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Wikipedia‐ノート:投稿ブロック依頼/Seisato

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IP58xvさんへのコメント

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本論から外れると思われるので、こちらにてコメントします。

私が拝見するに、利用者:IP58xv会話 / 投稿記録さんがお考えになっておられる「議論」は「ディベート」になっている、と思うのですよね。すなわち、2つの意見があった場合に「どちらが正しいか」を決める議論。なので、「Aという意見」か「Bという意見」かで意見が分かれた場合に“どちらかしか採用しない”という発想になっておいでではないでしょうか(だからこそ「論争」とか「論破」という言葉が出てくるのだと思います)。

Wikipediaにおいてのの(ノートページにおける)「議論」はそうではありません。あくまでも「(どういう記述を行うかの)話し合い」です。「Aという意見」か「Bという意見」かで意見が分かれた場合にどちらかだけを残すのではなく、(基本的には)両方残すのが是なのです。そのことがWikipedia:論争の解決には書いてあるのです。逆に(議論=ディベートの結果に基づいたとしても)どちらかしか載せないという態度は、すなわち特定の観点からの記述だけを残すということになり、Wikipedia:中立的な観点#中立的な観点とはにある「ウィキペディアの狙いは論争を記述することであり、論争に加わることではありません」に反する行為、だと考えます。--Bsx会話2015年6月15日 (月) 12:04 (UTC)[返信]

いいえ、違います。意見A,Bがあった際に、合意の形には様々なものがあるということを言っています。つまり、A採用、B採用、C採用です。CはAとBの揚棄です。AとBに本質的な誤りがなければCに発展するのが正しい形だと思いますが、実際上はそんなことはなく、A、Bいずれかが誤謬であることもありえることであり、その場合はCという形になるのは誤謬を含む正しくない結論ということになります。--IP58xv会話2015年6月15日 (月) 12:13 (UTC)[返信]
(追記)断っておきますが、ここで言っている意見A,BはWikipediaの議論上における意見です。「ウィキペディアの狙いは論争を記述することであり、論争に加わることではありません」は当然厳守すべきルールです。--IP58xv会話2015年6月15日 (月) 12:19 (UTC)[返信]
(追記2)「論争」、「論破」という言葉を持ちだしたのもわたしではありません。--IP58xv会話2015年6月15日 (月) 12:51 (UTC)[返信]
IP58xvさん) 貴殿の反論の素早さ、そして追記の多さに少々困惑しているところですが、それはさておき。
「A、Bいずれかが誤謬であることもありえること」なのは事実ですが、一部のユーザーにおいては「A、Bいずれかが誤謬であること」が前提の議論をふっかけているケースが多々あり、その場合には一方のユーザーがCという結論に着地させようとしても「誤謬なのだから部分的にでも採用すべきではない」の一点張りで議論が帰結しないケースを山ほど見ている(そして自分も多々巻き込まれている)のも事実です。「論争」「論破」を積極的に是認する態度は、そういう方々に多く見られると思っています。
“Wikipediaの議論上における意見”だけで済めばいいのですが、その議論内容がWikipedia本文の記述内容に関わる話であることが多く(というか基本的にノートページの議論はそこに結びついているはず)なので、結局(本文に記載する文面も含めて)白黒丁半をつけたがるユーザーが増えているなと感じるところです。そしてIP58xvさんの(このノートでの)反論からもその傾向を感じたところです。--Bsx会話2015年6月15日 (月) 13:02 (UTC)[返信]
ちょっと何を言っているかわからないのですが?ブラウザを開いたら偶々通知があったので返事をしました。追記は読みなおして不足だと思ったので追記したのみです。返事が早いことやたかだか2つ程度の追記がなんだというのでしょうか。
一部のユーザーにおいては~~多々あるというのは本当なのですか?わたしは知りません。
その場合には一方のユーザー~そういう方々に多く見られると思っています。
知りません。Wikipediaにはいろんな議論があるのであなたが関わっている議論ではそうなのでしょう。l
Wikipediaでの議論は基本すべて記述内容に結びついています。議論となるのはなにをどのように執筆するかということについてです。あなたがどのような議論を想定しているのかわかりません。白黒つけたがるというのも良くわかりません。わたしは既に議論の合意についてその様態について、A,B,Cの3種類があると述べました。Cという選択肢もありえますが、A、Bに誤りがある場合は、正しい方が選択される、至極当然の話ではありませんか。それともあなたは、たとえば、Aが誤っていたとしても、Aも含んだCという結論にすべきと言っているのですか?あなたがわたしにどういう傾向を感じたか知りませんが、わたしはあなたが論理的な会話が苦手な方という印象を受けました。--IP58xv会話2015年6月15日 (月) 15:21 (UTC)[返信]
「たまたま通知のタイミングが合って反応した」としても、私の書き込みから9分で反論を返している(すなわち、私の書き込みを読んで反論文を書いて投稿するまで9分しかかかっていない)というのが「反射的な(あるいは感情的な)反論」ではないかという懸念をもったので、そのことをお伝えしたまでです。「読みなおして不足だと思ったので追記したのみ」とおっしゃるのであれば、最初の投稿前にプレビューをよく読み返してお返事いただきたく(これは自省も込めていますが)。
その上で。IP58xvさんが「(議論の合意について)Cという選択肢もありえますが」とおっしゃっておられるところから推察するに、「結論(すなわち記述内容)をAかBに帰結させるのが前提」とお考えのようにお見受けしました(私が「白黒丁半をつけたがる」と申し上げたのはこのことです)が、それはWikipedia内においてはWikipedia:論争の解決のガイドライン、もう少し詳しく言えば同ガイドライン内の「ステップ2: 論争の相手と話し合う」の「議論の仕方」に書いてある事項に反するスタンスです。ディベートであれば議論の結果として優劣をつける以上「論争」「論破」はよく見られる手法ですが、Wikipediaでは最終的に「Aという観点もBという観点もある」という内容を目指すのが前提(Wikipedia:中立的な観点はそういうことだと思っています)ですので、明確な観点の間違いがなければ一方の見方を全否定するような議論はすべきではないでしょう(一方に明確な間違いがあればすぐに議論は終結するでしょう。ただしそれは「論破」と呼べるレベルのものでもないと思います)。確かに論理的な議論は必要ですが、どちらかの意見だけを採用するための(すなわち相手を論破するための)議論は不要だと考えます。--Bsx会話) 2015年6月15日 (月) 23:01 (UTC) typo修正--Bsx会話2015年6月15日 (月) 23:03 (UTC)[返信]
どちらかの意見だけを採用するための(すなわち相手を論破するための)議論
そんなことをわたしは主張した覚えはありません。あなたの見解を読むと、推察した、お見受けした、というようなことが書かれていますが、推察やお見受けをする前にきちんと論旨を把握してください。わたしの書き込みを良く読んで反論文を書いてください。--IP58xv会話2015年6月15日 (月) 23:12 (UTC)[返信]
私はこのノートページの書き込みに至る前段の議論(下の#転記1の議論)から一連のコメントを拝見して、その上でIP58xvさんがWikipediaにおける議論をディベート(討論)と混同されておられると解してコメントを差し上げています。「どちらかの意見だけを採用するための(すなわち相手を論破するための)議論」と主張されたことはなくても、その前段で「論争や論破は対立のある議論における極普通のやり取りであって、特に問題ではないばかりか議論の終結、合意に向けて積極的に取られるべき手段であると考えます」と(Wikipediaのノートページでの議論で)論争・論破の手法を積極的に是認されておられ、さらに「既に議論の合意についてその様態について、A,B,Cの3種類があると述べました。Cという選択肢もありえますが、A、Bに誤りがある場合は、正しい方が選択される、至極当然の話ではありませんか」と“多くの議論ではA.Bのどちらかに誤りがあって、議論は誤りのない方に帰着させるべき”という前提の話をしておられるので、そうじゃないという趣旨で申し上げているのです。A,Bが単に個人的見解・個人的解釈の混じったものに基づく意見であればそれは誤りがあることも十分考えられるでしょうが、それぞれに客観的資料なり出典があって述べているのであれば、どちらかを論破してどちらかの記述だけを残すことは正しくない、と言う意味で申し上げています。仮にIP58xvさんがそういったケース(単に個人的見解・個人的解釈の混じった意見)以外を想定されておられないのであれば私の認識違いですので、これ以上申し上げることはありません。--Bsx会話2015年6月17日 (水) 22:57 (UTC)[返信]
相も変わらず勘違いだらけなのですがなんとかなりませんか。わたしは普通に日本語で話しています。わたしがどう話そうとその趣旨を違え、その違えた論旨にしたがって反論されるのであれば、わたしが何を言おうとあなたには関係ないじゃありませんか。あなたが一人で話を進めているようなものです。ここまで勘違いが酷いと意図的なものであるのかと疑わざるを得ません。もう一度はっきりといっておきます。推察やお見受けをする前にきちんと論旨を把握してください。わたしの書き込みを良く読んで反論文を書いてください。
“多くの議論ではA.Bのどちらかに誤りがあって、議論は誤りのない方に帰着させるべき”
どこで「多くの議論ではA.Bのどちらかに誤りがあって」とわたしが言いましたか。その編集差分を提示してください。
それぞれに客観的資料なり出典があって述べているのであれば、どちらかを論破してどちらかの記述だけを残すことは正しくない、と言う意味で申し上げています。仮にIP58xvさんがそういったケース(単に個人的見解・個人的解釈の混じった意見)以外を想定されておられないのであれば私の認識違いですので、これ以上申し上げることはありません
「そういったケース」以外もすべて想定しています。「AとBに本質的な誤りがなければCに発展するのが正しい形だと思います」と述べています[1]。反対にあなたが「そういったケース」以外しか想定していないのです。--IP58xv会話2015年6月18日 (木) 03:46 (UTC)[返信]
Wikipediaの議論はディベートではありませんから(これは私が繰り返し申し上げていることです)、当然のことながら相手方(この場では IP58xv さん)のおっしゃったことの論旨を十二分に把握してお返事しているつもりですが。おっしゃったことの上っ面だけを見て言葉に対応させるような一対一の返答を延々と続けてもほとんどの場合は「見解の相違」で終わりですから多くの議論は平行線をたどるだけで議論は深まりません(相手を否定し論破することが議論の目的になっているのであればそういう手法も有りなのかもしれませんが)。「わたしは普通に日本語で話しています」とおっしゃられるのであれば、貴殿の発言が(言外の部分も含めて)どのように受け取られるか客観的に見返してみられることをおすすめしておきます。
その上で。2015年6月15日 (月) 15:21 (UTC) のこの書き込みで、IP58xvさんは「わたしは既に議論の合意についてその様態について、A,B,Cの3種類があると述べました。Cという選択肢もありえますが、A、Bに誤りがある場合は、正しい方が選択される、至極当然の話ではありませんか。」と書かれました。これについて、わたしはIP58xvさんが「Cという選択肢も“ありえます”」と言う表現を用いている(すなわち可能性の一つにとどまることを示唆している)と読み取って“基本的にAまたはBに議論を帰着すべき”お考えだと解してお返事を差し上げています。
加えて申し上げれば、IP58xvさんが始めの方で「AとBに本質的な誤りがなければCに発展するのが正しい形だと思います」とコメントされておられるのも当然把握してますが、実際のコメントにはそれに続けて「が、実際上はそんなことはなく、A、Bいずれかが誤謬であることもありえることであり、その場合はCという形になるのは誤謬を含む正しくない結論ということになります」とまでおっしゃっておられるので、Cに発展する(議論が帰結する)ことがレアケースだと言うことを表明していらっしゃると解したのですが、ここまではっきりおっしゃっておられても、まだ私個人のミスリードとおっしゃられるのでしょうか。--Bsx会話2015年6月21日 (日) 05:15 (UTC)[返信]
「十二分に」どころか全然把握していませんし間違っています。少なくともわたしはあなたに対して「言外」の意図を織り込んだコメントは行っておりません。「言外」の意図を探るより前に、まずは書いてあることを正確に解釈してください。それができないのならば「言外」の意図をつかむことなどできようはずがありません。
IP58xvさんは「わたしは既に議論の合意についてその様態について、A,B,Cの3種類があると述べました。Cという選択肢もありえますが、A、Bに誤りがある場合は、正しい方が選択される、至極当然の話ではありませんか。」と書かれました。これについて、わたしはIP58xvさんが「Cという選択肢も“ありえます”」と言う表現を用いている(すなわち可能性の一つにとどまることを示唆している)と読み取って“基本的にAまたはBに議論を帰着すべき”お考えだと解して
その日本語解釈は間違っています。可能性の一つを指摘した場合、それ以外であるべきであると主張することになるのでしょうか。たとえば、コイントスを行った時、表が出る可能性を指摘した場合、コイントスの結果は裏であるべきであると主張したことになりますか?なりませんよね。
IP58xvさんが始めの方で「AとBに本質的な誤りがなければCに発展するのが正しい形だと思います」とコメントされておられるのも当然把握してますが、実際のコメントにはそれに続けて「が、実際上はそんなことはなく、A、Bいずれかが誤謬であることもありえることであり、その場合はCという形になるのは誤謬を含む正しくない結論ということになります」とまでおっしゃっておられるので、Cに発展する(議論が帰結する)ことがレアケースだと言うことを表明していらっしゃると解した
その日本語解釈も間違っています。「A、Bいずれかが誤謬であることもありえることであり」と書けば普通はそうでないこともありえるのだなと理解できるはずです。その文章では可能性の問題を論じているのであり、どちらの可能性が高いだとかレアケースであるといったことは一切述べられていません。嘘だと思うのであれば、誰でもいいから聞いてみてください。あなたが同意を得られるケースは極めてレアであると思います。
ここまではっきりおっしゃっておられても、まだ私個人のミスリードとおっしゃられるのでしょうか。
わたしが「はっきり」と述べてもあなたが解釈を間違えているのであれば意味はないでしょう。あなたがミスリードを行っていないとするならば、あなたの文章読解能力は極めて心もとないものであるということになります。であるからわたしはあなたのミスリードを疑ったのです。--IP58xv会話2015年6月21日 (日) 17:59 (UTC)[返信]
コメント IP58xvさんの 2015年6月21日 (日) 17:59 (UTC) のコメント(反論)をいただいて、2週間ほど最初からの議論を改めて反芻しておりましたが、本論から趣旨が逸脱しすぎている(日本語の枝葉末節の解釈問題になってしまっている)こともありますし、私のお伝えしたいことは既に繰り返し申し上げている(そしてそのことはあまり伝わっておらず、今後もIP58xvさんに伝わる可能性が低いであろう)と判断し、私からはクローズとさせていただきます。--Bsx会話2015年7月4日 (土) 01:54 (UTC)[返信]
だからあなたの日本語解釈が間違っているのですよ。あなたの伝えたいことはあなたのその間違った日本語解釈から生まれたことなんだから話が噛み合う訳ないじゃないですか。わたしの説明は普通に判りやすく書かれていると思います。これで趣旨が伝わらないということはありえません。あなただって本当はわかっているのでしょう?2週間たってそのお返事というのには失望を禁じえません。--IP58xv会話2015年7月5日 (日) 10:41 (UTC)[返信]




「ウィキペディアの狙いは論争を記述することであり、論争に加わることではありません」はWP:NPOVの一節であったはずですが、これは記事に対して適用される方針であり、利用者同士の間での行動の仕方に係るものではありません。
「一般論」がどうであるか、IP58xvさんのお考えになる語義がなんであるかは、ここでは全く関係ありません。問題となっているのは、ウィキペディアにおける利用者の行動の仕方であり、それをどのような語彙で記述し、考え、どのように行動するべきかは、利用者同士の間での行動の仕方に係ることがらです。つまり、Wikipedia:論争の解決において示されている通りであり、気にするべきはそれに合致した行動が出来ているかどうかで事足ります。言い換えをする必要もありません。
繰り返し申し上げている通り、Wikipedia:論争の解決に合致した行動であるか否か、これのみを問題にしています。したがって、IP58xvのお考えになる語義ないし言い換えが正しくとも誤っていようとも、そのことは問題ではありません。利用者間の意見の対立とその解決は、あくまでWikipedia:論争の解決に即してお考えいただくよう重ねてお願いいたします。
以上の前提を置くとき、IP58xvさんの2015年6月14日 (日) 16:06 (UTC) のコメントに関しては、その問いに乗ること自体が---Wikipedia:論争の解決の説くところに照らす限りにおいて---誤謬であると考えます。文書にあるとおり、ウィキペディアで利用者間の意見の相違において目指すべきところは合意形成であり、その過程においていずれかの利用者がもし仮に「誤って」いたとして、そのことがもし仮に明らかになったとしても、そのことはなんら目的とするところではありません。逆に他者の誤りを明らかにすることのみを目的とする(このことの論理的な裏返しは自己の無謬への確信なのでしょうが、なぜそこまで確信できるのでしょうか)のであれば、それは誤った行動です。--ikedat76会話2015年6月15日 (月) 14:56 (UTC)[返信]
日本語でお話になっているのですから、日本語の語義に則ったお話とならねば要らぬ誤解、誤謬を生じさせるのは当然の話しです。わたしが考えているところの「論争」、「論破」の語義に誤りがあるのであればどうぞご指摘ください。
Wikipediaにおいて意見の相違があった際に議論によって解決するのはルールにある通りです。その過程においては論争もあり論破もありえると述べただけです。間違いがあるのであればご指摘ください。--IP58xv会話2015年6月15日 (月) 15:28 (UTC)[返信]

IP58xvさんのお考えの正否について感心はありませんし、そのような話もしておりません。IP58xvさんの提示される語義が正しいとも誤りであるとも判断しておりませんし、そうした判断が必要なわけでもありません。今までに申し上げたことのなかで、そのように説き及んでいる箇所があるとすれば、いうところの「筆が滑っている」でありお読み捨ていただくようお願いします。

問題になっているのはウィキペディア内での問題ですから、ウィキペディアの決まり事に則して考えればよいだけだ、とそう申し上げています。一般論は必要ありません、ウィキペディア限り、ウィキペディア特殊のお話をしています。利用者間のある種の行動のあり方について考え・行動するべき考え方なり語彙なり行動なりはWikipedia:論争の解決に示されており、それに沿ってお考えいただくだけでなく、行動していただくようお願いしております。それ以上でもそれ以下でもありません。強いてヒントを申し上げるなら、「ステップ2: 論争の相手と話し合う」で何を目指すことが求められているのか、ということになるでしょうか。同じキーワードは、別の節にも出てくるようです。--ikedat76会話2015年6月15日 (月) 15:41 (UTC)[返信]

わたしはWikipedia:論争の解決についてなんらかを争っている訳ではありません。日本語でコメントを書かれているのですから、正しく言葉の意味を把握し用いてくださいと述べているのみです。もっと言えば、わたしの考える言葉の意味に感心はないとの弁ですが、あなたのコメントを読んだ日本語話者は字義通りの意味に受け取る訳です。Wikipediaにおいては「論争」も「論破」も許されていないと受け取るということです。あなたはそう主張されているのでしょうか?Wikipedia:論争の解決には論争をするなとも論破をするなとも書かれていないはずです。さらに言えば、あなたは現在に至るまで議論にて論争も論破も行っていないのでしょうか?--IP58xv会話2015年6月15日 (月) 16:01 (UTC)[返信]

言うべきことは既に申し上げていおり、申し上げるべきことはこれ以上ございません。「ウィキペディア日本語版において」という限定付きで、その限定の範囲内でお話をしております。一般論ではございません。繰り返しご案内しているWikipedia:論争の解決をお読みください。独特とお感じになられたのであれば、それはおそらく正しく、どのように独特であるのかをよくお考えいただければ何を申し上げているかご理解いただけるものと信じております。また、禁止されないからしてもいいのだ、という理解は同文書の精神とでもいうべきもの、あるいはウィキペディアでの議論は「決着をつける」ためのものではなく、あくまで百科事典の編纂に資するためのものであるという観点をご案内することをもって、最後と致します。--ikedat76会話2015年6月17日 (水) 20:35 (UTC)[返信]

いいえ、そのような逃げ口上は通用致しません。一番下のコメントでも書きましたが「論争」や「論破」は本依頼におけるあなたの被依頼者譴責の根拠となっている部分です。Wikipediaで論争、論破が禁止されているのかどうか明確にお応えください。Wikipedia:論争の解決では少なくとも論争も論破も禁じられていません。そもそもルールのタイトル自体が「論争の解決」となっており、Wikipediaにおける論争を予期したものとなっています。解決すべき問題ではありますが論争自体は勿論、禁じている訳ではありません。Wikipediaの議論は百科事典編纂に資するものであるべくは当然で、その中で論争、論破はありえるだろうと当方は述べているのです。違いますか?そんな難しいことではないと思います。
あなたは誤った主張を基に被依頼者に対する譴責を行っていると思います。--IP58xv会話2015年6月18日 (木) 03:23 (UTC)[返信]

転記1

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Wikipedia:投稿ブロック依頼/Seisato 2015年6月17日 (水) 16:06 (UTC) の版から転記。--ikedat76会話2015年6月17日 (水) 16:14 (UTC)[返信]

ちょっと誤解があるかもしれませんので、一点だけ、失礼させてください。「偏向」(政治利用)というのは私が最近感じているところであって被依頼者氏が直接そのような表現を用いたか、少なくとも私は知りません。Seisatoさんにも申し訳ありませんでした。--Hyon Hyoro会話2015年6月14日 (日) 02:00 (UTC)[返信]
論争や論破は対立のある議論における極普通のやり取りであって、特に問題ではないばかりか議論の終結、合意に向けて積極的に取られるべき手段であると考えます。--IP58xv会話2015年6月14日 (日) 04:56 (UTC)[返信]
まちがっています。Wikipedia:論争の解決をお読みください。ウィキペディア外はさておき、ウィキペディアでは、という話をしています。--ikedat76会話2015年6月14日 (日) 12:34 (UTC)[返信]
すいませんが、それのどこに論争や論破を行ってはいけないと書いてあるのでしょうか。編集において意見の対立があればお互いの意見を述べ、戦わせることによって相互理解を目指す、これを論争といいます。これはWikipediaにおける各種議論で普通に見られる行為です。また、そうした論争を経て、片方が間違っているとの理解に達した際には意見を撤回し誤りを認める、これを論破といいます。これもWikipediaの各種議論で普通に見られる行為です。逆に、いつまでも自説に拘り誤りを悟った後も意見を撤回しないのはWikipediaのルールによって戒められているところです。--IP58xv会話2015年6月14日 (日) 13:35 (UTC)[返信]
IP58xvさんがどのように言葉を定義するかは、ご自身の自由ですが、そういう話をしているのではありませんし、興味もありません。ウィキペディアにおいて意見の対立なり不一致なりがあった場合にどうするべきなのか、ということについてウィキペディアでは言葉をどのように定義し、どうすることが求められているかということはWikipedia:論争の解決に書いてあるとおりですと申し上げています。--ikedat76会話2015年6月14日 (日) 15:13 (UTC)[返信]
確かにWikipedia:論争の解決に書かれている「論争」には一般的なニュアンスとは異なるものを感じましたが、論争とはそもそも論じ合うことですので議論で対立がある場合、その議論自体一般には論争ということになります。当該ルールには「論破を目指さない」とも書かれていますが、それは方法論の話であって対立する議論で一方が誤りを認めた場合、それは一般的には論破となります(実際に議論でもままみられるものです)。実際、ここであなたとわたしが行っているやりとりも論争といっても差し支えないものであり、仮にここでわたしが自分の誤りを認めたとしたら、あなたはわたしを論破したということになります。その場合、あなたは咎められることになるのでしょうか。--IP58xv会話2015年6月14日 (日) 16:06 (UTC)[返信]
横から失礼します。IP58xvさんが若干勘違いしておられると思うのですが、本論と外れると思われますので本依頼のノートにてコメントさせていただきます。--以上の署名のないコメントは、Bsx会話投稿記録)さんが 2015年6月15日 (月) 12:05‎ (UTC) に投稿したものです。[返信]

情報この続きは「#IP58xvさんへのコメント」。--ikedat76会話2015年6月17日 (水) 16:15 (UTC)[返信]

転記2

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Wikipedia:投稿ブロック依頼/Seisato 2015年6月17日 (水) 15:13 (UTC) の版から転記。--ikedat76会話2015年6月17日 (水) 16:11 (UTC)[返信]

    • コメント上述したコメント依頼には、利用者の編集姿勢が問題とされた過去の個別ノートによる議論が転載されており[2]、また2013年7月7日 (日) 03:20 にWikipedia:コメント依頼/Seisatoが提出されているので、被依頼者の編集姿勢が問題として取り上げられたのは初めてではありません。また、ブロックには利用者個人のノートを閉鎖しないブロックもあり、そこで意見を聞くこともできます。そこで改善の様子が見られるとしてブロック解除になった方も何人もいます。--Sube会話2015年6月14日 (日) 05:51 (UTC)[返信]
      • コメントその初めのコメント依頼ですが、かなり微妙な感じがします。--IP58xv会話2015年6月14日 (日) 13:43 (UTC)[返信]
        • ブロックは「被依頼者から、改善の機会を奪う」ものではなく、まず行動するのではなく自省する開会を儲けること荷機会を設けることにより「改善の機会」をもたらすものです。ブロックは無期限であっても永久追放ではありません。そのようにブロックを「改善の機会を奪う」ものとする理解は、それこそ「ブロックの本旨に外れ」たものです。--ikedat76会話) 2015年6月14日 (日) 15:16 (UTC)誤字訂正。--ikedat76会話2015年6月17日 (水) 17:11 (UTC)[返信]
          • すべてのブロックは反省を促すものではあるとは思います。しかし、ブロックのみが反省を促す手段であるわけではありません。本依頼の提出自体も反省の契機となりえます。ブロックは最終手段であり、このような罪過の軽い案件、かつ、実質的に初めての問責の機会において適用されるべきものであるとは思えません。--IP58xv会話2015年6月14日 (日) 16:32 (UTC)[返信]
            • なぜ参加されたはずのコメント依頼にあった記述には反応されず、コメントのごく一部にだけ反応され、それをもって自省の機会が初めてだという結論になったのでしょうか。それはともかく、
つまり、Seisatoさんはノート:旭日旗などにおける「中立的な観点無視」や「出典にないことを書く」[3]という他者からの指摘を2年以上(出典にないという指摘が最初にノートにあったのは2013年6月17日 (月) 18:18 (UTC))受け続けても、自省をすることや、自衛のために慎重になる機会に至らない人物だということでよろしいでしょうか。「ブロック依頼は間違い」とするならば、被依頼者に自省を求める方法が、他にWikipediaに用意されているのでしょうか。どうぞここでご紹介ください。時間やリソースの点も含め、効果的な方法があるならば、提案を切り替えます。--Sube会話2015年6月16日 (火) 15:36 (UTC)[返信]
  • あなたがブロック依頼が提出された時点で審議の場はブロック依頼に移っているものと考えます。また被依頼者に対する実質的なコメント依頼、ブロック依頼も初めてのことだと考えます。
わたしは少なくともわたしが被依頼者と復数の議論に関わった経験から被依頼者はgood faithを持っていると判断し、ここで反対票を投じた訳です。多少主観的にすぎる面があることも認めますがそれは既に書いているように、その程度のことは他の編集者にもままみられることですし、ここで賛成票を投じている幾人かにもあてはまることでもあります。ノート:旭日旗における議論は詳細には精査しておりませんが、「中立的な観点無視」や「出典にないことを書く」というのは本当なのでしょうか。その言辞は対立論者の一方的なものであり、そういった象徴的な言辞のみを切り出してそのまま無謬であるとして取り扱うのは問題であると思います。被依頼者に反省を求めるのであれば、コメント依頼にて反省を求めるまとめとすることで十分であったと思います。そのレベルの問責であればわたしも賛同していたと思います。--IP58xv会話2015年6月17日 (水) 03:18 (UTC)[返信]
なるほど、先ほど挙げたコメントに触れられた5名及び、最初に指摘したIPユーザー、そして私がありもしない罪をでっち上げて、Seisatoさんを陥れようとしているという認識でよろしいですね。抽象的とおっしゃいますがコメント依頼には明確に場所を引いて数度指摘しています。それはノート:旭日旗の議論でも同じでした。読んだはずのIP58xvさんが「抽象的」とおっしゃるのでしたら、きちんと被依頼者が挙げた文献のうち、被依頼者の主張を明確に裏付ける部分を、文献のページ及び引用をして挙げてください。被依頼者が挙げたオンラインで読める資料もありますので、正当性があるのでしたら個々のノートできちんと論証してください。--Sube会話2015年6月17日 (水) 13:00 (UTC)[返信]
5名とかIPユーザーって誰のことでしょうか。わたしは、少なくともこれまでに、抽象的ともいってませんけど。わたしは、その議論において議論相手が「中立的な観点無視」や「出典にないことを書く」と言っているのは確かであるけど、言っている内容は本当に確かなのですか、無謬なのですかと聞いているのです。そのような象徴的な文言のみを切り出してさも事実であるかのようにいうのであれば、それを証明する必要があるでしょうということです。議論においては、度々、誤った見解が述べられることも往々にしてよく見られることです。
少なくともわたしにはわたしの意思、判断により賛成票、反対票を投じる権利があります。そしてわたしはこの程度でブロックというのは量刑相場にあわないから反対票を投じたまでのこと。意に沿わぬ見解だからといってそのように突っかかるのはやめていただきたい。--IP58xv会話2015年6月17日 (水) 13:41 (UTC)[返信]
「5名とかIPユーザーって誰のことでしょうか。」あなたの真上のコメントの「2015年6月17日 (水) 03:18 (UTC)」にある「出典にないことを書く」[4]に言及されている方々および、「出典にないという指摘が最初にノートにあったのは2013年6月17日 (月) 18:18 (UTC)」ですが。
それにあなたはコメント依頼に参加したのですから、その時点で「出典にないことを主張する」と何度も何度も言及されていたことを把握しているはずです。参加しておいてその時点では出典についての言及も行わなかった貴方が、なぜここで初耳のような顔をして疑問だと言い始めているのでしょうか。さらにあなたはノート:ドイツによるナチス・ドイツを原因とする賠償」に参加する意志を示されており、被依頼者の問題および改名提案はこの出典問題にダイレクトに関わってくるのです。それを被依頼者と同様に相手のコメントを読まないことに血道を上げているような方であるなら、議論を再開したとて待っているのは地獄でしかありません。なお、象徴的を抽象的と見誤ったのは確かですのでその点については謝罪します。それぐらいの厳密さで、コメント活動及び、被依頼者の出典の精査をお願いします。--Sube会話) 2015年6月17日 (水) 13:57 (UTC)(追記)--Sube会話2015年6月17日 (水) 14:10 (UTC)[返信]
厳密って、言ってもないことを言ったとされて反論されても困惑するのはあたりまえのことでしょう。厳密云々なぞの問題ではありません。あなたこそ相手のコメントを読まないことに血道を上げているんじゃないですか。
その5名の方というのは「(韓国の)異常な反応」という記述を反対しているだけですよね。議論で意見の相違がある=ブロックするではないと思いますが。ちなみに、その件でいえば被依頼者はまったく「出典にないことを主張」している訳ではありません(『その(旭日旗に対する)異常な反応ぶりは日本人の想像をはるかに超えてしまっている。』[5])。出典自体にやや難があるとは思いますが、少なくとも事実無根のことを出張しているわけではありません。--IP58xv会話2015年6月17日 (水) 14:27 (UTC)[返信]
Claw of Slimeさんが行った出典に書かれていないという指摘は、ちょっと前を読めばすぐにわかるのですが、この直前に行われたこの差し戻しに該当します。「[6]」。なお、出典を確認してもいいですが、被依頼者の用いた表現は書いてありません[7]。Jcastの記者(無記名)も「嘘」と断定しておりません。「異常な反応」は信頼できる情報源および中立的な観点、存命人物の伝記などの問題です。なお、このコメントの5名はいずれも被依頼者に中立的な観点の問題および、出典の問題で議論を行うか、出典を差し戻した方々です。中立的な観点にもとることや出典に無いことを書くという指摘が少なくとも2014年6月7日 (土)から行われていたことは明白に立証されました。自省の機会である問責が初めてということは完全に事実と異なります。指摘が事実かどうかは各ノートできちんと方針をふまえた上で反論してください。--Sube会話2015年6月17日 (水) 15:13 (UTC)[返信]
Ikedat76さん転記ありがとうございます。冷却期間期間をおくため、IP58xvさんについてはこれ以降、ノート:ドイツによるナチス・ドイツを原因とする賠償に参加された後のみに対応します。--Sube会話2015年6月17日 (水) 16:20 (UTC)[返信]
その出典には下記のようにあります。
奇選手は試合翌日、インターネットのミニブログ「ツイッター」で、観客席の旭日旗を見て「私の胸中で涙が流れた」「私は選手である前に大韓民国の国民」と訴えました。

(中略)

ちなみに、この日韓戦を現地で撮影していた弊紙カメラマンは「日本側の応援席で旭日旗を見た記憶はない。断言はできないが、少なくとも目につくような大きさの旭日旗は見なかった。日韓の両サポーターは互いに挑発することもなく、共に和やかな雰囲気で応援を楽しんでいた」と証言しています。

 奇選手自身はその後、日本サッカー協会から説明を求められた際、「日本の人々へ向けたものではない。セルティックでも敵のサポーターからサル呼ばわりされた。そういった人種差別主義者たちに抗議の意味を込めたもの」と、自身の発言を撤回しています。 — 産経ニュース[8]
この出典を読む限り、奇選手の先立つ発言は嘘であったということになります。この発言をもって「嘘をついた」と要約したとしても「出典にないことを書いた」ということにはなりません。つまり、この件をもって被依頼者が「出典にないことを書いた」とし、その罪を訴えるのは讒訴以外の何物でもありません。ということは、わたしが既に可能性を指摘していたように「出典にないことを書く」というのはやはり議論相手の一方的な誤った言辞であり、そのような象徴的な文言をのみ切り出して無謬であるとして取り扱ったあなたの行為も誤りであったということになります。これはまさしく誤謬であり、誤謬によりブロック依頼の場で被依頼者を譴責したあなたの責任は軽くはありません。あなたはこの件をもって「出典に無いことを書くという指摘が少なくとも2014年6月7日 (土)から行われていたことは明白に立証されました。」とも述べています。ということは、あなたのいう立証や証明はことごとく信用できないということになります。--IP58xv会話2015年6月18日 (木) 03:10 (UTC)[返信]
投稿ブロックは主に荒らしに対処したり、方針が理解できない利用者に対処したりするために使用されます。他にも、それほど一般的な状況ではないものの、以下に記載されているようなケースで適用される場合があります。すべての場合において、投稿ブロックは懲罰というよりむしろ予防であり、ウィキペディアの被害を回避するためにのみ実施されます。 — Wikipedia:投稿ブロックの方針

「罪過」(2015年6月14日 (日) 16:32 (UTC))、「量刑相場」(2015年6月17日 (水) 13:41 (UTC))、「問責」(2015年6月17日 (水) 03:18 (UTC)、2015年6月17日 (水) 15:13 (UTC))といった理解や語彙は投稿ブロックの理解において妥当ではないようです。--ikedat76会話2015年6月17日 (水) 20:35 (UTC)[返信]

そうですね。ブロックは懲罰というよりむしろ予防であるべきものです。その論旨については賛同致します。しかし、なにも「罪過」がなければ「問責」もされず、ブロックに処されることはない訳です。またブロック依頼の結果としては、対処せずから数日~無期限まで、問題の深刻度に応じて幾段階もの対処が設けられている訳です。そういった意味で「量刑相場」というものは確実に存在し、あながちこれらの語句が適当でないということはないでしょう。しかし、あなたが述べている、「論争や論破はWikipediaでは認められない(大意)」は重大な意味を持ちます。もし「論争」、「論破」がWikipediaの議論で認められているのであれば、あなたの被依頼者譴責を無期限ブロックすべしとの主張はその根拠を欠くことになるからです。なおかつ、これを放置し認められればWikipediaでは「論争」、「論破」は「罪過」に問われるというおかしな「判例」が残ってしまうことになります。ですからわたしは「論争」、「論破」はWikipediaの議論で認められていないのですかとうるさくお聞きしているのです。もう一度問います、あなたはこれまでに「論争」も「論破」もしたことはないのですか?--IP58xv会話2015年6月18日 (木) 03:10 (UTC)[返信]

旭日旗における「虚偽の指摘」という発言について

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コメント対処はしないといいましたが、他の利用者の方の行為が「ルールにまったく問題ない」と言われている状況を放置するのはさすがに忍びないので、コメントだけしておきます。

これらの[9][10]、出典をもとにして書く場合、お挙げになった理由では、Wikipediaのルールでは出典に基づいた正当な記述とすることはできません。 独自研究にある、「この方針は自分の提唱する論証や定義を支持するような形で発表済みの情報を解釈・合成するようなことも排除します。」の「解釈」に抵触するからです。

まず、この出典には一言も「嘘」という言葉はありません。出典の文章から断定できるのは、「奇選手が先に旭日旗云々の話をし、後でそれを撤回して別の理由を言った。匿名の日本人カメラマンは「断言はできないが」見ていないという証言をした」と産経新聞は報道をし、Jcastは弁解をしたことを載せた。ということです。産経新聞ももちろん「嘘」という報道をこの時点では行っていません。嘘であると断定したのは被依頼者の推定です。「その情報源は、ウィキペディアの情報を明確・直接的に裏付けるものでなければなりません。」(Wikipedia:検証可能性

IP58xvさんは嘘だと断定されましたが、解釈などはいくらでもつきます。さらに、この文章からだけでは、後半の弁解が嘘であり、旭日旗云々が本当である可能性を排除できません。もちろんどっちも嘘である可能性もあるし、どっちの要素もあった可能性もあります。また、この記事には「撤回し」とありますが、出典中、奇選手は「旭日旗を見たと言ったのは嘘だった」とは述べていません。なので奇選手が「旭日旗を振るのは人種差別主義者」と認識しており、日本全体を敵に回すのは危ないとみて、「日本の方にむけたものではない」と日本全体を敵に回す声明を行い、それを産経新聞が「撤回した」と形容した可能性すらあります。さらに陰謀説など絡めば解釈は無限です。このように理屈はどのようなものでもつけられます。

無理のある理屈であるという感想を抱くのは無理もありませんし、旭日旗云々の話が嘘である蓋然性は非常に高いとは私も考えています。しかし、繰り返しになりますが、奇選手の発言(旭日旗云々)が真実か、嘘だったかを投稿者が判定して記述することは、「独自研究になります。「解釈」が正当であるかどうかではありません。「解釈」をすること自体が問題なのです。

たとえそれが「大多数」の支持を集めることであっても、出典にない結論を用いる姿勢はwikipediaでは特に厳しくいましめられているところです。さらにWikipedia:存命人物の伝記では、「存命人物の伝記において、もし間違っていたら中傷となりうる断定・決めつけは情報源の裏づけが必要です。」という観点からその記述には特に慎重さが求められます。「嘘」という強い言葉ならなおさらです。

奇選手の言動が嘘だと確信を持った人にとっては、これらのことは屁理屈にしか聞こえないでしょう。しかし多くの人は、みな自分の見解が自明であると考えています。スマイリーキクチ中傷被害事件の加害者たちもそうだったといえるでしょう。100人いれば、100の立場があります。持っている資料や問題さにかける熱心さもそれぞれです。自分で出典を解釈して記述することを許容するのであれば、別の解釈をした人と、そのような真実を求める議論を行わなくてはなりません。基本的に、wikipediaは議論の場ではありませんし、現実ですら決着がついていないことをより限られたコミュニティで話し合っても、「真実」など明らかにならないでしょう。さらに、こうした結論が出たとしても「○○という出典を元にした利用者××の見解」でしかありません。 wikipediaの方針が『「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」』(Wikipedia:検証可能性)という立場をとっているのはこのあたりもあるのではないかと私は考えています。

だらだら書きやがって、とお怒りかも知れません。しかし、Wikipedia:独自研究は載せないはwikipediaの三大方針の一つであり、それだけ重いものです。活動を続けられるのであれば必ず理解していただかなければならない点です。私の意見など聞くに値しないと思われましたら、井戸端や各所でご意見をお聞きください。--Sube会話2015年6月19日 (金) 15:56 (UTC)[返信]

基本的に間違っています。そのサッカー選手の2つの発言は互いに背反する事象です。一方を真実とするのであれば他方は虚偽となります。二つとも虚偽ということも勿論ありえますが、そのサッカー選手は一つ目の発言を撤回し、二つ目の発言を行ったと出典にあるのですから出典に即すのであれば、一つ目の発言が虚偽であったということになります。これは解釈云々によって左右される結論ではありません。この程度の自明な論理的帰結に基づく要約も許されないのであれば、Wikipediaではいかなる出典要約も許されないということになるでしょう。「嘘をついた」という記述が百科事典になじんだ穏当な表現であるか否かという観点でみれば、別の意見もありますが、少なくともこれをもって「出典にないことを書く」と指摘するのは虚偽指摘となります。--IP58xv会話2015年6月20日 (土) 02:59 (UTC)[返信]
コメント Wikipedia:独自研究は載せないについて、Subeさんの説明ではご理解いただけない様ですが、Wikipedia:井戸端で質問をしてより多くの方の説明をお聞きいただければ、きっとご理解いただけると思います。大変お手数ですが、こちらの議論(Wikipedia‐ノート:投稿ブロック依頼/Seisato#転記2Wikipedia‐ノート:投稿ブロック依頼/Seisato#旭日旗における「虚偽の指摘」という発言について)を井戸端で示して独自研究について説明を求めてください。井戸端ではIP58xvさんの見解が正しいという意見もあるかもしれません。その時は私やSubeさん、他の編集者の方もきっと認識を改めるでしょう。よろしくお願いします。--Zakinco会話2015年6月22日 (月) 03:13 (UTC)[返信]
あなたがそう思うのであれば、その根拠をここに書けばよろしいのでは。あなたにしても青鬼よしさんにしても無根拠にそのように決めつけで主張をされるのには強い違和感を感じます。わたしとしては既に虚偽は立証されていると考えるので、今のところ、有意な反論がなければ何かをする必要性をまったく感じません。根拠を説明できなくともわたしの見解を違うと感じ、他者に頼んででも(或いは、数に頼んででも)反論したいと考えるのであれば何かをすべきはあなた方の方でしょう。--IP58xv会話) 2015年6月22日 (月) 04:03 (UTC)一部訂正--IP58xv会話2015年6月22日 (月) 11:20 (UTC)[返信]
被依頼者のSeisatoさんが行ってきたWikipediaの慣習(方針の解釈でしょうか)とは違った編集について、多くの編集者に問題だと指摘されている場で、その編集を認めるべきだとIP58xvさんは主張されているわけで、Seisatoさんの編集はWikipediaの信頼性を高める編集だから認めるべきだということをコミュニティに対して分かりやすく説明して理解者を一人でも増やす必要があるのはIP58xvさんとSeisatoさん(あと、パン粉とパン粉さんかな?)です。ですので、議論の場を広げて理解者を得てくださいと私は言っています。--Zakinco会話2015年6月25日 (木) 13:02 (UTC)[返信]
主観を確定的事実として決めつけて述べるのはお止めください。「被依頼者のSeisatoさんが行ってきたWikipediaの慣習(方針の解釈でしょうか)とは違った編集」はあなたが思っていることに過ぎませんし、「多くの編集者に問題だと指摘されている」というのも言い過ぎです(今現在ですと二桁にも満たない程度)。また、「その編集を認めるべきだとIP58xvさんは主張されているわけで」というようなことはありません。ここには何故か事実関係や他人の主張を勝手に(恣意的に)取り違え、確定的に述べる人が多いようですが、そのような印象操作は慎んでください。それとわたしが何を行うかはわたしが判断することです。あなたが判断することではありません。--IP58xv会話2015年6月25日 (木) 15:06 (UTC)[返信]
「主観を確定的事実として決めつけて述べるのはお止めください」とのことですが、Subeさんが指摘しておられるのはまさにあなたのそのような編集方針です。Wikipediaに多大な貢献をされている方々の意見が常に正しいとは言いませんが、そのような編集に反対しておられる方やブロックに賛成の方の会話ページ、編集履歴を見てもなおそのようなことを仰られているのだとしたら、私のような末端編集者からはここではもう何も言うことはありません。--Zakinco会話2015年6月25日 (木) 20:01 (UTC)[返信]
「主観を確定的事実として決めつけ」る行為は、明々白々に、あきらかに、この上もなく、誤謬であり、誤った行為です。そのような誤謬を主張して憚らないというのであれば、あなたの編集姿勢にこそ問題ありということとなります。またSubeさんがわたしのこのような編集方針を一体全体どこで指摘しているというのでしょうか。嘘八百を述べるのも大概にしなさい。
「Wikipediaに多大な貢献をされている方々」とは一体全体どなたを指しているのでしょうか?賛成者がすべてそのように尊敬されるべき方々であり、反対者はそうではないと言っているのでしょうか?つまり、当ブロック依頼にて反対票を投じるのは悪であり、許されない行為であると主張しているのでしょうか?
いかに多大な貢献をされている方であってもWikipediaでの行動指針はひとつ、それはルールに従うことであるはずです。虚偽の指摘事由により他の参加者を排斥するようなことは許されないということです。
あなたの発言はほとんど印象操作に始まり、印象操作に終わっています。換言すればレッテル貼りであり、個人攻撃です。議論の趣旨に従い論理的な会話を行わず、そのような印象操作に終始するようなことを継続するあなたの行為は極めて問題であると思います。--IP58xv会話2015年6月26日 (金) 05:46 (UTC)[返信]
誰がその様な事を言っているのか。というか、ブーメランではなかろうか。貴殿のほうが立場を入れ替えて同様の事をしているように見られているのではないか?貴殿の意図するところではないかもしれないが。--240F:65:BD61:1:B9C8:4EC4:647F:2EF2 2015年6月29日 (月) 00:57 (UTC)[返信]
>誰がその様な事を言っているのか。
Zakincoさんです。
この節におけるSubeさんのこの発言[11]、それに対するわたしの発言[12]までは、被依頼者の行為に関する具体的な事例、根拠を述べての会話です。それに続くZakincoさんの発言[13]は、そのような具体的な根拠を欠いた発言であることに気が付かれますでしょうか?先立つ発言でわたしが独自研究ではないと具体的な根拠を挙げつつ述べているにも関わらずこの発言では根拠を一切述べることなく、被依頼者の行為を独自研究であると決めつけ、「Wikipedia:独自研究は載せないについて、Subeさんの説明ではご理解いただけない」と述べています。それに対してわたしがこちら[14]で決めつけで書かないでくれ、そう思うのであれば根拠を挙げてくてと発言していますが、それに対するZakincoさんの発言[15]は尚も具体的な根拠を欠いた上で被依頼者の行為を「Wikipediaの慣習とは違った編集」と決めつけた上で更には「多くの編集者に問題だと指摘されている」とミスリードを誘うものでした。それに対しわたしはこちら[16]で「主観を確定的事実として決めつけて述べるのはお止めください」と述べ、そのような行為は印象操作に過ぎないと述べていますが、それに対するZakincoさん発言[17]は更に無根拠に「「主観を確定的事実として決めつけて述べるのはお止めください」とのことですが、Subeさんが指摘しておられるのはまさにあなたのそのような編集方針です。Wikipediaに多大な貢献をされている方々の意見が常に正しいとは言いませんが、そのような編集に反対しておられる方やブロックに賛成の方の会話ページ、編集履歴を見てもなおそのようなことを仰られている」と続けます。この一連のZakincoさんの発言では一切根拠が挙げられておりませんが、その一方で、数々の象徴的な文言(「Wikipedia:独自研究は載せないについて、Subeさんの説明ではご理解いただけない」、「Wikipediaの慣習とは違った編集」、「多くの編集者に問題だと指摘されている」などなど)を使用して被依頼者やわたしの編集方針を悪しきものと断じて発言し続けている訳です。こうした象徴的な文言というのは得てしてひとり歩きしやすいものでそのまま言われた側の瑕疵として無批判に引用され得るものです(現に、当依頼においても被依頼者の議論相手による「出典にないことを書く」といった事実と異なる発言は無批判にブロック事由の一つとして挙げられており(Wikipedia‐ノート:投稿ブロック依頼/Seisato#転記2、および、本節冒頭の2発言参照のこと)、そのことを論じているのが、まさに本議論)。根拠を挙げてくれ、論理的に話してくれとのわたしの要求にも関わらず、無根拠にZakincoさんがこのように象徴的な文言を用いて批判をされ続けるのには理由があるからと解する他ありません。すなわち、象徴的な文言を用いた批判を行うこと自体が目的であると解釈する他ありません。したがって、わたしはそのような行為を評して印象操作であるとしているのです。それに続くわたしの発言[18]では先立つZakincoさんの発言がわかりにくいこともあり、今読むと一部論旨の取り違えがあるようにもみえますが、Zakincoさんが行っている一連の行為は印象操作以上のものではないという結論は同じです。もしあなたがZakincoさんが述べられていない根拠を見出した上で、その根拠を述べた上で批判をされるというのであれば、どうぞ述べてください。その際にはIPではなく、お使いのアカウントを使用されても問題ありません。あなたが述べるところが正論であるならばわたしはあなたの見解を尊重する所存です。--IP58xv会話) 2015年6月29日 (月) 03:00 (UTC)引用部を斜体に--IP58xv会話2015年6月29日 (月) 03:12 (UTC)[返信]

各位へのおしらせ

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続きはよそでやれば?--ikedat76会話2015年6月19日 (金) 17:15 (UTC)[返信]

自身が述べた見解に対する質問への回答を回避し、そのような態度に出られるのが潔いことだとは思いません。--IP58xv会話2015年6月20日 (土) 03:21 (UTC)[返信]

Takabegさんのコメント

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Wikipedia:投稿ブロック依頼/Seisato 2015年7月5日 (日) 13:41 (UTC) の版より転記--ikedat76会話2015年7月16日 (木) 08:29 (UTC)[返信]

助け舟を出すつもりで老婆心ながらコメントさせていただいたのですが、Subeさんが「ノートページは「記事」について議論するための場であり、、、、記事を改善するための議論から脱線しないように注意しましょう」というのをご存じなかったのでしょうか、残念な御返答をいただき少し悲しくなりました。これについてはSeisatoさんのこのコメントにあるものと類似してしまうのですが「頑固で困ったなぁ」という感じを受けてしまいました。Wikipedia:善意にとるWikipedia:礼儀を忘れないをもう一度お読みいただければ幸いです。そもそもこのコメントの最後の一文「なお、本格的な議論はSeisatoさんのブロック問題が解決して以降となります。これらの問題についてはコメント依頼、ブロック依頼を参照してください」に危惧を抱いてこの頁に来たのですが、先ほどのコメントにはには落胆させられました。Subeさんはここで「反対」の意思表示し、その後、Seisatoさんのこのコメントが書かれた6月10日の時点で撤回されていませんよね。この場合、「2ヶ月以上」どころではなく「今現在」でも「反対者である」と認識されてしまっても仕方がないのではありませんか? 「合意形成の主たる(しかし唯一ではない)方法は、編集と議論であり、投票ではありません。。。。。」「投票は怒りを生み、怒りは憎しみを生み、そして憎しみは苦しみを生む。」などをお読みになったことはありませんか? 後者は、日本語版ではまだ正式採用されていないようですが示唆に富んだガイドラインだと思います。もちろん2対1とか3:1とかと言っているSeisatoさんも、この辺りをご存じなかったわけですし、日本語ウィキペディアでは何故かあちこちで投票スタイルで物事が進行していてびっくりしているのですが。。。第三者の私から見ると、議論ではSeisatoさんはかなり歩み寄っている、歩み寄ろうとしていた (いる)ように見えます。おそらく他の利用者からの指摘もあってSeisatoさんも自身とSubeさんの意見が近寄ってきたと認識したのでしょう、それで昨日 (7月4日)コメントされているようです。そのコメントに対してSubeさんのこれは「ちょっとないなぁ」と思います。Wikipedia:ノートページのガイドラインComment on content, not on the contributor: Keep the discussions focused upon the topic of the talk page, rather than on the personalities of the editors contributing to the talk page. (日本語版でどこに書かれているのか見つけられませんでしたが、これが度を過ぎると個人攻撃となります)はウィキペディアのような空間で円滑かつ建設的な議論をする上で非常に大切です。ノート:ドイツによるナチス・ドイツを原因とする賠償でのコメント (特に後ろの方)を読んでいると、下手をするとSubeさんのほうがWP:IDIDNTHEARTHATと認識されてしまう危険性もでてくるのではないかと危惧してしまいます。また、SeisatoさんとSubeさんの投稿頻度を比較するとSubeさんのほうが時間的に余裕があるように見受けました。Seisatoさんももう少し時間をさくことが可能であれば、長いコメントを読むこともできたでしょうから、「2週間対話拒否」などと主張されてしまうこともなかったと思います。それとToo long; didn't readをご存知でしょうか?日本語ウィキペディアには翻訳されていないようですが、ウィキペディアに限らず一般的に通用するものだと思います。まぁ、私自身も他人様のことをとやかく言えませんが、実際に「長すぎて読んでもらえない」ことは多々あります。英語版ではこれの「信奉者」が結構おりまして、「長すぎるから読まれなくて当然だ」という共通理解が存在しています。それはそれで行き過ぎのような気もします。どの利用者もボランティアでタダで貴重な時間をさいてここに来てくれていて、それぞれウィキペディアにさける時間も違います。ですから、他の利用者のペースも考慮に入れていただければいいと存じます。なお、Subeさんにおかれましては、勉強熱心で真面目な人だという印象を持っていますので (利用者:Sube/sandboxでやったほうがいいような気がしますが)、議論の方法を習得されて素晴らしい利用者になるのを期待しております。Too long; didn't readになってしまったようです。Takabeg会話2015年7月5日 (日) 13:41 (UTC)[返信]