高梁町
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たかはしちょう 高梁町 | |
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廃止日 | 1954年5月1日 |
廃止理由 |
新設合併 高梁町、津川村、川面村、巨瀬村、川上郡玉川村・宇治村・松原村・高倉村・落合村 → 高梁市(初代) |
現在の自治体 | 高梁市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中国地方(山陽地方) |
都道府県 | 岡山県 |
郡 | 上房郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 24.9 km2 |
総人口 |
12,577人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 | 津川村、玉川村、高倉村、落合村、大和村、昭和町 |
高梁町役場 | |
所在地 | 岡山県上房郡高梁町大字松山2043 |
座標 | 北緯34度47分29秒 東経133度37分00秒 / 北緯34.79136度 東経133.61667度座標: 北緯34度47分29秒 東経133度37分00秒 / 北緯34.79136度 東経133.61667度 |
特記事項 | 旧町役場は高梁市発足後、市役所として暫定使用[1] |
ウィキプロジェクト |
高梁町(たかはしちょう)は、岡山県上房郡にあった自治体である。
概要
[編集]このうち旧高梁町は城下町の地域である内山下・川端町・本町・新町・片原町・中之町・頼久寺町・石火矢町・御前町・小高下町・伊賀町・寺町・向町・間之町・甲賀町・八幡町・荒神町・柿木町・大工町・下町・南町・鍛冶町・中間町・弓之町・鉄砲町の計25町に当たる[1]。
また旧松山村は松山および、1974年から1975年に設定された横町・段町・中原町・旭町・栄町・東町・松原通・正宗町・浜町・和田町・奥万田町・上谷町・下谷町・原田北町・原田南町に当たる[1][2][3]。
歴史
[編集]自治体の沿革
[編集]- 1883年(明治16年)2月15日 - 連合戸長役場制度発足により、上房郡第一部戸長役場を設置し城下の各町を管轄。同年11月、区域の改正により一部が第二部戸長役場の管轄となる[1][4]。
- 1884年(明治17年)6月26日 - 城下25町の上に「高梁」を冠し、高梁本町などに変更する[1][4]。
- 1889年(明治22年)6月1日 - 町村制の施行により城下25町が合併して町制施行し、高梁町(初代)が発足。25町は「高梁」を外し同町の町名となる[1][4]。
- 1890年(明治23年)10月 - 役場を中之町から大工町に移転[5]。
- 1929年(昭和4年)5月10日 - 高梁町(初代)と松山村が合併し、新たに高梁町が発足。大字松山を追加[1][2]。役場位置を柿木町24番地と定める[6]。
- 1929年(昭和4年)7月4日 - 役場を大字松山2043番地(現在の市役所の位置)に移転[7][8]。
- 1954年(昭和29年)5月1日 - 高梁町・津川村・川面村・巨瀬村と川上郡玉川村・宇治村・松原村・高倉村・落合村が合併して市制施行し、高梁市(初代)が発足。同日高梁町廃止。
主な出来事
[編集]行政
[編集]歴代町長
[編集]代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
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初 | 国分胤之 | 1889年(明治22年)7月26日 | 1892年(明治25年)3月2日 | |
2 | 荘直温 | 1892年(明治25年)3月9日 | 1893年(明治26年)2月24日 | 退任後松山村長に就任 |
3 | 蓑内鉱一郎 | 1893年(明治26年)4月5日 | 1897年(明治30年)4月4日 | |
4 | 板倉信吉 | 1897年(明治30年)4月5日 | 1901年(明治34年)4月4日 | |
5 | 小林尚一郎 | 1901年(明治34年)4月16日 | 1905年(明治38年)4月15日 | 「尚」は旧字体 |
6-9 | 蓑内鉱一郎 | 1905年(明治38年)6月23日 | 1917年(大正6年)11月28日 | |
10 | 堀潜蔵 | 1917年(大正6年)12月6日 | 1919年(大正8年)4月30日 | |
11 | 石川良道 | 1919年(大正8年)5月8日 | 1923年(大正12年)5月7日 | 前・阿哲郡長 |
12-13 | 荘直温 | 1923年(大正12年)9月8日 | 1928年(昭和3年)6月1日 | 急逝のため辞職 |
14 | 池上仙二郎 | 1928年(昭和3年)7月21日 | 1929年(昭和4年)5月9日 | |
参考文献 - [1][7] |
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|
初 | 池上仙二郎 | 1929年(昭和4年)7月15日 | 1929年(昭和4年)11月6日 | |
2 | 藤岡晴次 | 1929年(昭和4年)12月5日 | 1931年(昭和6年)8月20日 | |
3 | 徳田蕃之 | 1931年(昭和6年)11月27日 | 1935年(昭和10年)11月26日 | |
4 | 福田要一郎 | 1935年(昭和10年)11月28日 | 1937年(昭和12年)7月20日 | |
5 | 永井恒三郎 | 1937年(昭和12年)7月25日 | 1941年(昭和16年)7月24日 | |
6 | 永井恒三郎 | 1941年(昭和16年)8月6日 | 1944年(昭和19年)8月22日 | |
7 | 東照平 | 1944年(昭和19年)9月27日 | 1945年(昭和20年)6月3日 | |
8 | 梶谷敬治郎 | 1945年(昭和20年)7月13日 | 1946年(昭和21年)11月5日 | |
9 | 山村久兵衛 | 1947年(昭和22年)4月5日 | 1951年(昭和26年)4月4日 | |
10 | 大河寅蔵 | 1951年(昭和26年)4月23日 | 1954年(昭和29年)4月30日 | |
参考文献 - [1][7] |
教育
[編集]- 岡山県立高梁高等学校
- 岡山県上房郡高梁町外6ヶ町村高等学校組合立岡山県松山高等学校(現在は昼間部が岡山県立高梁城南高等学校、夜間部が岡山県高梁市立松山高等学校)
- 岡山県高梁日新高等学校(現・方谷學舎高等学校、2023年改称)
主要施設
[編集]交通
[編集]出身者
[編集]- 井上公二(実業家、1864年 - 1925年)
- 森下亀太郎(弁護士・政治家、1869年 - 1946年)
- 清水比庵(歌人・書家・画家・政治家、1883年 - 1975年)
- 加藤精一(俳優、1889年 - 1963年)
- 光延東洋(海軍軍人、1897年 - 1944年)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 岡山県市町村合併誌 市町村編287-315頁(岡山県、1960年)
- ^ a b 角川日本地名大辞典 岡山県「松山村(近代)」
- ^ 角川日本地名大辞典 岡山県「松山(近代)」
- ^ a b c 岡山県市町村合併誌 総編(岡山県、1960年)
- ^ 「町役場移転」『官報』1890年10月28日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「町役場位置」『官報』1929年05月14日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b c 高梁歴史人物辞典
- ^ 「町村役場位置変更」『官報』1929年07月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「伯備南線美袋 - 木野山間が開通」『大阪毎日新聞』1926年6月20日岡山版(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.477 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)