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宇都宮国綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
宇都宮 国綱
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄11年(1568年
死没 慶長12年11月22日1608年1月9日
改名 伊勢寿丸(幼名)→国綱
別名 羽柴国綱
戒名 大昌院心翁浄安
官位 従四位下 侍従 下野
氏族 宇都宮氏
父母 父:宇都宮広綱、母:南呂院(佐竹義昭女)
兄弟 国綱結城朝勝芳賀高武
正室:小少将(佐竹義重養女、佐竹義久女)
義綱則綱[注釈 1]
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宇都宮 国綱(うつのみや くにつな)は下野国戦国大名。大名としての宇都宮家最後の当主である。

生涯

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天正4年8月7日1576年8月30日)、父・広綱の死とともに宇都宮氏22代目を継承する。しかし、年少であったことと父の死に付け込まれて、壬生氏皆川氏などの国内の反対勢力が活発化したこともあり、後北条氏の侵攻がさらに激化することとなった。これに対し国綱は常陸国佐竹氏下総国結城氏甲斐国武田勝頼[注釈 2]、さらには織田信長[注釈 3]豊臣秀吉と手を結んで対抗する。 天正12年には沼尻の合戦に参戦し引き分けるも戦後処理において佐竹氏が離反していた梶原政景への対応を優先した結果、壬生氏皆川氏が正式に離反、由良氏横瀬氏が北条に下り佐野宗綱の戦死後佐野家は北条派になるなど情勢は悪化した。 翌天正13年には塩谷氏を援護した薄葉ヶ原の戦いにおいて那須氏に敗北し宇都宮城を支えるのが困難な状況となった。

結果、小田原征伐直前には、鹿沼城真岡城壬生城などの壬生氏・皆川氏関係である周辺諸城が全て北条に寝返っており、その結果国綱は拠点を平城宇都宮城から山城多気城に移さざるを得ない状況にまで追い詰められ、施策としては秀吉の出陣を願い防戦するのみとなっていた[注釈 4]

天正18年(1590年)の秀吉の小田原征伐に参陣、石田三成の指揮した忍城攻撃などに参加し、下野国18万石の所領を安堵された[注釈 5]

その後は秀吉に従い、九戸政実の乱文禄の役にも参陣している。また、秀吉の力を背景に家中の統制を強め[注釈 6]文禄3年(1594年)には豊臣姓を下賜された。

しかし慶長2年10月13日1597年11月22日)、突如として秀吉の命により改易された。これには諸説あるが、『宇都宮興廃記』によれば、国綱には継嗣が無かったため、五奉行である浅野長政の三男・長重[注釈 7]を養子として迎えようとしたが、国綱の弟である芳賀高武がこれに猛反対し、縁組を進めていた国綱側近の今泉高光を殺害してしまった。長政がそれを恨みに思ったため、その讒言により改易されたとしている。傍証として、慶長2年10月7日の佐竹義宣から父・義重に宛てた書状がある。そこには、宇都宮氏を与力大名とし、姻戚関係もある佐竹氏にも改易命令が出されたが石田三成の取りなしによって免れたことや、「上洛して一刻も早く秀吉に挨拶すべきだが、浅野弾正の検使が宇都宮領の調査に向かっているので、それに覚られないように密かに上洛するように」という三成から指示を受けたことが書かれている。このことからも、宇都宮氏の改易に浅野長政の関与があったことが窺える。他に、太閤検地に際して結果が秀吉が安堵した18万石ではなくその倍以上であった、という石高詐称によるもの[2]という説[注釈 8]もある。更に国綱と今泉ら側近が進めてきた家中の統制強化に長年にわたって宇都宮氏の実権を握ってきた門閥重臣を代表する芳賀氏が反発し、門閥対側近による合戦に至ったことが原因とする説もある[3]

その後、国綱は宇都宮を追放されて備前国宇喜多秀家の下に預けられた。秀吉から「朝鮮での戦功次第では再興を許す」との言を受け、宇都宮氏を再興すべく慶長の役にも参陣し、順天城の戦いで武功を立てた(『宇都宮高麗帰陣物語』)。しかし、秀吉の死により再興はかなわなかった[注釈 9]。 帰国後の動向として伊勢神宮にお家再興の願文をあげる一方、その直後に徳川家康の誘いを受けて大坂城西の丸にいた家康に仕官したことが明らかになっている[4][注釈 10]。しかし、関ヶ原の戦いで石田三成に仕えていた弟の芳賀高武と関東で反徳川活動を続けていた同じく弟の結城朝勝が西軍方についてしまったために、恐らく東軍方についたであろう国綱は家名再興を果たすことができなかった[6]

その後、諸国を流浪し、慶長12年(1607年)に江戸浅草石浜で失意のうちに病死したと言われている。享年40。

息子の義綱は成人後、水戸藩士となった。国綱の妻・小少将は徳川和子の乳母となり、和子入内に従って上京した。

家臣

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「宇都宮弥三郎羽柴国綱公 家臣連名簿・慶長2年」[7]より2千石以上の家臣一覧。

  • 2千石以上10万石以下

関連作品

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小説

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脚注

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注釈

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  1. ^ 正規の文献には記述が無い
  2. ^ ただし同盟等の記録はなく、元々武田勝頼が下野に侵攻しているなど不明瞭な点はある。
  3. ^ 武田家滅亡後滝川一益が上野に赴任した際にこれに従っている様子が確認できる
  4. ^ 反抗的であった益子氏を討つ他、壬生・皆川両氏の城を攻めるなどの対応は行っている。
  5. ^ ただし、本来宇都宮氏の一門や家臣の所領であった地域でも、北条方として参戦していた壬生氏や喜連川塩谷氏の所領は豊臣政権に没収されて結城氏などに与えられたため、全体としては戦国期よりも多少所領を減らされる形となった。なお、没収された喜連川領には小弓公方の子孫が移封され、後の喜連川氏となる。
  6. ^ 一説には、「城割」を行って笠間氏塩谷氏から居城を没収して自らの側近を城主に任じたとする[1]。しかし、秋田塩谷系譜によれば、塩谷氏は、文禄4年(1595年)2月8日に秀吉により改易が命じられ、この時に川崎城を立ち退いており、慶長2年(1597年)1月2日には佐竹義宣の家臣として初出仕している。しかし、小田原征伐後に宇都宮家の家臣(すなわち陪臣)として位置づけられた塩谷氏が秀吉から直接改易を命じられることは近世封建制の原理からしてあり得ない話である(秀吉が本多忠勝や直江兼続の加増をさせた時も、あくまでもそれぞれの主君である徳川家康や上杉景勝からの恩賞という体裁を取った)。秋田塩谷系譜の記事は祖先顕彰のための作為と言える。
  7. ^ 『宇都宮興廃記』は次男と記す。
  8. ^ ただし1598年の検地では下野一国で37万石であり詐称は現実的とは言えない。
  9. ^ ただし、『宇都宮興廃記』によれば、この時、本国(下野国)児山に少地を賜ったとする。
  10. ^ 神宮文庫に所収の『下野国檀那之事』を作成した佐八氏は下野国を拠点としていた御師で毎年のように伊勢と下野を往復して伊勢神宮と下野の武家との連絡にあたっていた。宇都宮氏は佐八氏にとっても重要な檀那でその動向に深い関心を寄せていたとみられている。また、新しい領主である蒲生氏が宇都宮氏歴代が伊勢神宮に寄進・安堵してきた栗島神領を否認する方針を打ち立てて伊勢神宮と争ったことも背景にあったとされる[5]
  11. ^ 中村城落城前の知行地では2千石以上に記載されているが、中村城落城後に書かれた宇都宮氏分限帳では知行100石に減封されている。

出典

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  1. ^ 江田 2014, pp. 190–192.
  2. ^ 坂本 2011, p. 11.
  3. ^ 江田 2014, pp. 192–195.
  4. ^ 伊勢神宮・神宮文庫所収『下野国檀那之事』
  5. ^ 江田 2020, pp. 146–148.
  6. ^ 江田 2020, pp. 146–160.
  7. ^ 『下野史料』No.40(栃木県立図書館所蔵)

参考文献

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  • 坂本俊夫『宇都宮藩・高徳藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2011年9月。ISBN 978-4768471289 
  • 江田郁夫『戦国大名宇都宮氏と家中』岩田書院〈岩田選書・地域の中世〉、2014年2月。ISBN 978-4872948479 
  • 江田郁夫 著「改易後の国綱周辺」、江田郁夫 編『中世宇都宮氏 一族の展開と信仰・文芸』戎光祥出版〈戎光祥中世史論集 第9巻〉、2020年1月、138-162頁。ISBN 978-4-86403-334-3