Wikipedia:コメント依頼/ボブソン
利用者:ボブソン(会話 / 投稿記録 / 記録)さんの編集姿勢について、コメントを依頼します。--Ohgi 2011年8月18日 (木) 15:45 (UTC)
経緯
[編集]発端はネプリーグ(ノート / 履歴 / ログ / リンク元)において、{{未検証}}
や{{要出典}}
などがコメントアウトされた編集を、Ohgiがリバートしたことです[1]。
このリバートにおいてコメントアウトを解除されたテンプレートが、「まずノートにて議論する事。他のページにも、検証不能ながらも信頼できるとみなしている事柄は多々あり、これだけを問題視するのは客観的に誤りである。」として、ボブソンさんによって除去されました[2]。
このため、利用者‐会話:ボブソンにおいて、ボブソンさんと対話をしました。長くなってしまったため要約しますが、ボブソンさんのリバートは、以下のような考え方のもとにあるということがわかりました。
- テレビ番組の記事におけるテレビ番組そのものなど、信頼できる情報源ではあるものの検証可能でない情報源は、検証可能な情報源だけでは記事を構築できないことに気づいた執筆者たちによる「暗黙の了解」のもと、ウィキペディアで使用することが容認されている。
- 一文一文ごとに出典をつけることは、ウィキペディアの「簡略化し、分かりやすい表現を用いる」というルールに反するため、ウィキペディアには損益になりうる。
これについて、以下の点についてコメントを依頼します。
- ウィキペディア日本語版において、「テレビ番組の記事におけるテレビ番組そのものなどの、信頼できる情報源ではあるものの検証可能でない情報源」を出典として使用することはできるか。
- 「一文一文ごとに出典をつけること」は、ウィキペディアにとって損益か。
- 被依頼者の考え方は、コミュニティを疲弊させうる危険な方向に向かっていないか。
以上、よろしくお願いいたします。--Ohgi 2011年8月18日 (木) 15:45 (UTC)
被依頼者によるコメント
[編集]私はOhgiさんのお考えそのものを否定する気はありません。
ただし、現在のWikipediaのあらゆるページにおいて、検証可能ではないが、信頼できるとみなしている文章を掲載しているものも多々あり、マナーを守る数多くのユーザーでさえもこれを容認しております。そして、Ohgiさんもこういった現実には認められております。
もしOhgiさんのお考え通り、検証可能のみの事柄しか載せてはならないとするお考えの場合、色々な弊害はあると議論しておりますが、その中でも最も重要な事を以下に述べます。
- 「ネプリーグ」の部分的な改修やページの改修に留まらず、ジャンルを問わなければ億単位とある全てのページにおいて、Ohgiさんの理論どおりに改修する必要があり、全てのページを改修しなければ整合性がない。
Ohgiさんのお考えは、「ネプリーグ」のページだけでなく、現在のWikipediaの編集のあり方を根本的に変えようとしている事にもなるので、Ohgiさんの意見に賛同される方は、大掛かりな変更に対し協力できる方でなければならないと思っております。
これに対して私は、Ohgiさんのそのようなお考えを行動に移すにはルールに沿ってはいるものの限界があると思い、そこまで検証可能性に厳密にならずとも、信頼できるユーザーに委ねる現在の方法で良いと思っております。
みなさんはどうお考えでしょうか?--ボブソン 2011年8月20日 (土) 15:34 (UTC)
コメント
[編集]- コメント ウィキペディアでは、検証可能ではないものは出典として利用不可、出典は(非常識なほど多くならなければ)多ければ多いほどよい、と思っていたのですが、私の考えは間違っていたのでしょうか。--Ohgi 2011年8月18日 (木) 15:45 (UTC)
- (コメント)「被依頼者の考え方は、コミュニティを疲弊させうる危険な方向に向かっていないか。」という問題提起のみでしたら、利用者へのコメント依頼という形は適切だと思います。しかしながら依頼者コメントの内容から察するに、利用者へのコメント依頼とするのは少し方向性が違うような気がします。その上で申し上げますが、事実として個々の記事ごとに慣例的に認められてしまっている内容というものは多く存在するので、この場合はまずはノート:ネプリーグで議論することが適切だと思います。ノート:ネプリーグでは実質的に二年以上も議論がなされていないようですので、単に当事者間の意見のすりあわせを個々の利用者の会話ページでおこない、その結果として利用者に対するコメント依頼に進むよりも、その記事をいかに有意義な内容にするかの観点でお話になってはいかがでしょうか。当該記事をざっと見ましたが、個人的には商品化されたDVDなどでの検証が不可能な記述は除去でよいと思います。例えば誰がどのように答えたかという記録(ファイブツアーズバギー の節など)は、媒体がなければ検証できませんよね。--海獺 2011年8月18日 (木) 16:09 (UTC)
- コメント上から三つはOhgiさんの求めるコメントに合わせて。4番目は被依頼者のコメントについて。5番目は会話ページでのやりとりについて。
- できると思う。ただし、それでよいということではない。特筆性の上からの問題は生じないが現時点では検証可能な情報源では記事を構築する術を持てていないけれども、どうすれば検証可能な情報源を見つけられるのか、いつでも誰でもとはいかないまでも虚偽や誤認を避け、一定の信頼度を担保するための検証作業がなされたと言えるにはどうすればいいのか、といったことを追求しているプロセスの中にあって、あわてて除去、削除するまでのことはないという程度に容認されてもいい、というくらいの意味で。
- 簡略化できる、分かりやすい表現を用いることができるにもかかわらず、一文一文に脚注を付ける必要はないので、場合によっては損益と言えることもあると思います。多ければ多いほどよい、というのは、正しくないと思います。
- このまま自己肯定、現状肯定が続くようであれば、方針の無理解とされるかもしれませんが、現時点では、「被依頼者の考え方は、コミュニティを疲弊させうる危険な方向に向かっていない」と思います。
- 「Ohgiさんの理論どおり」というのが、「信頼でき、かつ検証可能な情報源を加える」ということならば、そのように改修する必要があり、全てのページを改修しなければ整合性がない」のだけれど、ただちに改修することは難しく、しかし、改修する事をあきらめ、いまのままでよいと思ってよいわけではない。現在のWikipediaの編集のあり方は、多くの人が少しずつでも、信頼でき、検証可能な情報源を加えていこうということですすめられているのであって、「根本的に変えようとしている事」にはなりません。ウィキペディアの記事は「信頼でき、検証可能な情報源を加える」べきであるという意見に賛同する人々は、少しずつでも協力し、あるいは改善のためにどういうことができるか考えなければならないと思います。そして、これは方針であって、遵守することが求められています。
- 番組の放送日や放送局など特定できるだけのデータが示されていれば、ウィキペディアでいう検証可能とは言えないけれど、論文などでは出典として扱われることもありますし。ウィキペディアに書かれていることのすべてには、対応する情報源が示されることが求められていて、全部追加すること、それによって容量が大きくなることは気にする必要はありません。情報源を示さないことで、より分かりやすく簡潔にするというのも誤りです。かつては情報源がまったく示されていなかったものが、現在のページの流れではようやく(C)の情報源でも挙げられるようになってきたのであって、(C)の情報源でページを書くことが堂々と認められている状態ではなく、また認められる方向に進んでいるわけでもありません。また、DVDやビデオ・オン・デマンドの配信などで、そのタイトルや品番やURLを示すことに著作権上の問題は生じません。ボブソンさんの意見は、現実に即して、これでよしってことになっている、というもので、それは誤りだと思います。それに対して、Ohgiさんは、理想像を説明し、それを遵守させようとしています。現実的な困難を認めた上で、しかしそこで基準を緩めて安住することが認められているわけではなく、より理想に近づくことを共に考えるというのが、望ましい。要出典の類のテンプレを使うのは、検証可能な情報源を提示できていないからといって除去するのではなく、提示できていないということを読者に示しつつ記述を残すものですから、テンプレを除去してしまうというのは、適切ではないように思います。もし、テンプレの文面が適切でないと言うことなら、たとえば「Template:信頼性要検証」を使うか、新たなテンプレートを作るというようなことが解決に向かうかもしれません。--Ks aka 98 2011年8月20日 (土) 16:35 (UTC)
- コメント 海獺さんのおっしゃるように、まずは記事のノートで議論、必要に応じて合意形成のためのコメント依頼、がよかったと思います。でも依頼者の気持ちはわからなくはないですし、思うところもありますので、コメントさせていただきます。さて、被依頼者の言うように、テレビ番組を出典とした記述は随所に見られるようです。そのことは以前からずっと問題視されていて、たとえば
コメントに対する返答
[編集]議論ありがとうございました。
みなさんの意見を見る限りは、Ohgiさんに賛同されてる方が多いと分かりました。
正直なところ、色々な意見はあれど決め手や核心をついた意見とはいえず、私個人としては完全に納得してるわけではありません。ですが、今すぐには無理でも、少しずつ変えようとしている姿勢があるようなので、それが上手くいくようならば、私の考えも変わって来るかもしれないとも思っております。
ひとまずは、Ohgiさんの意見に従うという姿勢をとりたいと思います。
ただし、この問題に関しては、私以外にも多くのユーザーに浸透している事も事実です。ですから、私だけを納得させる事で終わりではありません。意見をくださった方々は、他のユーザーに対しても今回のように議論していく事が必要である事を認識して欲しいと思います。--ボブソン 2011年8月26日 (金) 16:28 (UTC)
- 基本的には方針は方針で遵守する。これは当然のことであります。ですが、いわゆる「自警」側も手が足りませんから「蔓延」しておりますし、また、ウィキペディアンは元々が執筆者集団ですから、文句だけ付けて記事の改善には手を貸さない、と言うのはどうにも躊躇われる、しかし身体は一つであり、文献収拾も思う通りに行く訳ではない。その様な人が多いのでなかなか問題記述が駆逐されないのでしょう(私もその一人です)。かくして方針違反は蔓延する、と言った具合です。私が考えますに、今後具体的には、検証可能性に著しく難のある記述を「増やさない」ことと同時に、徐々にこれまで作成されてきた難のある記事について改善をしていく、これが現実的なのでしょう。もちろん、「新規に立項される問題記事の量 < 改善されていく記事の量」となりませんことには、話は進展致しません。従いまして、いわゆる自警活動と同時に、新規参入者、または参入者予備軍への「広報」、これが大切になって参ります(個人的にはそれなりに力を入れているのですが、何分個人の仕事ではなかなか結果が出ないものです)。
- また、ウィキペディアは完全なプロジェクトではありません。出典至上主義であるため、マイナーな題材やサブカルチャーについては、書きたくとも書けないことだらけです。これにつきましては、ウィキペディアを補完する、つまり検証可能性をウィキペディアほど偏執的に重視しないプロジェクトがを別途進め、車の両輪として発展していくのが良いのでしょうね。--Hman 2011年8月26日 (金) 16:52 (UTC)