Wikipedia:井戸端/subj/テレビ・ラジオ番組を出典とすることは可能か
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テレビ・ラジオ番組を出典とすることは可能か
[編集]Wikipedia‐ノート:信頼できる情報源等で類似の議論があった話題なのですが・・・。放送日時・番組名が明記されている場合、テレビ番組・ラジオ番組を出典とすることは可能でしょうか。Wikipedia:存命人物の伝記では『「テレビで観たことがある」、「ラジオで聴いた」といったような貧弱なソース』という文もありますが、放送日時・番組名(コーナー名等が追加される場合もある)がはっきりと明記されていても、出典として認められないほどの貧弱なソースとなってしまうのでしょうか。既存の議論では、「DVD化されているものやインターネット上で確認できるものなら問題ない」という意見もありますが、それを貫徹してしまうと、DVD化されるような番組(ドラマや人気の高い一部のバラエティ番組)ではないテレビ番組を主な活動場所としている芸能人については記事を成立させることは困難です。ましてや、ラジオ番組の場合はCD化やDVD化は稀であり、ラジオを中心に活動するタレント等の記事は成立させることがさらに困難になります。もちろん、書籍等に比べるとベストな情報源ではありませんが、だからといって出典として一律に認められないとなると問題なのではないかと思った次第です。--F@ST 2010年9月7日 (火) 06:16 (UTC)
- 端的に申し上げて、「放送日時・番組名が記載されていても、そのソースにアクセスする方法がない以上は、それらを出典とした記述は認められない」と考えます。Wikipedia:検証可能性に照らし合わせて不適でしょう。どうにかして「アクセスできるメディア(DVD/CD、書籍、雑誌など)」を探す必要があると思います。それがどのような困難を伴ったとしても。見つからなければ、それによって記事が成立しなくなったとしても仕方がないでしょう。「放送日時・番組名が記載されていても、そのソースにアクセスする方法がない」ということは、逆に考えるとでっち上げも簡単におこなえるということであり、それを認めることはできないでしょう。
- しかしながら、これはあくまで私見というか、私の「実際の行動・運用」の話なのですが、私がそのような記述を見かけたとして、排除するかと言えば、私は排除しません。例えば、そのような記述があったとして、自分がその番組を見ていた/聴いていた場合にはその記述が虚偽かどうか(つまり、緊急に除去しなければならない類のものなのか)判断できます。自分が見ていなかった/聴いていなかったとしても、他の方が同じように判断できるでしょう。であるならば、そのようにして書かれているその記述が虚偽である確率は高くないと考えるからです。
- ただし、これは自分自身が記事に手を入れる際に「テレビ・ラジオ番組を出典とした記述をしてもよい」という理由にはなりません。もちろん、そうした記述を容認しているというわけでもありません。他の出典でカバーできるならば当然置き換えますし、「それにしてもヒドい」と感じた場合(これはあくまで主観に因する処置であり、よほどでない限り手を出すことはないです)は削除やコメントアウトをします。前述したとおり、「テレビ・ラジオ番組を出典とした記述」 は、Wikipedia:検証可能性に照らし合わせて不適であるからです。アクセスできないメディア以外の出典を探すべきでしょう。-- いすか (talk/wikimail/contributions)いすか 2010年9月7日 (火) 07:33 (UTC)
- コメント 「信頼できる情報源」というものは、ウィキペディア日本語版の基本的な方針「Wikipedia:独自研究は載せない」と「Wikipedia:検証可能性」に密接に関係するものです。「検証可能性」の観点からは、第三者によって検証ができない情報源は、ウィキペディア日本語版における記述の出典として用いることはできないと判断してよいでしょう。それを踏まえて活動すればいいんじゃないでしょうか。
- 《既存の議論では、「DVD化されているものやインターネット上で確認できるものなら問題ない」という意見もありますが、それを貫徹してしまうと、DVD化されるような番組(ドラマや人気の高い一部のバラエティ番組)ではないテレビ番組を主な活動場所としている芸能人については記事を成立させることは困難です。ましてや、ラジオ番組の場合はCD化やDVD化は稀であり、ラジオを中心に活動するタレント等の記事は成立させることがさらに困難になります。》というのはまったくその通りだとは思うんですが、それは単純に、そのような露出しかしない芸能人/タレントは、ウィキペディア日本語版にて単独で記事を作成することは、ウィキペディア日本語版の方針では想定されていないだけでしょう。--iwaim 2010年9月7日 (火) 07:55 (UTC)
- >出典として一律に認められないとなると問題なのではないかと
- wikipediaは「事実を記載する場所」ではありません。「正しいことを記載する場所」でもありません。況してや「誰も知らないことを記載する場所」でもありません。「客観的に認められていることを記載する場所」です。
- もしも「事実を記載しよう」とか「正しいことを記載しよう」とか「誰も知らないことを記載しよう」などと考えたならばそれは問題かも知れません。ですが「客観的に認められていることを記載しよう」と考えたならば問題はありません。
- 信頼できる情報源や検証可能性、独自研究は載せない等のルールは全て(「客観的に認められていること」ではなく)「事実」や「正しいこと」や「誰も知らないこと」等を記載したがる勘違いした人達への対策としてルール化されているものです。それに疑問を抱いたF@ST氏も何らかの勘違いをしかけている可能性が考えられます。即ち、特筆性の無い「誰も知らないこと」を書く誘惑や、或いはそうした勘違いした人達への同情によってです。
- 誘惑なら、打ち勝つことです。同情なら、正しい道を示してやることです。正しい道を理解出来ないのであれば、残念ですがその人は素晴らしい百科事典を作るという馬鹿馬鹿しいほど壮大なるプロジェクトに貢献することは難しいことでしょう。それは逆に、文化遺産に落書きするような愚を犯させることになってしまいます。止めてやるのが人情ではないでしょうか、道を曲げるのではなく。
- 世界最狂の魔法使いCray-G 2010年9月7日 (火) 08:53 (UTC)
- コメント私は削除こそしたことありませんが、テレビの放送やラジオの放送は、貧弱な情報源どころではなく、基本的に一過性のソース(検証できない情報源)として出典にはできないと考えてきました。 勘違いだったのでしょうか? 確かに信頼できる情報源には、直接テレビやラジオのニュースについての言及はありませんね。 --Gyulfox 2010年9月7日 (火) 12:41 (UTC)
- Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源において、「一般に、信頼性に乏しい情報源とは、(中略)事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)、または編集上の監督を欠く情報源です。」と書かれています。テレビ放送は常に検証可能な状態にはありませんが、番組公式サイトで紹介されていれば出典にはできます。NHKアーカイブスで一般公開されている番組ならば、出典にできるでしょう。なお、DVD化されている場合は、テレビ放送内容ではなく、DVDが出典となりますね。番組の再放送を有料配信している場合、それが出典とできるかは微妙なところです。--220.100.115.236 2010年9月7日 (火) 17:49 (UTC)
- TV番組は最近になってアーカイブ等により、検証可能な状態になったものも一部にはあります。ただ、どういうTV番組なのかは議論せず、「TV番組はOKか否か」を問うても仕方ないんじゃないでしょう。TVのバラエティ番組あたりでの芸能人の発言を引っ張ってこようとする人は、あとを絶ちませんが、そういう情報源が信頼性に欠けるのは議論の余地も無いでしょう。「本人がそう自分で言っていたから確かだ」というのもダメでしょうね。その手の本人情報は、芸能人のイメージ戦略による誇張や虚偽が入りやすい状態にありますので基本的に、疑ってかかるべきものです。--おーた 2010年9月7日 (火) 22:12 (UTC)(修正)--おーた 2010年9月8日 (水) 13:22 (UTC)
- 放送ライブラリーなる施設があることはあります。放送は「事実確認の機能を欠く情報源」とは言い切れないかもしれません。ですが、全国の図書館で入手できる資料の方が望ましいのは確かだと思います(含む相互貸借)。--Akaniji 2010年9月8日 (水) 15:03 (UTC)
- 確かに、事件・事故といったものや、企業や様々な事象の将来に対する報道まで十把ひとからげに情報源たり得ないとするのは問題かもしれませんが、そういった各種報道と比べても、「同じテレビ番組なんだから」と言って、バラエティ番組での発言を文字おこし的に加筆してみたり、ラジオ番組でたまたまほかの同業者と一緒にどこかに行ったことを発言しただけで「交友関係がある」と記述してみたりするのは何とかならんかな、と思ったこともあります。今のところ、Wikipedia:信頼できる情報源(もうリンクは貼りません)でも、「ある分野で信頼できる情報源(例:事件・事故の記事におけるテレビのニュース番組での報道内容)であることが、ほかの分野で自動的に信頼できる情報源となるわけではない(例:存命芸能人の記事におけるテレビのバラエティ番組での本人の発言)」ことは直接言及していないようなのですが、そこまで明記しなきゃいけないのかな、あえて書かないほうがいいのではないのかな、と思ったこともあります。--VZP10224 2010年9月9日 (木) 15:28 (UTC)
- 芸能分野もそうですがゲームやアニメといったサブカルチャーに属する無数の記事では、出典がその対象そのものであって書籍のような比較的確実に検証できる情報元からはあまり出典を得ていないものが幅を利かしています。つまり現実にはこれら特定の分野に限ってはTVの放送直後にTV以外が情報源とは考え得ない情報が載っている現状があり、私はこういった記事の多くがWikipedia:検証可能性やWikipedia:信頼できる情報源といった「公式な方針」に違反していると考えます。百科事典で芸能やサブカルチャーを扱うことにそもそも無理があると思うのですが、一方では何処かでこういった「軽い記事」を集積するWebページがWikipediaと並立しても良いと考えております。
- 私はこれらの特定分野の記事を糾弾する意図はなく、むしろ、上手に整理して共存することを考える時期ではないかと思います。Wikipedia:検証可能性やWikipedia:信頼できる情報源は「ウィキペディア日本語版の公式な方針」であるためにこれらの曲解は避けねばなりませんが、Portal:アニメやWikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト アニメ、もしくはWikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人あたりで出典規定に対するローカルルールを設けてから全体に対する例外規定として認めさせるような努力を行うのが落としどころのような気がします。とにかく日本語Wikipediaは、こういった特殊な分野の記事量が突出して多いのですから、出典については単一のルールで治める以外の方法も考慮すべきだと思います。--Shigeru23 2010年9月10日 (金) 16:17 (UTC)
- 確かに、事件・事故といったものや、企業や様々な事象の将来に対する報道まで十把ひとからげに情報源たり得ないとするのは問題かもしれませんが、そういった各種報道と比べても、「同じテレビ番組なんだから」と言って、バラエティ番組での発言を文字おこし的に加筆してみたり、ラジオ番組でたまたまほかの同業者と一緒にどこかに行ったことを発言しただけで「交友関係がある」と記述してみたりするのは何とかならんかな、と思ったこともあります。今のところ、Wikipedia:信頼できる情報源(もうリンクは貼りません)でも、「ある分野で信頼できる情報源(例:事件・事故の記事におけるテレビのニュース番組での報道内容)であることが、ほかの分野で自動的に信頼できる情報源となるわけではない(例:存命芸能人の記事におけるテレビのバラエティ番組での本人の発言)」ことは直接言及していないようなのですが、そこまで明記しなきゃいけないのかな、あえて書かないほうがいいのではないのかな、と思ったこともあります。--VZP10224 2010年9月9日 (木) 15:28 (UTC)
- どちらかと言うと、検証可能性のある信頼できる情報源が無い=特筆性が無い、という判断基準だと思うのですが。特筆性がある話題であればその特筆性に基づいて誰かが書籍を書き出版しているはずだ、書籍を書いて出版する価値(=特筆性)を誰も認めていない話題だということは即ち特筆性が認められていない話題である、特筆性が認められていない話題はwikipediaに記載するに値せず、という理屈です。--世界最狂の魔法使いCray-G 2010年9月10日 (金) 17:32 (UTC)
- コメント特筆性なし/ありの基準がかなり曖昧なのがそもそも問題と思います。消してしまいたいサブカルチャーのページに明白な違反が見付からない時に、攻撃に使われる理由のトップがこれです。 分かりやすい例を出せばサブカルチャーの中で神と崇められている人物は、サブカルチャー系の(でも一般人でも本屋で買える)雑誌であるホビージャパンに彼の作品が複数回出たら、その人物は特筆性ありなんですか、特筆性なしなんですかという話です。 なしという人々はそれでもなしと言い張るので、これはもうwikiで禁じられている偏見+多数決の領域ではないかと思うわけです。世界最狂の魔法使いCray-Gさんならどう判断されますか?--58.85.22.210 2010年9月11日 (土) 01:51 (UTC)
- コメント 《分かりやすい例を出せばサブカルチャーの中で神と崇められている人物は、サブカルチャー系の(でも一般人でも本屋で買える)雑誌であるホビージャパンに彼の作品が複数回出たら、その人物は特筆性ありなんですか、特筆性なしなんですかという話です》については、その分野に詳しい方が判断することになるのだろうとは思うのですが、一応私の見解を書いておきます。そもそも「特筆性」という基準は「検証可能性」よりも (当然といえば当然ですが) 対象範囲を狭める基準となっていますので、「雑誌にでている」だけで記事の作成はなかなか難しいのではないかと思います。具体例としては草案「Wikipedia:特筆性 (人物)」に政治家とか芸能人とかの基準がでているのでご覧になってみてはどうでしょうか。
- せっかくなのでもうちょっと踏み込んでコメントします。その事例では『ホビージャパン』での取り上げられ方に依存する話ではないでしょうか?「作品の写真」と「名前」ぐらいしかでていなかったら特筆性云々よりも、(検証可能性を満たした状態では) 体裁が整った記事が作成できないという問題が発生するのではないでしょうか。また、「作品の写真」と「名前」以外に簡単なプロフィール程度が記載されていたとしても、その程度ではサブスタブ程度しか作れないはずです。まあ、《神と崇められている人物》というぐらいであれば、例えば、『ホビージャパン』にインタビュー記事が掲載され、作品を作成しはじめた動機や、その人物が今まで (作品に関する技術を) 学んできた歴史などが書かれているのであれば、それはサブスタブよりも良い記事は十分に作成できるとは思います。
- 《なしという人々はそれでもなしと言い張るので、これはもうwikiで禁じられている偏見+多数決の領域ではないかと思うわけです》については、大半の人が「スタブではない」と認めるであろう、検証可能性を満たした記事を作成してしまえば、「特筆性なしだ」と言い張る人を黙らせることができるはずです。で、どう頑張っても検証可能性を満たす状態で作成したらスタブにしかならない対象であるとすれば、それはもう「特筆性がない」と言われても仕方ないのだろう、と。--iwaim 2010年9月11日 (土) 15:43 (UTC)
- >世界最狂の魔法使いCray-Gさんならどう判断されますか?
- せっかく井戸端なのですし、㌧でもなく独断と偏見に満ちた主観的な意見を書かせて戴きますね。
- 前述の通り検証可能性のある信頼できる情報源の有無に加えて、それが単なる事実ではないことが特筆性の有無だと考えます。特筆性なし/ありの基準が曖昧なのが問題なのではなく、特筆性があることにしたいが為に、明確な基準を無視して特筆性があることにしようとする人達が居る(その人達が「曖昧なことにしよう」として関係無い論点をぶち上げて議論を混乱させる)のが問題なのです。wikipediaは『事実を書く場所』ではないのです。
- ホビージャパンの例で言えば、「単に作品が載っている」だけでは「単なる事実」が列挙されているだけですから、その人物の特筆性とは関わりはありません。そりゃ事実すら載っていないような人物に比べればマシかもわかりませんが、単なる事実や宣伝は特筆性とは関係ありません。
- 単なる事実や宣伝に留まらない「解説」があれば、特筆性が存在する可能性が見えてきます。複数の出版社の出版物に渉ってそういった「解説」がされるようなら、特筆性が認められることでしょう。単なる事実の集合から考察や分析をした「解説」(←これ自体は分析者が立脚する観点に偏ったものでしょう)が、出版社による査読を経て出版物として出版された事実、そしてその量に基づいて「特筆性の有無」を判断するのであって、内容に基づいて「特筆性の有無」を判断してはならないわけです。問題になるのは当該出版社が何らの査読をせずに出版するような出版社か否か(或いは故意に査読をしなかったであろう出版物であるか否か)です。それら分析者の観点に偏った各種「解説」を中立的観点に基づいて集積するからこそ、wikipediaが素晴らしい百科事典になり得るのです。
- なお、単なる事実の中で特殊なのが、例えばアカデミー賞の授賞などは少々ややこしい事実になります。アカデミー賞を授賞した事実そのものは単なる事実ですが、アカデミー賞を授賞した事実自体が何らかの考察や分析をされた「解説」の一種である「評価」となるからです。なので、何らかの権威ある賞を受賞した事実は、特筆性を認められることでしょう。当該「権威ある賞」自体に特筆性がある場合に限られますがね。
- 単なる事実か否かの判断基準としては、解釈の仕方や新事実の発見により内容が変わり得るか否かですね。「何年に発表された」という内容は、解釈や他の事実により変化しません。ですが「最初の○○である」という記述は、例えば○○の定義により、或いはそれ以前に存在した○○の発見により「最初の○○ではない」ことになり得ます。「業界に大きな影響を与えた」というのも同様ですね。こういった「解説」=「単なる事実ではない記述」が複数の著者複数の出版社によって出版されることで、特筆性が認められることになります。
- ですがこれですと既に書いた「勘違いした人達」は何も出来なくなってしまうので、理解出来ない振りをして「偏見+多数決の領域」であると主張し議論を紛糾させようとするわけです。何しろ「勘違いした人達」に何もさせない為に設けられた基準なのですから当然の話です。
- 世界最狂の魔法使いCray-G 2010年9月13日 (月) 09:02 (UTC)
- コメント特筆性なし/ありの基準がかなり曖昧なのがそもそも問題と思います。消してしまいたいサブカルチャーのページに明白な違反が見付からない時に、攻撃に使われる理由のトップがこれです。 分かりやすい例を出せばサブカルチャーの中で神と崇められている人物は、サブカルチャー系の(でも一般人でも本屋で買える)雑誌であるホビージャパンに彼の作品が複数回出たら、その人物は特筆性ありなんですか、特筆性なしなんですかという話です。 なしという人々はそれでもなしと言い張るので、これはもうwikiで禁じられている偏見+多数決の領域ではないかと思うわけです。世界最狂の魔法使いCray-Gさんならどう判断されますか?--58.85.22.210 2010年9月11日 (土) 01:51 (UTC)
- どちらかと言うと、検証可能性のある信頼できる情報源が無い=特筆性が無い、という判断基準だと思うのですが。特筆性がある話題であればその特筆性に基づいて誰かが書籍を書き出版しているはずだ、書籍を書いて出版する価値(=特筆性)を誰も認めていない話題だということは即ち特筆性が認められていない話題である、特筆性が認められていない話題はwikipediaに記載するに値せず、という理屈です。--世界最狂の魔法使いCray-G 2010年9月10日 (金) 17:32 (UTC)
- 検証可能性というのは編集者が納得していればいいものではなくて、読者が記述の正しさを検証するために必要なものだと思います。そういう意味で、見逃してしまったら確認できなくなるテレビ番組が、情報源として的確ではないという判断になるのだと考えます。芸能やサブカルチャーにおいても、記述の信頼性を確かめる機会を読者に提供するべきであり、その点はすべての分野で共通していることだと思います。--有足魚 2010年9月11日 (土) 04:07 (UTC)
- 前述したとおり放送ライブラリーという施設があるので、そこの「番組ID」を元に文献参照テンプレートを作成しようと試みましたが、先方の検索ページに番組IDでの検索式がなかったので、URLのprogram引数で作成してみました。利用者:Akaniji/Template:放送ライブラリー。放送を論拠として参照する場合は、このようなテンプレートで後日入手性を確保することを条件とする、等の規程を設けると良いかもしれません。--Akaniji 2010年9月11日 (土) 22:16 (UTC)
- 検証可能性というのは編集者が納得していればいいものではなくて、読者が記述の正しさを検証するために必要なものだと思います。そういう意味で、見逃してしまったら確認できなくなるテレビ番組が、情報源として的確ではないという判断になるのだと考えます。芸能やサブカルチャーにおいても、記述の信頼性を確かめる機会を読者に提供するべきであり、その点はすべての分野で共通していることだと思います。--有足魚 2010年9月11日 (土) 04:07 (UTC)
ところで最近になって{{TVWATCH}}や{{RADIOLISTEN}}と言ったテンプレートが作られました。もしテレビやラジオを出典としている記事であればこのテンプレートを貼ってもいいかも知れません。--114.179.102.159 2015年5月29日 (金) 16:37 (UTC)