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Wikipedia:井戸端/subj/テレビ番組は検証可能な情報源ですか?

テレビ番組は検証可能な情報源ですか?

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ウィキペデイアはテレビ番組を検証可能な情報源としてとらえていますか? 番組名と放映日が記載されていても、DVD化されていない番組は、一般視聴者は個別に録画などをしていない限りは、内容を検証することができないと思います。「テレビ局に出向けば放映済みビデオを見せてもらえる。遠隔地に住む人は、局に頼めばダビングしたテープを分けてもらえる」という意見もあるようですが、私が実際にテレビ局主要各社に問い合わせたところ、NHK、民放とも、局のスタンスは、「著作権の関係で番組を放送以外の目的で個別にお見せすることはできない」というものです。これでは検証できません。--222.13.35.50 2009年5月8日 (金) 16:24 (UTC)[返信]

公式な方針のひとつである検証可能性に、
事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)
とあるのはご存知でしょうか。これに関しては、Wikipedia‐ノート:検証可能性#信頼性に乏しい情報源への付け加えにおいて「テレビ番組は検証可能な情報源ではない(信頼性が乏しい)」という共通認識があったように思います。その先行議論であるWikipedia‐ノート:検証可能性/テレビ番組では、その認識が全体の共通となるところまではいっていなかったようですが。私が勝手に基準としているのは、「DVDの発売やネット上での公開などが決定されているもの」はオンエアの段階よりそれを情報源とできる、「オンエア以外の内容の確認ができないもの」に関しては基本的には使えない(その項目において重要な内容は例外)、ということですね。--春日椿 2009年5月8日 (金) 17:24 (UTC)[返信]
(コメント)ウィキペディアの方針に沿っているかどうかは、わからないのですが。個人的には「その番組を見た『私は』確かにxxxという話を知っている」というレベルでは出典として、また検証可能性を満たしているかという点でも、あまり適切ではないと思っています。自分が関わることの多い芸能人の記事が特にそうで、俳優Aがテレビで「現在出演中のドラマで共演しているBとは時々飲みに行っています」との発言を(番組を見た『私は』知っているから)すぐ「Bと親しく飲み友達」と書いてしまう。なんだかなあ、と思います。しかしテレビ番組を情報源から排除してしまうと、今度は何を情報源にしてよいのか、という事態も発生します。雑誌だったらOKでしょうか。雑誌なら国内で発刊された書籍を、すべて保管する図書館があったはずです。しかし雑誌も、やはり「『私が』読んだその雑誌では、yyyという話をしていた」からというので、すぐに記述してしまうと、瑣末と言っては失礼かもしれませんが、芸能ワイドショー路線の一過性の情報や宣伝のためのリップサービス的な内容ばかりが増えてしまいます。
222.13.35.50さんが、どのようなジャンルの記事を対象にしているのかわからなので、芸能人に特化している内容のコメントでは、参考にならないかもしれませんが、自分はテレビ番組での発言も情報源(出典)として無いよりはマシ、と考え番組名と放送年月日(雑誌での発言であれば誌名と号数)を脚注にすることが多いです。逆に、どこでそのような発言がされたかすらわからない情報には[要出典]を貼ってます。--60.46.188.214 2009年5月8日 (金) 23:49 (UTC)[返信]
春日椿さんが仰るように「TVで観た」程度で書いちゃダメだというのは合意の取れた認識であります。それは「検証可能性」の観点から退けられてきたわけですが、TV番組のアーカイブ化が進んできましたので(NHKオンデマンドなど)すべて「検証可能性」で退けられるという訳にもいかなくなってきたのが現状です。ただ、TV番組を典拠として記事を書くことにはなお、ふたつの障壁があると考えられます。
ひとつは「情報の信頼性」の問題で、「トーク番組でタレントの誰々がこう言った」なんてのを出典にして記事を書く人は跡を絶ちませんが、その発言がどれほど本当のことを言っているのかはどこにも保障がないのですから、そんなものを典拠にしては駄目なはずです。これは、各種のバラエティ番組や情報番組でも同様でしょう。科学番組ですら、放映後に科学雑誌でその内容が批判されることがあります。トンデモ陰謀論として有名なシオン修道会はBBCのドキュメンタリー番組がまことしやかに取り上げたことで世に広まっているなど、テレビ番組の信頼性は高くないのです。信頼できそうな情報であれば、必ずその番組が典拠にした文書情報がある筈ですから、やはりそのような文書情報に遡って出典とするべきでしょう。
もうひとつは「Wikipedia:特筆性」の問題で、これは60.46.188.214さんが指摘するとおりです。あまりにも瑣末でどうでも良いような情報を書くためにTV番組を典拠にする編集者の方々にはうんざりします。ということで、「検証可能性」問題がアーカイブ化でクリアされたとしても、「TVで観た」程度で書くなという主張はして宜しかろうと考えております。
なお、「雑誌なら国内で発刊された書籍を、すべて保管する図書館」というのは、どこの図書館なのでしょうね?大宅壮一文庫が集めている雑誌は「すべて」の雑誌には及んでいません。国会図書館も集め切れていない雑誌が多々あることは、周知の事実であります。--おーた 2009年5月9日 (土) 00:29 (UTC)[返信]
おーた様の指摘により発言の一部を削除します。各所の国立図書館でデータを連携させてA館には無いがB館にはある、複数館で補い合って網羅(とは言えないか)を目指している部分ありますが、一つの図書館ですべてというのは無かったようです。お詫びいたします、ごめんなさい。--60.46.188.214 2009年5月9日 (土) 01:09 (UTC)[返信]
(コメント):※直接の回答なり意見ではないのですが、全体にかかるのでインデント変更します。wikipediaでたびたび議論や問題視される「検証の可能性」(検証可能な情報源)の明示を、「事の是非や正誤の判定として信憑性があるもの」(いわゆる正しい証拠となるもの)を明示することととらえて(語句・語彙からしてそういうとらえ方・認識は明らかに的外れなのですが、実際には意外とその的外れな認識をする人が多いので敢えてここで強く杓子定規に説明します)その前提で話をする人がいますが、そうではありません。言い換えれば「書いてある内容が正しいことを証明するもの」ではなく、あくまでそれ(そういう内容の記述なり説)が記述者の思いつきや自論ではなく、世の中の目に触れる場所に既に存在する説であることの証であることを提示できているかどうかというものです。書いてある内容が正しいかどうかとはまた別の話しで、(記述内容の真偽を)検証をするために、既存の一説であるという認識が(賛同者にも反論者にも共通に認識が)可能とするための、その引用元の明示であるということに注意してください。そこを勘違いすると、まとまる話もかみ合わなくなります。--陸奥 2009年5月9日 (土) 03:15 (UTC)[返信]
(コメント)最近Wikipediaの編集を行っている中で気に掛かったことがあったのでコメントしたく思ったのですが、『アリケン』の2009年4月25日放送で「女子を見る目を養え! アリケンブラックジャック」という企画が放送され、「男性経験が○歳」などの数字でゲームをやっていたのですが、「Wikipediaの既存記事に変な事が書き込まれなければいいが・・・」という一抹の不安を持ちながら実際に視ていました。案の定書き込みが行われました(しかもAV女優ではなく普通のタレントの記事に)。後に検証可能性に基づいて差し戻しはしておきましたが、私はやはり、こういったものは真実なのか台本上の演出なのかは検証可能性に欠けるので書き込むべきではないと思います(本人のその後にも支障を来たす恐れもあろうかと思うので。なお、この『アリケン』は11日~41日の遅れネットが存在するので同様の書き込みがまた発生しそうな懸念もあります。)。ただ正直、普通のトーク番組、ドキュメント番組などで本人の口から話したことは信用しがちになりそうなのですが。--ずんとく 2009年5月9日 (土) 04:34 (UTC)[返信]
先に書いたついでに上記のずんとくさんの書いた件に触れるならば、「だれそれの初の男性経験は○才である(~あるらしい)。××の番組の本人談より」というのはアウト。「だれそれは、××の番組中で本人談として初体験は○才であるとしている」はセーフなのでは?(少なくとも同じではありません。)その記述をすることの必要性や是非論とはまた別にです。前者は、まさに信憑性に疑念の余地をはさめるものを元に断定的にあたかも曲げようがない事実であるという書き方である部分が、まさに好ましくない状態にあるといえます。後者は単なるその旨の発言の放送があった事実の紹介(その発言について番組名を併記することで読者側がどう処理するかは、読者側の自由であり、かつその方向性などの誘導はしていない。)でしかないわけです。--陸奥 2009年5月9日 (土) 14:50 (UTC)[返信]
「検証可能性」として議論するならその通りですが、そういうことを記述するのが適当なのかという問題が残るし、ずんとくさんがあげた例はまさしく「そんなことをわざわざ書くな」の事例だと思うのですけれども。それはいわゆる「特筆性」の話です。--おーた 2009年5月9日 (土) 16:02 (UTC)[返信]

インデント戻します。タレントやお笑い芸人の記事を見ると明らかに「テレビでの発言」を出典として記述してる例が多数あります。で、そうしたものがずらずらと並べられて「雑多な内容」や「検証可能性」テンプレが貼られることになる。お笑い芸人のコンビとかで様子を見てると何故か個人記事へ分割されて、個人記事の方に内容が受け継がれているパターンが非常に多いです(例:オードリー (お笑いコンビ)若林正恭春日俊彰)。しかもその後も「百科事典に書くことか?」ってなその手の記述が追加され続けるというオチまでついて。--KAMUI 2009年5月9日 (土) 22:57 (UTC)[返信]

ちょっと話戻りますが、陸奥さんのコメント拝見しました。ということは、そういう記述は後者の書き方ならば妨げられないということなのでしょうか? 複雑な気もしますが、そういう放送があったこと「のみ」事実としても、真相はどうなのかわからないのなら、最初から書かない方が良いであろうかと思います。削除の方針のケースB(名誉毀損)の懸念もあるかも知れませんし。--ずんとく 2009年5月13日 (水) 15:11 (UTC)[返信]
各氏が述べられている点でおおよそ同感なのですが、1つ困ったところでは、TV番組で評論家、又はそれなりの知識人がおそらくは制限された時間内での発言という事情もあって、あまりにも事実をはしょってしまい正しくない、又は誤解を招く発言や表現をすることがあります。中には自分の専門分野以外まで発言してしまい、一般の方が誤解しているそのままを発言して「誤解の再生産」に加担している番組も少なくありません。ワイドショー番組が昼だけでなく夜でも平気で専門外の評論家・知識人に発言させるようになってからは、この誤解の再生産を多く目にするようになりました。また、少し前ですが信じるべきNHKの科学番組でさえも同様で、門外漢であろう有名漫画家の息子が科学的な説明を毎回行い、何度かデタラメを述べていたことがありました。
またWikipediaでも過去に原子力発電から出る核廃棄物の利用項目で「プルトニウムはウランと別の物質であり抽出し易いため、高濃度が求められる核兵器を製造しやすい。」という表現を見て慌てて直しました。実際は通常は真逆なのですが……。今ではこの誤解は少なくなりましたが、やはり専門外の評論家にTV番組でしゃべらせればかなりの高率でこの誤った解説をすると思います。
書籍ですら「これは著者本人が書いたのでは無い!」と思えるほどに誤りのあるものがあり、(私見ながら文系出身の筆者に科学書籍の執筆は無理がある場合が多いようです。)ましてや、TV番組内での会話中の発言はあまりにも信頼性が低く、「検証の可能性」という視点だけでなく、TV番組は信用できないものが多いという観点でのガイドライン等での具体的な注意が必要だと感じています。--Tosaka 2009年5月24日 (日) 16:25 (UTC)[返信]