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林鶚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

林 鶚(りん がく、1423年 - 1476年)は、明代官僚は一鶚。本貫台州府太平県

生涯

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林純と程氏のあいだの子として生まれた。1451年景泰2年)、進士に及第した。御史に任じられ、京畿の郷試を監督した。陳循らが官僚の考査をおこなったとき、林鶚が同郷の林挺の科挙試験を担当していたことから、陳循は私曲があるものと疑い、林挺を逮捕して取り調べた。林挺からは不正の証拠が出ず、潔白とされた。

1457年天順元年)、英宗が復辟すると、林鶚は鎮江府知府として出向した。京口の水門と甘露の旧堰跡を浚渫して、舟が通過できるようにするよう上奏した。1462年(天順6年)、林鶚は蘇州府知府に転じた。

成化初年、林鶚は江西按察使に転じた。広東の反乱軍が移動して贛州が危急を告げたため、林鶚は兵を分派して贛州を守らせ、反乱軍を撃退させた。広信府の宗教反乱が天神を称して民衆を扇動したため、林鶚はその首領を捕らえて処刑し、宗派を解散させた。右布政使・左布政使を歴任した。飢饉にあって、租税15万石を減額するよう上奏した。

1470年(成化6年)、南京刑部右侍郎に抜擢された。1471年(成化7年)、母が死去したため、官を辞して喪に服した[1]1474年(成化10年)、喪が明けると、北京に召還されて刑部右侍郎となった[2]1476年(成化12年)12月8日、病没した。享年は54。1544年嘉靖23年)、刑部尚書の位を追贈された。は恭粛といった[3]。著書に『畏斎存稿』10巻[4]があった。

脚注

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  1. ^ 談遷国榷』巻36
  2. ^ 『国榷』巻37
  3. ^ 『国榷』巻58
  4. ^ 黄虞稷『千頃堂書目』巻19

参考文献

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  • 明史』巻157 列伝第45
  • 通議大夫刑部右侍郎林公神道碑銘(呉寛『匏翁家蔵集』巻77所収)