の念のほうが上回ることでしょう。えーと、感覚的なものですが、一つの区切りとして、「複数の典拠を示した1500字程度の概要」に満たなければ、新規投稿の際に削除されてもいいけれど、それ以上の場合だと、参照可能な場所(移動記録を辿るなどでたどりつける場所)においておいてもらえれば、不満はない…というか、閲覧者として、古い記述が残っていることが有益な場合もあるかもしれないので残して欲しいと思います。きれいごとに見えるかもしれませんが、よりよい百科事典を作ること、閲覧者の益になることを考えれば、無理に自分の記録を主項目のところに残す必要は感じません。以前、ある言葉について広辞苑の全版を調べたことがあるのですが、ほとんど記述が変わっていなくても、前の版の監修者の名前は残されていません。
- 逆に、新規書き下ろし原稿を投じることを想定してみると、将来削除されるおそれのある記事の上には載せたくないという気持ちはあります。ウィキペディアで活動していれば再投稿もできますし、誰かが再投稿してくれるだろうとも思いますが、仕事の都合などでほとんど参加できなくなるようなことはあるでしょうし、所蔵はあるが探し出すのが困難な資料や、おそらく国内では個人蔵以外にないような資料もありますから、情報の復元が難しくなることもあるでしょう。「著作権侵害かもしれない記事」や、「削除依頼」で判断が付かないまま、放置されている案件もあり、管理者としては心苦しいのですが、早期に対処したいと思っても、なかなか難しいことを実感しています。その間に、事実上引退する執筆者もいるかもしれません。
- なお、あくまで個人的な感覚であり、たとえばらりたさんが既に述べていらっしゃるように、「自分が書いた記事を基に加筆が為されていくことがウィキペディアで執筆をすることの主要な喜びの一つ」と捉えることを否定するものではなく、またその感覚は、ある程度理解が出来るものではありますし、考慮すべきであると考えています。しかし、それもまた個人的な感覚であり、どのようにバランスを取るか、バランスを取るのが妥当だと位置づけられるかということについて、落としどころを探ることが求められるのではないかと思います。Wikipedia:コメント依頼/Yassie方式もしくは132人目方式の是非について/Ks aka 98氏のコメントの「分離のデメリット:執筆者への配慮」でも触れていますので、未見ならばご参照下さい。
- その余の点について。
- 削除や性善説について考えます。ぼくは、性善説に立ちます。また、すべてのウィキペディアンは原則としてルールに則って行動していると考えます。
- 著作権侵害は、転載元が明らかになり、侵害のおそれがあるとして削除すべきだという判断が審議によってなされた場合にのみ削除されます。単にグレーなだけでは、削除されません。
- 既に述べた通り、132人目方式では、現在一般に行われている削除・特定版以降削除と同様に対処を行うことが可能です。前の文書から表現を引き継いでいることが確認されれば削除されます。新規投稿の翻訳元に著作権侵害があることが確認されれば削除されます。古い版に著作権侵害が確認されれば、古い版だけが削除されます。古い版から新しい版へ、事後的に書き写された場合は、要約欄に履歴を受け継ぐための適当な記述があるはずです。古い版の著作権侵害は、新しい文書の要約欄を確認し、必要な範囲が削除されるでしょう。
- 上書き方式の場合、新しい文書の投稿の際に要約欄にその旨を記すことは、現状求められていませんから、何も書かれていないかもしれませんし、そのことに問題はありません。新しい文書が投稿された後に古い版の記述を復帰させる時に、要約欄に何か書くことは求められておらず、そのことに問題はありません。Nikeさんは
- 『過去の版を引き継いでいない』と宣言して投稿されていても、過去の版を継承していないことが保証されているわけではなく、従って過去の版を精査しなければ確実ではない。それは確かにその通りですね。では、「132人目方式」と称して移動した場合には調べなくても過去の版と無関係であると保証されているのですか?
- と書いていらっしゃいます。上書き方式の場合、過去の版を引き継いでいないと宣言しているならば、その版は引き継いでいないと信じることができます。逆に言えば、引き継いでいたのであれば、それは宣言者の責任です。しかし、その後、過去の版を引き継いだとしても、過去の版を引き継いだと宣言する必要がありません。上書きの後のすべての投稿者が善であり、善であることを信用しても、過去の版を受け継いでいる可能性は否定できないのです。これに対して、132人目方式では、過去の版と無関係であるという投稿者を信じることができます。したがって、上書き方式の場合は、過去の版が削除される場合、上書き後の版を精査しなければいけない、132人目方式の場合は、無関係であると信じることができる、ということになります。いかがでしょう? また、上書き方式によるこのような案件は、現在既に発生する可能性がある状態です。削除依頼に出されていた場合、Nikeさんなら、どのように対処されるかご示唆頂けますでしょうか。
- 誰もが無制限に使うことへの懸念は、既にWikipedia:コメント依頼/Yassie方式もしくは132人目方式の是非について/Ks aka 98氏のコメントで認めています。これは「そういう規準について具体的な検討」や「提案」ではないでしょうか。現時点でのぼくの判断は、抽象的な議論では大きな問題となりそうに見えるけれど、現実的には使用できるリダイレクトの数などの制約、先行する記述の内容を新しい文書が包括しなければいけないという条件、さまざまな制約や議論への移行、また132人目方式を選択しないという判断などから、132人目方式を特段に周知しようとしたりしなければ、大きな問題とならないのではないかと予想しています。「適切な使用」と「不可な使用」という区別は、「先行する記述の内容を新しい文書が包括しなければいけないという条件」によってつけられると考えますが、これは、これまでの132人目方式の運用から、前提として認識されていると思っていたところがあり、「濫用の際の問題点:繰り返された場合」「濫用の際の問題点:内容」で文書化したつもりでしたが、曖昧なところがあるようで、この点はお詫びします。ぼくは、もちろん、考えの至らないところもあるでしょうし、判断の甘いところもあるでしょうから、どうかご指摘頂き、議論を進めていきたいと考えます。
- 削除や性善説について考えます。ぼくは、性善説に立ちます。また、すべてのウィキペディアンは原則としてルールに則って行動していると考えます。
- 以上、お答えになっていますでしょうか。--Ks aka 98 2007年1月22日 (月) 20:18 (UTC)
- Ks aka 98 氏へ。「GNU Free Documentation License#著作者・著作権の表示」にある、著作権法121条の問題についての個人的な意見を記しました。かなり長文で、穴があるとは思うのですが、一読願えればとも思います。
- この場所に文書があります。--Maris stella 2007年1月23日 (火) 07:59 (UTC)
- 132人目方式の有効性の話は、132人目氏のリンク先を見て、うんざりしました。何の問題だったのか、分かっておられるのかという疑問が先立ちます。とまれ、上のサブページに、132人目方式とは別ですが、著作者表記についての私見を述べています。132人目方式については、結論は思うところ、エントロピーの増大を加速させる、つまり、ますます出鱈目になって行くということなのですが、もう少し考えてみます。--Maris stella 2007年1月23日 (火) 07:59 (UTC)
- うんざりしていただけましたか。最後の所のTamago915さんの提案に対し、やった私がやった私がと、騒ぐ見苦しさも含めて、丁度いいだろうと思い、あれを選びました。あの程度の事は、私でしたら、やりたければどうぞ、で終わりますね。ここで議題になっている方法を、私が使われる側の立場であった場合について、どう思うのかと、繰り返し気にされていたようでしたので、Maris stellaさんと違って、そういった見苦しいしがみつき方はしないということを、述べたまでです。私は、そういった見苦しい人にはなりたくないと、思っていますので、今後は、逆に使われたらどう思うのかといった心配は無用に願います。--132人目 2007年1月23日 (火) 17:47 (UTC)
- 体調が悪かったので、しばらく黙っていましたが、「見苦しい」のは誰か。あるいは「傲慢に人を見下す者」は誰か、ということを冷静に考えられることです。132人目氏がまさに「見苦しい・みっともない」人の典型とも言えるでしょう。
- 「逆に使われたらどう感じますか」という質問は、特定の人が特権的な立場に立っているのがウィキペディアのシステムではなく、誰もがここでは原則的に対等だという原則が分かっておられるのか、ということを尋ねているのです。どうも根本が分かっておられないようです。
- ウィキペディアは「百科事典を造るプロジェクトではない」のです。正確には、「不特定多数の人の協働によってフリーな百科事典を造ろうというプロジェクト」なのです。「不特定多数の人の協働によって」という前提があるのです。この原則がプロジェクトの大根幹にあるので、ウィキペディアは厄介なことが多数起こるのです。しかし、厄介なことが起こるからと云って、この原則を放棄できない。また、この原則を認められないのなら、132人目氏には、ウィキペディアを去って戴くしかないとも言えます(よく使われる言葉だと、「ご自分のウェブサイトで自分の百科事典を造ってください」でしょう。何も「悪戯」だらけのウィキペディアにこだわることはないでしょう。日本のジミー・ウェールズとして、まともな百科事典プロジェクトを自分で造ってください……となるでしょう。それをしないで、自己正当化の為、何の関係もない事例を出して詭弁を弄する。……こういうのがみっともない姿でしょう)。
- 生産的な議論ができないのでしたら、黙っていて戴きたいです。--Maris stella 2007年1月27日 (土) 06:34 (UTC)
- 傲慢だの荒らしだのと、他人を非難し続けてきた、Maris stellaさんが、見苦しいと言われた程度で、こんなに取り乱すとは思いませんでした。私が、見苦しいというのはどうでもいいです。そんなもんだとしか思いませんから。私は、孤高の研究者[2]などと自称する気もありません。かなり恥ずかしいですから。こういった感覚の違いを、まず理解していただければと思います。私より良い物を書いて、おなじ方法で移動することは、誰でも自由です。平等ですから。Maris stellaさんが言われているように、協働により、共有財産を生み出すプロジェクトですが、現状でも何をやっても自由というわけではありません。百科事典を作成するという目的に合わない方は、投稿ブロックという事もあります。自分が書いた記事を、なんとしてでも、自分で再投稿しなければならない理由も、ありません。協働ですし、私物でもない、共有財産ですから。この記事は、自分が書いたという事を、強く押し出して行きたいのであれば、それこそ、自分のホームページなどでやった方がいいですよ。サイトが続くかぎり、違法行為でもなければ、誰も消しにきません。いつまでも、Maris stellaという人物が、書いたものですと表示し続けられます。他の人が、もっといいものを書いても、そこに置けるわけではありませんから。--132人目 2007年1月28日 (日) 03:39 (UTC)
- お疲れ様です。GFDL関係は、自分も混乱しているところが多いので、ゆっくり読ませていただきます。後ろのほうの話は、ちょっと違和感があるのですが、どこまで関係あるかはさておき、著作物の個数性を巡って異なる意見の論文が近年提出されていて、今後著作権者の扱いの中で共同著作物とか二次的著作物といったところと履歴表示について議論する際の参考ってことで、「駒沢公園行政書士事務所日記:論文紹介:駒田泰土『著作物と作品概念との異同について』(知的財産法政策学研究11号)」や「エンドユーザーの見た著作権:論文紹介から──」で山本隆司「著作物の個数論による著作物概念の再構成」、駒田泰土「著作物と作品概念との異同について」(論文はともにpdf)を挙げておきます。読むことを求めるわけではありませんし、今のところ関係ない気もしつつ、ですので、もし御興味があれば時間のあるときにでも。全中裏さんやスのGさん、Salt Greenさんほか著作権関係にお詳しい方も未見でしたら、是非。コメントなどは、ここよりは、その場所のノートのほうってことでよいでしょうか。
- エントロピーの増大への懸念は理解します。まあ、そのままだと異なる著作物には異なる履歴というのと、同じくらい大枠での話で、考慮すべき観点として保持しつつ、具体的にどのように増大するのか、抑えるにはどのような対処が有効か、という話にもっていきたい、と。--Ks aka 98 2007年1月23日 (火) 08:37 (UTC)
私は性善説にも性悪説にも立ちません。132人目さん方式にはメリットもありますし、適切な場面で適切な方法で行い、疑問を受ければ適切に説明すればよいのです。何かあったときに履歴を追って調査する立場からの要望としては、
- 「ほげほげ」の旧版をどこに置くか、やはり、「ほげ・ほげ」ではなく、「ほげほげ/old」か「ほげほげ/旧版」のサブページに送ることにしてほしい。紛らわしい名前のページに送られると、履歴を追う側に錯覚が生じやすい。
- 要約欄に「132人目方式」とだけ書かれていても、知っている人間でなければわからない。今回のコメント依頼でさすがに私は理解しましたけれど。
- もしも同様の形式が多用されるようになってきたならば、あらためて「もしも記事を完全置換したいときはこういう方法が奨められます」というガイドを作ればよいかと思います。2年後くらいでしょうかね。
というところです。ともかく、紛らわしい名前のページはやはり紛らわしいので勘弁してほしいのです。--スのG 2007年1月23日 (火) 02:37 (UTC)
私の認識では、「132人目方式」と呼称される手法は『全面改稿を行なう時、ページの移動を利用して過去の版をその記事へのリダイレクトに「埋める」ことで隠してしまう手法』です。改めて考えてみますと、大和煮のように明示的な過去の版の分離であれば、それほど抵抗は感じなかったと思います。Ks aka 98さんが長所として挙げておられる点ですが、これは過去の版を別のページへ分離することによるものであると思います。
以上を踏まえ、『ページの移動により、全面改稿前の版を別の項目へ移し、新しい版以降だけを元の記事に残す』こと自体は許容することを表明します。しかし、その移動先は新規に作られた、それと分かる名称のページであるぺきです。リダイレクトなどに『隠す』ことには強く反対します。つまり、私の認識するところの「132人目方式」は禁止すべきものであると考えます。 -- NiKe 2007年1月23日 (火) 03:10 (UTC)
- 補足。「許容」はしますが推奨はしません。大体、良く考えたらKs aka 98さんの挙げていた長所って『全面改稿前の版を引き継がないようにしたい』という観点での「長所」じゃないですか。つまりは、改稿前の版に何か問題があるかもしれない、という時にだけ意味がある。過去の版に問題が無いのなら、これは短所になるかもしれない。『過去の版が削除されるかもしれない』と言えるだけの理由がきちんと提示された時以外は使って欲しくないですね。 -- NiKe 2007年1月23日 (火) 06:47 (UTC)
- 前面改稿前の版を引き継がないことによる長所、ですね。また、Nikeさんが推奨しているとは思っていませんし、ぼくも推奨したいとは思っていないということは繰り返し書いています。たとえば、「著作権侵害かもしれない記事」にリストアップされていることを要件とすることは可能だと思いますが、いまのところぼくはそれを支持しません。前の版に問題があるかどうかは、それこそ常にグレーです。事後的に問題が見つかる可能性は常にあります。その場合どうなるか。見つかった場合の対処として、上で削除依頼を提出されたときに、どのように対処すべきか、という御意見を伺っています。また、問題がそれほどではないと思われるにもかかわらず、132人目方式を用いることが乱用されることへの懸念は表明し、内容面での要件を課すことで抑制可能ではないかという案を提示しています。「前面改稿前の版を引き継がないことによる長所」を具体的に述べていて、少なくとも限定的な条件下ではその長所を残すことに意味がある、ではその限定的な条件をどうするのがよいかということを考えています。限定しなければいけない具体的な「短所」がわかれば、その短所による弊害を避けるための方策を練ることができます。いくつかは、既にぼくが挙げて、検討しています。Nikeさんが思う、「短所」を具体的に挙げてください。ぼくの考えが及んでいない短所もあるでしょう。よろしく御協力お願いします。--Ks aka 98 2007年1月23日 (火) 07:33 (UTC)
- はい。この点について、軽くまとめ案。百科事典の項目としてはサブページが作れないので、ノート欄に適切な名前のサブページを作る、要約欄に新規投稿の明記と旧版の置き場所へのリンクを貼るということで。また、これだけでは履歴を追うことにはあまり貢献しないというか、履歴を追うという観点からは、移動を伴わない文書の分離のほうが問題になるように思います。つまり、「ほげほげ」があって、「ほげ・ほげ」に新文書、「ほげほげ」をリダイレクト化というケースでは、移動記録もなく、「ほげほげ→ほげ・ほげ」に隠された履歴が見つかりにくい、と。このため、「ほげ・ほげ」新規投稿の際にも、「ほげほげ」へのリンクを要約欄に記す。なお、「ほげほげ」の存在を知らない場合もあると思いますが、これを見つけてリダイレクト化する場合に、同様の作業をすることを「推奨」、せめてノート欄で指摘することをどこかに書く(義務化するのは難しそうなのと、要約欄だけのための編集は好ましくないてことで)。書き換えが必要な文書を挙げてもらえると助かるんですが…。--Ks aka 98 2007年1月23日 (火) 06:22 (UTC)
- ノート:クロロベンゼン をご覧下さい。こんなもんでいかがでしょうか。書き換えが必要な文書は分かりません。Wikipedia‐ノート:ページ名の変更 で本議論についてコメントするとか。。。ほかにできることはあるのでしょうか。--スのG 2007年1月23日 (火) 09:46 (UTC)
- 「ほげ・ほげ」ではなく、ノートの「ほげほげ/old」か「ほげほげ/旧版」のサブページに送るという様式に統一することに同意します。そもそもリダイレクトというのは、分散している入り口を同一の出口にまで収斂するように誘導する仕組みであるのに、これを逆の使い方、つまりここで問題となっている同一項目の刷新にともなってわざわざ入り口を分岐するという目的外使用しているのがおかしい。メリットがあるのであれば、なるだけ正面を切ったトレースしやすい堂々としたやり方で処置されるべきで、「ほげ・ほげ」になったので別の著作物、著作人格が違うなどという詭弁の上にたつ「裏技」の位置づけはきっかり否定しておいたほうがよいと思います。正当な根拠がとぼしい「裏技」として不確定要素を放置しておくと動機などがまた問題となりやすく、やましい意図はないかとか、記事を書いていない管理者に答える義理がない、「裏技」は特権的に利用されているという文脈で語る利用者がYassie氏以外にも登場する恐れがあります。--58.70.62.98 2007年1月23日 (火) 08:49 (UTC)
- 旧記事「ほげほげ」を「ノート:ほげほげ/旧版」に送るとした場合、旧記事に付随していたノート「ノート:ほげほげ」はどうしますか? 移動せず(新記事「ほげほげ」のノートとして引き継がれる)なら移動せずでよいような気もしますが。--スのG 2007年1月23日 (火) 09:28 (UTC)
- 旧記事に付随していたノート「ノート:ほげほげ」については、ご提案のとおり移動せず残し、全面改定版のノート議論はその場所を継承すればいいと思いますし、そもそもは同一記事についての議論であるので、この方法のほうが道理にかなっていると思います。--58.70.62.98 2007年1月23日 (火) 09:48 (UTC)
2度も競合してしまいましたが・・とりあえず、上のをすべて見ていくと、こんな感じなのでしょうかね・・?
- 132人目方式における実質的な根拠、利点は「全面改稿前の版を引き継がない」つまり「著作権問題が後からでた場合にそれを回避する」ことのみである。逆に「履歴が複雑化する」「執筆者への配慮問題」などの問題がある
とりあえず、132人目方式を禁止するかどうか、というのはこれが争点らしいので・・私の考えを述べさせていただきます。
- まず、巻き込まれ削除(私は2年くらいたってから出てきた著作権問題をサブマリン著作権侵害と勝手に呼んでいますが・・・)を回避するため、ということですが、これは、「全面書き換え」であるならば同一履歴上にあったとしても、問題はあまりないのではないか?と考えます。このあたりの最大の問題は、履歴の解釈とか、それに伴う諸問題が明確になっていないのが大きいのではないかと思います。全面改訂があった場合はそれ以前の版で著作権侵害があった場合、それ以前の版の削除のみで問題ない、とする、などの方法が取れないか?と考えています。
- 問題点、特に心情について言えば、大いに懸念があると考えます。まず、132人目方式を使う場合では基本的に「著作権侵害の疑いはあるが確証はなく、証拠もない」わけです。また、サブスタブ記事などで全面改訂を理由にした場合、こういう具合に仕様の裏技的方法で履歴を埋められた場合その埋められた執筆者が感じるのは、正負で考えれば(少々乱暴な部分もありますがご了承を)「私の書いた酷い記事を書き直してもらって感謝。全面改訂のときに問題があるならばこういう方法を取っても問題ないし、書き直してもらったことは畏敬の念を覚える」か「人が書いた記事を勝手に人目につけないところに埋めた上書き直しされた。これは履歴の乗っ取りであるとともに初版投稿(一番槍?)目当てではないか。大体、以前のほうが良い記事だったぞ」とどっちに近い感じ方をするか?という話になるかと思います(ただ、私が考える限り後者に考える人のほうが多いかと・・・)。
そして、もし後者に感じた場合、再度132人目方式を使っての編集合戦(新しく作られた記事を移動させ埋めて、埋めた後を自身の記事が埋められた場所にリダイレクト、そして埋められた記事を元に戻す)や荒らしアカウント化が懸念されます(例は悪いかもしれませんけどWikipedia:進行中の荒らし行為/長期/IP125.2.191.211のように、逆恨みが荒らし化させる場合がある)。移動合戦でリダイレクトが滅茶苦茶になった場合はもとより、もし長期荒らし化した場合、それの対処にかかる労力は、手続きの簡略化どころの比ではありません。また、著作権~についても、本当に全面改訂でない場合、GFDL違反に加えて著作権問題で削除されるため、132人目方式は効果がないような気がします。著作権侵害でこの方式を使った場合、埋めた版の投稿者に対して実質的に「著作権侵害しているだろ」と言ったと同じことですから、もし白だった場合明らかにウィキペディア自体の印象は悪くなるかと。私の考える落としどころとしては
- 著作権侵害の疑いがあり、実際に侵害であった場合、「全面改訂」している版以降は削除対象としないようなルール改定をする。サブスタブの場合には全面改訂はそのまま行う。もし(大和煮のような大間違い記事のように)「版を残すこと自体に問題がある場合」のみ、132人目方式の使用は許容される。ただしその場合、リダイレクトに埋めてはならず、ノートのサブページなどを指定する他、必ず意見を募ってから行う。理想的にはケースF相当の削除をすることが望ましい。という感じでしょうか・・・禁止することのメリットデメリット、長短いろいろと問題があると思いますが、こういった形で動かして行ってはどうかと思います。--koon1600 2007年1月23日 (火) 09:49 (UTC)
- 全面改訂があった場合はそれ以前の版で著作権侵害があった場合、それ以前の版の削除のみで問題ない、とする、などの方法が取れないか?という点について、「Ks aka 98 2007年1月22日 (月) 20:18 (UTC) 」の書き込みの、「その余の点」から下を確認してみてください。古い版における有意な加筆の投稿者の権利が、侵害の責任が明確にならないかたちで侵害される可能性、それを排除するための労力を考えると、取れないんじゃないかと思ってます。少なくとも、全面改稿前の版の特定版削除でよし、以後の復帰の可能性を検証することは求めず、古い版の有意な加筆の投稿者の権利侵害については泣いてもらうということで合意を得る必要があるのではないでしょうか。
- 心情について、後者のような感想を持つ方がいらっしゃることは想像できます。「大体、以前のほうが良い記事だったぞ」というような事例については、132人目方式を使うべきではなく、どちらを採用すべきかについては移動合戦ではなく議論をはじめることが可能です。132人目さんがおっしゃる通り「記事の根底から全く別の記事を作り上げ、また、古いものよりも充実したよいものを作り上げる事が、前提の1つ」(2007年1月20日 (土) 06:58 (UTC))であり、以前のぼくの表現では、少なくとも「先行する記述の内容を新しい文書が包括しなければいけないという条件」が必須だと思っています。過去の、132人目方式が使われた事例では、「大体、以前のほうが良い記事だったぞ」という意見は通用にしくい新規原稿が投稿されているように思います(リダイレクトへの使用には問題があるという意見は既に出ています)。検討しなければいけないとすると、新しい記事のほうが明らかに優れているけれど、また、GFDLとしての履歴は分離されていても問題が無く、履歴の最初には移動記録があり、初版投稿だからといって偉いわけではないにもかかわらず、「履歴の乗っ取りであるとともに初版投稿目当てではないか」と考える人の心情をどこまで汲むか、ということにあるのではないかと。--Ks aka 98 2007年1月26日 (金) 18:08 (UTC)
- どうも、議論が大き過ぎるというか、まだ考慮されていない、解析されていない論点や見方があるのであり、それらを論じるには、このコメント依頼のページは容量が大きくなりすぎているという感じがします。進行している話なので、「過去ログ」にする訳にもいかないし、「続き」とかを造って、新しい論点はそちらに書きというような形にはできないでしょうか。
- すでに述べたのですが、「よりよい記事が書けたなら」、全面改稿で古い記事に上書きすればよい訳で、著作権法的にこのことは、別に問題ではないということは、「私見」として Ks aka 98氏にもご紹介させて戴きました(あれは間違っているかも知れませんが)。
- そこで、先の投稿に「著作権侵害の虞がある」というのが、132人目方式を使う最大の根拠で、そうでないのなら、最初から答えは決まっていて、全面禁止であり、してはならないことです。そして「著作権侵害の虞」については、どの文章にもあり、スタブやサブスタブの場合は、まとまった構成の投稿よりもそのリスクは実は高いのです(まとまった構成のある投稿は、投稿者の普段の文章力や、記事の出来具合から比較して、おかしいとか、おかしくないとかが判断できるのですが、スタブだと、どこかのコピーの可能性があるのです)。
- 132人目方式は、現状出されている根拠からは、認めることはできない。仮に正式に認めるなら、それよりも、優れた記事ができたことを示し、古い投稿記事を、「削除するルール」を決めるのが妥当だと思います。
- この理由は、簡単に云うと、唯一「許容される基準」は、「著作権侵害の虞あり」なら、本当に「虞あり」なら、リダイレクトに移しても、サブページに移しても、部分的に再投稿される可能性があるからです。また、排除を合理化すると、排除された者は、意図的な荒らしになって、復讐をする可能性があります。ウィキペディアから公式に排除され、お前の投稿は不要だと云われた人は、ブロックされても、何も困らないので、何をするか分からないのです(心情を汲み取るとかは、高みに立った発想です)。
- ウィキペディアは単に、「百科事典を造るプロジェクト」だけではなく、「誰でも編集参加できる」プロジェクトだということを失念している人が多いように思えます。比喩的に「ウィキ・グレシャムの法則」が必然的に働くということがあるのです。(それを何とか押さえるために打つ手がない訳ではありませんが、その「対処手順」も、ウィキグレシャムの法則で否定されて行くので、どうもこうもできない)。「裏技」を導入するというのは、秩序化への対処の逆の方向の動きなのです。
- 一つの例として、「荒らし」に対応するとかで、ルールやガイドラインを整備すると、ますますルールが複雑になって来て、ウィキ官僚主義が登場するという弊害が出るというのがあります。
- また、何故より細かい解析が必要かというと、分野や記事の造られ方で、話が違ってくるのですが、Ks aka 98氏は、あまり記事を作成したり、編集した経験がないのか、このような分野などでの違いという視点が抜けているようにも思えるのです。
- ウィキペディアに参加するということは、荒らしや悪戯や嫌がらせや、他者との確執の発生を甘受するということです。荒らしを押さえるという目的で活動している人が、別の人の視点では「荒らし」に見え、また実際、荒らしであることがあります。荒らしも悪戯も、レベルの低いところからだけではなく、高いところからも起こるのですが、高い方からの悪戯や荒らしは、当人は自覚がないのが普通です。--Maris stella 2007年1月27日 (土) 06:34 (UTC)
- どうしようもない記事への適応からでも荒らしになる可能性があり、さらに複雑なこういった裏技を使うこと自体が反対ではありますが・・・。理由はどうしようもない記事の削除から荒らし化した例が存在するからです(削除依頼でも荒らし化する可能性があるのに、わざわざ裏技のような行為をルートとして増やすのは得策ではないかと)。また、Maris stellaさんが言っているとおり。基本的にはレベルの高いところでおきたものは、議論よりもとりあえず行動という場合が多く、それが結果的に荒らしであったり、そうでなかったりします(私も1回、荒らし対策をしていたらリバート乱用でブロックされた経験があります。まあ、あれは要約欄に何も書かなかったのも悪いのですが)。
- また、この方法が裏技ではなく良く知られる「方法」となった場合、これを用いた荒らしも懸念されます(記事を移動してそのリダイレクトに荒らし文を投稿。これで管理者以外は修復ができない荒らしになります。まあ、これは出たら仕方がないですが。この議論でだいぶ知られるようになったと思いますし・・・)。また、現在での問題は起こっていませんが、一般的になってしまったら「本当に適用する必要があるか?」という疑問が生じる行われ方も必ず起こるはずです。これは移動合戦が起こる可能性が最も高く、十二分に懸念されるべきです。とりあえず、全面改定の場合の初版~切り取りは可能そうなので、それは取り決めるとして(ただ、私は法律方面がそれほど強くないため、Ks aka 98さんが主導していただければ・・・と思います)、これが決まれば、この方面でこの方法を使う必要はなくなります(つまり実質的な禁止)。そうなると、最大の理由である「著作権問題が後からでた場合にそれを回避する」のにこれを使う意味はなくなります(121条については、Carbuncleさんが意見を出しており、どうも問題にならないのではないか、と考えられます)。
- そして、もう一つの理由である「大間違い記事」についてです。履歴を残すこと自体が問題である場合、です。これについてのみ考える余地があるのではないかと考えます。--koon1600 2007年1月28日 (日) 15:13 (UTC)