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高井藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高井藩(たかいはん)[要出典]は、信濃国に存在した尾張藩支藩。尾張藩2代藩主・徳川光友の次男である松平義行が、1681年に高井水内伊那3郡内で3万石を与えられて成立した。1700年に領地の半ばが交換され、新たに領地となった美濃国高須が居所と定められたために、これ以後の松平義行の藩は高須藩と呼ばれることになる。伊那郡内1万5000石の領地については高須藩の飛び地領として明治維新期まで残った[1]

呼称

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松平義行の封地については信濃国の「高取」とする記述もあり[注釈 1]、「高取藩」という藩名が使われる例もあるが[注釈 2]、「高取」という地名の所在は不明である。

義行の封地が「高取」であることは、元禄年間の『国花万葉記』や『武鑑』『節用集』『国尽』といった書籍に見られる記述という[8][注釈 3]。しかし、元禄期から50年あまり後に瀬下敬忠が信濃国の地誌『千曲之真砂』(宝暦3年(1753年)完成)を編纂した時点で、「高取」は所在・由来不明の地名となっていた[8]。『千曲之真砂』の考証によれば、元禄の頃に出版された地図『日本国大絵図』では信濃国南部に「高取が嶽」という山を描き、その付近に高取城を記すといい[8][注釈 4]、『武鑑』に記された「高取城」の江戸からの距離は、高遠付近に所在することを示すという[8]。『千曲之真砂』では、義行が伊那郡で陣屋を構えたのが竹佐であることから、「竹佐」を誤って「高取」としたのだろうという推測を紹介している[8]

同時代には「松平摂津守様御領分」など[注釈 5]と称されたその領地について、歴史用語としては、大名居所の地名を付さず単に「松平義行領[注釈 6]あるいは「尾張支藩領[注釈 7]尾張支藩松平義行領[注釈 8]と呼称することが多く見られる。

高須移転以前にさかのぼって義行の藩を「高須藩」として扱う例もあるが[注釈 9]、元禄4年(1691年)までは小笠原貞信が藩主である高須藩が存在している。

歴史

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尾張藩御連枝の創出

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尾張藩2代藩主・徳川光友は、実子3人を尾張徳川家の分家(御連枝)とした[6]。すなわち、二男・松平義行、三男・松平義昌(大久保松平家。のち陸奥梁川藩主)、十一男・松平友著(川田久保松平家、のち内分分知)の3人である[6]。義行は正室千代姫徳川家光の長女)の子で、嫡男徳川綱誠に准じる待遇であった[11]。義昌は実際には長男であったが庶出であったために三男として扱われた人物で、のちに千代姫の養子となっている[11]。友著も庶出であるが、千代姫の養子となった[11]。この3人の処遇には千代姫の影響も考えられている[11]。義行が定紋とした「菊輪に三つ葉葵」は、母の使用していた紋であるという[12]

松平義行に始まる家は、江戸の四谷に上屋敷を構えたことから「四谷松平家」とも、のちに高須藩に移ったことから「高須松平家」あるいは「高須藩松平家」とも呼ばれる。光友が創設した御連枝三家のうち、大久保松平家と川田久保松平家は早くに絶え、高須松平家のみが幕末期まで存続することになる[6]

立藩から廃藩まで

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高井藩の位置(長野県内)
竹佐
竹佐
新野
新野
権堂
権堂
飯田
飯田
片桐
片桐
高遠
高遠
関連地図(長野県)[注釈 10]

松平義行領3万石の成立

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天和元年(1681年)、幕府は光友の願いによって、二男・松平義行(摂津守)に信濃国伊那郡高井郡水内郡内で3万石を与えて大名とした[6]。3万石の知行地の分布は、南部の伊那郡で1万5000石、北部の高井郡水内郡で1万5000石という[13]#領地節参照)。

義行と義昌の2人は大名に列する以前より光友と同道して参府御暇(参勤交代)を行い、これは大名となった後も同様であった[11]。老齢で病身の父親を支える息子として、交替で名古屋と江戸に詰める存在と言うことができる[11]。義行は信濃3郡内の大名であった時期も単独で参府を行っておらず[11][注釈 11]、尾張藩とは別の領知判物を下された万石以上の領主とはいえ、いわゆる「大名」や「藩」としての自立性は欠くという指摘がある[11]

美濃高須への移転

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元禄13年(1700年)、義行は信濃国高井郡・水内郡の領地を返上し、代わって美濃国石津郡海西郡内で1万5000石の領地が与えられた[6]

これについて、高井郡の領地には城下町の建設に十分な広さがなかったために、義行が領地替えを望んだとされている[13]。義行が希望したのは、地形的に広い上伊那の片桐付近(現在の上伊那郡中川村片桐・松川町上片桐周辺[注釈 12])の幕領であったが、幕府は空地となっていた[注釈 13]美濃高須付近で1万5000石をまとめて引き渡したという[13]。本藩の尾張藩に近く、高須城以来の城下町がすでに形成されていることなどが理由として推測される[13]

義行は美濃国石津郡の高須陣屋を居所と定めたため、これによって美濃高須藩が立藩したとみなされ、信濃国内3万石のこの藩は廃藩となったとされる。伊那郡内における1万5000石の所領は高須藩領として残った(#領地節参照)。

領地

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高井郡・水内郡

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松平義行の領地は、信濃国北部の高井郡水内郡で1万5000石とされる[13]。このうち水内郡では権堂村(現在の長野市中心部に含まれる権堂町付近)など5040石を知行していたという記述もある[17]

元和2年(1616年)の川中島藩松平忠輝改易後、その旧領は幕府領や大小の私領によって分割された[18]。なお、高井郡は信濃国屈指の穀倉地帯とされている[18]。義行の領地となった高井郡新野村(現在の長野県中野市新野しんの)には新野陣屋が置かれた[7]。『角川日本地名大辞典』では、「高取藩」の陣屋が新野村に置かれたとある[7]

元禄13年(1700年)に松平義行の高井郡・水内郡内の領地が幕府領に戻されると、新野陣屋は幕府領の陣屋として継続して用いられ、享保年間まで存続した[19][注釈 14]

伊那郡

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信濃国南部の伊那郡には、1万5000石の知行地があった[13]。伊那郡46か村の支配のために[21]伊那郡竹佐村(現在の飯田市竹佐たけさ)の田府高屋(だぶたかや[22])に竹佐陣屋を置き、郡代を派遣した[1]

伊那郡の領内には天竜川が流れており、江戸時代を通じてしばしば水害を発生させた。天和3年(1683年)には大規模な洪水があり[23]、たとえば伊久間村(現在の下伊那郡喬木村伊久間)の村高は事前と事後の検地で50石ほどの減少を見せている[21]

元禄13年(1700年)に北信2郡と西濃2郡で領地替えが行われて以降も、伊那郡内の1万5000石は引き続き義行の知行地として残った。以後幕末・明治維新まで、高須藩の飛び地領として竹佐陣屋(竹佐代官所。「山本役所」[24][注釈 15]などとも称された)を通して支配された。

歴代藩主

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四谷松平家(高須松平家)

親藩御連枝 3万石。

  1. 義行(よしゆき)〔従四位下、摂津守・少将〕

備考

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  • 津の守坂 - 東京都新宿区内の坂。「摂津守」を称した松平義行の上屋敷の脇を通ることに由来。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』の「松平義行」の項目では、封地を「信濃高取」とする[2]。『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「高須藩」の項目では、義行は「信濃高取領主」であったとする[3]。『角川日本地名大辞典』の「尾張藩」[4]・「高須藩」[5]の項目では義行の封地を「信濃高取」とする。高須松平家に関する岸野俊彦の論文(2014年)では、松平義行の封地を「信濃国伊那郡高取」とする[6]
  2. ^ 『角川日本地名大辞典』の「新野村(近世)」の項目では、この村が「尾張支藩領」であったとするほかに、「高取藩」の陣屋が置かれたという説明が見られる。ただしこの項目では「尾張支藩」と「高取藩」が同一であるという説明を欠いている[7]
  3. ^ 『徳川諸家系譜 3』p.37では「信濃国高取」とある。
  4. ^ たとえば早稲田大学図書所蔵の大日本国大絵図信濃国付近の図でそのような描写を確認できる。
  5. ^ 同時代に松代藩が作成した「水内郡・更級郡・埴科郡・高井郡 四郡絵図面」(信州デジタルコモンズ)でも、他藩については「松本領」「上田領」などとあるところ、地名を冠さず「松平摂津守様領」などとして記される(上部の「北」という文字の右方に「此嶺切」「此澤切」「松平摂津守様領」と記されている)。
  6. ^ 『角川新版日本史辞典』「近世大名配置表」(近世大名の一覧表)は、信濃国内で藩庁所在郡不明の「松平義行領」として掲出する[9]。長野県の地方史家で天竜川の治水の研究者である松沢武の論文(1986年)でも、高須移転以前の「藩」に特定の地名を付さず、単に「松平義行領」としている[10]
  7. ^ 『角川日本地名大辞典』の「新野村(近世)」の項目では「尾張支藩領」とする(ほかに「高取藩」の文字が見られる)[7]
  8. ^ 信州デジタルコモンズでの「水内郡・更級郡・埴科郡・高井郡 四郡絵図面」解説文では「尾張支藩松平義行領」と記す。長野市公文書館の所蔵資料目録(一例として複製資料 近世 さ~せ)では近世史料の伝来地の分類に「行政区分領知」を設けており、「尾張支藩松平義行領」を用いている。
  9. ^ 『角川日本地名大辞典』の「竹佐村(近世)」の項目では、天和元年(1681年)より高須藩領とする[1]
  10. ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
  11. ^ 義行についての叙述で、光友が尾張藩主であった時代に義行は将軍代替わりの際を例外として、単独での参府を行っていないとある[11]。徳川綱吉の死去は義行が高須に移ってからである。
  12. ^ 中世末期以来「片桐領」と呼ばれた地域で[14]、江戸時代初頭には伊那街道片桐宿を含めた「片桐七か村」が成立した(総称して「片桐村」と呼ばれた)。寛文12年(1672年)に飯田藩領から幕府領に移された際に片桐陣屋(現在の松川町上片桐)が設けられ[15]、延宝5年(1677年)には伊那街道飯島町に新設された飯島陣屋にその機能が移された[16]
  13. ^ 元禄4年(1691年)に小笠原貞信越前勝山藩に移ったために幕府領になっていた[13]。揖斐川・長良川などに囲まれた土地で、小笠原家は水害対策に苦闘した末に願い出て転出したとされる[13]
  14. ^ 高井郡には大小の私領が置かれてその後収公された関係で、多数の陣屋が置かれた[18]。新野陣屋もそれらの一つで、元禄16年(1703年)時点では市川孫右衛門が5か所の陣屋支配を兼帯していた[20]
  15. ^ 竹佐村の近隣に山本村(現在の飯田市山本)がある[25][26]。『千曲之真砂』によれば、山本村はもともと大きな郷であったために、近隣の村をも含めて「山本村」と呼ぶのであろうとする[24]。なお、山本村や竹佐村などは明治時代に合併して「山本村」を編成している。

出典

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  1. ^ a b c 竹佐村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年1月18日閲覧。
  2. ^ 松平義行”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年1月18日閲覧。
  3. ^ 高須藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2023年1月18日閲覧。
  4. ^ 尾張藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年1月18日閲覧。
  5. ^ 高須藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年1月18日閲覧。
  6. ^ a b c d e f 岸野俊彦 2014, p. 427.
  7. ^ a b c d 新野村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年1月18日閲覧。
  8. ^ a b c d e 『千曲之真砂』巻之十「信州高取城有無之説」、国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の明治期の刊本の当該箇所
  9. ^ 『角川新版日本史辞典』, p. 1307.
  10. ^ 松沢武 1986, p. 38.
  11. ^ a b c d e f g h i 藤田英昭. “『瑞龍公実録』を読む”. 八木書店グループ. 2023年1月18日閲覧。
  12. ^ 松沢武 1986, p. 8.
  13. ^ a b c d e f g h 松沢武 1986, p. 9.
  14. ^ 片桐領(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年1月18日閲覧。
  15. ^ 片桐村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年1月18日閲覧。
  16. ^ 飯島町(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年1月18日閲覧。
  17. ^ 県立長野図書館(回答). “江戸時代の松代藩の領有していた村の分布がわかる地図がみたい。”. レファレンス協同データベース. 2023年1月19日閲覧。
  18. ^ a b c 西沢淳男 1988, p. 124.
  19. ^ 西沢淳男 1988, p. 125.
  20. ^ 西沢淳男 1988, p. 127.
  21. ^ a b 松沢武 1986, p. 6.
  22. ^ 田府高屋 (2020506017)”. 農業集落境界データセット. 2023年1月19日閲覧。
  23. ^ 松沢武 1986, p. 39.
  24. ^ a b 『千曲之真砂』巻之六「山本役所」、国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の明治期の刊本の当該箇所
  25. ^ 山本村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年1月18日閲覧。
  26. ^ 山本郷(中世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年1月18日閲覧。

参考文献

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  • 『角川新版日本史辞典』角川学芸出版、1996年。 
  • 岸野俊彦「尾張藩十四代藩主徳川慶勝の初期藩内権力」『名古屋芸術大学研究紀要』第35号、2014年http://www.nua.ac.jp/research/files/pdf/440103178a5720836fb3ffdeffe49259.pdf 
  • 松沢武『伊久間地先に於ける天竜川の変遷』建設省中部地方建設局天竜川上流工事事務所、1986年。 NCID BN12231571http://www.nua.ac.jp/research/files/pdf/440103178a5720836fb3ffdeffe49259.pdf 
  • 西沢淳男「<研究ノート>近世信濃における天領支配について : 坂木・中之条陣屋を中心として」『法政史学』第40号、1988年。doi:10.15002/00011019