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黒川景氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
黒川景氏
時代 戦国時代
生誕 文明16年(1484年
死没 天文21年4月15日1552年5月8日
別名 仮名:彦五郎、左衛門尉
戒名 桃源院殿花嶽道英大居士
官位 従五位下、下総守
氏族 飯坂氏黒川氏
父母 父:飯坂清宗
養父:黒川氏矩[1]
正室:最上義淳の娘
稙国飯坂氏定大衡宗氏細川重定八森定直
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黒川 景氏(くろかわ かげうじ)は、陸奥黒川氏第6代当主。陸奥国黒川郡鶴楯城主。孫に黒川晴氏

生涯

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文明16年(1484年)、伊達氏庶流・飯坂清宗の子として生まれる。

急速に勢力を拡大していた伊達稙宗によって、黒川氏第5代当主・黒川氏矩の養嗣子として送り込まれる。景氏入嗣の時期は確定出来ないが、永正16年(1519年)に上洛して嫡男・稙国に将軍・足利義稙より偏諱を賜っていることから、この年までには養嗣子となっていたと考えられる。

氏矩は享禄2年(1529年)に死去する。当主となった景氏は、新たに鶴楯城を築いて、従来の御所館から移った。天文5年(1536年)に発生した大崎氏の内乱では、稙宗の命を受けて反乱軍の拠点・古川城の攻撃に参加し、内乱鎮圧後に救援の代償として稙宗の子・義宣を大崎氏に入嗣させる際には、大崎家中の鎮撫を任せられた。天文11年(1542年)に発生した天文の乱では稙宗方に与して、大崎義宣と共に名取郡柴田郡に出兵したものの、乱は晴宗方の勝利に終わった。黒川氏からは黒川藤八郎という者が晴宗方についていたが、景氏は大崎義宣・葛西晴清らのように当主の地位を失うことはなかった。

天文21年(1552年)4月15日死去。享年69。嫡男・稙国が家督を相続した。

脚注

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  1. ^ 「水沢大衡氏系図」による。「報恩寺旧蔵黒川系図」では、養父の名を清里としている。

参考文献

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  • 『大和町史』上巻(宮城県黒川郡大和町、1975年)