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宇都宮公綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
宇都宮公綱
宇都宮公綱像(『下野国誌』より)
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 乾元元年(1302年
死没 正平11年/延文元年11月25日
1356年12月17日
改名 高綱(初名)[注釈 1][3]→公綱、理蓮(法名
墓所 栃木県宇都宮市今泉三丁目、興禅寺
官位 正四位下左近衛少将南朝
主君 北条高時後醍醐天皇後村上天皇
氏族 下野宇都宮氏
父母 父:宇都宮貞綱、母:長井時秀の娘?[注釈 2]
兄弟 公綱、高貞(公貞・綱世)、冬綱
千葉宗胤の娘
氏綱城井家綱(公綱の弟・冬綱の養嗣子)
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宇都宮 公綱(うつのみや きんつな)は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将宇都宮氏第九代当主。父は宇都宮貞綱。母は長井時秀の娘か[注釈 2]。子に宇都宮氏綱。名将・楠木正成坂東一の弓取りと評され恐れられるほどの武勇を誇ったといわれている。

楠木正成との戦いは、宇都宮氏を中心とした東国武士の武勇を示すものとして名高い。

生涯

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乾元元年(1302年)、宇都宮貞綱の子として生まれる。初めは北条氏得宗家当主・北条高時偏諱を受けて宇都宮高綱(たかつな)を名乗っていたが、後に改名した[3][6][4][注釈 3]

元弘の乱1333年1月、北条高時の命を受けて上洛し、紀清両党を率いて摂津国四天王寺にて官軍側の名将・楠木正成と戦った。このとき、正成は公綱より兵力では勝っていたが、公綱の武略を恐れて直接対決を挑もうとはせず、持久戦に持ち込んでいる。公綱もまた、正成の武略を恐れて直接には相対せず、結局勝敗はつかずして引き分けた。正成は四天王寺で対峙した際に宇都宮氏が坂東一の弓取りであること、そして紀清両党の強さを「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」と評している。その後、千早城攻めなどにも参戦し、活躍したが、六波羅探題滅亡後、後醍醐天皇の綸旨を受け、官軍側に降伏し、包囲軍瓦解のきっかけとなった。幕府滅亡後の建武の新政下では雑訴決断所奉行職を務めた。1335年中先代の乱後に足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、公綱は尊氏軍と戦ったが敗れ(竹ノ下の戦い)、翌年に尊氏に降伏してその家臣(北朝方)となった。北朝方になると南朝方の北畠親房の将、伊達行朝中村経長中村城主)の軍勢に真岡、烏山が攻め込まれ、重臣の芳賀高貞父子が討ち取られてしまったが、尊氏が九州に落ちると再び天皇のもとに帰参する。

その後は北畠顕家のもとで各地を転戦し、顕家の死後も東国における南朝側の中心勢力の一人として活躍し、後村上天皇からも厚い信任を受けた。しかし晩年は不遇だったと言われている。正平11年/延文元年(1356年)11月25日、55歳で死去した。

正成を恐れさせたほどの武勇を持つ反面、和歌にも優れた才能を発揮し、『新続古今和歌集』には公綱の作品が納められている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 尊卑分脉』の系図では公綱の初名が高綱、弟の宇都宮高貞がのちに公貞、綱世と改名していったと明記されている[1]。尚、高貞に関しては芳賀高貞と同一人物で芳賀高名(禅可)の養子となったとする説もある[2]が、異論もある(武家家伝_芳賀氏内記述)。尚、同系図では冬綱(初め高房・守綱)は弟ではなく頼房の実子としている。
  2. ^ a b 佐野本「宇都宮系図」では、公綱の母を「長井宮内大輔時守女」〔原文ママ〕としているが、細川重男は官職や年代から「時守」は「時秀」の誤りと推定している[4][5]
  3. ^ のちに「公綱」に改名したのも、足利尊氏(高氏)・足利直義(高国)・小田治久(高知)・小山秀朝(高朝)・長井挙冬(高冬)などと同じく「高」の字を棄てた事例の1つと考えられる。

出典

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  1. ^ 黒板勝美; 国史大系編修会 編『新訂増補 國史大系 尊卑分脉 第1篇』吉川弘文館 
  2. ^ 芳賀高貞」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E8%8A%B3%E8%B3%80%E9%AB%98%E8%B2%9E-1100589 コトバンク
  3. ^ a b 荒川善夫「宇都宮公綱」『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%85%AC%E7%B6%B1-1058074 宇都宮公綱」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%85%AC%E7%B6%B1-1058074 (いずれもコトバンク)
  4. ^ a b 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№107-宇都宮公綱、細川重男のブログ
  5. ^ 細川重男「鎌倉政権上級職員表」『鎌倉政権得宗専制論』吉川弘文館、2000年、巻末頁。 
  6. ^ 江田郁夫「総論 下野宇都宮氏」『下野宇都宮氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻〉、2011年、9頁。