鷹栖城
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鷹栖城 (岡山県) | |
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別名 | 高栖営址 |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 有元近江守? |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 菅左近将監(菅納家俊)、豊前守、五郎右衛門(菅納家晴) |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 曲輪、土塁、井戸 |
指定文化財 | 未指定 |
位置 | 北緯34度53分08.0秒 東経133度55分43.3秒 / 北緯34.885556度 東経133.928694度座標: 北緯34度53分08.0秒 東経133度55分43.3秒 / 北緯34.885556度 東経133.928694度 |
地図 |
鷹栖城(たかのすじょう)は、岡山県岡山市北区建部町下神目にあった戦国時代の日本の城(山城)。
概要
[編集]JR津山線が走る誕生寺川の谷底平野に面した標高約200メートルの丘陵突端に立地する。1923年(大正12年)刊の『久米郡誌』では「高栖営址」とし、美作菅氏の嫡流・有元氏の有元近江守の築城とする[1]。
西向きに傾斜する丘陵稜線に複数の曲輪を段状に構え、最上部の曲輪の脇に土塁と井戸を設けているという[2]。
1689年(元禄2年)に下神目村の菅善三郎が津山藩に提出した「下神目村書上」(『菅家文書』)によると、有元氏(あるいは漆間氏?)の庶流・菅納家俊(菅左近将監)が、同じく建部町下神目に所在する伊勢畑城の城主・赤松家盛の家臣として在城し、子の豊前守、孫の菅納家晴(五郎右衛門)へと続いたとされている[1][3][4]。赤松氏滅亡の際に浦上宗景に領地を奪われたという[2]。2011年(平成23年)刊『美作国の山城 改訂版』では下神目地域の土豪層の城であろうと推定されている[5]。
なお当城跡についての情報は、上述『美作国の山城 改訂版』に解説があり、現在の岡山県の埋蔵文化財地図にも位置が掲載されているが[6]、2020年(令和2年)刊の『岡山県中世城館跡総合調査報告書(第3分冊・美作国編)』では「下神目村書上」にみえる当城についての記載を紹介するのみで[4]、実地調査の対象や、地域の城跡一覧および分布図には全く加えられていない。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 久米郡教育会 1923『久米郡誌』p.125
- 「美作国の山城」編集委員会 2011「鷹栖城」『美作国の山城 改訂版』津山市教育委員会生涯学習部文化課 pp.358-359
- 岡山県古代吉備文化財センター 2020「表6 参考史料一覧表」『岡山県中世城館跡総合調査報告書(第3冊・美作編)』岡山県 p.513