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Wikipedia‐ノート:削除依頼/Wikipedia:独自研究は載せない

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  • (削除)追伸です。とはいっても、Doripokeさんのから、一言あるとは思えないこと。また、過去ログにまでいたって、気にされるDoripokeさんの心境、とあまり皆様が時間をかけてかかわるような案件でもないので、皆様のご足労に申し訳ないという、気持ちもあります。しかし、何でこの過去ログにこだわったのか、気になるところでもあります。史実を知りたくかかわるなら理解できますが、他人の先祖のことなどどうでもいいのが、普通ですよね。?--喜連川一色家 2007年5月19日 (土) 16:18 (UTC)[返信]
  • (コメント)明らかに不適切な場所でのコメントなのですが、「一言」ということですので、コメントします。
  1. なぜ喜連川一色家氏の勤務先のサイトを知りえたのか。
    初版からリンクされていた、喜連川一色家氏のページのアドレスを、ただ単に削っただけです。なお、googleで「喜連川騒動」を検索すると、この勤務先がヒットします。[1]ご自分の個人ページではなく、勤務先のサイトの配下にあり、トップページからリンクされているサイトですので、いわゆる「秘密の暴露」には当たらないと考えます。
  2. 私(利用者:Doripoke)は何とか家の子孫なのか。
    私の家は先祖代々農家だと聞き及んでいます。何とか家の御落胤の子孫だとかいうこともないと思います。(出自が喜連川と全然関係ない)
  3. この記事(喜連川騒動)に削除依頼を出したのはなぜか。
    既に何らかの形で発表された論文等に依拠しない、喜連川一色家氏の独自研究と判断したこと、また、喜連川一色家氏個人のページへの誘導が目的であると考えたことから、「独自研究および宣伝」と判断し、削除依頼を提出しました。詳しくはWikipedia:削除依頼/喜連川騒動をご覧ください。
  4. 他人の先祖のことなどどうでもいいのが、普通ですよね?」(喜連川一色家氏の発言による)
    はい、どうでもいいです。ただし、それがWikipedia上で独自研究として展開されていない限りは
  • 最後になりますが、この場を借りて、利用者:喜連川一色家氏にお聞きしたいことがあります。よろしければお答えいただけると幸いです。
    喜連川騒動の記事中の記述(喜連川騒動は、一色家の陰謀ではなく、高塩家、高野家によるものであり、喜連川町史の記述は、それら一族の末裔によって歪曲されている)は、なにか歴史学者の論文や研究者による学会発表を依拠としたものではなく、喜連川一色家氏がさまざまな資料を収集し、それらの記述から新たな事実を見つけ出した、喜連川一色家氏のオリジナルの研究の成果ですか?
    以上、よろしくお願いします。--Doripoke 2007年5月19日 (土) 17:34 (UTC)[返信]
  • 先に記述した、私のコメントの通りです。具体的なことの公表は、ネット上では法律違反になりかねないということです。しかし、調査にいたっては、当家も大正まで、喜連川町民であり、古い家の方などからの情報収集は容易でした。また、現喜連川町史編纂委員会の方々においても誠実な対応をしていただいております。もっとも、故人のことですから公にするよりも、一人歩きしてる同誌の記述をいかにして、世論において正しく置き換えるか?がテーマと考えております。基は「高塩家」文書でこれに、さらに、悪意か善意による子孫の思い込みがあり、捏造とは言わないまでも歪曲の結果をもたらした。当然、「一代家老」となった3名の家老以後、長く幕末に至るまで、国老「二階堂」政権下のものでもある点もおさえてあり、そういった上では、同文書は善意であったと判断しております。--喜連川一色家 2007年5月19日 (土) 18:15 (UTC)[返信]
    • (コメント)お答えいただいて恐縮なのですが、では、喜連川一色家さんのオリジナルの研究ということでしょうか?よろしくお願いします。--Doripoke 2007年5月19日 (土) 18:20 (UTC)[返信]
  • Wikipediaへの「喜連川騒動」の投稿本文については、あくまでも、全て、すでに存在する公式文献からの紹介でしかありません。そして、実際に江戸幕府により「喜連川騒動」の評定は江戸で行われた訳ですから、「事件当時の江戸の文献(徳川実紀をも含む)」と「旧喜連川町の発刊した明治時代と昭和の2つの文献」の事件評定結果を紹介投稿してるわけです。しかし結果として、だれが読んでも、「江戸時代における事件当時の江戸の文献」と「旧喜連川町」の文献には矛盾があることは明白な形の投稿本文となります。これは、私の個人研究により、矛盾が発生しているわけではありません。あくまで、現在の関係文献を江戸と喜連川にわけて、紹介すると起きてしまう現象なのです。そこで、この件にきょみのある方は、喜連川騒動を個々で調査するでしょうし、また、「そうゆうものなのだ」と考える人もいるでしょう。そして、きよみのある人なら、Wikipedia以外のサイトの検索を「喜連川騒動」をKEYとしてするでしょう。そして、私の個人研究ページなどにたどりつけば、多くを知っていただくことになり、この矛盾の種明かしの一つとなればよいのかな?といったスタンスです。
  • ですから、この矛盾の事実を、絶対に公開されては困る方は、当然、「必死にWikipediaに現在投稿している、投稿者(私)の考えを含まない「喜連川騒動」の記述内容」でさえも、いかなる方法を使おうとも、「削除」したいと考える方の存在は当然なのです。(現さくら市「喜連川町史」編纂委員会は別です、私の調査にご協力いただいております)よって、この投稿テーマ自体が、「勝ち負けの存在する事件」ですから、このようにもめ、Wikipediaのコミュニティーの皆さんの手を煩わせてしまうことに至ってしまうことは、いたしかたないことと考えております。--喜連川一色家 2007年5月20日 (日) 10:10 (UTC)[返信]
  • 2007年5月23日 (水) 18:34 (UTC)現在の喜連川騒動の記事には、喜連川一色家氏の個人的な考えが含まれています。以下の通りです。
  1. 「事件の経緯」部分における「帰参事実は確認できない」のくだり
    ・「確認できない」は個人の感想であって、それを排除するなら「『喜連川町誌』には書かれていない」となるはず。
  2. 「江戸での文献と記録」部分における「この綱文によると、幕府は喜連川騒動の判決として、藩主3代喜連川尊信に隠居を命じ、事件を直訴した高野四郎左衛門等を大嶋に流したことになる。『喜連川町史』『喜連川町誌』には上記綱文の「高(こうの)四郎左衛門」の名はないが、高野修理にあたると思われる。」「喜連川尊信が病に伏せったので、老臣が手配し松平忠次の家医である関ト養に治療をさせた」 のくだり
    ・綱文には、藩主の隠居理由が、喜連川騒動の判決とは書かれていない。
    ・高四郎左衛門と高野修理が同一人物であると思っているのは、個人的な感想。
    ・徳川実紀は江戸幕府の公式文書なのに、現代仮名遣い、口語文法によって書かれている。口語訳かと思われるが、「~と記録されている」と書くからには、原文を載せる必要がある。
  3. 「江戸での文献と記録」で提示された史料を、喜連川騒動に関わるものと断定している
    ・綱文の結末は、「殿様が隠居させられ、高なにがし等が島流しにされた」となっているだけで、それが(町誌説、一色家説のどちらを取るにしても)喜連川騒動の結果であることは明示されていない。(「相訴ふ」の内容が明示的でないため)
    ・実紀においても、具体的な病気の様子が書かれていないため、狂疾である(町誌説…一色の偽り、一色家説…藩主は精神に異常をきたしていた)と断定できない。
実際のところ、先ほどからずっと回答をお願いしている質問に関わる部分です。どうぞ、速やかにノート:高氏師の質問にすべてお答え下さいますよう、よろしくお願いいたします。--Doripoke 2007年5月23日 (水) 18:34 (UTC)[返信]
  • 「高氏師」の件は、すでに回答すみです。また、この、「高氏師」は、だれかの「削除依頼」によって、削除されていたが、その件に関しては、私の「会話ノート」を見ていただければ、私が納得したことは、皆様に確認いただけるかと思います。それを、どうゆう経緯で復活となったかは、まったく不明です。管理者の方の判断なのか、だれかの復活依頼があったものと思われます。よって、Doripokeさんより、私の会話ページに連絡があるまで、いくらDoripokeさんが「高氏師」のノートに質問のコメントを入れられようと、私に連絡があるまで知ることは、難しいところです。
また、現投稿文「喜連川騒動」の記述、「江戸での文献」ですが、Doripokeさんにより、
多くの「参考文献の削除」、
「寛政重修諸家譜による、脚注記述の削除」、
『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」及び「年表」に記述された人物関係と、江戸の文献に記述された人物関係の「整合性」と「信憑性」を示す記述の削除
など、多くの修正投稿がなされており、現在「削除依頼」にて、多くの皆様が、賢明は判断を下すべく、現「喜連川騒動」の投稿記述を参考にしているわけですが、これにも支障をきたしております。少々このへんのことにも、お気使いいただく行動をとっていただけませんでしょうか?お願いいたします。
そして、江戸の記述には、喜連川騒動のことであるとは、書いてない。ですが、「江戸での文献記述」には、全て記述した年月日が付記されております。「喜連川騒動の顛末」の高野修理等の行動記述、年月などは、この江戸の文献の記述とは、「合致」するものです。
だれが、読んでも理解できることは、それが、喜連川騒動の記述であると判断できることです。
高野修理と高四郎左衛門の関連性ですが、これも特に記述に至らなくても、だれだも判断できることですので、削除してもかまわないと思っております。
ただ、現在、「削除依頼」の討議中であるので、「喜連川騒動」の投稿本文に手を加えることは、正しくないとの判断からです。ですから、上記のDoripokeさんによる、編集は控えていただきたいのです。ご理解いただけることを願います。
また、私の記述した文章(LOG)から、都合のよいところを抜きだし、第三者に、提示し私を悪者に見せかける行為はやめていただきたいのです。これまで、Doripokeさんと論議してきた中で、私からDoripokeさんに対して、そのような行為をすることは、なかったかと思います。
皆様は、お忙しい方々ばかりですので、すべてのLOGまで検証しる時間はないのですから、皆様が偏った情報で判断する流れとなることは、いたしかたないことと理解しております。
しかしながら、私が「感情的」になり、Doripokeさんの過去ログや会話などから、同じような行為をすることは、それこそWikipediaに参加する多くの方々や管理者の方々のご迷惑となり、混乱を起こすことになります。今後とも私のこの方針は変わりませんので、この点もご理解いただければと思います。「主観的」「感情的」コメントには、返答しないこともご理解ください。
Doripokeさんが、文調を和らげ、誠実にコメントをだしておられると判断できれば、当然、回答はしているはずです。今後とも、同じWikipediaに参加する仲間として、ことを荒立てることのない会話をしていただきたいのです。かくいう、私の方も、インターネット上の会話であり、顔や表情が確認できないことですので、誤解を受ける表現があったのかもしれません。会話の記述には、気をはらいたいと思います。--喜連川一色家 2007年5月25日 (金) 11:44 (UTC)[返信]
  • 高野修理と高四郎左衛門の関連性についてですが、むしろ喜連川一色家氏がWikipedia‐ノート:削除依頼/喜連川騒動 20070520で提示した史料(足利国朝公が喜連川に移った時従った家臣達)によると「高野修理」と「鴻野修理」の方が役職・家名ともに酷似している(どちらも「こうのしゅりorしゅうり」と読むことができる)と考えることもできますが、それでも高野修理と高四郎左衛門は同一人物であると「判断できる」ということでしょうか。
    また同ページには「高修理頭」から「高野修理」と改名したことも、一つの考察であります。と書かれていますので、これもやっぱり喜連川一色家氏の独自研究(出典無し)と認められますが、いかがでしょうか。--Doripoke 2007年5月25日 (金) 11:58 (UTC)[返信]