コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

六字大明呪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Om ma ni pad me humから転送)
ラサのポタラ宮殿外の岩に刻まれた六字真言(左)。右は金剛薩埵の真言(oṃ vajrasattva hūṃ)

六字大明呪(ろくじだいみょうじゅ)[1]とは、仏教陀羅尼呪文)の1つ。サンスクリットの6つの音節からなる観世音菩薩の陀羅尼であり[2]チベット語で六文字となることから六字真言(ろくじしんごん)ともいう[3]。特に、チベット仏教圏のチベットモンゴルの仏教徒が頻繁に唱える陀羅尼である[1]。ほかに六字と名のつく真言陀羅尼には、文殊菩薩の六字陀羅尼、『請観音経』を典拠とする六字章句陀羅尼がある[注釈 1]

陀羅尼

[編集]

この短呪はオーン・マニパドメー・フーン[注釈 3]: ॐ मणिपद्मे हूँ, oṃ maṇipadme hūṃ)の梵字六文字[注釈 4]から構成される。

チベット仏教ではオンマニペメフン[注釈 5]チベット文字ཨོཾ་མ་ཎི་པདྨེ་ཧཱུྃ[注釈 6]、漢訳: 唵嘛呢叭咪吽)という。

語釈

[編集]

マニは「宝珠」、パドメーは「蓮華」を意味する。この陀羅尼には様々な解釈がある。伊藤武によれば、「宝珠」は男性原理としての方便[13]、「蓮華」は女性原理としての般若[13]、フーンは呪文の完成を意味する。金剛乗の瑜伽においては、この陀羅尼は男尊と女尊の結合に象徴される空性覚りを示し[14]、その場合の宝珠は金剛杵(ヴァジュラ)であらわされる男性器を暗示しているという解釈がある[15]

呼格とする説
ドナルド・ロペスによれば、マニパドメーは「マニパドマ」または女性形の「マニパドマー」の呼格であり、「宝の蓮華を持つ者よ」という意味になる。マニパドマは菩薩の名でもある。呼格とする説はほかにフレデリック・ウィリアム・トーマス英語版フランケ英語版ステン・コノウスネルグローブ英語版らが述べている[16]
「マニ」を呼格・「パドメー」を処格とする説
伊藤武は「マニパドメー」を「マニ」と「パドメー」とに分かち、前者を呼格、後者を処格と解して、「オーン、蓮華〔の中、の上〕におわします宝珠よ、フーン」と和訳している[13]

原典

[編集]

六字真言の最も古い典拠は大乗仏教経典『カーランダヴューハ・スートラ』 (kāraṇḍavyūha-sūtra) である[2]。観音菩薩の説話を記した『カーランダヴューハ』は、ネパールとチベットで観音信仰の根本経典として重んじられる[17]。同経典ではこの明呪はシャダクシャリー・マハーヴィディヤー(六字大明)と称されている[2]

チベット仏教

[編集]

観音菩薩の六字真言はチベットの人々がしきりに唱えることで有名である[4]。チベット語ではイゲドゥクパ(yi ge drug pa, 「六つの音節」の意[注釈 7])と称される。

チベットには、自国が昔から観音菩薩に教化され導かれてきた国であるという歴史観があり[6]、建国の王ソンツェン・ガンポや歴代ダライ・ラマは観音菩薩の化身とされる[18]。そのためチベットでは六字真言の信仰が盛んで、人々によく唱えられるほか、「マニ石」と呼ばれる岩や「マニ車」(マニコル)と呼ばれる法具にも刻まれている。

『カーランダヴューハ』とその所説である六字真言は、早くも古代王国時代(吐蕃)に伝わっていた(チベットの歴史観では前伝期にあたる)。そのことは敦煌文献のなかにチベット語の六字真言の記された写本のあることからも裏づけられる。9世紀に編纂されたとされるチベット語の一切経目録『デンカルマ目録』にも『カーランダヴューハ』が記載されている[19]。後世には、テルマに分類される史書『マニカンブム』 (ma ṇi bka' 'bum) などで六字真言の複雑な教義が展開された[1]

ダライ・ラマ14世による説明

[編集]

ダライ・ラマ14世によると、オム・マニ・ペメ・フムは、細かく分けるとオム・マ・ニ・ペ・メ・フムという六つの真言(シックス・シラブル・マントラ)で構成されている。ダライ・ラマは、「これら六つの真言は、私たちの不浄な身体・言葉・思考を、完全に統一された秩序と知恵の教えの道に導くことにより、仏陀になれる」の意と説明する。オムが私たちの不浄な身体・言葉・思考。マニが宝石を意味し、秩序、慈悲、他者への思いやりなど悟りを開くための要素。ペメが蓮を意味し、矛盾から救い出す知恵の本質を示す。フムが、分離できないものを意味する[11]

六字真言と六道

[編集]

チベットでは、六字を六道の各道に充て、一語一語にそれぞれの罪を浄化する意味を持たせている[20]。この教義は14世紀に著された史書『王統明鏡史』第4章にも記されている[20][21]

梵字 蔵文 ローマ字 浄化の対象 六道
ཨོཾ oṃ 自我・高慢(慢) 佛陀
ma 嫉妬・娯楽への渇望(悪見) 菩薩
णि ཎི ṇi 欲望・欲求(無明) 緣覺
pa 無知・偏見(痴) 羅漢
द्मे དྨེ dme 貧窮・所有欲(貪) 聲聞
हूं ཧཱུྃ hūṃ 憤怒・憎悪(瞋) 六凡
ཨོཾ oṃ 自我・高慢(慢) 天人
ma 嫉妬・娯楽への渇望(悪見) 修羅
णि ཎི ṇi 欲望・欲求(無明) 人間
pa 無知・偏見(痴) 畜生
द्मे དྨེ dme 貧窮・所有欲(貪) 餓鬼
हूं ཧཱུྃ hūṃ 憤怒・憎悪(瞋) 地獄

漢伝仏教

[編集]

六字真言の典拠である『カーランダヴューハ』は北宋でインド出身の訳経僧、天息災によって『仏説大乗荘厳宝王経』として漢訳された。この真言は同経典では「六字大明陀羅尼」と称され、「 訥銘二合 」(おんまにぱどめいうん)と音訳されている。この経典は中国・日本ではあまり普及しなかった[17]

効果

[編集]

『仏説大乗荘厳宝王経』では、この陀羅尼を唱えた際の効果が説かれている。それによると、この陀羅尼を唱えれば様々な災害や病気、盗賊などから観世音菩薩が護ってくれるという。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 坂内龍雄『真言陀羅尼』は、観音菩薩の六字真言に六字陀羅尼の呼称を与えている(同書 89頁)。
  2. ^ ここではアヌナーシカの表す鼻音()を m に置き換えている。
  3. ^ ここではアヌナーシカ(仰月点)の表す鼻音( または )を「ン」と表記している。「オーム マ ニ パ ドメー フーム」[2][注釈 2]、「オーム、マニ、パドメー、フーン」[4]、「オーム、マニパドメーフーン」[5]とも表記される。
  4. ^ 正確には、ここでの六は字数に拠るのではなく、音節 (akṣara) が6つあることを指している[4]
  5. ^ チベット語のカナ転写の仕方は学者ごとに異なっており、統一されていない。ここでは今枝監訳 2015田中 2009の表記に拠った。ほかに「オン・マニ・ペメ・フン」(チベット学者の石濱裕美子による[6])、「オムマニペメフム」(1910年代にチベットで僧院生活を経験した多田等観[7]、文化人類学者・チベット学者の棚瀬慈郎[8]、同じく村上大輔[9]がこの表記を採用)、「オムマニペメフン」[10]、「オム・マニ・ペメ・フム」[11]などの表記例がある。「オーム・マニペメ・フーム」[12]、「オーム・マニ・ペーメエ・フーム」[1]とも表記される。
  6. ^ 発音: [om ma ni peː`me hum][10]
  7. ^ yi geにはakṣaraと同様に音節の意味もある。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d 『岩波 仏教辞典 第二版』 121-122頁。
  2. ^ a b c d 佐久間 2015, p. 193.
  3. ^ 今枝監訳 2015, 今枝由郎星泉「用語集」, p. 353.
  4. ^ a b c 森 2011, p. 188.
  5. ^ 立川 1997, p. 30.
  6. ^ a b 石濱編 2004, 石濱裕美子「観音菩薩に祝福された民」, p. 14.
  7. ^ 多田等観著、牧野文子編 『チベット滞在記』 〈講談社学術文庫〉、講談社、2009年、178頁。
  8. ^ 棚瀬慈郎 『旅とチベットと僕』 講談社、2013年、80頁。
  9. ^ 村上大輔 『チベット 聖地の路地裏 - 八年のラサ滞在記』 法蔵観、2016年、43頁。
  10. ^ a b ケルサン・タウワ編 『チベット語辞典 蔵日・日蔵』 カワチェン、2003年、蔵日218頁、日蔵29頁。
  11. ^ a b ダライ・ラマ法王日本代表部事務所>チベットについて>チベットと文化>くらしの中の信仰(オム・マニ・ペメ・フム)
  12. ^ ローソン著, 森訳 1994, pp. 78–79.
  13. ^ a b c 伊藤 2011, pp. 236–237.
  14. ^ ローソン著, 森訳 1994, p. 23.
  15. ^ ローソン著, 森訳 1994, p. 50.
  16. ^ Lopez 1998, pp. 114–134.
  17. ^ a b 田中 2009, pp. 46–47.
  18. ^ 今枝監訳 2015, 今枝由郎星泉「用語集」, p. 356.
  19. ^ 佐久間 2015, p. 200.
  20. ^ a b 佐久間 2015, pp. 200–201.
  21. ^ 今枝監訳 2015, p. 65.

参考文献

[編集]
  • The Origins of Om Manipadme Hum(アレクサンダー・スタッドホルム著、ニューヨーク州立大学出版局、2002年)
  • Lopez, Donald (1998). Prisoners of Shangri-La: Tibetan Buddhism and the West. University of Chicago Press. ISBN 0-226-49311-3 
  • フィリップ・ローソン『イメージの博物誌25 聖なるチベット』森雅秀・森喜子訳、平凡社、1994年。 
  • 立川武蔵『マンダラ瞑想法 - 密教のフィールドワーク』角川書店〈角川選書〉、1997年。 
  • 森雅秀『インド密教の仏たち』春秋社、2001年。 
  • 石濱裕美子編著『エリア・スタディーズ 38 チベットを知るための50章』明石書店、2004年。 
  • 田中公明『チベットの仏たち』方丈堂出版、2009年。 
  • 伊藤武『図説 ヨーガ大全』佼成出版社、2011年。 
  • ソナム・ギェルツェン『チベット仏教王伝 - ソンツェン・ガンポ物語』今枝由郎監訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2015年。 (『王統明鏡史』の第17章までの和訳)
  • 佐久間留理子『観音菩薩 - 変幻自在な姿をとる救済者』春秋社、2015年。 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]