コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

鹿背山城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
鹿背山城
京都府
城郭構造 山城[1]
築城主 不明
築城年 不明
主な改修者 松永久秀
主な城主 木津氏、松永久秀
廃城年 不明
遺構 土塁空堀[1]
位置 北緯34度44分45.5秒 東経135度50分38.4秒 / 北緯34.745972度 東経135.844000度 / 34.745972; 135.844000座標: 北緯34度44分45.5秒 東経135度50分38.4秒 / 北緯34.745972度 東経135.844000度 / 34.745972; 135.844000
地図
鹿背山城の位置(京都府内)
鹿背山城
鹿背山城
テンプレートを表示

鹿背山城(かせやまじょう)は、京都府木津川市鹿背山字鹿曲田(旧・山城国相楽郡[2])にあった中世日本の城

概要

[編集]

標高136メートルの通称「城山」の山頂に位置する[3]。遺構は東西350メートル、南北300メートルにわたり、南山城地域で最大級の規模の城郭だった[3]

文明11年(1479年)10月、「木津執行」が「加世山に引退了」との記述が『大乗院寺社雑事記』にあることや、木津氏の子孫の系譜に「出丸城、鹿背山北ニ置二カ所」と記されていることなどから、鹿背山には木津氏の置いた出城のようなものがあったと推測される[4]

永禄11年(1568年)9月には、多聞院英俊の使いが三好宗渭の軍勢に攻められ「カセ山」に逃げ込んでおり(『多聞院日記』)、鹿背山城は三好宗渭ら三好三人衆と敵対する松永久秀方の城だったと考えられる[5]。永禄2年(1559年)に大和に侵攻して以降、松永久秀は大和を支配しており、鹿背山城はその北側の守りを担う城だったとみられ、今に残る遺構は久秀による修築の結果と考えられる[6]

天正2年(1574年)4月には「カツ山ノ城」が落ちたとの記事が『多聞院日記』にある[7]。この「カツ山」が「カセ山」を指し、この時鹿背山城が落城した可能性がある[7]

アクセス

[編集]

鉄道

[編集]
JR西日本

脚注

[編集]
  1. ^ a b 平井聖; 村井益男; 村田修三 編『日本城郭大系 第11巻 京都・滋賀・福井』新人物往来社、1980年、82–83頁。全国書誌番号:80039409 
  2. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻』角川書店、1982年、364頁。全国書誌番号:82036781 
  3. ^ a b 木津町史編さん委員会 1991, p. 505.
  4. ^ 木津町史編さん委員会 1991, pp. 508–509.
  5. ^ 木津町史編さん委員会 1991, pp. 509–510, 543.
  6. ^ 木津町史編さん委員会 1991, pp. 509–510.
  7. ^ a b 木津町史編さん委員会 1991, pp. 510–511.

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]