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黄孔昭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

黄 孔昭(こう こうしょう、1428年 - 1491年)は、明代官僚。もとの名を曜、を孔昭といったが、字で呼ばれるようになって、世顕と字を改めた。は定軒。本貫台州府黄巌県

生涯

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黄瑜の子として生まれた。14歳のときに父母が死去すると、孔昭は骨の立つまで哀毀した。1460年天順4年)、進士に及第し、工部屯田主事に任じられた。江南への使節をつとめたが、贈物を退けて受け取らなかった。工部都水員外郎に進んだ。

1469年成化5年)、吏部文選郎中の陳雲らが公務上の不正を暴かれ、全員が獄に下されて官を降格され、吏部文選の官に大幅な欠員が生じた。吏部尚書の姚夔は孔昭が廉潔であると知って、吏部文選員外郎として任用した。1473年(成化9年)、孔昭は吏部文選郎中に進んだ。吏部郎中は門戸を閉ざして客を謝絶するのが通例であったが、孔昭は「深居絶客を高しとして、どうして天下の才俊を知ることができようか」といって、公務から退出すると、客を私邸に迎えて接遇し、人材が訪れると書き留めていた。官の選任においては、その才能の高下によって繁忙閑暇な職務に適切に配置し、昇任降格の公平なことで知られた。私的な関係を通じて任用されようとする者に対しては、孔昭は全てこれを退けた。あるとき孔昭は人事案をめぐって吏部尚書の尹旻と争い、尹旻の怒りを買った。孔昭は尹旻の怒りが止まるのを待って、再び人事案について発言した。尹旻は孔昭の誠実さを信じるようになった。尹旻は通政の談倫と仲が良く、談倫を侍郎として任用しようとしたが、孔昭はこれに反対した。尹旻が談倫の任用を強行すると、談倫はやはり失敗した。尹旻は旧友を巡撫として推挙しようとしたが、孔昭は応じなかった。その人が入京して孔昭に面会し、膝を屈するにいたって、孔昭はますますその人を軽蔑した。尹旻が推挙させようとすると、孔昭は「彼は小人物で、立派なのは臣下の体裁だけです」といった。尹旻は「黄君が官吏を選抜する部署を離れないかぎり、おまえを転任させることはできない」とその人にいった。

1482年(成化18年)、孔昭は通政司右通政に抜擢された[1]1487年(成化23年)、南京工部右侍郎に転じた[2]

孔昭は学問を好んで勉励し、陳選林鶚謝鐸と仲が良く、そろって士大夫の中心人物となった。1491年弘治4年)6月17日、死去した。享年は64。嘉靖年間、礼部尚書の位を追贈された。は文毅といった。

子の黄俌は1481年(成化17年)の進士で、吏部文選郎中となった。黄俌の子の黄綰が礼部尚書に上って、また知られた。

脚注

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  1. ^ 談遷国榷』巻39
  2. ^ 『国榷』巻40

参考文献

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  • 明史』巻158 列伝第46
  • 明故通議大夫南京工部右侍郎黄公神道碑銘(李東陽『懐麓堂集』巻45所収)