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Template‐ノート:藤原氏の他氏排斥

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ページ名プレフィックス

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すみません。題名に「Template:」をつけるのを忘れてしまったので、どなたか名前を変更できる方、「Template:」をつけていただけませんか? --61.215.52.54 2016年6月1日 (水) 15:18 (UTC)[返信]

移動しました。--K-iczn会話2016年6月1日 (水) 16:30 (UTC)[返信]

ありがとうございます。--61.215.52.54 2016年6月2日 (木) 14:54 (UTC)[返信]

宇佐八幡宮神託事件について

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宇佐八幡宮神託事件のページには、藤原氏が政権復帰を果たすために白壁王を擁立した、という趣旨の記述があります。当時は道鏡が政権を握っていたわけで、藤原氏が政権復帰をするということは、道鏡を排斥するということです。そして、事実称徳天皇の死後白壁王は光仁天皇として即位し、藤原永手・藤原百川が政権を握っています。ですから、道鏡の失脚は藤原氏の他氏排斥に当たります。7月中に反対意見がなければ変更します。--180.43.6.159 2016年7月20日 (水) 03:21 (UTC)[返信]

反対意見がなかったので変更します。--180.43.6.159 2016年8月1日 (月) 22:46 (UTC)[返信]

コミュニティに対して十分な告知が行われる場合のみ、沈黙を同意とみなすことができます(WP:CONLEVEL)
十分な告知を行わない独善的な【議論を提起して合意が形成されたフリ】を容認することはできません。
宇佐八幡信託事件(769)と孝謙女帝崩御に伴う道鏡の排除(770年)は同一のものではありません。そもそも事件の決着は「道鏡に皇位を継がせない」「神託を否定した和気清麻呂らの流罪」であり、道鏡がこの事件をもって排斥されているわけではありません。宇佐八幡宮神託事件のページを誤読しているか、意図的に曲解したのかいずれかです。

--彩華1226会話2016年8月3日 (水) 15:26 (UTC)[返信]

「コミュニティに対して十分な告知が行われる場合」とおっしゃいますが、ノートでの告知はその「場合」に含まれるはずです。なぜならノートは「主ページがどうあるべきか」を話し合う場だからです。また、仮に含まれないとしても、ほかに一般大衆に向けて告知をする場がありませんのでそれは無理な相談と言うものでしょう。

また、「そもそも事件の決着は「道鏡に皇位を継がせない」「神託を否定した和気清麻呂らの流罪」であり」の証拠をお見せください。少なくとも、宇佐八幡宮神託事件のページには「自身を天皇としたい道鏡とそれに反発した藤原氏の対立」が記されており、「道鏡に皇位を継がせない」と言う決定がなされた限り、藤原氏が台頭し道鏡が失脚したといえます。実際に、道鏡が下野薬師寺の別当に就任したときも、『続日本紀』には「皇位をうかがった」ことが理由とされています。--180.43.6.159 2016年8月4日 (木) 00:03 (UTC)[返信]

この議論を再会した方が議論を放棄しており、また少なくとも「藤原氏が道鏡を排除した」ことは認めておられますので、とりあえず「道鏡の排除」については載せようと思います。

ただ、道鏡の排除は宇佐八幡宮神託事件が原因か否かは解決しておりませんので、次の項目で議論しようと思います。

道鏡左遷⊂宇佐八幡宮神託事件か否か

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道鏡左遷の原因が宇佐八幡宮神託事件であることは、『日本書紀』に記述されていることです。確かに、道鏡が左遷された年と宇佐八幡宮神託事件が起きた年は違いますから、別の物のしたくなるのはわかりますが、ほかの事件と比べてもまったく同じです。たとえば承和の変では

「橘逸勢・伴健岑らに恒定親王擁立の嫌疑」があったから「失脚した」

のであって、道鏡左遷のときも

「道鏡に皇位簒奪の嫌疑」があったから「失脚した」

のです。

事実として残っているのはこれのみで、これを後世の人が一言で表すために「承和の変」や「宇佐八幡宮神託事件」という名をつけたのです。ですから、一方は「失脚したこととその理由」がひとつの事件としてまとめられており、また一方は「理由だけでひとつの事件」「失脚した内容がひとつの事件」となっているはずはなく、ですから、道鏡左遷は宇佐八幡宮神託事件の一部なのです。

なお、八月中に反対意見がありませんでしたら、「道鏡左遷」を「宇佐八幡宮神託事件」に変更します--180.43.6.159 2016年8月12日 (金) 00:35 (UTC)[返信]

コメント 道鏡左遷⊂宇佐八幡宮神託事件かどうかは微妙なところだと思います。学説的にも「道鏡に皇位簒奪の嫌疑」があったかどうかも意見が分かれるようです。とりあえず、外部の文献で宇佐八幡宮神託事件に道鏡失脚が含まれている(含むものとして記述している)かどうかを調べてみてはいかがでしょうか。古い本ですが、道鏡の伝記には横田健一先生の人物叢書『道鏡』(吉川弘文館、1959年)がありますし、比較的新しい通史(例えば、坂上康俊氏の『平城京の時代 シリーズ日本古代史 4』(岩波新書、2011年))でも道鏡事件は扱われているかと思います。--伊佐坂安物会話2016年8月16日 (火) 14:53 (UTC)[返信]

とりあえず調べてみます。しかし意見が分かれているのは、「実際に道鏡が皇位を簒奪しようとしたのか」であり、それが事実かどうかはあまり関係なく、道鏡左遷の原因は「道鏡に皇位簒奪の嫌疑」であることには変わりありません(仮に事実でなければ讒言ということになります)。さきほどの承和の変の例で言えば、恒定親王は皇太子ですのでわざわざ擁立しなくても天皇になれるわけです。だから二人が実際に擁立したわけではないと言っている人もいますが、あくまで左遷された原因は「恒定親王擁立の嫌疑」です。その真偽にかかわらずです。--180.43.6.159 2016年8月20日 (土) 22:32 (UTC)[返信]

コメント 道鏡のことが記されているのは『日本書紀』ではなく『続日本紀』ですが、『続日本紀』であるにしても果たして「道鏡左遷の原因が宇佐八幡宮神託事件である」と記述されているのでしょうか。提案者様が「道鏡左遷の原因が宇佐八幡宮神託事件であることは、『日本書紀』に記述されている」と発言される典拠を求めます。--Saigen Jiro会話2016年8月21日 (日) 12:29 (UTC)[返信]
(追記) そもそも論ですが、「道鏡失脚後に藤原氏が台頭した」から「藤原氏が道鏡を排斥した」という論理は成立しません。また、道鏡左遷は「白壁王による排斥」であって、それを白壁王の支持勢力の1つである「藤原氏による排斥」と明言するのは強引に過ぎると考えます。本案件(道鏡左遷)が藤原氏による排斥の例としてどこかの文献に挙げられているならば別ですが、そうでなければそもそも本テンプレートには入れるべきではないと考えます。--Saigen Jiro会話2016年8月21日 (日) 13:02 (UTC)[返信]

議論の参考とするために、『続日本紀』の関連する記述を掲載しておきます。道鏡左遷の原因が「道鏡に皇位簒奪の嫌疑」であると『続日本紀』では記録されていることは提案者様の仰るとおりだと思います。しかし、下記史料に「陵土未乾。姦謀發覺」(先帝が崩御されてまもなく皇位簒奪の陰謀が発覚した)とあるように、道鏡失脚の原因となった皇位簒奪の疑いは称徳天皇の死後に生じたものであり、宇佐八幡宮神託事件とは無関係ではないでしょうか。

神護景雲4年8月庚戌条に「皇太子令旨。如聞。道鏡法師。竊挾舐粳之心。爲日久矣。陵土未乾。姦謀發覺。是則神祇所護。社稷攸祐。今顧先聖厚恩。不得依法入刑。故任造下野國藥師寺別當發遣。宜知之。即日。遣左大弁正四位下佐伯宿祢今毛人。彈正尹從四位下藤原朝臣楓麻呂。役令上道。」以從五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂爲多■嶋守。」 

宝亀2年12月己酉条に「道鏡自以寵愛隆渥。日夜僥倖非望。■于宮車晏駕。定策遂安社稷者。大臣(注:藤原永手のこと)之力居多焉。」

また、私の方でも論文を見てみました。手元に関連する論文集がないのでciniiにあるもののみですが。木本好信藤原永手について(2)」(『甲子園学園大学紀要』、2013年)では、「藤原氏を中心とする公卿たちは道鏡とは対立する傾向にあった」「白壁王擁立は藤原良継・蔵下麻呂、そして百川ら藤原式家が中心となって行われた。永手は太政官首班の左大臣として、そのことに関与した 」と述べています。これによれば、「道鏡失脚が藤原氏主導の下で行われた」と言えないこともないとは思います。文献を調べれば、そのように明確に記述しているものもあるかもしれません。

しかし、上記の論文も、道鏡の失脚の原因を宇佐八幡宮神託事件にあるとは捉えていません。むしろ、770年6月の称徳天皇の病状の悪化と、それに伴う藤原永手・吉備の軍事権掌握が、道鏡失脚につながったとしています(中川収氏の説に拠る)。以下、該当部分を引用。

神護景雲四年(宝亀元・770)六月、すでに二月から四月にかけて病気であった称徳はついに重篤となった。称徳には皇太子がおらず、皇嗣をめぐる権力闘争の激化も当然予想された。称徳は、これらの事情を考慮して、速やかで適切な軍事対応をとるために軍事権を委譲することを決心して、左大臣の永手に近衛・外衛・左右兵衛府の、右大臣の真備に中衛・左右衛士府の総轄を命じた。中川氏は、この段階から太政官は本来の機能を発揮しはじめ、道鏡が法王として総攬していても、称徳あっての法王であったから、その発言に権威がなくなったといわれる。
木本好信、「藤原永手について(2)」

よって、少なくとも「道鏡左遷⊂宇佐八幡宮神託事件」は成立しないと考えられます。もちろん他にそのように記述している文献があれば別なので、そのあたりは調査が必要です。

猶々、もし提案者様が当該期の政治史について記事を執筆なさるなら、上記論文の著者である木本好信氏の『奈良時代の政争と皇位継承』(吉川弘文館、2012年)はかなり参考になると思います。--伊佐坂安物会話) 2016年8月21日 (日) 15:38 (UTC)一部修正--伊佐坂安物会話) 2016年8月21日 (日) 15:47 (UTC)small>再度修正--伊佐坂安物会話2016年8月22日 (月) 04:47 (UTC)[返信]

コメント 「姦謀」は「皇位簒奪の陰謀」を意味するとする典拠はございますか。--Saigen Jiro会話2016年8月21日 (日) 15:52 (UTC)[返信]
コメント 瀧浪貞子『奈良朝の政変と道鏡』吉川弘文館2013年、p311、勝浦令子『孝謙・称徳天皇』ミネルヴァ書房、2014年、p216において、両者とも「姦謀」は「皇位簒奪の陰謀」であると解しています(また、講談社学術文庫の全訳『続日本記』によれば、その前の語句「竊挾舐粳之心」は「密かに皇位を狙う意思」だと解されるようです)。ただし、「皇位簒奪の陰謀」をどう捉えるかは両者に相違があるようです。瀧波氏は道鏡が称徳天皇の死後に皇位を狙ったという事実無根の嫌疑がかかったこと解釈しています。一方、勝浦氏は「姦謀」を宇佐八幡宮神託事件の「発覚」だとみなし、この時点で白壁王の勢力が宇佐八幡宮神託事件を皇位簒奪の陰謀だったと改めて位置づけたとみなしています。--伊佐坂安物会話2016年8月22日 (月) 04:47 (UTC)[返信]
文献提示に感謝申し上げます。内容承知しました。講談社学術文庫の方を私の方でも参照して納得いたしました。--Saigen Jiro会話2016年8月22日 (月) 05:12 (UTC)[返信]

Saigen Jiroさんへの返答です。まず、日本書紀と続日本紀の間違いについては申し訳ありませんでした。次に、「道鏡左遷の原因が宇佐八幡宮神託事件であることがしるされている」のは「皇位を簒奪した」をもってそのような解釈をしていたのですが、伊佐坂安物さんのおっしゃるとおり、確かに、「先帝が崩御されてまもなく皇位簒奪の陰謀が発覚した」とあるのは事実です。仮に、この先帝が崩御されてまもなく発覚した陰謀が宇佐八幡宮神託事件ではないのならば、その陰謀は宇佐八幡宮神託事件よりも前か後に起こっていることになります(発覚が崩御後なのだけで、陰謀画策の時期はしるされていないからです)。前に起こっているとするならば、より後の事件である宇佐八幡宮神託事件が直接の原因と考えられるので、この陰謀が左遷の原因になることはありません。後に起こっているとするならば、「道鏡には皇位を告がせない」という神託が出た後の画策ということになり、矛盾します。よって、背理法的にこの陰謀は宇佐八幡宮神託事件を示しているといえます。最後に、道鏡左遷を「白壁王による排斥」と判断して「藤原氏による排斥」ではないとするならば、などという風にあくまで左遷後の官位を任命したのは天皇ですし、実際に戦になった場合でも追討を命じるのは天皇ですから、全ての事件はそのときの天皇による排斥となってしまいます。重要なのはそういう形式的なものではなく、実際に排斥を画策して天皇を味方につけたのは藤原氏であるということです。

次に伊佐坂安物さんへの返答です。道鏡の皇位簒奪が宇佐八幡宮神託事件かどうかはSaigen Jiroさんへの返答の2番目に書いたように、道鏡の皇位簒奪≠宇佐八幡宮神託事件では説明がつかないので、道鏡の皇位簒奪=宇佐八幡宮神託事件です。また、あなたが示した論文のとおり、おそらく道鏡左遷の原因は「称徳天皇の病状の悪化と、それに伴う藤原永手・吉備の軍事権掌握」でしょう。しかし、藤原永手らが軍事権を掌握するときに使った口実が「道鏡に皇位簒奪の嫌疑」であることもたしかです。方広寺鐘銘事件と同じです。あの事件も一旦は梵鐘の文字を江戸方に提出して許可をもらってから作っています。だから本気であの文字にたいして怒った人など誰もいないのです。そして大坂攻めの口実として使った「方広寺鐘銘事件」は大坂の陣の原因ですよね。実際は豊臣家の力を恐れた家康が無理難題を吹っかけただけで、原因でもなんでもないとは言いませんよね。それと同じです。実際に宇佐八幡宮神託事件が原因で道鏡が失脚したかはどうでもよく、藤原永手らが軍事権を掌握するときに「道鏡は皇位簒奪をしようとしたから左遷したのだ」と言っているのですから、それでよいのです。なお、『続日本紀』の関連する記述を掲載していただいたことには感謝しています。--180.43.6.159 2016年8月21日 (日) 23:34 (UTC)[返信]

道鏡左遷後の8月23日に道鏡姦計の密告をもって坂上苅田麻呂に功が授けられていますから、はるか前の神託事件と結びつけるのは誤りでしょう。また、「実際に排斥を画策して天皇を味方につけたのは藤原氏である」と申されますが、光仁天皇・桓武天皇期は天智系に代わって天皇親政の性格が強いです。藤原氏主体と主張される根拠が明確でありません。議論しているのは「史書に明記されていること」でなく「史書から解釈されること」ですから、申されることが「貴方の解釈」ではなく「一般的な解釈」なのであれば、そう解釈している典拠(二次史料)を示されるべきです。少なくとも、『国史大辞典』(吉川弘文館)、『日本古代史大辞典』(大和書房)、『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館)、『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)の道鏡項には道鏡左遷の際の解説で理由は明記されていませんし、『日本古代史大辞典』の神託事件に関する項では道鏡の左遷まで広げて解説されていません(神託事件はその前に決着していると判断されているのでしょう)。--Saigen Jiro会話2016年8月22日 (月) 02:59 (UTC)[返信]
(追記)理由は明記されていないと申しましたが、以上のうち『日本古代氏族大辞典』には、道鏡左遷の経緯で令旨の内容が引用されていました。失礼。--Saigen Jiro会話2016年8月22日 (月) 13:43 (UTC)[返信]
180.43.6.159さんへのご返答)方広寺鐘銘事件は実は言いがかりでなかったという説(笠谷和比古氏)も有力ですが、それはさておき、「方広寺鐘銘事件」が大坂の陣の原因だとしても、豊臣家の滅亡⊂方広寺鐘銘事件とは多分なりませんよね? また(180.43.6.159さんは「「道鏡には皇位を告がせない」という神託が出た後の画策ということになり、矛盾します。」と仰っていますが、神託を無視して皇位を狙うことはできるわけで、背理法は成立しないのではないかと。それから、藤原永手らの軍事権掌握はあくまで称徳天皇存命中に行われたもので、その際に道鏡の皇位簒奪疑惑はおそらく持ちだされてはいません。いずれにせよ、Saigen Jiroさんの仰る通り、二次資料(概説書や研究書、論文)の提示が必要だと考えられます(WP:NOR#一次資料と二次資料)。--伊佐坂安物会話2016年8月22日 (月) 04:47 (UTC)[返信]

二次資料についてはもうしばらくお待ちください。ご迷惑をおかけしてすみません。ただ、貴族全員が道鏡左遷に反対していたら、いくら天皇親政の性格が強かったとしても左遷はできないはずです。藤原氏が天皇を支持したからこそ、天皇は左遷できたのです。ということは藤原氏の他氏排斥ということもできると思います。それと、豊臣家の滅亡⊂方広寺鐘銘事件とはなりませんが、豊臣家の滅亡⊂大坂の陣で、方広寺鐘銘事件⊂大坂の陣です。ここでの議論は、宇佐八幡宮神託事件が大坂の陣の扱いなのか、方広寺鐘銘事件の扱いなのかということです。また、「神託を無視して皇位を狙うことはできる」とおっしゃいましたが、画策と願望は違います。道鏡が一人で「天皇になりたい」と思うことはできるかもしれませんが、実際に天皇になる計画を立てるためには味方が必要です。「天皇にはしない」という神託が出ている道鏡に味方する貴族がいるほと、当時の神託は信じられていなかったのでしょうか?いたとするならば、神託を持って称徳天皇が「道鏡は天皇にしない」と宣言したりしません。称徳天皇が道鏡を天皇にしようとしていても、阻止しようとしても。天皇にしようとするならば、伊佐坂安物さんの仰るとおり無視すればよいし、阻止したければ、「道鏡を天皇にする」という神託が降りたときにもう一度清麻呂を派遣せずに同じく無視すればよかったのです。ですから、神託後の画策はありえません。

今出ている意見をまとめると

1.道鏡左遷自体藤原氏が関係していないから削除するべき
2.道鏡左遷は藤原氏による他氏排斥だが、宇佐八幡宮神託事件とは別のもの
3.道鏡左遷⊂宇佐八幡宮神託事件

の3つでよろしいでしょうか?--180.43.6.159 2016年8月23日 (火) 05:20 (UTC)[返信]

私の意見の何が考慮されたのかわかりませんが、私は2と3には全く賛同していません(2は読点以前)。ご返答内容でも何ら歴史学的な裏付けが示されていませんので、貴方様の二次史料の提示次第です。--Saigen Jiro会話2016年8月23日 (火) 06:15 (UTC)[返信]
1が私、2が伊佐坂安物さん、3がIPさんの意見を記していると気付きました。失礼。「意見をまとめると」でなく「意見を並べると」ですね。私が「削除するべき」と考えることに、現状では異存ありません。私的にまとめると、議題は「道鏡左遷 ⊂ 宇佐八幡神託事件」の妥当性と「道鏡左遷 ⊂ 藤原氏による他氏排斥」の妥当性の2つであって、
  1. 「道鏡左遷 ⊂ 宇佐八幡神託事件」について
    • 道鏡の皇位簒奪の意思 → 道鏡左遷:『続日本紀』により妥当(真相はさておき)。
    • 道鏡の皇位簒奪の意思 ⊃ 宇佐八幡神託事件:『続日本紀』により妥当(真相はさておき)。
    • 宇佐八幡神託事件 ⊃ 道鏡左遷(or 宇佐八幡神託事件 → 道鏡左遷):上の2式からは不成立。歴史学的裏付けとして二次史料提示の必要。
  2. 「道鏡左遷 ⊂ 藤原氏による他氏排斥」について
    • 白壁王・藤原氏・その他による運動 ⊃ 道鏡左遷:一般の歴史学的に妥当。
    • 藤原氏による運動 ⊃ 道鏡左遷:上の式からは不成立。藤原氏の主体性を主張するならば歴史学的裏付けとして二次史料提示の必要。
といったところでしょうか。独自研究(歴史学的裏付けを欠く個人的感想)は切り捨ててまとめています。「宇佐八幡神託事件 ⊂ 藤原氏による他氏排斥」は上の議題が片付いてから。--Saigen Jiro会話) 2016年8月23日 (火) 08:59 (UTC)(記号見直し)--Saigen Jiro会話2016年8月23日 (火) 09:09 (UTC)[返信]

日本語の表現については申し訳ありませんでした。Saigen Jiroさんがしめした二つの議題についてですが、

まず、1つ目の話は、伊佐坂安物さんに答えたように、宇佐八幡宮神託事件以外の道鏡の皇位簒奪の画策はありえないのです。そうではないと言われるのなら、まず前述の論理のどこが間違っているかをお示しください。そして、問題なのは、この議題の一番最初に書いたように、宇佐八幡宮神託事件が「道鏡が天皇になれなかった」までなのか、それとも「道鏡が左遷された」までなのかということです(Saigen Jiroさんが示した三番目の項目の「or」の前か後かという点です)。それについても、私がなぜ「道鏡が左遷された」までだと主張するのかを書いておきましたので、「道鏡が天皇になれなかった」までだというのなら、その主張の間違いを指摘してください。

つぎに、2つめの話は、誰も藤原氏の主体性なんて主張していませんよ。Saigen Jiroさんの言うとおり、主体は白壁王です。ただ藤原氏が関わっているから載せるべきだといっているだけです。--180.43.6.159 2016年8月23日 (火) 10:13 (UTC)[返信]

1つ目。「称徳天皇死後直後でも企んでいた皇位簒奪」をもって排斥されたという説を未だ排除できていませんから、宇佐八幡神託事件が道鏡による簒奪の意思の表象の1つという域を脱していません。8月22日 (UTC)に伊佐坂安物さんが瀧浪貞子氏の説として取り上げています。そのことから、現状の議論は「道鏡の皇位簒奪の意思 = 宇佐八幡神託事件」ではなく「道鏡の皇位簒奪の意思 ⊃ 宇佐八幡神託事件」と判断しました。「道鏡が天皇になれなかった」までというのは、宇佐八幡神託事件を項目とした百科事典や用語集で、道鏡左遷までが取り上げられていないことによります。『日本古代史大辞典』の例は先に示しました。
2つ目。関わっていたら何でもありですか? 本テンプレートは「藤原氏による排斥」ですから、「藤原氏」の貢献度(contribution)の如何が問題です。私はその「最大の貢献度を示した人ないし集団」をもって「主体」という表現をしていますが、サブをもって「◯◯による排斥」は誇張と判断しています。--Saigen Jiro会話2016年8月23日 (火) 10:43 (UTC)[返信]

画策と願望は違います。道鏡が一人で「天皇になりたい」と思うことはできるかもしれませんが、実際に天皇になる計画を立てるためには味方が必要です。「天皇にはしない」という神託が出ている道鏡に味方する貴族がいるほど、当時の神託は信じられていなかったのでしょうか?いたとするならば、神託を持って称徳天皇が「道鏡は天皇にしない」と宣言したりしません。称徳天皇が道鏡を天皇にしようとしていても、阻止しようとしても。天皇にしようとするならば、伊佐坂安物さんの仰るとおり無視すればよいし、阻止したければ、「道鏡を天皇にする」という神託が降りたときにもう一度清麻呂を派遣せずに同じく無視すればよかったのです。ですから、神託後の画策はありえません。

サブをもって「◯◯による排斥」は誇張といいますがね、逆に、藤原氏が白壁王の味方でなければ(藤原氏が道鏡側についていたら)、そう簡単に左遷はできませんよ。もちろん、親政を行っていたから左遷すること自体はできます。しかし、陽成天皇の宮中殺人事件のときに貴族たちから退位を迫られて退位しているように、天皇は独裁者ではありませんから、大きい味方がいない中で道鏡を左遷したら同じようになるだろうし、それはわからないとしても、白壁王自身がそれくらいは危惧するはずです。メインよりもサブのほうが重要、日本ではよくあることです。--180.43.6.159 2016年8月23日 (火) 11:08 (UTC)[返信]

長くなりますので箇条書きで。
  • 1段落目ですが、「瀧浪貞子氏の説」を否定するのは貴方様でなく、歴史学者・歴史学会の仕事です。後にも述べますが、私たちはこのWikipediaという場所で「Wikipedia編集者の思う解釈」を議論しているのではなく、「歴史学の解釈」を議論しています。学会で議論を交わす学者様の意見より貴方様の独自研究が優先される道理はありません。「瀧浪貞子氏の説」を否定する文献を提示して下さい。
  • 1段落目において、私の「道鏡左遷が宇佐八幡神託事件には含まれない」という意見に対するご返答が無いですが、了解されたものと承ります。百科事典は3次史料、すなわち2次史料の上位に立つものであり、歴史学会の議論で交わされる2次史料を俯瞰した、「編纂時点での歴史学会の定義」の近似解になります。もちろん文献によって内容は異なりますから、クロスチェックによって近似解を真の解に寄せていく作業が必要になりますが、少なくともこれまでの議論で他の出典の提示は無かったと認識します。
  • 2段落目ですが、貴方様は「小早川秀秋によって石田三成は関ヶ原の戦いで敗北した」と言いたげですね。「メインよりもサブのほうが重要」、それは「サブ」とは言いません。
  • 以下勢いで書きますが、Wikipediaは「現状の歴史学をなぞって近づけるもの」であって「歴史を作るもの」ではありません(Wikipedia:独自研究とか参照)。なので、地に足が着いた議論にするため、出典明記が原則として定められています(Wikipedia:出典を明記する参照)。重要なのは、ここに至るまで私や伊佐坂安物さんが出典提示の努力をして議論している一方で、IP様からは何ら出典が何も示されていない、という事実です(出していたらすみません)。ここは「Wikipedia編集者の思う藤原氏による他氏排斥」を議論する場ではありませんし、「Wikipedia編集者の思う論理が妥当か否か」を議論する場でもありません。歴史上の「AとB」をつなげるのは歴史学者の仕事であり、所々の空白は、空白は空白として次の学者の説を待たなければいけません。例えば、私のような一素人がその空白を埋めて記述しようとしているならば、それは歴史学に対する冒涜になってしまうと心得ます。いずれにせよ、出典を提示して頂いて、「私はこう思います」では無く「◯◯氏はこう主張されています」という地に足の着いた議論を望みます。
以上です。--Saigen Jiro会話2016年8月23日 (火) 11:52 (UTC)[返信]

確かに二次資料の提示はしていませんが、それは提示するつもりがないのではなく、謙譲で提示することが難しいだけです。もちろんそれで言い逃れができるとは思っていないので、近日中に提示するといっているし、現状で提示できていないことにたいしては何度も謝罪しています。また、「学会で議論を交わす学者様の意見より貴方様の独自研究が優先される道理はありません。」と仰いますが、「学会で議論を交わす学者様の意見」=「貴方様の独自研究」だったらどうするのですか(ちなみに歴史学者のなかには誰も「自分はプロだ」などと思っている人はいませんよ。みんな「素人だ」とおもっています。)?

それと「「メインよりもサブのほうが重要」、それは「サブ」とは言いません。」ということは、あなたのあげた関ヶ原の例では、小早川秀秋がメインということになりますよね。でも実際は違いますよね。あくまでもメインは石田三成や毛利輝元であって小早川秀秋ではありませんよね。では石田三成・毛利輝元と小早川秀秋は関ヶ原の勝敗を決する上でどちらが重要ですか?また、それをいうのなら、「藤原氏の他氏排斥」にあげられているほかの事件の中でも、薬子の変は「嵯峨天皇が平城上皇に皇位を狙われたから、冬嗣らを味方につけて倒した」わけですし、承和の変は「檀林皇后が自分の孫が立太子するのが見たくて良房に相談したこと」から始まりますし、応天門の変は「応天門放火の疑いをかけられた源信が良房に助けを求めた」ことから始まります。道鏡左遷を含めてこの4つ以外は藤原氏が排斥を画策し、あとで天皇を味方につけていますから、藤原氏が主体と見れますが、この四つに関しては、形式的なものではなく内容的な主体それぞれ光仁天皇・嵯峨天皇・檀林皇后・源信です(承和の変では、最終的に源信も排斥されましたが)。しかし、これらも「藤原氏の他氏排斥」として掲載されているのですから、道鏡左遷だけ特別扱いするのはおかしいと思います。

最後に、二次資料提示が遅れていることに対しては私の粗相によるものですが、決して提示する気がないわけではないので、申し訳ありませんが我慢していただけないでしょうか。よろしくお願いします。--180.43.6.159 2016年8月23日 (火) 22:50 (UTC)[返信]

では、提示します。『日本史B用語集 改訂版』(2009年発行)の「第2章 律令国家の成立」→「3 平城京と天平文化」→「1 平城京」のなかのp.43の「道鏡」の項目に、「宇佐八幡神の神託と称し皇位を望んだが失敗し、770年下野薬師寺に追放された。」とあります。

二次資料ではなく、三次資料になってしまいましたが、三次資料は「一次資料や二次資料を総括した、百科事典などの概説的な出版物」ということなのでの、二次資料にくらべていろいろな説を考慮したうえでより通説に近いものを載せていると思います。

ちなみに、道鏡左遷の主体が藤原氏であるという説は、すでに伊佐坂安物さんが提示しておられますが、白壁王が主体であることを述べている二次資料の提示がまだなされていないと思います。私が見つけられなかっただけでしたら、申し訳ありませんが、再度提示していただけないでしょうか?ちなみに、石川晶康『日本史B講義の実況中継(1)原始~古代』や金谷俊一郎『金谷の日本史「なぜ」と「流れ」がわかる本【改訂版】 原始・古代史』などには、正確な記述は覚えていませんが「藤原氏が白壁王を天皇にした(≒主体は藤原氏)」という内容が書かれていました。--180.43.6.159 2016年8月25日 (木) 10:29 (UTC)[返信]

コメント 文献のご提示ありがとうございます。さて、ご提示の「宇佐八幡神の神託と称し皇位を望んだが失敗し、770年下野薬師寺に追放された。」という文章ですが、この文章は「宇佐八幡神の神託と称し皇位を望んだが失敗し」たことと「770年下野薬師寺に追放された。」という二つの情報を含んでいます。しかしながら、前者と後者の因果関係については述べていないのではないでしょうか。もちろん仮に「宇佐八幡神の神託と称し皇位を望んだが失敗した結果、770年下野薬師寺に追放された。」あるいは「宇佐八幡神の神託と称し皇位を望んだが失敗したので、770年下野薬師寺に追放された。」と記述があれば、宇佐八幡宮神託事件を道鏡失脚の理由として叙述していることになります。ですが、この文献は「失敗し、」と単に連用中止法で繋いでいますので、宇佐八幡宮神託事件と道鏡失脚は別々の情報として記述されていると考えられます。--伊佐坂安物会話2016年8月25日 (木) 12:55 (UTC)[返信]
コメント なお、道鏡左遷の主体が藤原氏であるという見解はありうるものだと考えていますが、これについても積極的・直接的に記述している二次資料が必要であると思います。--伊佐坂安物会話2016年8月25日 (木) 12:55 (UTC)[返信]

そういうふうな反論が来ると予想していましたので、現代文の読解についての資料も用意しております(先ほどの資料の提示が遅れたのは、こちらの資料を探すのに手間取ったためです)。板野博之『現代文ゴロゴ解放公式集 1センター試験編』の「評論5」p.51に「Aて(、)B」パターンというのがありますが、そこには「AとBは「並立関係」もしくは「因果関係」である。」とあります。並立関係とは、AとBを入れ替えて文章を作っても同じ意味になる関係を言います(たとえば「夏は涼しく、冬は暖かい土地」のように、逆に「冬は暖かく、夏は涼しい土地」といっても意味は同じです)。しかし、今回の場合、「770年下野薬師寺に追放され、宇佐八幡神の神託と称し皇位を望んだが失敗した。」では意味が変わってしまいますね。ですから、この二つの関係は「因果関係」です。もちろん、用語集はセンター試験ではないから、センター試験の読解法は使えないということもできますが、センター試験は、センター試験用に本文を作っているのではなく、巷にあふれている文章を使って問題を作っています。だから、逆に今後の試験でここが問題文として出され、「770年下野薬師寺に追放された」に傍線が引っ張ってあって、「原因を本文の言葉を使って答えよ」という問題があったら、「宇佐八幡神の神託と称し皇位を望んだが失敗したから」が正解ということになります。

藤原氏が主体である資料は二つほど提示しました。そこには、「光仁天皇が藤原氏を味方につけた」という内容の記述ではなく「藤原氏が光仁天皇を即位させた」という内容の記述がありました(一字一句同じというわけではありませんが内容はこのとおりです)。--180.43.6.159 2016年8月25日 (木) 23:53 (UTC)[返信]

コメント180.43.6.159 さんへのご返答)『現代文ゴロゴ解放公式集』は評論文で頻繁に使われるパターンを集めた参考書ですが、「Aて(、)B」に、並立関係あるいは因果関係の二種類しかないとはおそらく書かれていないのではないでしょうか。実際、『大辞泉』によれば、接続助詞の「て」には時間の経過を示す用法があります([1])。例えば、「卒業して三年が経過した」というとき、これを入れ替えると「十年が経過して卒業した」となり意味が変わってしまいますが、「卒業したこと」と「十年が経過したこと」の両者のあいだに因果関係はありません(大学で留年してもしなくても、時は流れるので……)。よって、「宇佐八幡神の神託と称し皇位を望んだが失敗し、770年下野薬師寺に追放された。」という文章は、単に前半と後半の時系列の順番を示しているだけだと考えられます。--伊佐坂安物会話2016年8月26日 (金) 11:42 (UTC)[返信]
コメント (180.43.6.159さんへのご返答)また、「藤原氏が光仁天皇を即位させた」という出典があったとしても、それがそのまま「藤原氏が道鏡を排除した」ということ自体を意味するわけではありません(藤原氏が光仁天皇を即位させたとしても、論理的にはたとえば吉備真備が光仁天皇(白壁王)に働きかけて道鏡左遷を主導した可能性が残る)。つまり、「藤原氏が道鏡を失脚させた」と明確に記述している文献が必要です。なお、予備校の参考書は歴史の流れを受験用に理解しやすくまとめた三次資料ですが、記述されている歴史的事実の根拠にまで言及しているものではないので、より学術的な内容を含む通史(たとえば講談社学術文庫のシリーズ[2])などを図書館等で借りて出典として活用することをお勧めします。--伊佐坂安物会話2016年8月26日 (金) 11:42 (UTC)[返信]
コメント いまさらですがこのテンプレートはどのページからもリンクされていないようなのですが、必要なのでしょうか。どのような基準で掲載する事件を選んでいるのかにも疑問があります(例えば、源兼明の排除みたいなマイナーな事件も載せるべきなのか)。--伊佐坂安物会話2016年8月26日 (金) 11:42 (UTC)[返信]
本業の研究の方が忙しくネットを離れていました。文献提示ありがとうございます。やっと地に足の着いた議論が出来そうですね。以下箇条書きで。
  • (IPさんへの返信)
    • 「確かに二次資料の提示はしていませんが、それは提示するつもりがないのではなく、謙譲で提示することが難しいだけです」
      → 提示をお願いしても、提示を先延ばしにして空論の自論をさらに展開されていましたので、まだ「地に足が着いた議論をは何ぞや」を理解されていないものかと繰り返しました。ご気分を害されたようで、失礼いたしました。
    • 「「学会で議論を交わす学者様の意見」=「貴方様の独自研究」だったらどうするのですか」
      → それは独自研究ではない、ということになります。それは素晴らしいですね。
    • 「あなたのあげた関ヶ原の例では、小早川秀秋がメインということになりますよね」
      → 誤解です。道鏡排斥の例の場合、誰も定説を挙げていないので、私は一例として「白壁王がメイン、藤原氏がサブ」という考えもあるのではないか、と申しました。それに対して、貴方様は「そうだとしても、サブでも藤原氏が関わったので、これは藤原氏による他氏排斥になる」と述べられたかと思います。対して関ヶ原の例ですが、私は「徳川家康や石田三成・毛利輝元らがメイン、小早川秀秋はサブ」という主旨をもって、「サブでも小早川秀秋が関わったので、これもサブによる勝利とでも断言するのですか」と述べました。主旨違いです。
      → 加えて薬子の変云々ですが、これらに関しては上で伊佐坂安物さんが定義されていないことに疑義を呈されましたので、要検討課題(1つ1つ吟味すべき)と考えます。少なくとも、他のが載せられているから道鏡左遷も載せるべき、という論理はおかしいと考えます。
    • 「宇佐八幡神の神託と称し皇位を望んだが失敗し、770年下野薬師寺に追放された」
      → 伊佐坂安物さんの申されるように、時系列の文章と読み取ります。
    • 「白壁王が主体であることを述べている二次資料の提示がまだなされていない」
      → 「主体は白壁王だ」は私の独自研究です。ただし貴方様も「当然」と同意されたものと思いますが。ですが、少なくとも議論の本筋は「主体は藤原氏か否か」であって、「主体は誰か」ではありませんから、本筋に関係ないご質問と受け取ります(「主体については歴史学的に解釈は出されていない」のも1つの答えですから)。
      → と思ったら、『朝日日本歴史人物事典』の「光仁天皇」項には「白壁王は藤原永手,百川らによって皇太子に立てられ,道鏡を左遷し,10月1日に即位,宝亀と改元した。」とありますね。支持勢力は藤原氏でも、「左遷を実施した」の主語は白壁王と読み取れますね。
    • 「藤原氏が白壁王を天皇にした(≒主体は藤原氏)」
      → 括弧内は、伊佐坂安物さんの申されるように論の飛躍があります。擁立と左遷事件を当たり前のように一緒にしないで下さい。
    • 追記
      → 色々出典を組み合わせて議論されていらっしゃいますのでややこしくなっていますが、「道鏡は藤原氏によって排斥だ」とはっきり述べた文献は無いものですかね。
  • (伊佐坂安物さんへの返信)
    • 「いまさらですがこのテンプレートはどのページからもリンクされていないようなのですが、必要なのでしょうか。どのような基準で掲載する事件を選んでいるのかにも疑問があります」
      → 確かに仰る通りですね。私は、「必要ない」という方に今のところ同意です。
以上です。--Saigen Jiro会話2016年8月26日 (金) 13:29 (UTC)[返信]

やはり一字一句載せるべきでした。

『現代文ゴロゴ解放公式集 1センター試験編』
A───┐
て、   │
であり、 ├同質・同レベルの相互ヒント
連用形、│
B───┘
⇒この形の場合、「て(、)」や「であり(、)」や「連用形(、)」などで挟まれたAとBは、同質・同レベルの「並立関係」もしくは「因果関係」であり、相互ヒントの関係になる。

今回学ぶ「Aて(、)B」パターンは、センター現代文に限らず、入試現代文全体において盲点ともいえる重要なパターンだ・センターでB(A)の箇所に傍線が引かれて問われた場合、「て」を挟んで「同質・同レベル」であるA(B)の箇所を回答の根拠として、素直に正解にいたればいいだけだが、このパターンが意外に難しいのは、AとBがあまりにも近くに書かれているため、A(B)が根拠の箇所だと気がつかず「深読み」しすぎて不正解になるということが多発するためだ。頻度としては中くらいだが、得点差のつくパターンだ。予備校の講義や参考書などで何度解説しても、なかなか受験生に理解してもらえないパターンのひとつなので、ここは特に気合を入れて読んで理解してほしい。

(この後、例題と解説が続きます)

→時系列の文章の可能性は0

『講義の実況中継』p.196
しかし称徳がなくなると、同郷は下野の薬師寺に左遷されてしまいます。和気清麻呂・広虫は都に帰ります。そしてもうぐちゃぐちゃはけっこうだと、藤原百川らは、「次の天皇は天武天皇系をやめて、天智天皇の孫でいこうぜ」というので、天智の孫の光仁天皇が即位することとなった。

→光仁天皇が道鏡左遷に関連する可能性が0

『「なぜ」と「流れ」がわかる本』p.113
光仁天皇を天皇に立てたのは、藤原百川と藤原永手です。当然、道鏡が権力を握っていることは、彼らにとって喜ばしいことではありません。そこで、770年に道鏡を下野薬師寺に左遷します。

→「道鏡を下野薬師寺に左遷」した「彼ら」はこの文章から光仁天皇or藤原百川or藤原永手。光仁天皇が道鏡左遷に関連する可能性は0と証明されているので、藤原百川or藤原永手。

「白壁王は藤原永手,百川らによって皇太子に立てられ,道鏡を左遷し,10月1日に即位,宝亀と改元した。」は「支持勢力は藤原氏でも、「左遷を実施した」の主語は白壁王」と読み取れますが、逆に「支持し、左遷を指導したのも藤原氏」と読み取ることもできます。また、少なくとも議論の本筋は「主体は藤原氏か否か」ですから、「白壁王が主体である」資料は要りませんが、「藤原氏が主体でない」という資料は必要でしょう。

「貴方様も「当然」と同意されたものと思いますが。」→主体・メイン・サブの理解に相違があったものと思われます。

「「道鏡は藤原氏によって排斥だ」とはっきり述べた文献は無いものですかね。」→ありません。逆に、「道鏡が藤原氏以外によって排斥された」と述べた文献は無いものですかね。

「予備校の参考書は歴史の流れを受験用に理解しやすくまとめた三次資料ですが、記述されている歴史的事実の根拠にまで言及しているものではないので、より学術的な内容を含む通史(たとえば講談社学術文庫のシリーズ[2])などを図書館等で借りて出典として活用することをお勧めします。」
→通説とは何でしょうか?それは、一般に認められている説のことです。「歴史の流れを受験用に理解しやすくまとめた三次資料」の記述と、「より学術的な内容を含む通史」の記述は、どちらが一般に認められている説でしょうか?前者です。

なお、このページが必要かどうかこそ、この議論とはまったくかかわりのないものです。--180.43.6.159 2016年8月27日 (土) 05:09 (UTC)[返信]

伊佐坂安物さんが申された「卒業して三年が経過した」という文は、日本語ではありえないと申されていますか。あと、歴史学的な妥当性の議論ですから、学術的な文献を挙げてもらえませんかね。お待ちしますから。なんというか「はっきり述べた文献は無い」と歴史学的consensusが無いことを断言された時点で、議論は終わった気もしますが。最後に、「ノートページ」は当該項目が必要かどうかを含めて議論する場所ですので、誤解なきよう。--Saigen Jiro会話2016年8月27日 (土) 06:30 (UTC)[返信]
(補足)「Saigen Jiroさんの言うとおり、主体は白壁王です」と貴方ははっきりと述べられたことから、貴方は左遷事件において藤原氏はサブだと表明されたと記憶します。その上で、小早川秀秋がサブだということに了解され、「サブによる○○」すなわち「小早川秀秋による勝利」という表現は誤りと述べられたことから、「サブによる○○」すなわち「藤原氏による排斥」は歴史的な表現として誤りだと言っておられるのですから、この点からも議論は終わったように思っています。--Saigen Jiro会話2016年8月27日 (土) 06:47 (UTC)[返信]

「伊佐坂安物さんが申された「卒業して三年が経過した」という文は、日本語ではありえないと申されていますか。」→少なくとも私の提示した資料によれば、それは並立関係か因果関係を示すものです。

「歴史学的な妥当性の議論ですから、学術的な文献を挙げてもらえませんかね。」→通説とは何でしょうか?それは、一般に認められている説のことです。学術的な論文の内容より、学術的ではない論文のほうが一般に認められていれば、そちらが通説です。

「ノートページ」は当該項目が必要かどうかを含めて議論する場所ですが、「道鏡左遷⊂宇佐八幡宮神託事件か否か」の項目で議論することではありません。当該項目が必要かどうかを議論したければ、新しく項目を立てて議論すべきです。

とりあえず私とSaigen Jiroさんとのあいだで「主体」「メイン」「サブ」の意味は別の認識でありますから、この3つの単語を使って議論しても、結論は導き出されないでしょう。--180.43.6.159 2016年8月27日 (土) 07:08 (UTC)[返信]

コメント ええと、私が提示した国語辞典の用例は予備校の参考書よりも信用がおけないものでしょうか? また、提示された参考書はあくまで入試現代文の文章中で「B(A)の箇所に傍線が引かれて問われた場合」の連用中止法が並立関係と因果関係のいずれかであると述べているに過ぎないと考えられます。仮に並立関係か因果関係のどちらかしかありえないとして、「卒業し、三年が経過した」という文章は、180.43.6.159さんは並立関係と因果関係のどちらだと思われますか?
コメント また、Wikipedia:信頼できる情報源に「学者によって書かれ、学術的な出版社によって出版され:た二次資料は、品質管理のために注意深く精査されており、信頼できると考えられますと書かれているとおり、学術的な文献は学術的でない文献より信頼できるものとみなされます。それと、予備校の参考書は論文ではありません。180.43.6.159さんは予備校の参考書(『「なぜ」と「流れ」がわかる本』など)の内容の方が学術書の内容よりも一般に認められているとおっしゃいますが、おそらくそんなことはありません。なぜなら、教科書ならともかく予備校の参考書を読むのはごくごく一部の受験生だけであり、そのうえ予備校の参考書の著者は各時代の専門家ではないからです。また、繰り返しになりますが、予備校の参考書には採用されている記述の根拠(同時代の史料や、その史料に基づいた考察)が含まれていず、何らかの説を提示しているものではありません。予備校の参考書は、「何が正しいかを考える」ことを目的としたものではなく、「いかに効率よく受験用の知識を入手するか」を目的としたものであり、Wikipedia:信頼できる情報源に合致しないと考えられます。これに対して各時代の専門家による学術書・概説書は膨大な先行研究と史料に基づくものであり、その叙述の根拠が示されています。少なくとも、用語集や予備校の参考書が絶対に正しい・一般に認められているとは言えないので、他の二次資料・三次資料と突き合わせる必要があります。ちなみに高橋秀樹他 『ここまで変わった日本史教科書』吉川弘文館、2016年という本が出版されているように、教科書の記述ですら絶対に正しい・一般に認められていると言い切ることはできません。。--伊佐坂安物会話2016年8月27日 (土) 08:28 (UTC)[返信]
(IP様へ)「学術的な論文の内容より、学術的ではない論文のほうが一般に認められていれば、そちらが通説です」とは意味不明です。学問に対する愚弄甚だしい。即座の撤回を求めます。--Saigen Jiro会話2016年8月27日 (土) 13:46 (UTC)[返信]

いままであなた方が提示されてきた資料は、「私の意見が正しい可能性もあるが、ほかの意見が正しい可能性もある」というもので、私の意見を否定するものではありません。つまり、あなた方が提示された資料の信憑性を仮にxと置くと、この信憑性xはあなた方の意見の信憑性だけでなく、私の意見の信憑性にもなるわけです。たとえば、「私が提示した国語辞典の用例は予備校の参考書よりも信用がおけないものでしょうか?」とありますが、あなたの提示した国語辞典には「因果関係」の用法も表記されているので、私の提示した資料より信憑性が高かろうと低かろうと、私の意見とあなた方の意見の両方の信憑性になるだけで、差は生まれないということです。

一方、私が示した資料は、「私の意見が正しく、ほかの意見は間違っている」というものですから、私の意見の信憑性は提示した資料の信憑性の分上昇しますが、他の意見の信憑性は減少します(先ほどの国語辞典の例では、『大辞泉』は全ての意見の信憑性を上げるが、『現代文ゴロゴ解放公式集』は私の意見の信憑性のみを上げ、あなたの意見の信憑性を下げるものです)。つまりこの信憑性をyとすると、現状で

「私の意見の信憑性」=x+y
「他の意見の信憑性」=x-y

となり、以下に私の提示した資料の信憑性が低いことを証明しようとしても、低いということは少なからずあるということですから、2y分私の意見のほうが信憑性が高いということです。

ですから今後私の意見に反論する場合は、「あなた方の意見が正しく、私の意見が間違っている」資料(この資料の信憑性をzとします)を提示し、

「私の意見の信憑性」=x+y-z
「他の意見の信憑性」=x-y+z

となった段階で初めてyとzのどちらが信憑性を高いかを議論する価値が生まれるのです。

ちなみに、「学者によって書かれ、学術的な出版社によって出版され:た二次資料は、品質管理のために注意深く精査されており、信頼できると考えられます」のかもしれませんが、この文章から「学者以外によって書かれ、学術的ではない出版社によって出版された二次資料は、品質管理のために注意深く精査されておらず、信頼できない」と考えることには論の飛躍があります。また、「「学術的な論文の内容より、学術的ではない論文のほうが一般に認められていれば、そちらが通説です」とは意味不明です。」とはどこが意味不明なのですか?提示しておりませんでしたがこの意見は、私の独自研究ではなく、『広辞苑』の通説の意味に従ったまでで、「資料に書かれている内容を否定するのは私たちのすることではなく、別の資料である」ということを知っているにもかかわらず勝手に誤解してわざわざご教授までしてくだされたのはSaigen Jiroさん自身ですよね。ならば、広辞苑の記述が「学問に対する愚弄」である資料の提示を願います。

「卒業し、三年が経過した」という文章は、180.43.6.159さんは並立関係と因果関係のどちらだと思われますか?→問題は連用中止法に時系列を表す用法があるかどうか、因果関係を表す用法があるかどうかですから、この文章が「並立関係と因果関係のどちらであるか」は本筋に関係ない質問です。関係あったとしても、私個人の意見は独自研究になってしまいますから、お答えできません。--180.43.6.159 2016年8月28日 (日) 22:34 (UTC)[返信]

IPさんが予備校の参考書を使って主張していたことは「時系列の文章の可能性は0」ということでした。しかし、これがご提示の参考書の誤読によるものであることはすでに述べたとおりです。一方、私が提示した「大辞泉」は、時間の経過の用法を含む複数の用法が掲載されており、IPさんの主張に対する反証となっています。
またたしかに学術的でない資料がすべて嘘だとは言えません。しかし、Wikipedia:信頼できる情報源上で学術的な資料を用いることが推奨されていることに変わりはありません。それと、Wikipedia:信頼できる情報源に「百科事典の場合では事実とは、その主題についての学者や専門家の共通認識によって同意された記述のことです。」とあるとおり、Wikipediaは「一般に認められている通説(ないし俗説)」を収集する場ではありません。--伊佐坂安物会話2016年8月28日 (日) 23:41 (UTC)[返信]
私の『広辞苑』では、「通説」の2番で「世間にひろく行われている説。一般に認められている説」と書いていますが、「学術的な論文の内容より、学術的ではない論文のほうが一般に認められていれば、そちらが通説です」とは書いていないです。おかしいですね。--Saigen Jiro会話2016年8月29日 (月) 00:45 (UTC)[返信]

「世間にひろく行われている説。一般に認められている説」=「通説」なのだから「世間にひろく行われていない説。一般に認められていない説」=「通説ではない」です。

「ご提示の参考書の誤読によるものであることはすでに述べた」というのは、「文章中で「B(A)の箇所に傍線が引かれて問われた場合」の連用中止法が並立関係と因果関係のいずれかであると述べているに過ぎない」の箇所ですか?それなら、誤読しているのは伊佐坂安物さんのほうです。

もう一度私が示した箇所を提示します。

A───┐
て、   │
であり、 ├同質・同レベルの相互ヒント
連用形、│
B───┘
⇒この形の場合、「て(、)」や「であり(、)」や「連用形(、)」などで挟まれたAとBは、同質・同レベルの「並立関係」もしくは「因果関係」であり、相互ヒントの関係になる。

今回学ぶ「Aて(、)B」パターンは、センター現代文に限らず、入試現代文全体において盲点ともいえる重要なパターンだ・センターでB(A)の箇所に傍線が引かれて問われた場合、「て」を挟んで「同質・同レベル」であるA(B)の箇所を回答の根拠として、素直に正解にいたればいいだけだが、このパターンが意外に難しいのは、AとBがあまりにも近くに書かれているため、A(B)が根拠の箇所だと気がつかず「深読み」しすぎて不正解になるということが多発するためだ。頻度としては中くらいだが、得点差のつくパターンだ。予備校の講義や参考書などで何度解説しても、なかなか受験生に理解してもらえないパターンのひとつなので、ここは特に気合を入れて読んで理解してほしい。

たしかに、「B(A)の箇所に傍線が引かれて問われた場合」という表記がありますが、この条件節の主節は「「て」を挟んで「同質・同レベル」であるA(B)の箇所を回答の根拠として、素直に正解にいたればいい」であり「連用中止法が並立関係と因果関係のいずれかである」ではありません。「連用中止法が並立関係と因果関係のいずれかである」というのは、文章中では「同質・同レベルの「並立関係」もしくは「因果関係」であり」ですが、これは、「この形の場合、「て(、)」や「であり(、)」や「連用形(、)」などで挟まれたAとBは」からくるもので、この形とは、引用部分の最初の五行の形を示しています。

ですから、誤読しているのは私ではなく、伊佐坂安物さんです。

また、「Wikipedia:信頼できる情報源上で学術的な資料を用いることが推奨されていることに変わりはありません。それと、Wikipedia:信頼できる情報源に「百科事典の場合では事実とは、その主題についての学者や専門家の共通認識によって同意された記述のことです。」とあるとおり、Wikipediaは「一般に認められている通説(ないし俗説)」を収集する場ではありません。」のかもしれませんが、資料がまったく提示されていない説よりはましだといっているのです。--180.43.6.159 2016年8月29日 (月) 01:11 (UTC)[返信]

たしかに『現代文ゴロゴ解放公式集』については私に誤解があったかもしれません。しかし、『現代文ゴロゴ解放公式集』は入試現代文の「公式集」である以上、入試現代文で解答の根拠となる部分にのみ当てはまる特殊な「公式」であるという疑念が消えません。
いずれにせよ、連用中止法に時系列の用法がある(ありうる)ことはご理解いただけたかと思います。すると、『用語集』の「宇佐八幡神の神託と称し皇位を望んだが失敗し、770年下野薬師寺に追放された。」という文章が、前半と後半の因果関係を示しているとは断言できません。この記述をもって道鏡左遷の原因を宇佐八幡宮神託事件とするのには無理がありますし、現状では他の根拠も示されていません。
また、学術的な資料が必要であることについて、ご理解いただけたようで嬉しく思います。ただし、「資料がまったく提示されていない」とIPさんはおっしゃいますが、事実と異なります。私は二次資料では木本好信藤原永手について(2)」(『甲子園学園大学紀要』、2013年)、瀧浪貞子『奈良朝の政変と道鏡』吉川弘文館2013年、勝浦令子『孝謙・称徳天皇』ミネルヴァ書房、2014年、一次資料については『続日本記』と講談社学術文庫の現代語訳を挙げています。Saigen Jiroさんは『朝日日本歴史人物事典』の「光仁天皇」項の「白壁王は藤原永手,百川らによって皇太子に立てられ,道鏡を左遷し,10月1日に即位,宝亀と改元した。」という記述や、『国史大辞典』、『日本古代史大辞典』(大和書房)、『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館)などの各種事典・辞典を提示されています。IPさんには、手元にある受験参考書や用語集を使うのではなく、図書館に行く一手間を惜しまずに調査に当たることをお願いします。--伊佐坂安物会話) 2016年8月29日 (月) 02:01 (UTC)一部修正--伊佐坂安物会話2016年8月29日 (月) 02:04 (UTC)[返信]
(追記)そもそも、IPさんは「資料がまったく提示されていない説よりはましだといっているのです」と述べていますが、そんなこと以前は言っていませんでしたよね? 以前のIPさんの主張は、「学術的な論文の内容より、学術的ではない論文のほうが一般に認められていれば、そちらが通説」であり「学術的ではない論文のほう」に従うべきだという主張だったと思いますが。--伊佐坂安物会話2016年8月29日 (月) 02:23 (UTC)[返信]

ここにあげられている資料は、私の説を否定するものではなく、私の説の可能性もあるが、他の可能性もある、といえるもののみです。たとえば、「白壁王は藤原永手,百川らによって皇太子に立てられ,道鏡を左遷し,10月1日に即位,宝亀と改元した。」という記述は、確かに、光仁天皇による他氏排斥だと読むことができますが、藤原氏による他氏排斥ではないとは読み取れません。そのことは既に述べたとおりで、ですから「私の説を否定する資料」はまったく提示されていません。前述の式で表せば、信憑性xの数値を高めるのみで、2yを埋めるものにはなりません。ですから、前も申し上げたとおり、「他の可能性」を指摘する(これは信憑性xに該当します)のではなく、「私の説が間違っていて、且つあなた方の意見が正しい」ということを指摘して(これは信憑性zに該当します)、2yの分を2zで埋めるようにしてください。その後、yとzのどちら信憑性がより高いかを話し合い、高かったほうの説が採用されるのです。

通説の件も主張していましたし「資料がまったく提示されていない説よりはましだ」とは直接言っていませんが、前述の「私の意見の信憑性」=x+y「他の意見の信憑性」=x-yを説明する部分で、「資料がまったく提示されていない説よりはましだ」という内容の発言をしているはずです。--180.43.6.159 2016年8月29日 (月) 02:29 (UTC)[返信]

少なくとも道鏡左遷⊂宇佐八幡宮神託事件については、これを裏付ける根拠がまったくありません。前述の『用語集』についても道鏡左遷を宇佐八幡宮神託事件のなかに含めて記述しているわけでもないうえ、両事件に因果関係があるとは断言できません。一方で、木本好信藤原永手について(2)」(『甲子園学園大学紀要』、2013年)、瀧浪貞子『奈良朝の政変と道鏡』吉川弘文館2013年、勝浦令子『孝謙・称徳天皇』ミネルヴァ書房、2014年と『日本古代史大辞典』は、道鏡左遷と宇佐八幡宮神託事件を別々のものだとして記述しています。
また、「なお、道鏡左遷の主体が藤原氏であるという見解はありうるものだと考えていますが、これについても積極的・直接的に記述している二次資料が必要であると思います。」と以前に述べたとおり、道鏡左遷が藤原氏による他氏排斥であることについて、私は積極的に否定するつもりはありません。私が一貫して主張していたのは、Wikipedia:信頼できる情報源にしたがって、三次資料である『「なぜ」と「流れ」がわかる本』だけではなく「より学術的な内容を含む通史」などの二次資料によってこの点を裏付ける(努力をする)必要があるということでした。--伊佐坂安物会話) 2016年8月29日 (月) 02:52 (UTC)一部修正--伊佐坂安物会話2016年8月29日 (月) 02:59 (UTC)>[返信]

いずれの見解が妥当であるにせよ、テンプレート自体が廃止される見込みなので、この議論も終了としませんか。--伊佐坂安物会話2016年8月29日 (月) 02:52 (UTC)[返信]

賛成 テンプレートが廃止されれば、議論を続ける意義が存在しませんね。--Saigen Jiro会話2016年8月29日 (月) 03:25 (UTC)[返信]
(追記) 削除依頼の方で削除意見が大勢を占めている現状、削除が実行されると議論が無駄な労力になりそうなので、削除依頼の結果が出るまで私はしばらく議論を控えます。--Saigen Jiro会話2016年8月29日 (月) 08:09 (UTC)[返信]

「テンプレートが廃止されれば」、議論を続ける意義が存在しませんが、まだ廃止されると決まったわけではありません。

「木本好信「藤原永手について」(『甲子園学園大学紀要』、2013年)、瀧浪貞子『奈良朝の政変と道鏡』吉川弘文館2013年、勝浦令子『孝謙・称徳天皇』ミネルヴァ書房、2014年と『日本古代史大辞典』は、道鏡左遷と宇佐八幡宮神託事件を別々のものだとして記述しています。」とのことですが、私は今その本を持っていないので、道鏡左遷と宇佐八幡宮神託事件を別々のものだとして記述してある部分を提示していただけないでしょうか?お手数をおかけしてすみません。--180.43.6.159 2016年8月29日 (月) 07:21 (UTC)[返信]

とりあえず、私も削除依頼の結果を待ちたいと思いますので、しばらく議論を控えます。存続となった場合は文献の該当部分を引用します。--伊佐坂安物会話2016年8月30日 (火) 09:51 (UTC)[返信]
テンプレート自体が削除で合意形成がなされました。議論終了になりますね。これまで議論して下さりありがとうございました。--Saigen Jiro会話2016年9月3日 (土) 16:35 (UTC)[返信]