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鯨岡氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鯨岡氏
本姓 岩城氏桓武平氏大掾氏)庶流
家祖 鯨岡基忠[1]
鯨岡行隆[2]
種別 武家
出身地 陸奥国磐城郡鯨岡邑[3]
主な根拠地 陸奥国
凡例 / Category:日本の氏族

鯨岡氏(くじらおかし)は、日本氏族岩城氏の庶流。岩城四十八館の一つ・陸奥国鯨岡館[注釈 1]

出自

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桓武平氏の流れを汲む岩城氏(磐城分郡守護で後に戦国大名)庶流[4]。祖は『磐城系図』では富田師行の子・鯨岡基忠と書かれ[4]、また、『中興系図』には「鯨岡、平、本国陸奥岩城郡、孫太郎行隆これを称する」とある[5][4]

概要

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鯨岡氏が歴史上登場するのは南北朝時代以降である。建武2年(1335年7月27日下野国にて北朝方の茂木知貞南朝方についた本家筋 宇都宮公綱と戦うと、同じく北朝方であった岩城氏の援軍として鯨岡氏が派遣されているという。しかし、その後、延元元年(1336年)、足利尊氏が陸奥に有力な足利一門である斯波家長を陸奥守兼奥州総大将として派遣すると、岩城氏を初めとする、伊賀氏石川氏ら南奥の国人は北朝方についたのに対して、岩城氏の支族 鯨岡乗隆隆行父子が南朝方の北畠顕家についた。これに対して、足利方の旗頭である斯波氏は付近の国人に命じて鯨岡氏の居城・湯本城の攻撃させたとされる。

同じく南奥の南朝方であった白河結城親朝は同族菊田庄司小山朝郷と共に鯨岡乗隆を援けるという。しかし、延元2年(1337年)正月10日、合戦が開始された。鯨岡乗隆軍・国魂行泰軍合わせて2000騎、小山軍800騎合わせて2800騎に対し、北朝軍は4000騎と優勢であり、なおかつ本家筋の岩城朝義岩城常朝を初め、伊賀盛光・石川氏ら周辺の国人の大軍を前に敗退していったという。

なお、同時代、鯨岡氏は常陸国内にも所領があったとみられ、南北朝時代の武将として常陸鯨岡城主・鯨岡忠幹の名もみえる。その後、鯨岡氏は岩城氏の家臣として復帰するものの岩城氏が佐竹氏の配下となると佐竹氏の家臣となった。

佐竹家臣としての鯨岡氏としては『慶長国替記』に鯨岡仁左衛門鯨岡兵四郎、『秋田近世前期人名辞典』には鯨岡監物らの名が見える[6]。なお、鯨岡氏の当主・鯨岡三郎左衛門胤良の妹は同じ佐竹家臣の安島氏に嫁いで安島吉兵衛信昌正室になるという[7]

系図

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なお、秋田県公文書館には同館編『系図目録II』の中に佐竹義宣秋田転封に随行した鯨岡氏の系図 『鯨岡氏系図』が収録されているので以下に掲載する[8]

鯨岡胤国-鯨岡家胤-鯨岡種来-鯨岡三郎左衛門胤良-鯨岡胤従-鯨岡清胤-鯨岡重胤-鯨岡小作某

脚注

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  1. ^ 鯨岡館は現在の福島県いわき市平鯨岡字表門の付近である。
  1. ^ 『磐城系図』
  2. ^ 『中興系図』
  3. ^ 秋田県公文書館編『系図目録II』(秋田県公文書館、2002年)
  4. ^ a b c 太田 1934, p. 2047.
  5. ^ 杉本 1997, p. 492.
  6. ^ 常陸太田市史編さん委員会 1982, p. 189.
  7. ^ 秋田県公文書館、茨城県立歴史館蔵安島吉兵衛同主税筆『系図 佐竹山城家人安島吉兵衛』参照。
  8. ^ 秋田県公文書館編『系図目録II』(秋田県公文書館、2002年)60頁。

参考文献

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  • 秋田県公文書館、茨城県立歴史館蔵安島吉兵衛同主税筆『系図 佐竹山城家人安島吉兵衛』
  • 秋田県公文書館編『系図目録II』(秋田県公文書館、2002年)
  • 太田亮国立国会図書館デジタルコレクション 鯨岡 クジラヲカ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2047頁。全国書誌番号:47004572https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/117 国立国会図書館デジタルコレクション  閲覧は自由
  • 杉本文彦編 著、ニューライフ企画編 編『日本の姓氏大総鑑』日正出版、1997年。 NCID BA33658040 
  • 常陸太田市史編さん委員会 編『佐竹家臣系譜』常陸太田市〈常陸太田市史編さん史料 19〉、1982年3月。 NCID BN12281310 

関連項目

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