CR多様体
数学において、CR多様体(CRたようたい、英: CR manifold)とは,微分可能多様体で,複素数空間の中の実超曲面の幾何構造をモデル化したものである.
CR は,コーシー・リーマン,あるいは,複素 (Complex)・実 (Real)[1] の省略形である.
導入
[編集]CR多様体のモデルは複素数空間 内の領域の滑らかな境界である.
領域 の滑らかな境界 について, 次で定義される複素化(complexified)された接束 の部分ベクトル束 を考えよう:
ここで, は の正則接束を表すとする. このとき, は次を満たす:
- ,
- .
ただし, は の複素共役とする.
定義
[編集]CR多様体とは,微分可能多様体 とその上の複素化(complexified)された接束 の部分ベクトル束 で次の条件を満たすものの組 のことである:
- ( は可積分(integrable)である ),
- .
ここで, は の複素共役とする. このとき,ベクトル束 を多様体 上のCR構造という.
の階数 をCR次元, をCR余次元という.
CR余次元が1のとき, は超曲面型(hypersurface type)であるという.
例
[編集]擬凸性
[編集]レヴィ形式
[編集]を超曲面型のCR多様体とする.レヴィ形式 は,直線束
に値を持つ 上で定義されたベクトル値形式(vector valued form)で,
により与えられる. は,可積分条件により, と が の切断へどのように拡張するかには依存せず, 上の半双線型形式を定義する.この形式 は,同じ形で束 上のエルミート形式へ拡張できる.この拡張された形式も,レヴィ形式と呼ばれることもある。
代わりに,レヴィ形式は双対性の言葉で特徴付けることもできる.V を消滅させる複素余接束の部分直線束を考えると,
となる.各々の切断 α∈Γ(H0 M ) に対し,
とする.形式 hα は α を伴う複素数値エルミート形式である.
多様体が超曲面型でない場合も,レヴィ形式の一般化が存在する.ただし,この場合,値は直線束でなく,ベクトル束となる.よって,レヴィ形式ではなく,構造のレヴィ形式の集まりという。
超曲面型の抽象的CR多様体について,レヴィ形式はその上に擬エルミート計量を与える.この計量は,正則接ベクトル上で定義されているだけでなく,退化している.
強擬凸, 擬凸, レヴィ平坦
[編集]が超曲面型の CR 多様体で単一の函数 で定義されているとする.このとき, のレヴィ形式(エフゲニオ・エリア・レヴィ(Eugenio Elia Levi)の名に因む)とは[2]、エルミート 2-形式
のことを指す.レヴィ形式は 上の計量を定める. は, が正定値であるとき,強擬凸(strictly pseudoconvex)と呼ばれ, が半正定値のときは擬凸(pseudoconvex)と呼ばれる.CR多様体の理論の解析的な存在性と一意性の結果の多くは,レヴィ形式の強擬凸性によるものである.
この命名は擬凸領域の研究から来ている: が 内の(強)擬凸領域の境界であることと,CR多様体として(強)擬凸であることは同値である.
その他の話題
[編集]接コーシー・リーマン作用素と接コーシー・リーマン複体
[編集]まず,接コーシー・リーマン作用素 を定義しよう.複素多様体の境界として実現されるCR多様体について,この作用素は の境界制限とみなすことができる.また,一般のCR多様体について(複素多様体の境界として実現されない場合も含めて),定義することができる.これは Webster 接続を用いて記述される.作用素 は複体をなす,すなわち, が成立する.この複体のことを接コーシー・リーマン複体,あるいは,コーン・ロッシ複体という.この複体とそのコホモロジー群についての基本的な文献として,Joseph. J. Kohn と Hugo Rossi によるものが挙げられる.[3]
CR関数
[編集]作用素 により消える関数をCR関数といい,正則関数のアナロジーになっている.また,CR関数の実部をCR多重調和関数という.
コーンラプラシアン
[編集]接コーシー・リーマン複体に付随して,CR幾何学と多変数複素解析学において基本的な対象となるコーンラプラシアン が次で定義される:
ここで, は の についての形式的共役を表すとする(体積形式は,CR構造に付随する接触形式から誘導されるものとする).作用素 は,非負自己共役である.コンパクトな強擬凸CR多様体について,作用素 は正の離散固有値をもつ.その核空間は,CR関数から構成されるため,無限次元である.もし,作用素 の正の固有値全体が正定数により下から抑えられていた場合,閉値域をもつ.
具体例
[編集]具体例として,ハイゼンベルク群(Heisenberg group)の作用素 を考察してみよう.通常のハイゼンベルク群 について,その上の左不変な正則ベクトル場
を考える.ここで, とする.このとき,関数 について,
が成立する.ここで, は の複素共役を表すとする.関数については は 0 であるから,ハイゼンベルク群における関数についてのコーンラプラシアンは次で与えられる:
さて,次の交換子の計算に注意する:
ただし, とする. 上の等式を用いれば,簡単な計算によって,コーンラプラシアンが次のように書き換えられることがわかる:
右辺の1番目の項は,実作用素である(実際に,コーンラプラシアンの実部となっている).これをサブラプラシアンといい, で表すことが多い.部分積分から,非負であることがすぐにわかる.このとき, と表すこともできる.
CR埋め込み問題
[編集]CR幾何学の基本的な問題のひとつとして,与えられたCR多様体が,複素数空間の実部分多様体として実現できるかという問題(CR埋め込み問題)がある.
大域的なCR埋め込み問題について,実5次元以上のコンパクトな強擬凸CR多様体については,Louis Botet de Monvel により肯定的に解決された.
実3次元の場合は,反例が存在する: 3次元球面 の自然なCR構造を摂動したものは大域的に埋め込むことができない.この例は,Rossi の例と呼ばれる(実際には, Hans Grauert により構成された).
局所的なCR埋め込み問題について,実3次元の場合には, Louis Nirenberg による反例が存在する.実7次元以上の場合は,倉西正武(実9次元以上の場合)と赤堀隆夫(実7次元の場合)により肯定的に解決された.
実5次元の場合の局所的なCR埋め込み問題は,未解決である.
関連項目
[編集]- エフゲニオ・エリア・レヴィ(Eugenio Elia Levi)
- 擬凸性
脚注
[編集]- ^ https://secure.msri.org/calendar/sgw/WorkshopInfo/434/show_sgw
- ^ See (Levi 909, p. 207): the Levi form is the differential form associated to the differential operator C, according to Levi's notation.
- ^ Kohn, Joseph J. and Rossi, Hugo (1965). “On the Extension of Holomorphic functions from the boundary of Complex Manifolds". Annals of Math. 81: 451--472. doi: 10.2307/1970624.
参考文献
[編集]- Levi, Eugenio Elia (1910), “Studii sui punti singolari essenziali delle funzioni analitiche di due o più variabili complesse” (Italian), Annali di Matematica Pura e Applicata, s. III, XVII (1): 61–87, doi:10.1007/BF02419336, JFM 41.0487.01. An important paper in the theory of functions of several complex variables. An English translation of the title reads as:-"studies on essential singular points of analytic functions of two or more complex variables".
- Boggess, Albert (1991). CR Manifolds and the Tangential Cauchy Riemann Complex. CRC Press
- Hill, D. and Nacinovich, M. (1995). “Duality and distribution cohomology of CR manifolds”. Ann. Scuola Norm. Sup. Pisa 22 (2): 315–339 .
- Chern S. S. and Moser, J.K. (1974). “Real hypersurfaces in complex manifolds”. Acta Math. 133: 219–271. doi:10.1007/BF02392146.
- Harvey, F.R. and Lawson, H.B., Jr. (1978). “On boundaries of complex analytic varieties”. Ann. Math. 102 (2): 223–290. doi:10.2307/1971032. JSTOR 1971032.