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馬高遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
馬高縄文館から転送)
馬高遺跡
馬高遺跡出土 深鉢形土器(火焔土器)(重要文化財)
1936年昭和11年)に近藤篤三郎によって発掘されたもの。新潟県および福島県西部に分布する、いわゆる火焔型土器の標準となる土器であり、学史的にも重要である[1]。同遺跡出土の他の土器より早く、1990年に重要文化財に指定された。(京都大学総合博物館企画展示にて撮影)
馬高遺跡の位置(新潟県内)
馬高遺跡
馬高遺跡
所在地 新潟県長岡市関原町1丁目
座標 北緯37度26分49.8秒 東経138度46分4.7秒 / 北緯37.447167度 東経138.767972度 / 37.447167; 138.767972座標: 北緯37度26分49.8秒 東経138度46分4.7秒 / 北緯37.447167度 東経138.767972度 / 37.447167; 138.767972
歴史
時代 縄文時代中期
文化財指定 1979年-国史跡(馬高・三十稲場遺跡)

馬高遺跡(うまたかいせき)は、新潟県長岡市関原町一丁目字中原にある縄文時代中期の遺跡。国の史跡に指定されている。

概要

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信濃川西岸の丘陵上に立地している。

沢をはさんで西に隣接する縄文時代後期の三十稲場遺跡と併せて馬高・三十稲場遺跡と一括して扱われることもあるが、主時期を異にしている。ともに集落遺跡で、土偶耳飾石棒ヒスイ製玉類などの各種の祭祀にかかわる遺物も豊富に認められる。

三十稲場遺跡とともに近藤勘治郎篤三郎の父子により縄文時代中期の遺物が確認されたことから縄文集落の広がりが確認された。北陸地方の縄文時代中期に特徴的な火焔型土器の出土が特に有名であり、馬高遺跡はいわゆる火炎土器(「馬高式」土器)の標式遺跡となっている。いっぽう、三十稲場遺跡出土土器には、縄文時代後期初頭の標準型式「三十稲場式」となっているものがある。

出土した土偶は「ミス馬高」と呼ばれている[2]

1979年2月には三十稲場遺跡とあわせ「馬高・三十稲場遺跡」として、国の史跡に指定された。

2011年(平成23年)からは、復元された竪穴建物が一般公開されている[3]

馬高縄文館

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馬高縄文館
地図
施設情報
正式名称 長岡市馬高縄文館[4]
専門分野 考古資料
事業主体 長岡市
開館 2009年(平成21年)9月[5]
所在地 940-2035
新潟県長岡市関原町1-3060-1[6]
最寄駅 長岡駅
最寄バス停 越後交通 「関原南」[6]国道8号沿い)
最寄IC 長岡ICで約5分)[6]
外部リンク 馬高縄文館
プロジェクト:GLAM
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現在、両遺跡で出土した土器群は長岡市馬高縄文館に展示されている。土器群のうち深鉢形土器1点が1990年に国の重要文化財に指定[7]。2002年に土器・土製品126点と石器・石製品173点が重要文化財に追加指定され、指定名称を「新潟県馬高遺跡出土品」と改めた[8]

ギャラリー

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脚注

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  1. ^ 文化庁文化財保護部「新指定の文化財」『月刊文化財』321、第一法規、1990、pp.39 - 40
  2. ^ 馬高遺跡の火焔土器、国の重要文化財指定が決まる」(PDF)『ながおか市政だより』第429号、長岡市、1990年5月、2-3頁。 
  3. ^ 縄文時代中期の竪穴住居を復元」(PDF)『ながおか市政だより』第680号、長岡市、2011年5月、5頁。 
  4. ^ 長岡市馬高縄文館条例”. 長岡市 (2009年9月19日). 2016年12月30日閲覧。
  5. ^ 馬高縄文館―火炎土器ミュージアム― 9月19日、関原にオープン」(PDF)『ながおか市政だより』第660号、長岡市、2009年9月、4頁。 
  6. ^ a b c 馬高縄文館 利用案内”. 長岡市教育委員会. 2016年12月30日閲覧。
  7. ^ 平成2年6月29日文部省告示第92号
  8. ^ 平成14年6月26日文部科学省告示第121号
  9. ^ この画像の土器は、「新潟県馬高遺跡出土品」として重要文化財に指定されているものとは別個体で、「伝馬高出土」として東京国立博物館に所蔵されているものである(列品番号J-39036)。

参考文献

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  • 馬高縄文館『火焔土器と馬高・三十稲場遺跡』長岡市教育委員会〈馬高縄文館解説シリーズNo.1〉、2010年。 

関連項目

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外部リンク

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