高橋英吉 (彫刻家)
高橋 英吉(たかはしえいきち、1911年4月13日 - 1942年11月2日[1])は日本の彫刻家。宮城県石巻市出身。
東京美術学校(現東京芸術大学)で木彫を学び、文展(現・日展)を中心に活躍した。「黒潮閑日」「潮音」「漁夫像」の《海の三部作》[2]などにより将来を嘱望されたが兵役に就き、1942年にガダルカナル島の戦いで死亡した。
生涯
[編集]1911年4月13日、宮城県牡鹿郡石巻町(現・石巻市)湊本町に生まれる。生家は遠洋漁業や缶詰工場を経営する網元であった。1924年、旧制石巻中学(現・宮城県石巻高等学校)に入学。
1931年、東京美術学校彫刻科木彫部に入学する。1936年同校を卒業すると[1]、研究科に進み、文部省美術展覧会(現・日展)に「少女像」を出展し[1]、入選する。しかし、翌1937年に研究科を中退、南氷洋へ向かう捕鯨船乗組員となる。
1938年から3回続けて新文展(第2回 - 第4回)に作品を出展、入選(第2回・『黒潮閑日』)、特選(第3回・『潮音』[1])各1回という成績を残し、1941年(第4回)には文展無鑑査として「漁夫像」を出品した[1]。
1940年に結婚し、翌1941年に長女・幸子が誕生した。しかし、同年に応召し[2]、仙台「勇1301部隊」(歩兵第4連隊)に入隊、太平洋戦争の始まった12月に出征する。1942年11月2日、ガダルカナル島のマタニカウ川攻防戦において戦死した。
没後
[編集]終戦後、出身地の石巻において顕彰活動がおこなわれた。作品集『青春の遺作 高橋英吉 人と作品』の刊行、長らく行方不明になっていた『潮音』(鳥取県境港市で発見)の返還、戦死したガダルカナル島と生地石巻市でのブロンズ像の建立、長編ドキュメンタリー映画『潮音 ある愛のかたみ』(英吉役を江藤潤が演じた)制作などの成果を上げる。活動はサントリー地域文化賞を受賞するなど高く評価された。
英吉の主要作品は石巻文化センター(石巻市南浜町)に収蔵されていたが、2011年3月11日に発生した東日本大震災の津波で同センターが被災した[2]。その後、作品群は修復され、宮城県美術館や国立西洋美術館に一時保管されている[2]。
代表的な作品
[編集]- 『蛇と蛙』(1931年)
- 『蛙』(1933年)
- 『牛』(1935年)
- 『少女像』(1936年)
- 『黒潮閑日』(1938年)
- 『潮音』(1939年)
- 『少女と牛』(1939年)
- 『漁夫像』(1940年)
- 『母子像』(1941年)
- 『釈迦如来座像』(1941年)
- 『不動明王』(1942年)絶作(輸送船の中で流木を彫刻)
主な作品収蔵先
[編集]- 石巻市(津波被災による石巻文化センター閉鎖にともない新たな展示施設の建設を計画中)
- 宮城県美術館
- 戦没画学生慰霊美術館 無言館 『竹の子』を常設展示(館主の窪島誠一郎は戦時中に石巻市に疎開していた)
- 宮城県石巻高等学校 同校同窓会が所蔵する『聖観音立像』を図書室内に保管・展示
- 長嘨山慈恩院(石巻市吉野町)『阿弥陀如来尊像』
主な展覧会
[編集]- 1980年 - 高橋英吉展(石巻市立図書館)
- 2010年 - 永遠の想い~英吉・幸子父娘展(石巻文化センター)
- 2013年 - 高橋英吉展(宮城県美術館)
- 2016年 - いま、被災地から~岩手・宮城・福島の美術と震災復興展(東京藝術大学大学美術館)
出典
[編集]参考文献
[編集]- 石巻文化をはぐくむ港町づくり会『青春の遺作 高橋英吉 人と作品』ヤマト屋書店、1986年
- 野見山暁治『祈りの画集 戦没画学生の記録』日本放送出版協会、1978年
- 野見山暁治『遠ざかる景色』筑摩書房、1984年/みすず書房、2013年
- 野見山暁治・橋秀文・窪島誠一郎『「戦争」が生んだ絵、奪った絵』新潮社、2010年
- 芥川喜好『時の余白に』みすず書房、2012年
関連映画・テレビ番組
[編集]- 『潮音 ある愛のかたみ』(1984年、片桐直樹監督、青銅プロダクション)
- 故郷の海を彫った男 石巻の彫刻家・高橋英吉 (2013年、NHK「日曜美術館」)